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お前、死んでるのかと思ったよ

「お前、生きていたのかよぅ」

ブログ更新を長いことしなかったら、知人にそう言われた。

目下は、写真中心のこちらで遊んでいます。

よろしかったら、どうぞ。





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グレタさんと日本の麻生副総理 [異常気象と地球温暖化]

gretahon.jpg まずグレタ・トゥーンベリさんの演説を以下にまとめる。

 IPCC最新報告書は、2030年頃までに必要な変化を起こさないと、私たちは引き返せる時点を越えてしまい、人間にはコントロール不能な、あと戻りできない連鎖反応が起こって破滅に向かうだろうと予測しています(ポイント・オブ・ノーリターン)。

 それを避けるには、2020年までに二酸化炭素の排出量を急速に減らす必要(50%以上が削減されるような変化)があります。しかしながら世界における二酸化炭素の排出量は依然として増加しているにも関わらず、緊急事態に対して未だに表面的な対策しか行われていません。

 加えて、この予測には北極の永久凍土が急速に溶けた場合に放出される強力なメタンガスなどは計算に入っていません。温暖化を1.5度~2度まで抑えられる可能性があるのは、2020年までに二酸化炭素排出量を急降下できた場合だけです。


 以上に比して、去る10月25日の麻生太郎副総裁の北海道での選挙演説は~「北海道のコメがうまくなったのは、温度が上がったからだ。温暖化というと悪いことしか書いていないが、いいことがある」。

 大バカ副総理の発言が、環境 NGOで作る「気候行動ネットワーク」(CAN)に届いていたら、日本は大バカ大賞、こんな図柄の大賞を受賞していたかもしれない。

 れいわ新選組・山本太郎代表「もうすでに万死に値する人間。政治の世界から一刻も身を引くべき人間である」。COP26で国際環境NGO「ジャーマンウォッチ」は、日本の環境対策は45位。 


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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』メモ➀スハルト将軍の大虐殺 [政経お勉強]

41sShaCb+ZL._SX315_BO1,204,203,200_.jpg シカゴ学派は➀利益障害になる政府の規則・規制の全撤廃。②政府所有資産で企業が収益可能なものは全民間へ売却。③公的予算の削減。つまりグローバリズムの推進、医療・郵政・教育・年金などの民営化。貪欲奔放な資本主義のあるがままを主導した。

 ちなみに日本の主な民営化は1985年に日本電信電話公社をNTTグループへ、1987年に国鉄がJRグループへ、2007年に郵政三事業が民営化された。小泉自公政権の経済財政政務担当大臣で、安倍晋三のお友達=竹中平蔵は、シカゴ学派のミルトン・フリードマンの信奉者らしく、非正規雇用を拡大して、その会社で大儲け。日本の困窮層、格差拡大を招いた張本人との指摘が多い。

 さて、アイゼンハワー大統領時代のニクソン副大統領は、共に病的反共主義者で多国籍企業好きのダレス国務長官と彼の実弟ダレスCIA長官らはシカゴ学をバックアップし、イランのモサッデク首相が英国資本の石油会社を国有化して親ソ連政策を行ったことで、影で動いて軍事クーデターを遂行。同首相を失脚させ、親米的残虐的国王の権力を復活させた。同様にグアテマラ政権も崩壊させた。

 チリの学生を政府の金でシカゴ大学で学ばせて洗脳。このプログラムはアルゼンチン、ブラジル、メキシコにも拡大した(財団はフォード財団)。最初のチリ留学生が帰国する頃には、フリードマン本人よりフリードマン主義に徹して、自国の経済学部教授になったりでサンティゴにチリ版シカゴ学派を形成。やがて南米全域に「シカゴボーイズ」がこの「新自由主義」を拡大していった。

a0390578_06175719.jpg だが、この計画は思い通りに行かず。1962年にブラジルは左寄りに舵を切り、1970年にはチリでも人民連合のアジェンデ政権が誕生で、米国大手鉱山会社の支配する銅山をはじめ主要分野で国有化を実施。

 1969年にニクソンが大統領になると、彼は「チリ経済に悲鳴を上げさせろ」と命じ、米国実業界はチリ経済に宣戦布告。ブラジルでも米国支援のブランコ将軍の軍事評議会を成立させ、学生中心の反軍事政権へのデモが盛り上がると。残虐手段をもって制圧した。こうして欧州並みに中間層が核だし、子らも大学へ通えた南米各国が、資本主義の残虐さで崩壊の道へ向かって行った。

 一方、インドネシア・スカルノ政権は党員300万人の共産党と密接な連携を持ったことで、米英政府はスカルノ政権打倒に動いた。デヴィ夫人はスカルノ大統領の第三夫人。大統領が反共軍人・スハルト将軍に軟禁され、夫人らは国外逃亡。

 CIAの支援を得たスハルトは、左派指導者「銃殺リスト」をもって殺しまくった。1ヵ月間に共産主義者50万人、華僑40万人。最大推定300万人とも言われる大虐殺をもって共産主義者排除を遂行。(この残虐さは慶應義塾名誉教授・倉沢愛子著『インドネシア大虐殺』(2020年刊、中公新書)に詳しく、またその残虐実態は2014年のドキュメンタリー映画『アウト オブ キリング』公開で世界中に衝撃を与えた。

 かくしてインドネシアは自然資源(銅、ニッケル、硬材、ゴム、石油など)をグローバル企業の掌中に落ちた。なお著書『ショック・ドクトリン』の前章は、薬物の感覚遮断の拷問手法の詳細レポートで、貪欲な資本主義が軍部と手を結ぶと、いかに残虐はことになるかをレポート。

 また終章ではフリードマンのショック療法を実行した各界の主要人物らの多くが、2006年までに罪に問われ、刑務所に入るか、個人資産を凍結されていると報告。新自由主義は表面上は一応の体裁と合法性をつくろってきたが、今や崖の皮が(多くは醜悪な犯罪行為)明るみになり、大きな富の不平等をはらむシステムが露わになっていると記している。(日本の新自由主義者の罪はどうなる?)

 重ねて記すが、斎藤幸平『人新世の「資本主義」』では、この惨事便乗型資本主義(ショック・ドクトリン)は「気候変動ショック・ドクトリン」にも、「コロナショック・ドクトリン」にもなりうると警告していた。全編読むには至っていないが、ナオミ・ドクトリンの同著は、そんな貪欲な資本主義の怖さが余すことなく紹介されている。小生、図書館本で期限は2週間。返してはまた借りて全編読了しなければ、と思っています。

 写真下はナオミ・ドクトリンの著作集。



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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』メモ➀惨事便乗型資本主義 [政経お勉強]

Naomi_Klein_at_Berkeley,_California,_in_2014_(cropped).jpg 同著は上下巻の大作。米国の自由市場主義(市場原理主義=放任資本主義)が、どのように世界を支配してきたかの裏側を暴いている。大惨事につけ込んだ「惨事便乗型資本主義」浸透の悪事で、先に読んだ斎藤幸平『人新世の「資本論」』でも、「惨事便乗型主義」を取り上げて、それは「公共領域の縮小・企業活動の自由化・社会支出削減」の三位一体政策と記し、「気候変動ショック・ドクトリン」もあるし、「コロナショック・ドクトリン」もあると警告していた。

 膨大な同書から、核のひとつだろう第2章「もう一人のショック博士~ミルトン・フリードマンの自由放任実験室の探求~」だけを、ここにメモしておく。

 1950年代のシカゴ大学経済学部に神格化された「シカゴ学派」あり。率いるのは野心的カリスマ的なミルトン・フリードマン。同学派主旨は「市場を自由に任せておけば、おのずと均衡が生まれる。政府の規制、貿易障壁、既得権などあらゆる介入を取り払い、純粋な資本主義の状態に戻して、自由主義を花開かせよう」というもの。

 それが今日の貪欲な資本主義を招いて、新自由主義のグローバリズムへ発展し貧富格差を生み、特に途上国の資源開発で環境破壊を招いている。

 歴史を遡ると、1929年の株価暴落~世界大恐慌で、それは既に「自由放任の終焉・市場原理に任せた結果」と指摘された。ドイツでは世界恐慌をテコにナチスが台頭した。欧米ではファシズムや共産主義に流れるのを警戒して、国民の基本的尊厳を保証すべく、まともな「資本主義」路線に修正された。

naomiklein.jpg 失業を防ぐためにケインズのニューデール政策(公共事業計画)が実施され、米国は社会保障制度を、カナダは公的医療制度を、英国は社会福祉を、仏やドイツは労働者保護制度などを生んだ。

 一方、発展途上国(チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルなどの南米地域)でも、自然資源の暴落からくる貧困を回避すべく、自然資源(石油や鉱物)などの不安定な輸出に依存しないために、これらを国有化で管理し、収益を政府主導の開発プロジェクトに注入。国内指向型の工業化政策を選択した。

 その結果、これら諸国は1950年代に目覚ましい成功を治めた。公的資金で高速道路や製鉄所などの基幹プロジェクトに力を入れて車や家電などを生産。先進国には高い関税を課して輸入品をシャットアウトした。欧州や北米に近い発展を遂げ、新しい工場で働く労働者たちは強力な組合結成をもって、北米と同じく中産階級を拡大した。子供たちは新設公立大学へ進学し、格差も是正、ウルグアイでは識字率95%。医療も無料化された。

 だがこの成功を苦々しく思っていたのが米国大企業とシカゴ派だった。企業側はシカゴ派を援助し、組合や社会主義化を懸念するニクソン大統領、ダレス国務長官、実弟のダレスCIA長官らが加わって「新保守主義+シカゴ学派」をもって、発達した南米諸国へも反撃を開始した。読むも耐えがたい残虐・破壊工作が展開されて行く~。(続く)

 写真上は著者のナオミ・クライン。(ウィキペディアより) File:Naomi Klein at Berkeley, California, in 2014 (cropped).jpg

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斎藤幸平『人新世の「資本主義」』を私流解釈~ [読書・言葉備忘録]

saitohon.jpg 斎藤幸平『人新世の「資本主義」』、購入本のカバーに「20万部突破」とあるも、今は「34万部突破」とか。売れまくって、著者もテレビ各局に出演中。「時の人」らしい。

 まぁ、読んでいると、自民党の総裁選のレベルの低さが悲しくなってくる。マスコミも踊らされ「SDGs」(日本の初代会長は嘘つき元総理)にも乗っかっている。著者は、そんなのは環境問題に参加している気分を作っている「グリーン・ウォッシュ」に過ぎず、貪欲な資本主義の時間稼ぎ、先送り。その間に地球の致命傷は深くなるばかりだ、と言っている。

 資本主義の新自由主義グローバリズムが、多くの国々の自然を、生活を壊し続けている。緊縮政策は社会保障費を削減し、非正規雇用を増やして低賃金化で格差拡大を生み、民営化された公共サービスで生活の質を低下。それがコロナ禍で如実に露わになった。

 だがバルセロナ市政やフランス市民会議などを軸に、世界各国の自治体が連携して「資本主義の超克・民主主義の刷新・脱酸素化」の三位一体で、新しい明日へ向かった歩み出している。東京・小池知事(緑のたぬき)はオリパラの旗を振って3兆円余の負の遺産を残した。

 資本主義の生活にどっぷり漬かって、未だにブランド品などを追いかけている日本人よ、いい加減に目を覚ませ。1%の裕福層・エリート層が好き勝手に作ったルールに、そろそろ「NO」を突き付ける時ではないのか、と訴えている。

 晩年マルクスの脱成長コミュニズムなどが出てきて戸惑うし、不勉強の爺さんなり解釈で、何とか読みきった。私流解釈だが、よろしかったら、どうど~

































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東松・中平・森山・荒木にチラつく寺山修司(2) [読書・言葉備忘録]

IMG_0797_1.JPG 中平卓馬の初期写真は、撮影者の意図に関係なく過剰記録するカメラの再現機能に抗って、または被写体と対峙する写真家の存在をなしとする従来写真に抗って、「アレ・ブレ・ボケ」をもって撮影者の行為をも記憶せんとするダイナミックな二重記録で、撮っている写真家の生をも記憶しようとした。それを支援して高梨豊は「気配をも撮る」と記し、多木浩二は「まずたしかさの世界をすてて」と論評した。

 ここには彼を編集者から写真家への道を誘った東松照明、寺山修司批判があったらしい。まず東松の「事大主義」批判。入念な構図と洗練されたテクニック、組み写真、社会的メッセージなどへの否定。これは東松の任命による「写真100年 日本人による写真表現の歴史」編集委員になって、写真の「記録性」や「アート性」が強調されたことへの疑問が浮上してのことだろう。

 一方の寺山修司は1967年に「天井桟敷:青森県のせむし男」を旗揚げ公演。幻想・虚構世界の劇場化で、彼らと方向性は大きく違えた。中平・森山にとって、寺山の論理・主義はうっとうしく、次第に距離をとり始めた。

 かくして打ち出された中平の「プロヴォーク」における衝撃的「アレ・ブレ・ボケ」の発表だが、そんな彼の前に、いささかショックは商業写真が出回った。なんと「ディスカー・ジャパン」ポスターが意図的に手ブレを用いた広告写真を全国展開。それが契機でもなく、寺山、東松への反発から行き着いた「アレ・ブレ・ボケ」。

 中平はその後、沖縄の「松永事件」(デモで巡査部長が死亡。その時の写真から松永青年が逮捕。だが現場にいた人の証言で彼は巡査部長を助けていたで無罪判決。中平はその支援活動で沖縄滞在から南の島々のドキュメンタリーを撮り、月刊誌『近代建築』表紙1年間担当を経て、それまでの写真を全面否定する根本的な方向展開を宣言することになる。写真はマスメディアの操作で容易に含意を孕んだ素材として利用される可能性がある。比して複数で成立する構造的写真=図鑑の方向へ誘われ~。 含蓄・内包を意するコノテーション(connotaion)から、事物を示すだけのデノテーション(denotation)への志向。

 かくして中平35歳は、1973年(昭和48)に『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』を発表。今度はあらゆる人間の投影を払拭・排除した記録写真「植物図鑑のような写真」を提唱し始めた。彼はそれまでの自作のネガ、プリントを焼却した。併せて森山大道も1972年に『写真よさようなら』を発表。

 寺山修司は、彼らの方向転換・放棄について「彼は撮ることの犯罪性」に気が付いた。「<私>離れ志向」に転向した。だが中平の私を消す方向には無理があろう。写真の受け手の中には記憶の残余があって、それを手がかりに写真を見る限り、写真は鑑賞者の私的イメージの中に封じこめられてしまう。故に、それは鑑賞者の意識に潜在する問題だろうち評した。

 中平の極限にまで向かった探求は、1977 年に睡眠薬とアルコール中毒による記憶喪失と言語障害へ陥った。寺山修司は論敵を失って、自身が写真家になるべく荒木経惟に弟子入りした。寺山の写真集『写真家・寺山修司』に、その時のことを荒木が書いている。

 ~寺山修司から弟子志願の電話があり(多分1973年・昭和48年)、銀座「キッチンラーメン」で講義し、一眼レフにワイドレンズを薦めた。そもそもは70年にゼロックスで和綴じ黒表紙の私家本『荒木経惟写真帖』を創ったときに、勝手に寺山修二に送りつけ、すぐにおホメと励ましの手紙をいただいた経緯があってのことと述懐。

 第2回目の写真講義は実技で、当時の彼の写真愛人・満美の東長崎のアパート昌栄荘8号室へ。寺山にライトマンをやれと言うも、彼は途中からライトをほっぽり出し、買ったばかりの一眼レフでカシャカシャと激写し始めた。私の参謀本部長がライトを持って、寺山に絞りとシャッタースピードを教えた。同写真集には寺山が撮ったコンタクトと男女が裸で絡み合った写真数点が掲載されていた。(続く)

 写真は中平卓馬の没(2015年、77歳)6年後に出版された江澤健一郎著『中平卓馬論~来るべき写真の極限を求めた』表紙。同著には中平の記憶喪失後の写真集についても詳細分析紹介されている。

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東松・中平・森山・荒木にチラつく寺山修司(1) [読書・言葉備忘録]

IMG_0786_1.JPG 東松照明、中平卓馬、森山大道、荒木経惟の影に、寺山修司の影がチラつく。

 イアン・ジェフリー著『写真の読み方』に、中平は東松に写真を学んだ、東松の写真は17文字の結合から隠喩を醸し出す俳句が理解の鍵、東松は森山大道に「写真は俳句だ。俳句同様無限の選択の技術だ」と教えたと記していた。

 その辺の出典元はわからぬが、大森大道は『犬の記憶』で、蕪村の「牡丹切りて気のおとろひし夕べかな」を引用。YouTubeでも「自分は蕪村に近く、荒木経惟は芭蕉だ」とも語っていた。その俳句論はどこから来たのだろうか。四人の影にチラつく寺山修司を、時系列で探ってみた。

 まず1964年(昭和39年)、26歳の中平卓馬は「現代の眼」編集員として、29歳の寺山修司に小説を依頼。寺山はコラージュ手法による実験的小説『あゝ、荒野』構想を提案。中平も登場人物の一人を演じたりして新宿の街を徘徊。同誌は2年間に亘って連載。単行本刊後に仏訳・独訳版も出版された。(寺山は後に、中平は若いが論争のライバル、好敵手だったと記している)

 また同年に中平は東松照明34歳の構成・文のグラビア頁「I am a king」連載も開始。これは東松が若手写真家らを起用したグラビア8頁企画。1回目は東松、2回目に森山大道、3回目に東松、4回目に立木義浩、5回目に東松、最終回の6回目には内藤正敏、横須賀功光、深瀬昌久、そして中平卓馬が柚木明の名で写真を掲載。

 これを機に中平は、編集者から写真家へ転身を決意する。中平の同級生・内田吉彦(後にフェリス女学院大学名誉教授)は「中平が父に寺山、東松らの勧めもあって写真家を志すに至った経緯を説明する場に立ち合い、また彼の結婚披露パーティーに寺山、東松も招いて自身が司会役を務めた」と記していた。

IMG_0785_1.JPG 1961年(昭和36年)、土方巽中心の「六人のアヴァンギャルドの会」に寺山修司と東松照明が参加。このとき寺山は26歳。東松は31歳で「VIVO」解散年だった。東松は1965ℬ年(昭和40年)に「写真100年、日本人による写真表現の歴史」展にあたって、中平と多木浩二に編集委員を担ってもらった。

 1966年(昭和41年)、「アサヒグラフ」で寺山修司の連載エッセーに中平と森山大道が交互に写真を発表。その二人が渋谷に共同事務所を開設。また同年に寺山は俳句誌の連載に、森山に写真を依頼している。

 1967年(昭和41年)、寺山は「カメラ毎日」に若手写真家に積極的対話(ダイアローグ)を促すべく「カメラによって〝何を燃やす〟」題して森山大道、立木義浩、中平卓馬、沢渡塑へのメッセージを順に記した。それに応えるように翌1968年(昭和43年)、中平30歳が多木浩二、高梨豊らと写真同人誌『プロヴォーク』創刊。「アレ・ブレ・ボケ」を特徴とした。   

 中平と同年生まれの森山大道は、東松らの「VIVO」に惹かれて上京後、同メンバーの細江英公のアシスタントになり、その頃に森山は東松から「写真は俳句だ。俳句は言葉数が少ないが、その可能性から様々な考えが生まれ、無数の言葉を生む」と教えられたか~。

 森山は「無村には芭蕉よりもずば抜けたリアリティーがある」の認識に加えて、ビート作家ケルワック『路上』にも習って、自身を旅人、かつ野良犬の眼をもって旅先で写真を撮り始めた。イアン・ジェフリーは森山の写真に、少年時代を回想する歌謡曲的な哀愁があり、芭蕉や蕪村が有する日本の美と詩歌の伝統の重要性を認識し、そこから外れなければ、さらに成功するだろうとも記した。

 森山大道は寺山修司と雑誌「スキャンダル」創刊を画策するも、森山は中平の「プロヴォーグ」2号から参加した。イアン・ジェフリーは同2号の森山の22枚のラブホテルのスナップ写真を「それはまさに俳句だ」と評した。

 かく寺山修司が東松照明、中平卓馬、森山大道らと密接に交流していたことがわかった。寺山の活動方針はダイヤローグ(対話・問答)で、かく多方面に人脈とダイヤローグを拡大。そして寺山が、彼らに自身の短歌や俳句を熱く語っていたと想像される。(続く)


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イアン・ジェフリー著『写真の読み方』②中平卓馬と森山大道 [読書・言葉備忘録]

hakahirahon.jpg<中平卓馬> 1968年に雑誌「プロヴォーク」共同創刊で彗星のごとく登場した。同人写真家は高梨豊、多木浩二、森山大道。(最終第3号には詩人・吉増剛造「写真のための挑戦断章」掲載)。彼らは余りにも説明的で同語反復的な現代の記録写真に我慢できずに、作られたものの代わりに雰囲気を探した。その雰囲気は黙示的だった。

 当時の彼は左翼系雑誌「現代の眼」編集者で、偉大な東松照明が日本の写真歴史をまとめる展覧会を組織するのを助けた。また中平は東松から写真を学び、彼のような表現効果を学び、明るい光が物の構造に食い込み、溶解し、物質世界の脆さを暗示する写真を撮った。(公衆電話の写真など。映画「フィルム・ノワール」とウィリアム・クラインの都市の写真からは派生している、と記されている)


 1968年~70年代の中平のように、世界の終わりを暗示するかの恐ろしい感覚を提示した者は他にいない。政治的状況から熱気が消えてしまうと同時に、彼は写真から離れ、アルコール中毒から記憶喪失した。

 東松は悪化する文化状況に困惑し、森山は騒乱の餌食になったアウトサイダーとしての自分を提示した。しかし中平の写真は全く個人的な放棄のヴィジョンである。写真は中平卓馬本の表紙。彼らの写真特徴「アレ・ブレ・ボケ」に従って撮ったもの。

 中平卓馬については2021年3月11日のブログで紹介済。ここでは、そこで記した経歴のみ記す。昭和13年(1938)、東京・原宿生まれ。東京外国語大学スペイン科卒。現代評論社を経て写真家になり、森山大道と共同事務所を開いた。彼の写真論は昭和46年(1971)「沖縄・松永事件」、昭和48年(1973)の映像論集『なぜ、植物図鑑か』、昭和52年(1977)〝なぜ篠山紀信か〟を論じた『決闘写真論』、そして彼の〝記憶喪失事件〟等が併せて論じられることが多い。 

 moriyama3_1.jpg<森山大道> 彼は商船学校入学を断念し、デザイン会社に就職後、東松らの「VIVO」の考えに魅せられて、「VIVO」の細江英公のアシスタント後に、逗子でフリーのカメラマンになった。北海道・三沢基地辺りで野良犬を撮った。地のレベル(犬の視線)の徘徊に、写真家としての共通点を見出した。

 また四日市ではトラックのタイヤを撮った。好きなビート作家、ジャック・ケルワック『路上』に影響されて日本中を旅した。この頃の彼は、己の写真は行き過ぎる時につけられた「擦傷」と言った。

 1968年、森山は寺山修司の実験演劇グループ(天井桟敷)と関係を持ち、森山と寺山は雑誌「スキャンダル」創刊(注:創刊へ走り出したが途中で頓挫。そんなワケで中平卓馬の季刊「プロヴォーク」は第2号から参加。なお寺山は中学生時代は青森大空襲と父の戦地戦病死で、母ハツと三沢市に転居。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家、栄作楼なる遊郭前の四坪の平屋で暮し始めた。寺山は後に短歌、俳句で頭角を現す)。

 彼らは「かつて現実を支えていた物質的言葉は力を失った」と宣言。東松が「言語の代わりにイメージが優先権を持つ」を信じ、眼の偏見や先入観をすり抜け、ファインダーを覗くこともない撮影もした。

moriyama7_1.jpg 1969年「プロヴォーク」2号に、森山は22枚のラブホテルでの出会いを発表。3号最終号で「青山通りユアーズ」のスーパーの棚を撮った写真を発表。青山通りはデモ騒乱警戒のパトカーの輝く光で照らされていた。著者は「東松は早くに写真は俳句であると気付いていたが、その教えを受けた森山のラブホテルでタバコを吸う女の写真はまさに俳句だ」と指摘していた。

 また著者は森山の「犬の記憶」で回想した、幼児期の色彩絵本と文章によって生まれた淡い期待を語っていて、それが感傷的な歌謡曲に通じるとも記す。

 森山と彼の同時代人は、写真で全てをコミュニケートする時代を予見したが、皮肉なことに、彼らの写真は以前より痛切に言葉を引き出そうとした。東松は1960年代に、森山に写真は俳句だと教えた。俳句は一見言葉数が少ないが、その可能性から様々な考えが生まれ、無数の言葉を生む。そんな森山の写真と言葉の結びつきの巧みさを知った「アサヒカメラ」編集長・丹野清和が彼に文章を書くことを奨めた。

 1971年『釧路 日本』で、森山は「写真は光の記憶」で、一種の考古学を作る堆積物であると記した。1975年『函館 日本』ではテネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』から『記憶という名の電車』なる言葉で「事実と事実でないものの間のどこかに、価値ある記憶が横たわっている」と記した。

 1980年「ボタン神奈川県 日本」。彼はボタンを撮ったが、彼に植物学知識はない。それでも『犬の記憶』で、蕪村俳句「牡丹切りて気のおとろひし夕べかな」を引用していた。与謝野蕪村は18世紀後半の大詩人で、そのリアリズムが注目されている。森山は前世紀の芭蕉よりずば抜けたリアリティで芭蕉より優秀だと考えた。また芭蕉も『路上』のケルワックも、そして自身も旅人となって彼らと共通項を有していったと思われると記す。

 少年時代の回想は、歌謡曲的な哀愁となる。芭蕉や蕪村が有する日本の美と詩歌の伝統の重要性を認識して、そこから外れなければ、さらに成功するだろうとも記していた。

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イアン・ジェフリー著『写真の読み方』①東松照明 [読書・言葉備忘録]

syasinnoyomikata_1.jpg 「~初期から現代までの世界の大写真家67人~」に東松照明、中平卓馬、森山大道の日本人三名が取り上げられていた。とてもコンセプチュアルな記述ゆえ、写真初心者の小生は(★)で上野昂志著『写真家 東松照明』より説明補足して私流意訳でまとめる。

東松照明> 全ての写真家の中でも最も誌的な写真家のひとり。(★東松は1930年、名古屋生まれ。愛知大写真部。同大卒後に「岩波写真文庫」制作スタッフになる。編集・レイアウトは名取洋之助。写真は芸術ではない。コミュニケーションの一つの道具に過ぎない~が名取の信条)

 同文庫は、言葉の代わりにイメージで表現する~が方針。比してヨーロッパ人傾向は、言葉とイメージの組み合わせで考える。東松はアレゴリー(比喩、寓意)に生命を与える写真が特徴。洪水後の泥中の長靴・ビン、榴散弾浴びたトタン穴から星のように洩れる光、原爆投下時に止まった時計、溶解したビール瓶など。彼はポストモダンフォトの先駆者のひとりになった。

 (★彼の際立つ特徴は「寡黙さ」。対象のブツ(物)のリアリティが圧倒的で、写真家としての彼の存在を消している。そこに何か象徴的な意味を見出そうとするも、彼独特のブツのリアリティの力が迫ってくる)

 (★東松は岩波と決別して1956年にフリー。時あたかも週刊誌ブーム。例えば「中央公論」では彼の企画でグラビア8頁と決まれば、写真の選択も文章も彼まかせ。1957年より同世代の写真展「10人の眼」を3回開催。1959年に写真家集団「VIVO」創立。戦前作家(土門拳、木村伊兵衛ら)と一線を画す地殻変動を起こした)

toumatu1_1.jpg 「VIVO」によって東京に惹かれた森山大道へ、東松は「写真は俳句だ。俳句同様無限の選択の技術だ」と言った。17文字の結合から隠喩を醸し出す俳句が、東松芸術の理解の鍵~と著者は記している。

 1964年、アフガニスタンを撮った『サラーム・アレイコム』には写真の他にタイトルも数字もない。言葉排除の写真(イメージ)で全てを表現。1960年代とそれ以後の日本の写真家たちは、この原則をあまねく世界に拡大した。

 (★基地ヨコスカ、混血児スミエちゃん、岩国、沖縄、長崎、広島へ。東松は戦後日本に対応しながら、個別の具体性に感応しつつシャッターを切り続けた。ジャーナリズムとブツのリアリティーという二重性、ズレが付きまとった。

 東松の後継者、特に森山大道と中平卓馬は1968年に「プロヴォーグ」を刊行。東松は「ケン」発行でフォト・アバンギャルドとも接触を続け、その霊感源になった。

 (★同書は1969年までの写真集を基に書かれているが、上野昂志はその後の東松の仕事も追っている。満潮と干潮の潮間を撮った『インターフェイス』、各地の桜を撮った『さくら・桜・サクラ120』、京都を撮った『京』、九十九里海岸で見つけたゴミ『プラスチックス』、そしてメイキングフォトが続く。バリ島で体験したマッシュルーム幻想を再現したく色を塗った板上に花などを載せた『ゴールデンマッシュルーム』、コンピュータ・チップを自然物に添えた『ニュー・ワールド・マップ』などを紹介。

 上野は最後に社会性とブツのリアリティー、海と陸、自然と人工物、満潮と干潮~、彼は絶えず境界線に惹かれていたと記していた。東松は2012年12月、那覇市内の病院で82歳没。次に東松照明が森山大道へ伝えた写真と俳句に焦点を絞ってまとめてみたい。

 なお『写真の読み方』表紙は、NY生まれのポ-ル・ストランド撮影の「仕立て屋の弟子」(1953)。 

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「見る写真論」から「撮る写真論」へ [読書・言葉備忘録]

showwindow3_1.jpg 『インスタグラムと現代視覚文化論』より甲斐義明(新潟大学準教授)『レフ・マノヴィッチとインスタグラム美学』を私流意訳(学者文は小難しく廻りくどいので)する。

 まずはメディア理論家マノヴィッチのインスタグラム論『ソフトウェアが指揮を執る』で、デジタル写真はフィルム写真を摸造する方向で発展し「フィルム写真~デジタル写真」へ文化的連続発展して、ソフトウェアが文化生産の仕組みを根本的に変えた~との指摘を紹介する。

 そしてデジカメ登場前の状況から振り返る。1960年代後半に「飛躍的技術的向上による一眼レフ」(ベスト・ポケット・コダックなど)の登場によって、19世紀末~20世紀初頭に、米国ファッション写真が瞬間写真を意味する「snapshot」傾向を生んだ。(小生さらに時代を遡れば、写真機の登場で絵画は細密写実からキュビズムはじめ、写真で云えば解像度を下げた=抽象化傾向を生んだ)。

 「スナップ写真」は1963年ころからNY近代美術館はじめの写真展、雑誌特集で認知され、一眼レフによる「スナップ写真の美学」が、ファッション写真の流行になった。そこにはストリート写真の伝統に加えてロックやドラッグカルチャーなど若者文化とつながる「カジュアルさ」も広告写真に効果的だったこともあって普及した。

 さらに職業写真師だけが可能だった写真撮影が「デジタルカメラ登場」と「Photoshopなどのソフトウェア開発普及」によって、デジカメは旧来メディアにない複数メディウム(描画、音声、動画が等価素材として扱える)によってMVなど映像制作を可能にした。

 複数のメディウムが混交する新たなメディウム(デジタル手段、媒体)によって作り出される状況=マタメディウム時代を迎えて、それは進化する生物種のように氾濫するに至る。

 そうした変遷に寄って、従来のプロ写真家に重要視されていた技術的価値は希薄になり、彼らの技術をベースにした「写真論」も意味を失いつつある。デジカメやソフトウェア設計者に思想はないも、デジカメ及び携帯カメラの多数ユーザーが美的関心を抱いてアップロードする「インスタグラム」には〝美的コミコミュニケーション〟とも云える特性が帯びた。

 そこには現代写真+現代グラフィックデザインが融合したデジタル技術に親しんだ若者世代により価値観反映があって、それを「インスタグラミズム」と呼ぶに値する特性を帯びた。デジカメ、ソフトウェア普及による「メディア・プラットフォーム」の誕生による写真は「ありふれたものは見つめるに真に値するという信念」があり、日常の美的体験、身近な者の美学が商業主義をも先導し始めた。

 これらを指摘したマノヴィッチのインスタグラム論は、従来主流だった観賞者側の「見る写真論」から「撮る写真論」へ変化し、今後は「撮る写真論」(写真生活)を練り上げて行くのが今後の課題のひとつになっている~で結ばれていた。小生補足すれはデジカメも2000万画素を超えた辺りから逆に、ウィリアム・クラインはじめによって「アレ・ブレ・ボケ」の反写真志向が生まれた。

 以上「スナップ写真」関連メモ。写真はあたし撮影。

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「鳥撮り」と「街スナップ撮り」 [スケッチ・美術系]

eigaomori_1.jpg 目下「街スナップ写真」で遊んでいる。なんだか「鳥撮り」と似ている部分がある。「鳥撮り」は概ね2タイプに分類できる。シャッターチャンスを求めて、ひたすら歩き廻るタイプ、撮影ポイントに陣取って仲間と談笑しつつ狙いの鳥が飛来するのを待ち構えるタイプ。

 あたしは前者で、とにかくよく歩き回った。それで得難いシャッターチャンスに巡り合ったこともあれば、チャンスを逸した場合もある。

 ★「街スナップ写真」の雄=森山大道は、ひたすら歩き回ってピッときた〝擦過〟の瞬間にシャッターを切って行く。時にはノーファインダーで「アレ・ブレ・ボケ」構わず「写りゃいいんだ」の主義。(写真左は新宿武蔵野館上映チラシ。緊急事態宣言下の5月29日、3万円のポケデジSX720HS購入後に観た。少しも森山大道の写真に迫っていないつまらん映画だった

 森山大道が好きが写真家ウィリアム・クラインの多くの写真には、写真家を正面から見つめる被写体は多い。対峙して撮っていることがわかる。

 一方の大御所★木村伊兵衛は、その場に馴染み、被写体もカメラマンがいることを忘れたころに、知らぬ間にシャッターを切るタイプ。木村伊兵衛の関連書から、彼のスナップ術をもう少し探ってみる。

 木村伊兵衛は「カメラ隠しの至芸」とか。彼のスナップ写真には「写されている対象と木村さんがいてカメラがない」そうだが、本人は「写す時にはkimuraihei_1.jpg自分もいない」。彼のスナップ写真を観ると、被写体に接近し、或は彼らの輪の中に入っているも、被写体は彼(カメラ)に視線を向けていない。

 彼はそうなるまで現場に融け込んでいる。そうして被写体の自然の姿、素顔が出た瞬間に、手練の早業でシャッターを切る。それには彼がカメラ機能に熟知していて出来ること。彼のカメラはライカで概ね30㍉か50㍉レンズ。シャッタースピード優先。撮った写真はノートリミングいっぱいに被写体が躍動している。また彼は出会い頭でも、カメラマンである存在感を消してサッと撮ってしまうらしい。

 それにはカメラ機能熟知の手馴れに加え、そのざっくばらんな巧みな話術(江東区下谷生まれの江戸っ子)も大きな功を発揮しているらしい。

 そんなことを想いつつ、ウォーキングしつつ「街スナップ」を愉しんでいる。

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夢二、荷風からストリートファッション写真まで [読書・言葉備忘録]

kafuyumejisyasin.jpg このカットは6年前にアップした竹久夢二、永井荷風のカメラ調べをした際のもの。夢二のカメラは大正4年(1915)に輸入されて写真ブームを興した「ベスト・ポケット・コダック(通称ベス単)」らしい。彼は11冊のアルバムに2614枚もの写真を遺したとか。その一部掲載の写真集を観たことがある。妻たまき~彦乃~そしてお葉さんのヌード写真。

 永井荷風は昭和11年(1936)10月に「ローライコード」(100円程で今の27万円?)を購ったが、室内や夜の撮影に塩梅悪く、翌年2月に「ローライフレックス」を参百拾円(今の80万円程)で購った。自家本に自ら撮った墨東風景に俳句を添えた頁があったと記憶している。荷風さんのこと、エッチな写真もたくさん撮っていたに違いない。その頃の『断腸亭日乗』には「帰宅後に写真現像」の記述が続いている。

 ロールフィルムによる小型カメラ誕生は、かく夢二・荷風さんにも「スナップ写真」を撮らせたが、小生の父も同じような写真機で、子供のあたしらをスナップしていた。

 〝近代写真の父〟で女性画家オキーフの夫、アルフレッド・スティーグリッツは、最初が三脚使用の8×10(エイトバイテン)、1892年に携帯用4×5(シノゴ)カメラを購入。妻エミリーとの新婚旅行で各国を巡った時の写真が初期代表作になっているそうな。1896年に「アマチュア写真協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」を合併した写真クラブを設立。1896年に「ギャラリー291」設立。

 1916年に女性画家オキーフと出逢う。妻エミリーが外出中の自宅でオキーフのヌード撮影。そこに帰宅した妻と騒動勃発。彼とオキーフは同棲を始めて、彼はオキーフの身体を愛でるように撮りまくった。室内私的スナップ写真で、絵画でもマチスはじめ室内を描く流れがあった。

 ウィリアム・エグルストンは1939年生まれ。カラー写真の開拓者で「日常的なものを、あたかも初めて見たような気分にさせる視点、色、構図」が特徴とか。彼のカメラは1933年からのLeicaⅢシリーズ。彼の写真は「New Color派」と呼ばれた。ソール・ライターはそれに比して写真集『Early Coler』を発表。この両人、共に写真に劣らず絵もたくさん描いた。

 彼らの後を継ぐ形でストリート系ファッション写真が興る。その「カジュアルさ」イメージで「スナップ写真&

広告」が流行った。そして間もなくフィルムではなくイメージセンサー(撮影素子)とPhotoshopなどのソフトウエアによるデジタルカメラへ移行。以上、学者先生らの写真論が小難しく廻りくどいので、自分流でまとめた。

  アッチでは今日「うんこ座りの女たち」の写真をアップした。

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現代視覚文化論①『デジタル写真の現在』 [読書・言葉備忘録]

sikakubunkaron_1.jpg 今になって抱いた「デジタル写真への関心」から、図書館で『インスタグラムと現代視覚文化論』を手に取った。小難しい論文各章より、まずは前川修(神戸大大学院教授)『デジタル写真の現在~三つの層から考える』を自分流意訳でまとめてみた。

 カメラ付き携帯の登場は2001年で、普及は2004年。カメラは独立した存在から、デバイスに取り込まれて一機能となり、携帯やPCにアップロードされた写真が一気に氾濫した。

 デジタル技術の発達が異なる産業間を融合。つまり新しい産業へ収斂=デジタル・コンバージョンされて、複数ジャンルのメディアが同一スクリーン上で共有され、写真は明確な境界を失い、そのデータは流動性を帯びた。また簡易撮影の動画に比し、写真は「静止画」と呼ばれるようになった。

 「明るく鮮やかに」がデバイスの売り。その画像は簡単に「拡大・縮小・回転・トリミング」などが可能で、誰もがシェアできるようになった(アップロードされた画像は、自分のPCに簡単に取り込み、簡単に再編集できる)。システムのシークエンス(手順)操作をもって、安易に「もうひとつ」の写真に変化されるのが前提の場に晒され、写真は受容様態、生産流通システムの場に晒された。デジタル写真は、このフロー性(流動性)が特性となり、指の操作性も帯び、撮影データも自働記録されてビッグデータの一片にもなった。

 Flick(オンラインの写真共有サービス)やフォトブログのユーザーたちは「いわゆる日常的な」「ありふれた」(従来の写真家が関わってきた特別なもの以外の)ものを撮影し、それら撮られた写真は即公開され、他のユーザーに共有される。この「共同的」経験が写真をアップする動機にもなっている。元々私的な写真が、逆説的に共有写真になる宿命を担った。

 写真は、かつての事象を捉えた従来型(従来のプロ写真家)から、いまは撮影・送信・受信されるリアルタイム経験となり、その現在共有感が写真の新たな「核」になった。従来の紙焼きという写真作品価値は減少して、代わって「視覚的コミュニケーション意義」が重大化。これを「視覚的雑談」「視覚的発語」、さらには「バズル」という可能性も帯びた。

 またインデックス(検索エンジンが保存するデータ)機能も重視され、タグ付けも肝心で、検索に引っかからなければ忘却される。一方、インデックスにプールされた写真群は、検索の粗さもあってすこぶる散漫性を帯びる。(例えば自分のブログ記事や写真が、想像もせぬ検索でヒットしたりする)

 これらは概ねプログラムやソフトウェアの層、インデックス内で流れている層、ネットワークを通した写真行為層(市民フォトジャーナリズム論、ツーリズム論など)の三層に分類して論じられるが、それぞれに問題も抱えている。プログラムやソフトウェアはビッグデータとして利用され、アップロード写真は万人に共有されることから摩擦も生じている。

 以上私流意訳でなく正しく読みたい方は同書をどうぞ。気分次第で他の各章も意訳まとめをして行きたく思っています。

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花園神社の紅テント「ビニールの城」 [散歩日和]

akatent9_1.jpg 過日、花園神社の脇を通ったら唐組の紅テントが設営されていた。「ビニールの城」は唐十郎作。主人公モモはビニ本のヌードモデル。アングラ演劇の最高傑作だそうな。コロナ過のテントはちょっと怖いが、無事終わって下北公演に移るらしい。

 観たい映画もあったが、これはコロナ閉館で諦めたが、ややして上映に変わった。足が向いたが、途中でやはり「自粛、今回は見送ろう」と決めた。

 演劇はOKで、映画は閉館。筋通らぬ対策に翻弄される人々。オリンピックも「やめることすらできなっている状況」(山口香JOC理事)で、「異常事態宣言下でも開催」(コーツIOC副会長)とダメ押し。アメリカ下院議長は「北京冬季五輪はボイコットを」。コロナが五輪のホンネをあぶり出した。オリンピックは所詮「金と政治ファースト」ってことらしい。

 コロナワクチン接種1回目の予約(6月6日、ファイザー製)がやっと取れた。

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ブログ二股の弁 [ブログ&アクセス関連]

 この「ss-blog」は、1日平均訪問が300ほどで、PVはその約3倍ペース。目下の累計PVは313万です。最新記事よりも過去の記事へのアクセスが多く、概ね「Google」経由で訪問されているようです。

 「so-net」が「ss-blog」にドメイン変更の際に、ずっとログイン出来ない時期があった。「雲」の勉強をブログ上で勉強中だったが、諦めて「excite blog」開設で、「雲」の勉強を続けた。だが新しく解説の同ブログの訪問数は1日数軒で、まあ、誰も見ていないのも同じで〝秘密ブログ〟か〝私的勉強ノート〟っぽかった。

 だがここ最近、そんな状況が変化した。同ブログの特徴・要領を得たことで、1日の訪問数が弱50ほどで、「イイネ」が30ほどになった。(「イイネ」を非表示選択する方法が広がっているらしい。イイことです)

 そこでは相互「イイネ」が〝仲間意識〟風のネットワークで繋がる感じがあった。かくして北海道から九州まで「イイネ」のフォロー相手を得て、旅行ままならぬ身には、居ながらにして全国の様子を知り、また多彩な趣味を覗くことが出来て誠に愉しい。その意でも40~30ほどの「イイネ=フォロー」が丁度いい感じ。

 同時に二つのブログの棲み分けも出来てきた。「ss-blog」は文章中心の、ちょっと大きめテーマでシリーズものが中心で、「excite blog」は写真中心で、文章は出来るだけ数行にしている。

 だが、その「excite blog」では、こちらのブログを「外部ブログ」として表示できるも、「ss-blog」に「excite blog」の表示が出来ない、ケラレてしまう。相性が悪いのかしら。

 ~と云うことで、こちらの更新がない場合は、概ね向うで遊んでいます~と云うお知らせでした。

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本居宣長④晩年 [読書・言葉備忘録]

morinaga.jpg 明和8年(1771)、宣長の神道説の方向が固まったと言われる『直霊(なおびのみまた)』成立。それはインドの仏教、中国の儒教と同じように、わが国には「天照大御神のうけ給ひたもち給ひ伝へ給ふ道なり」なる皇祖神の道。言うまでもなく『古事記』『日本書紀』の世界。特に道を立てゝ、道を説くこともなかったところに、我が国の古道があったと言う。

 あらゆる自然現象、人事現象は神の所為だが、今の世は「漢籍のクセ」がはびこり、漢土外国のものの考えで律している。これを祓い清め、すがすがしい御国心を回復すべしとするのが我が志だとした日本中心思想、尊王論を確立。

 また同年に『てにをは紐鏡』を完成。「てにをは」の係り結びの呼応法、活用法などを分類・図示。すでに漢字音の研究所で「呉音・漢音・唐音」の三音について考察した『漢字三音考』『漢字呉音弁』を、さらに鎌倉時代以来入れ替わっていたオとヲのア行、ワ行を訂正した『字音仮名用格(じおんかなづかい)』をまとめていて、これまた古典研究の国語学を成した。

 明和9年(1772)、年号が安永と改まった43歳の春、宣長は吉野旅行を門人5名とした。この頃の門人45名ほど。神道に突っ込みながらも歌学・詠歌を捨てず、またそれら講義も止めなかった。宣長は神道と歌の共通項に「物のあはれ」を見ていた。両面で門人はさらに20名増え、晩年には40余国487名に膨らんで行く。

tenioha_1.jpg 宣長の43歳から天明8年(1788)59歳までの17年間は、書斎に籠っての神典研究の『古事記伝』執筆に明け暮れた。世は田沼時代。江戸では武士、商人一帯で「狂歌」熱中。

 当時の宣長の暮し。安永2年(1773)44歳で次女誕生、その2年後に西隣の家を購入。47歳で三女誕生ん。次男が養子に出て、長女が嫁ぎ、49歳で長男の子(孫)が生まれた。天明3年(1782)53歳春、家屋に二階を増築し、その4畳半の茶室風書斎(鈴屋)竣工。天明7~8年ころには門人140名余。いよいよ学者としての名声が高まってきた。

 寛政元年(1789)60歳から享和元年(1801)72歳の没年までの13年間が、学問の円熟期。その学問の啓蒙書、実用書多数で普及・宣伝期にもなる。約40年間書き継いだ『本居宣長随筆』は14巻13冊。

 寛政2年(1790)61歳の時に描かせた自画像に、次の歌を書き添えた。「しき島のやまとごゝろを人とはゞ朝日ににほゝふ山ざくら花」(しき島:やまとにかかる枕詞。匂う:色に染まる。山桜花:優美で柔軟な美しさ、心。染井吉野は江戸時代後)

 寛政10年(1893)69歳、『古事記伝』最終巻完で、30余年かけた『古事記』の厳密注釈の大著完成。写真題字は紀州侯徳川治宝に賜った。藩御針医格で十人扶持から奥医師へ昇格。尾張藩は儒学による政治が行き詰まったとして、今後は古学に則った政治を行うべきと宣長を名古屋に招いた。また京都の公家らとも次第に交渉活発化。学問が政治に呑み込まれて行った。

sikisimano_1.jpg 享和元年(1801)72歳、京都で講義するために70日滞在。公家の間に古学浸透。全国に膨れ上がった門人統制に「鈴屋社」が運営。その後に活躍する多数門人を輩出。

 寛政3年、長男健亭こと春庭が失明。寛政12年(1800)に『遺言書』作成。自身の葬式を菩提所・樹敬寺で、墓所を山室妙楽寺の山)にすることなど詳細に指示・注文。享和元年(1801)9月。風邪から肺炎悪化で29日(太陽暦11月5日)に72歳で没。

 以上、簡単に足跡を辿ったが、後に小林秀雄『本居宣長』関連書や、『古事記』などを読む際の予習でした。資料画像は全て国会図書館データコレクションより。コロナ感染の非常事態宣言再びで、ホームスティはいつまで続きましょうか。

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本居宣長③町医者になり、文芸から神道へ。 [読書・言葉備忘録]

norinagazou_1.jpg 宣長は松坂に帰ると「町医者」(内科医)になり、生涯の生業になった。開業当初は医者業を頑張って年間70両。次第に医者と学問の両輪で、寛政期には40~50両。学問塾の門人収入(謝礼・中元・歳暮など)、自家調整薬「胎毒丸」「あめぐすり」などで補った。

 宝暦8年(1758)、京都遊学記念的な『古今撰』(「万葉集」などから秀歌を選び出し分類した詞華集)、歌論集『俳蘆小船』を完成。宝暦13年(1763)に『石上私淑子言(いそのかみささねごと)』三巻三冊で〝物のあわれ〟の説を軸にした歌論を唱えた。また同年には『紫文要領』(「源氏物語」要旨)も著わした(後の寛政8年67歳『源氏物語玉の小栞』から『玉の小櫛』として改稿)。宝暦14年、『梅桜草の庵の花すまひ』成立。これは口語が交って、後の『古今集遠鏡』の先駆になる。宣長の歌論は定家『古今和歌集』が最高手本で、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三大集を尊重すべきという主張。

 当時の宣長の私生活は、宝暦10年に「みか」を娶ったが数ヶ月で離縁。学問漬けの夫とソリが合わなかったか。同12年、宣長33歳、同じ景山門人の娘「たみ22歳」と結婚。たみは終生の伴侶となって男3人、女4人を設けた。

 彼は松坂で「嶺松院歌会」の主宰者になり、自宅で『源氏物語』講義を開始。この塾での諸講義は生涯を通じ(40年間)規則正しく続行。講義=自身の勉強。『源氏物語』は1ヵ月8、9回。他に『伊勢物語』『土佐日記』『枕草子』『百人一首改観抄』『万葉集』を開講。

kamosyouzou_1.jpg 宣長はまた、京都遊学から戻った頃に、江戸からの人に賀茂真淵『冠辞考』(万葉集の枕詞326語の精密な解釈書)を見せられ、読むほどに共鳴。古代語への関心を深めた。宝暦13年(1763)、伊勢参りに来た賀茂真淵と松坂で対面する機会を経て、翌14年(明和元年1764)35歳、賀茂真淵に入門。『日本書紀』『古事記』研究に入って、文芸一辺倒から神道への関心を深めた。

 この頃、宝暦13年に長男が、明和4年(1767)に次男が誕生。長妹はんは婚期を逸し、30歳で剃髪して終生宣長と同居。母かつは善光寺で剃髪し、明和5年に64歳で亡くなった。

 明和元年、宣長はいよいよ『古事記伝』に着手。「歌学者ハ、以テ神典ヲ学バザルベカラザルナリ。神学者ハ、以テ歌学ヲ学バザルベカラザルナリ」。明和6年(1769)10月、賀茂真淵が73歳で死去。

 画像は若い頃の本居宣長と賀茂真淵。以上、ここに紹介の諸書籍が読めるわけもなく、宣長の足跡を辿ったに過ぎない。後で小林秀雄『本居宣長』を読む時の予習になれば~です。

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本居宣長②京都遊学時代 [読書・言葉備忘録]

sadaie_1.jpg 小生、勉強嫌いで無教養。「勉強好き」宣長の経歴を辿るだけで辛いが、ボケ防止で引き続き「京都遊学時代」へ読み進む。宣長は宝暦2年(1752)、23歳で京都遊学。まず母方の親戚宅に落ち着いて「景山門」に入った。

 堀景山は藤原惺窩(儒教シリーズで紹介済)の高弟・堀杏庵の子孫。宣長は景山門の塾に2年7ヶ月間寄宿。宝暦3年からは医学を学ぶために掘元厚に入門。病理・生理の基礎医学知識を学ぶも、師は翌4年に死去。続いて法橋武川幸順(30歳)に入門。武川家は代々小児科で、同家に寄宿。ちなみに当時の医学レベルは安永3年(1774)刊の『解体新書』以前で押して知るべし。

 宣長は景山塾で、まずは医学を学ぶために漢学から勉強。景山は朱子学者ながら徂徠学にも関心深く、その影響を宣長も受けた。彼は漢詩と和歌を同列視で捉え、勧善懲悪の文芸観は避けた。さらに師・景山は国文学に造詣が深く「契沖」を尊敬。宣長はその影響も受けて『伊勢物語』『万葉集』などから〝物のあわれ〟を学ぶ。

 ※契沖:真言宗の僧で古典学者=国学者。定家の仮名遣いを「万葉集」「日本書紀」「古事記」「源氏物語」解釈を正した『和字正濫抄(契沖仮名遣)」を著わした。keicyusorai_1.jpg ※荻生徂徠:朱子学、仁斎学を批判し、古代言語を重視する「古文辞学」を標榜。柳沢(綱吉側近)に抜擢されるも、綱吉死去と吉保失脚で茅場町に住み(宝井其角宅近く)、私塾を開く。吉宗の信任を得て助言者になる。有名なのは赤穂浪士「切腹論」。彼の考えから「経世論」が誕生。

 次に宣長の歌について。京都で宝暦2年(1752)に冷泉為付門下の森河の門人になるも、4年後には二条流・有賀長川に師事。松坂に戻った後も指導を受け続けた。京都遊学の初・中期は漢詩文尊重で、末期は和歌尊重へ。「漢詩も和歌も等しく性情の道だが、物に感じる深さは、漢詩より和歌が勝る」と記した。遊学中に詠んだ歌は約1500首とか。定家『古今和歌集』を絶対視した。

 また景山は雅人で、門人を花見、月見、詩会によく誘ったそうで「味噌の味噌臭きは上味噌に非ず、学者の学者臭きは真の学者に非ず」とする通人心得をもって酒、煙草、能、芝居、花見、当然ながら茶屋遊びなども愉しんだらしい。宣長の京都遊学は5年8ヶ月。宝暦7年(1757)に松坂に帰郷。母は宣長の飲酒を大変心配したそうな。

 写真はまずは『古今和歌集』藤原定家(堀田善衛『定家明月記私抄』で紹介済)。次の二人画像は左が契沖、右が荻生徂徠(共に国家図書館データコレクションより)

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本居宣長①少年・青年時代

motoorihon1_1.jpg 今まで幾度か本居宣長(もとおりのりなが)が弊ブログに登場。例えば、小林秀雄と城福勇著『本居宣長』を手にしたが投げ出したと告白(2019‐08‐06)。小池著『日本語はいかにつくられたか』の「日本語の音韻の発見・本居宣長」の章を紹介(2019‐06-24)。儒教シリーズ中、本居宣長の「わが国の国土と国民の支配は天照大神~天皇~東照大権~将軍~大名という委任論」を紹介(2018‐11‐24)。~と云う事で、ステイホーム中に再挑戦で城福勇『本居宣長』を読み出した。

 徳川吉宗の時代、享保15年(1730)、伊勢松坂生まれ。弊ブログでお馴染み「大田南畝」より19歳年長。そんなに昔の人ではない。松平定信「寛政の改革」で危険察知の南畝は、狂歌仲間から離れて学問吟味へ挑戦したが、宣長はすでに57歳だった。

 これで時代アタリが掴めて、次は松坂。若い時分で幾度か仕事で「ヤマハ合歓の郷」や「伊勢神宮」へ行ったことがあるから概ねの地理感はある。さて父は定利、母は後妻かつ。先祖は武士だが詳細省略。松坂は伊勢街道の主要宿駅で商業都市(商人の町)。富商三井家発祥地。江戸店持ちの大商人多数で、江戸大伝馬町木綿問屋(松坂商人の出店=通称伊勢店)あり。宣長が属する小津家もその有力構成員。彼ら大商人らは上方に近いことで公家的(貴族的)雅の趣も有していた。

 宣長誕生の翌年には歌人団体「嶺松院歌会」も創設。この会員10名中4人が宣長の親戚。宣長の義兄・宗五郎(定治)は、後妻かつに宣長が生まれたことで小津家相続を辞して江戸に下った。富を得るも経営悪化し、立て直しに向かった父が江戸で病死。宗五郎が松坂に戻って小津家を相続すると、かつは子を連れて本宅から別宅に移った。宣長もその家で育った。寛延元年(1748)19歳で山田妙見町(伊勢神宮外宮の鳥居前の地域)の紙商・今井田家の養子へ。だが商人向きではなく翌年に離縁。

 宗五郎は小津家を相続するも、再び江戸へ出て40歳で死去。宣長が江戸へ出て後始末。帰路に富士山に登って帰郷。宝暦元年(1751)22歳で家督を相続したが、宣長が商人向きでないことから、母の裁量で財産4百両を隠居家に預け、利息(年40両)で暮すことになる。母は彼を京都で学問させて医者にする計画だった。

 宣長は母の教育方針で8歳から習字を、12歳から書道・謡曲を、17歳から射術を、19歳から茶の湯を、20歳から寺で『易経』『詩経』『書経』『礼記』素読を、17、18歳から和歌・俳諧も勉強。菩提寺への関心から仏教を、さらに伊勢神宮に近い場所柄で神道関係も勉強。

 今井田家養子中に『源氏物語覚書』を、22歳で『かなづかひ』を編む。以上が宣長の出自・少年・青年期。勉強経歴ばかりで面白くなく、前回挫折もこの辺りにあったか。次は京都遊学時代へ。

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青山二郎⑧晩年 [読書・言葉備忘録]

bianca2_1.jpg 再び時系列に戻る。青山二郎の妻は、伊東市に疎開時は宇野千代が記す〝恵子さん〟は、年譜の「服部愛子」のことらしい。二人は昭和19年(1944)に正式入籍し、昭和23年47歳で離婚(青山は恵子の姪・和子と添遂げる)。『梅原龍三郎』や『富岡鉄斎』を発表。翌年にレコード2千枚を売って伊藤の家を出て、五反田の坂本睦子のアパートに仮住まい(睦子は大岡昇平『花影』モデル。文壇の高名作家に抱かれ、以後は同作家を慕う文士らが次々と競うように彼女を抱いたとか。当時の文士はろくでもねぇ)。

 昭和25年、『眼の引越』『眼の筍生活』発表。青山の執筆に、小林秀雄が付きっ切りで面倒をみたとか。昭和26年、青山学院のメンバーが秦秀雄(骨董界)の「梅茶屋」(代々木の割烹旅館)入り浸って連日の議論。広間に青山・小林は座って〝高級漫才〟。周囲に数十人が取り囲ん囲んだとか。『上州の賭場』『博徒風景』を発表。

bianca1_1.jpg 同年、父・八郎右衛門死去。昭和28年に兄・民吉死去。そして昭和35年に父の遺した「二の橋」の土地に高速道路が通ることで何億もの金を得る。同年、福留和子と結婚。毎年暮れから2月まで志賀高原ホテルで青山専用部屋で過ごす。この頃からカメラと雪上自転車に凝る。そして夏の2ヶ月間は広島暮し。志賀高原では越後高田の骨董屋・遊心堂で遊び、広島ではヨットや水泳で遊ぶ、夜は呑み屋「梟」が青山学院の広島分校になる。青山はとにかくどこで暮そうと〝群れ〟を作りたがる(小生嫌いなタイプ)。

 昭和39年(1964)、オリンピックの年に渋谷区神宮前のマンション「ビラ・ビアンカ」の設計段階で、6階2部屋(2350万+850万円)を購入。ベランダに植木屋を入れるなど自分流に改良。昭和45年に川奈に別荘完成。昭和51年、志賀高原から帰京後に牛込清和病院に入院し、翌年に自宅で永眠。77歳だった。墓地は谷中の玉林寺。

 田野勲著『青山二郎』は最後にこうまとめていた。「青山は生涯を余技と考えていた。本の装幀、絵を描く、骨董売買、文章を書く、写真を撮る~すべてが余技と考えていた」。当然ながら仲間を集めての議論=青山学院も余技。それが実現できたのは子供時分から母から毎月500円(当時の小学校教師初任給が50円)の小遣いをもらい、父と兄死去後に高速道路でン億円を手にしたことで成り立った人生。働く必要もない(職業なし)極楽トンボ。その意でも自由な立場で物事への発信が出来た、と記していた。

 加えて学校生活経験なしゆえか、とにかく群れたがった。核心の「生涯を余技と考えたこと」は、特別の事ではなかろう。人の世は無常、仮の世、仮の宿~。何を今さら~と思ってしまった。彼が骨董を見るように、彼の中年後の顔写真を先入観なく見れば〝好き〟なタイプではなかった。

 そんなワケで白洲正子が『いまなぜ青山二郎なのか』を読んでも〝なぜ〟かわからずらず仕舞い。古本屋で青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』を入手したが、その文章は魅了されるほどでもなし。小林秀雄がなぜ彼に惹かれたか。これは『小林秀雄』を読んでみなければわからない。目下は小林秀雄全集の2冊を図書館で借りて来たが、とりあえず、この辺で「青山二郎」を終わる。

 写真は築57年になった「ビラ・ビアンカ」。場所柄だろう、アパレル系事務所が多数入居らしくこの日も、若い女性らが衣装をいっぱい持ってマンションの中に消えて行った。

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青山二郎⑦骨董弄り [読書・言葉備忘録]

IMG_8190_1.JPG 白洲正子は「青山二郎は骨董を弄る人だった」と記している。特に偽物や新しい焼き物は、自分で味付けすることを愉しんでいたと。ガス台に魚の網をのせて燻す。紅茶液の鍋を煮立たせておいて、その中にジュッと入れてヒビ割れさせる。やすりで削る、爪で金彩の唐草文を適度に剥がす。そんなことを何か月も繰り返して、その味付けを愉しみ自慢した。

 道具を弄って、自分の生理まで解かし込んで行く。高価骨董が中原中也の痰壺になり、今日出海の灰皿になったりするのも、使い込んだ味になるのを愉しんでのとこと推測される。

 茶人ならば茶を点てるのが日常だが、そうでない彼は、そうでもして使い込んだ味を出したかった。「骨董を抱く」なる言葉も、そんな意を含んで骨董は実際に手に入れ、使い込まなければ意味がないと考えたらしい。

 私事だが、小生の母は「江戸千家」のおっ師匠さんで、家には稽古茶碗は幾らもあった。若い時分からの茶道ゆえ、安物稽古茶碗と云えども使い込まれたいい味を持っていたのかもしれない。

 また「別冊太陽」に、彼が器に疵をつけるために使っている「紙やすり」が写っていて、思わず笑ってしまった。と云うのも、あたしは貧乏で骨董趣味もないが、安物文鎮集めによって5、6個の文鎮が机に転がっている。入手当初は、まず塗料を剥がしたり磨きをかけたりして自分好みにするが、その時の「紙やすり」が、彼の写真とまったく同じ絵柄だった。小生が骨董で理解できるのは、その程度~。

 次に400余点も手掛けたという彼の装幀(写真は「別冊太陽」の装幀紹介頁)について。それら装幀を眺めていると、植草甚一を想った。6年前に「世田谷文学館」で「植草甚一スクラップ・ブック展」を観た。氏のコラージュ作品や、絵葉書やマッチ箱の上にガッシュで遊び絵、彩色を施した作品群展示があった。青山二郎も空き箱や文庫本の上に線をひき、色をさし、描き文字を入れて遊んでいた。植草甚一の彩色を施した手紙も有名で、あたしもそんな手紙を1通いただいたことがあったと思い出した。同じ「机上遊び」をしていた。

 青山二郎は自著、友人らの著作表紙。『アンドレ・ジイド全集』、創元社、実業之日本社、宇野千代設立の「スタイル社」、雑誌では「創元」「文学界」「日本映画」なども手掛けていた。概ね骨董陶磁器に通じる渋い色遣い、筆による描き文字、小刀で彫った模様版木使用などが特徴。このシリーズ長くなったので、次回に彼の晩年をザッと辿って終わりにしたい。

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青山二郎⑥青山学院の「揉み揉まれ」 [読書・言葉備忘録]

sirasumasako.jpg 青山学院の教育法は、酒席での「(議論)揉み合い」。青山は骨董の真贋を見分ける要領(生半可な先入観・固定観念なく、無私無欲の肉眼観賞で感じる・見るが肝心)で、文学者らの「人間の真贋」を見抜き、相手を泣かすほど、蛇が蛙を呑み込むほどにコテンパンに打ちのめすそうな(それでも一カ所は逃げ場を残しておくのが規則だったとか)。

 靑山の最後の弟子・白洲正子の場合。彼女が差し出した原稿に、青山は朱を入れるどころか目の前でズタズタに引き裂き「説明は不必要で冗漫。形容詞が多過ぎる」。さらには「ここがあんたの一番いいたいところだろ」とそれも不用とした。「自分が言いたいことを我慢すれば、読者は我慢した分だけわかってくれる。そこが読者の愉しみなのだから」。白洲は「へどを吐く」ほどにやっつけられながら、それでも通ったそうな。

 小林秀雄の場合。小林は3年間の骨董修業を通じて「やっと文学がわかるようになった」と述懐したそうな。骨董には人間の愛着や欲念の歴史が積もっていて、一種の魔力を秘め持つようになる。それは実際に骨董を手に入れなければ無きに等しい日用品。自分の物にして使い込み愉しむようになって、初めて良さがわかる。茶道とは器を観賞し、実際に使って、その器の美しさを知る道。そうして過去を現在に甦させる=歴史の魂に触れる。つまり過去の文化遺産を現代に甦らせてこそ伝統になる。

sirasunaka.jpg 小林はかくして「言葉」をもって過去の文化遺産(伝統)を現代に甦らせるべく『徒然草』(兼好法師)を書いた。「徒然なるまま」に書きつつも「眼が冴えて、物が見え過ぎ、物が解り過ぎて」〝怪しうこそ物狂ほしけれ〟に至る心が解るとした。

 美しい花を見る。例えばそれが「菫」と解ると同時に、眼は閉じて頭(言葉)で見るようになってしまう。言葉が邪魔をする。小林は骨董の修行を通して、言葉が邪魔をするスキを与えず、初めて「見えて来る」ようになったと自己分析をする。物が解りだして、彼は『無常という事』『平家物語』『西行』などの過去の遺産を次々に現代に甦らせた。

 青山もその眼で『利休』を書き、『梅原龍三郎』『富岡鉄斎』を書いた。かくして〝青山学院〟の小林秀雄を筆頭に河上徹太郎、中原中也、中村光夫、大岡昇平、白洲正子らに「青山が私を築いた」と言わしめ、また彼らが実際に活躍する姿を見て、我も我もと弟子入り絶えず~とか。

 加えて青山は仲間作家の装幀も手掛けた。これがめっぽう魅力的でインパクトもあった。小生は青山学院の作家らを読んだことがないゆえ、以上の記述を読んでも、納得し難いのが実情。まぁいずれは読む時が来るかもです。

 だがそんな子弟関係に亀裂も走る。小林秀雄は昭和28年(1953)に欧米旅行から帰国すると、有名なセリフ「過去はもう沢山だ」を吐き、青山二郎と決別した。理由は諸々だが、その中のひとつが、青山学院の青年らを吉原に連れ行きて「男」にするも、全員が淋病に罹ったことも恨んでいたとか。写真は白洲正子著『いまなぜ青山二郎か』の扉とグラビア。

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青山二郎⑤青山学院と分校、分室 [読書・言葉備忘録]

kawazoinagaya_1.jpg 青山二郎は昭和5年(1930)に同人誌『作品』創刊にも参加。河上徹太郎、永井龍男とも知り合った。青山はその頃に武原はんと再婚。「一の橋」の父親の四軒長屋で新生活を開始。その長屋の隣に永井達男が〝青山学院〟に入学すべく、母親と共に引っ越して来た。そこは川っぷちの古い4軒長屋(2階1間・階下2間)。

 かくして青山・永井の長屋に小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平ら文学青年が連日集って〝青山学院〟スタート。青山宅には、京橋の一流骨董店に飾られていた高価品が転がっていて、浜田庄司の瀬戸物は唾をやたらにする中原中也の痰壺になっていた。

 昭和6年に小林の論文集で処女出版『文芸評論』装幀を青山が担当(すでに自作『陶経』などの装幀を手掛けていた彼は、生涯に400余点の装幀を手掛けることになるが、青山の装幀に関しては後述)。同年、晩翠軒・井上恒一に頼まれて朝鮮に行き、当時はゴロゴロしていた季朝陶磁を蒐集。翌年1月に「朝鮮工芸品展覧会」開催で、季朝陶磁期のブームになる。

IMG_8185_1.JPG 昭和7年、武原はんと別居~離婚して一人暮らしになった青山は、①で紹介の「四谷花園アパート」に移り、そこが第2の〝青山学院〟になる。同部屋にも季朝の棚、船箪笥、衣装ダンス、壺類、中国の皿、九谷の皿や陶片が所狭し。滝井孝作が「織部の逸品が入ったとか。拝見しに来た」と言う。それは今日出男が灰皿にしていたものだったとか。

 四谷花園アパート時代の青山学院の〝〈議論の)揉み揉まれ〟は、銀座・出雲橋の小料理屋「はせ川」。芝浦の安待合「小竹」、新橋の縄のれん「よしの屋」、浅草馬道の待合「老松」にも延長して「分校・分室」になったとか。

 四谷花園アパート時代は昭和8~17年(1933~1942)。昭和17年、41歳。伊東市竹の台の2階から海が見える2軒続きの借家に疎開して7年間滞在した。借家ながら青山らしい独自の雰囲気に改良。1軒に家族が住み、1軒1階に約2千枚のレコード、酒盃50個。2階8畳間の書斎にキリスト教書が約5百冊とか。

 この伊東分校にも小林秀雄、河上徹太郎らが通い、伊東在住の宇野千代、尾崎士郎、出版関係者の疎開組の佐々木茂策(文藝春秋社・社主)、石原龍一(求龍堂)らが集った。その名は「みぎわら・くらぶ」。この頃に青山が入手した「古染付むぎわら手向付」からの命名。主に古美術を楽しむ会。

 この時期に小林は『モオツアルト』を、青山は『千利休伝ノート』『梅原龍三郎』を執筆。ここで彼は「茶道は器に対する愛」と主張。小林は青山から骨董を教わり、青山は小林から文章表現を教わった。

 宇野千代『青山二郎の話』によれば、その頃の同居人は某酒場から引き抜いてきた「恵子さん」。彼女は「前から好きだった男のところで一晩泊まって来た」と青山に報告する馬鹿正直な女性だが、水か空気のように目立たない存在だったとか。

 昭和35年、麻布・二の橋に高速道路が出来て、青山は何億円もの大金を手にすることになる。写真は「東京都オープンデータカタログ」より首都高速が出来る前の一の橋辺り。川っペリに当時の長屋風情が残っている。

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青山二郎④骨董から文学へ [読書・言葉備忘録]

hasecyuhide_1.jpg 青山二郎は骨董修業中の大正13年(1924・23歳)、小林秀雄に出会って人生が変わった。柳宗悦の甥・石丸重治が小林の同級生で、石丸は同人誌『山繭』創刊に小林と青山の参加を勧め、青山に文学の扉が開いた。このとき青山23歳、石丸と小林は22歳。

 小林秀雄は同年に小説『一つの脳髄』(私小説)を、翌年2月に『ポンキンの笑い』(後に『女とポンキン』に改題)を発表。この時期に中原中也と出会った小林は、中原の恋人・長谷川泰子と同棲して三角関係。当然ながらこじれて、彼は昭和3年(1928)に奈良へ失踪。翌年春に帰京して『様々な意匠』で『改造』懸賞論文に応募して二席入選。批評家として文壇デビュー。(長谷川泰子は広島市の家出娘で、東京他で放浪し、関東大震災後に京都はマキノ・プロダクションの大部屋女優へ。16歳の中也と20歳の泰子は同棲生活を開始していた)

 青山にも事件が起きた。浜田庄司の展覧会で会った野村八重を見そめて、大正15年(昭和元年・1928)に結婚。だが八重は1年後に肺結核で死去。青山は昭和3年に11編(文学系世と民芸系)作品(雑文)を発表。文学系の『書翰往来』は、小林が「小説を書け、もっと身を入れろ」の叱咤に「俺の先生面をするな」の交換書簡。『新婚旅行』は八重の健康を気づかって妹帯同の新婚旅行記。青山は工芸家と連日議論で、妻と妹は買物。その中で俥で擦れ違った志賀直哉の眼に衝撃。『短い記憶』は身ごもった妻が亡くなるまでの経緯。

 一方の民芸系作では、柳宗悦との決別を漂わせていた。柳の民芸運動は「名工の形(上手物)」ではなく、民衆の生活用品(下手物=雑器の美=用が美を生む)を推奨。一方の青山は季朝の陶磁器など「百万中の一つ」の工芸に魅せられる志向で、「民芸」とは対極の観賞眼。青山は柳の民芸運動と決別して、自分の道を歩み出そうとする内容。

 ここで『別冊太陽』の白洲正子記『「ととや」の話』から青山の骨董世界を覗いてみる。~骨董は自分ひとりの所有にしたく、博物館に入ることは骨董趣味の死を意味する。季朝の名品「ととや」(島津家伝来)を小森松庵なる茶人が持っていた。広田熙に赤紙が来て、彼は死ぬ前に「ととや」を拝みたい。無事に帰還できた暁に「ぜひ譲って欲しい」と懇願。無事に帰国した広田と松庵の間で「譲ってくれ・譲らぬ」問答。カッとした松庵は「そんなに欲しいのか」と叫ぶや「ととや」を庭石に投げつけた。広田は破片を拾い集めて修復し、松庵に返し、改めて譲って貰った。その「ととや」が青山二郎の手に渡り、今は埼玉辺りにあるという話。骨董に興味もく、手も出ない小生にとっては、骨董は〝異常な貪欲で浅ましき世界〟にみえてくる。

 写真は「ウィキペディア」より左から小林秀雄、長谷川泰子、中原中也。次は〝青山学院〟について。

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青山二郎③麻布中を中退し骨董修業

IMG_8182_1.JPG 青山二郎は小学生時代はクラスで1番か2番。大正4年(1915)に麻布中学に入学。兄・民吉と共にアマチュア美術団体に絵を出品。中川一政の画塾に通って油絵を習う。また自宅「一の橋」の角にあった映画館へ連日通った。

 学校より映画の世界に魅了されてか、成績悪化で不登校気味。母きんが二郎を抱きながら「よしよし、そんなに嫌なら行かなくてもいいよ」で麻布中を中退。12歳まで母に抱かれて寝て、10代後半から毎月500円の小遣い(大正時代の小学教師初任給は50円)をもらって吉原通いや骨董買い。金がなくなると母を厠まで追いかけて小遣いをせびったとか。彼は生涯「無学」コンプレックスを抱くことになる。

 ここまで記せば、何だが金子光晴が浮かんでくる。光晴は貰いっ子で、16歳の義母に〝おもちゃ〟のように可愛がられ、10歳頃から近所の子らと〝桃色遊戯〟。牛込・津久井小学校時代に小林清親から絵を習い、中学時代に父の春画コレクションに魅入り、中3で本格初体験。14歳頃から義母と相姦。その罪意識を薄めるべく悪所通い。早大入学も、田舎の学生ばかりと馬鹿にして退学。上野美大に入るも、荒んだ生活で身体を壊している。青山二郎は光晴より6歳下だが、ここまでは煮た者同士。だが光晴は徹底して離群性を貫くが、青山二郎は無性に群れたがった。

Soetsu.jpg 二郎の兄・民吉は、東大入学で美学専攻の秀才。「他人が馬鹿に見えて」次第に奇人化して行く。二郎は16歳の時に京橋「繭山龍泉堂」(大正9年より現・京橋2丁目で開業)で疵物の宋陶磁器水盤を購入。当時の番頭・不孤斎(広田松繁。その後に「壺中居」創立)に「天才的な審美眼を持っている」と言わしめた。翌年に民吉のコネで東大心理学教室で開かれた東大教授・助教授、実業家らで構成された「陶磁器研究会」、同母胎の「彩壺会」に参加。

 21歳。青山自宅近くに越して来た柳宗悦と親交。うるさいほど訪ね、彼の蒐集品を褒め称え、それを譲られたりする。28歳で「彩壺会」で「朝鮮工芸概論」を講演。25歳(大正15年・1926・昭和元年)に柳宗悦の「日本民芸美術館設立趣意書」に名を連ね、蒐集品選択責任者の一人になる。26歳で横河民輔の中国陶磁コレクションの図録編纂。30歳で『陶経』(限定50部)、『甌香譜(おうこうふ)』(現在東京博物館蔵)を出版。陶磁器・骨董界の押しも押されぬ存在に昇り詰めた。中学を中退後、学ぶことは骨董世界のみで、全霊で突き詰めて行ったのだろう。

 写真は「別冊太陽」の『青山二郎の眼』表紙。下は柳宗悦「ウィキペディア」よリ。

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青山二郎②クーデンホーク光子と青山二郎 [読書・言葉備忘録]

IMG_8181_1.JPG 昨年秋に「クーデンホーフ光子」シリーズをアップした。その時に、~光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父・青山喜八は幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。明治20年になっても「ちょうん髷頭」の旧弊な男で。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた、と記した。

 さて田野勲著『青山二郎』を読むと、光子の父・喜八は靑山二郎の祖父の兄弟で、光子は二郎の母きんの2歳上の従姉妹だと記されていた。青山二郎は、父・八郎右衛門と母・きんの次男として明治34年(1901)に生まれた。長男・民吉は5歳上。靑山家は信州上田の出身で、米を中心に商っていて、その後に江戸で仲買をしていたらしい、と記されていた。女系家族ゆえ先祖は母方系。九州佐賀と信州上田のどちらが正しいのだろうか。

 青山家代々の墓は、三軒茶屋の正蓮寺。墓碑に二郎の母きん(昭和8年没)、父の八郎右衛門(昭和26年没)の名はない。同墓隣接で「青山喜八」の墓はある。青山八郎右衛門は婿養子で、本名は茅根清十郎。茨城県久慈郡出身。慶應義塾大学2期生で、結婚前は銀行員。曾祖父が一人娘きんの金遣いの荒さから、銀行員で締まり屋の八郎右衛門を養子に迎えた。

 八郎右衛門は家の脇を蛇行する古川を、防災のために真っ直ぐに改造・護岸して、それによって余った土地を安く払い下げでもらって広大な土地を手にした。現・麻布十番を走る高速道路「一の橋ジャンクション」辺り一帯が青山家の土地になって、その敷地面積約1万坪。彼はその広大地で貸家業を始めて莫大な収入を得た。当時の『時事新報』の資産家名簿に名が載る大金持ち大地主。彼は単なる締まり屋ではなく優れた企業家でもあった。

aoyamamituko.jpg だが理解に苦しむのは、長じた二郎が眼前に父が現れると「ハウス」と犬に命令するように立ち去らせ、長男・民吉も「下がれ」と追っ払ったとか。富豪ながら彼は居住するのは万年床の四畳半。一体、何があったのだろうか。その辺の謎が、とても気になる。

 次郎の母きんは、光子の母つねより2歳下の従姉妹。きんはどんな女性だったのか。きんは一人っ子で甘やかされ育って天真爛漫、我儘、放縦、金遣いも荒かった。長男・民吉は太った大柄だったが、小柄華奢な二郎を溺愛して二郎が12歳になっても彼を抱いて寝ていたとか。

 別冊太陽『靑山二郎の眼』で、森孝一は『「好き」に尽きた人生』で、こう説明していた。青山家は七代続いた女系家族。光子も二人姉妹で、光子の母つね(津弥)も四人姉妹。麻布一の橋の青山家には曾祖父、曾祖母姉妹、母きん、父八郎右衛門、民吉と二郎が住んでいた。祖父は木場に、祖母は大森に住んでいて、青山家の采配は曾祖父が振るっていた(この辺もよくわからない)。青山家には強精剤「おっとせい丸」の看板があるも、これは八郎右衛門には関係なく、恐らく幕末頃の靑山家の珍商売の一つだったのでは~、と記されていた。

 謎の多い青山家ストーリー。後に〝青山学院〟とまで呼ばれるほど多くの文人らから崇拝された文芸サロンの主、青山二郎の少年期についてを探ってみる。

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青山二郎①『四谷花園アパート』 [読書・言葉備忘録]

IMG_6700_1.JPG 図書館で以前から気になるも、手にしなかった村上譲著『四谷花園アパート』を読んだ。昭和のはじめ頃に、現「花園東公園」辺りに三棟続きの大きなアパートがあって、そこで活発な文壇交流があったそうな。場所は靖国通り、富久町西交差点際の現トヨタ販売店の角に小さな「新宿区地域文化財〝花園アパート跡〟碑がある。その奥が「花園東公園」。

 史跡にこう記されていえう。「装幀家・美術評論家青山二郎が昭和8年~17年頃までの約8年間を過ごしたアパートの跡。同じ頃に評論家小林秀雄や詩人中原中也も居住した。青山の部屋には他に三好達治、大岡昇平、河上徹太郎、永井達男らも集い、通称「青山学院」と呼ばれた文芸サロンとなっていた」(小生、これら人物に興味抱かずで、読む気にならなかったらしい)

 一号棟と二号棟が東西に並び、コの字型廊下でつながり、三号棟は廊下の東側に独立して建っていた。十銭入れるとガスが使え、管理事務所や食堂があり、男女別の共同湯があって当時の文化アパート。この文章から、さぞモダンなアパートと思うが、hanazono5_1.jpg今日出海がこう記している。「女給の住む木造の薄汚いアパート。見るからに見すぼらしく、入ると便所の臭気が建物中に漂い、セメント廊下に下駄の音が響き、部屋の外に炭俵を置かれ、廊下は炭の粉末で白い足袋が忽ち汚れてしまう。そんなアパートだが、青山の部屋へ入ると様相は一変。十畳と六畳で、広い部屋が応接間で革張り肘掛椅子やソファーが並べられ、蓄音機にバッハ全集やモーツァルトのレコード。朝鮮の壺(高価骨董)や小机等々が足の踏み場もhanazono6_1.jpgないほどに転がっているが、彼なりに整頓されている。彼は大抵この部屋にいて、そこに昼間から人が訪ねて来るのである」

 同アパート二号棟は三階建てで、そこに中原中也が新婚所帯を構えた。青山の隣にピアニストで河上徹太郎と親友で吉田健一の親戚の伊集院清二が、かつて高見順の妻で銀座「エスオアノル」の女給・石田愛子と同棲していた。愛子が伊集院を抛り出すと、以前の同棲相手の若者と暮し始め、また別の男になり、最後は上海に渡った。

 次に坂本睦子が来て、青山と結婚することになる服部愛子も引っ越して来た。青山はとりもった小林秀雄と森喜代美も新婚当初は同アパートにいて、中也と同棲し、小林秀雄とも一緒に住んだ長谷川hanazonosiseki_1.jpg泰子もからむ。彼ら住民に加えて青山が通う銀座や新宿の酒場仲間らも遊びに来て「四谷花園アパート」はますます賑わう。

 この〝青山学院〟メンバーは新宿「ムーラン・ルージュ」にも通った。そこに菊池寛、志賀直哉、谷川徹三、高見順、田村泰次郎、丹羽文雄、広津和郎、石川達三~がいる。新三越裏のカフェー横丁で呑む文士らもいる。萩原朔太郎も夜の新宿でうろついでいた。

 小生には、馴染ない作家ばかりだが、実は同地はあたしの社会人最初の広告制作会社があり、フリーになった小生のスタッフが増す度に事務所を転々とした場所なんだ。

 同書には最近の弊ブログで紹介のクーデンホーク光子の父と、青山二郎の祖母が兄弟だったとあり、また金子光晴が海外放浪から帰国した住んだ安旅館「竹田屋」は同アパート近く太宗寺横で、森三千代が住んだのが二丁目の中華料理屋「楷喜亭」二階アパートだと記されていた。光晴の「竹田屋」には山之口獏や正岡容や国木田独歩の息子・虎雄が訪ねてくる。

 その頃に草野心平が屋台の焼き鳥屋「いわき」を角筈でやっていた。花園町十三番地のバラック小屋に田中英光と山崎敬子が住んでいて、英光が敬子を刺して四谷警察所に逮捕された。本郷・菊富士ホテルを出て西大久保の自宅と執筆場所の新宿ホテルを往復していた広津和郎が、手をつけた21歳下の女に付きまとわれていて、武蔵野館通りの喫茶店で雑誌『人民文庫』会合中の高見順、田宮虎彦、田村泰次郎らが警官に踏み込まれて手錠の数珠つなぎで淀橋警察署まで連行されて行った。

 まぁ、そんなこんなの新宿文壇事件が紹介されていて、それは以前に面白く読んだ近藤富枝『本郷菊富士ホテル』の新宿版だと気が付いた。馴染ない作家・評論家らに加えて構成・視点も塩梅悪く夢中にさせるほどの内容ではなかった。 

 それにしても馴染ある地で、またウォーキング圏内ゆえに、それらの誰かにいずれは興味を持ったら、また読むなり調べ知ろうと思っています。写真は上から本、花園東公園、トヨタ角 そこに設置の史跡案内。

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新宿花園神社に「もく星号」の痕跡 [散歩日和]

miharayamanikkouki.jpg 花園神社の末社「威徳稲荷大明神」の巨大木製男根を調べていたら、なんと花園神社に「もく星号」痕跡の奉納額があるのを知った。

 松本清張『運命の「もく星号」』(昭和35年)、『風の息』(昭和49年)、『一九五二年日航機「撃沈」事件』(平成4年)について、また辻潤の息子・辻まことによる三原山に散乱の宝石収拾記『墓標の墓』、西木正明『夢幻の山脈』などを紹介してきた小生には、ぜひその奉納額を観たく駈けつけたが、それを眼にすることが出来なかった。

 まず同奉納額を知った最初は『新宿文化絵図』(新宿区の編・発行)の町田忍「新宿探検コラム」だった。以下、同記事と紹介サイトの幾つかを併せて要約してみる。

 花園神社のゴールデン街に抜ける裏参道に面した社殿軒下に、数枚の寄進された額が架けられていて、そのなかでひときわ大きい幅2m×高さ70㎝のほ奉納額がある。題字に「神徳感謝」と「同栄信用金庫飛行機貯金旅行會献木記念」。神社と飛行機の絵の間に東京~大阪~福岡の運航地名。そして奉賛者名、昭和27年4月吉日の日付。

 その名簿から3機の機構記がチャーターされたことがわかる(定員36名)。1晩機が4月7日午前8時発で22名と3名の世話人。2番機が4月4日午後4時発26名+4名。3番機が4月5日午前8自発28名+3名。

 『花園神社三百五十年誌』には、こう説明されていた。~昭和27年4月9日、日本航空「もく星号」が三原山に墜落、漫談家の大辻司郎ら乗客全員の37名が死亡した大惨事があった。旅行に先立って、安全祈願の祈祷を当神社で受けた。命拾いしたということで、当社に記念の額が奉納された。

mokuseigou2_1.jpg ちなみに東京~大阪間は料金6千円(現在の10万円程)。同信用金庫は後に他2信用銀行と合併し、今は「さわやか信用金庫」。墜落(清張は撃沈された)の「もく星号」にはダイヤ売買の美女・小原院陽子が乗っていた。彼女が持っていた宝石類は、軍接収ダイヤがGHQへ渡り、それが闇ルートで流れたものと推測される。

 清張の3作目では彼女の写真、自宅内スケッチも掲載。一方、辻まことは乗鞍でスキー(彼は山スキーの指導員)合宿後に日航機事故を知り、彼女の家に駆けつけた。当時、共に彼女の家で酒と音楽で盛り上がっていた仲間の一人・西常雄が既に来ていて、二人は三原山に散乱した宝石類を収集しに旅立った。彼らは金鉱探しもしていたキャリアがあってメンソレータムの空かん一杯程を拾った。最後に岩に食い込んで取り出せないルビーらしきを、彼女の墓標として遺して山を降りた。その経緯を「墓標の石」に書いていた。

 そんないわくの「奉納額」。「花園神社」さん、その奉納額はどこに行ってしまったのでしょうか。追記:後日、改めて花園神社へ行った際に本殿前の「宝物殿」軒下に架かっていたのに気が付いた。写真を差し替えた。

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秘すれば花。「花園神社」の巨大麻羅 [散歩日和]

hanazonomara_1.jpg 先日、別サイトで新宿職安通り~大久保コリアンタウンを結ぶ入り角の石像に背中合わせでメール打つ女性がいて、「メール打つ背中合わせの男根像」として写真アップした。その像は済州島の石爺(トルハリバン)で帽子が亀頭の子宝を授かる像、つまり男根像だった。

 そんな事が契機で、なんと近所でお馴染みの「花園神社」境内の末社「威徳稲荷大明神」に、それは立派な木製男根が祀られているのを知ってしまった。

 同神社へは自宅~三丁目伊勢丹の徒歩途中にあって、氏子ではないも、まぁ馴染の神社。しかし境内の、ちょっとミニチュアっぽい小さな鳥居の連なりをくぐり参拝しようとは思わなかった。

 大田南畝(別人作の説もある)の『甲驛神話』(内藤新宿で野暮と粋な男が遊ぶ戯作)全文を筆写+挿絵複写で「くずし字」勉強もし、遊女投げ込みの成覚寺のご住職から説明も受け、三田村鳶肴『岡場所遊郭考』の内藤新宿の歴史を読み、野村敏雄『新宿っ子夜話』などdankon6_1.jpg多少は「花園神社」の歴史にも触れて来たが「威徳稲荷大明神」のことは知らなかったぁ~です。

 かくして初めて鳥居をくぐって参拝。神額掲げた梁の上に、その赤黒く艶々とした巨大男根(麻羅)がチン座していて、腰が抜けるほど驚いた。社の土台塚にもコンクリート製らしき可愛い男根も屹立していた。

 なんでも同大明神は昭和3年4月頃に建立らしいが、資料焼失で詳細不明(~が神社の説明なれど、なんだか怪しい)。同神社周辺にはいかにも関係ありそうな芭蕉句碑が二つ。『花園神社三百五十年誌』によれば~芭蕉が尾張名古屋に住んでいた時に、花園稲荷神社の別当三光院と非常に親しくしていて書簡を交わす仲。その書簡を通じてこの句が三光院送られ、それを碑にしたのだろう~と説明されていた。

 本当かしら。一つの句碑は「春なれや名のなき山の朝かすみ」(1698年の「泊船集」。「野さらし紀行」には~春なれや名のなき山の薄霞)。もう一つの句碑は「蓬莱にきかはや伊勢の初たより」(芭蕉が江戸を立って上方で亡くなる元禄7年元旦の句)。神社説明は時代的にズレているし、むろん威徳稲荷とも関係ない。

 また祠前の「神狐一体」は嘉永6年(1853)と説明されているが、これもまた威徳稲荷とどうつながっているのかわからない、同神社に関係しているのは「威徳稲荷社殿建設奉納者芳名」の大石碑で、これは平成4年(1992)5月建立とある。

inari5_1.jpg ちなみに野村敏雄著『新宿裏町三代記』には「雷電神社」合祀経緯が詳細紹介されている。『花園神社三百五十年誌』には末社に関しては、享和3年(1803)の火事でほぼすべてが焼失。それまでの末社は八社(第六天・毘沙門天・疱瘡神・天満宮・金毘羅大権現・三峰大権現・牛頭天王・千葉稲荷)。それらは合祀されてり、別殿に合祀。

 また明治10年(1877)の大火でも神社全焼。この時に末社の須賀神社、秋葉神社、北野神社も焼失と記されているだけで、また新宿遊郭内に稲荷神を祀った「三社稲荷神社」が平成17年(2005)に「威徳稲荷大明神」に合祀された~の記述をみる程度。また同稲荷は初午(毎年2月)に祭礼が行なわれているそうな。つまり、なにがなんだかわからず仕舞いでした。

 ともあれ中世以前の生殖に関わる民族神=性器形を神体・奉納物とする信仰は、明治5年から始まった淫祀邪教を戒める法令施行にとって、猥褻だとみなす道徳観が一般的になって、表向きには生活の中から排除されていったらしい。だがそれは国家権力がその浸透に邪魔だと弾圧(キリスト教、邪宗門、廃仏稀釈などなど)したもの。

 今日の歪み・捻じれきった日本にとって、この原初・原始・土俗・原点的な神像を祀ることは、日本を振り返るに貴重なご神体のような気もする。多産・豊穣・子孫繁栄・良縁・夫婦円満・幸せの和合・精力増強・恋愛成就・安産のお願いに、皆さんも新宿へお買物・お食事ついでに、ぜひ「花園神社」の末社「威徳稲荷大明神」の鳥居をくぐってみることをお勧めです。

 小生は無学かつ宗教や神には疎いし、性器形神体に特別な興味を持ってもいるわけでもなく、この辺で終わりたい。その範囲内で間違い記述に気付き次第、その都度訂正して行きます。最後にもうひとつ、「花園神社」で是非拝見したかった奉納額がなかったんです。次にソレを記してみる。

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「クールベと海」展、観る前に~ [スケッチ・美術系]

courber_1.jpg 数年前に波の絵の簡易練習(写真下)をしたことがある。その時は「ウィンズロー・ホーマー」(米国画家)に注目したが、「新橋・親柱」確認の際に「パナソニック汐留美術館」4/10~「クールベと海」展の告知を見た。よし、その鑑賞後に「汐留川」を溜池まで遡ってみようと思った。

 ~と、愉しみにしていたが、ネットで山梨美術館「クールベと海」展の大学教授・美術ライターのYouTube「ギャラリートーク」2本を観てしまった。これ、巡回展覧会のデメリット。それで何だか食傷気味になってしまった。

 19世紀前半まで絵画は「海・女性裸体」は畏怖・神秘・宗教的な存在だった。それが科学的知識の普及で神話・神秘性から解放されてリアリスムの流れが生まれた。併せて鉄道インフラ拡充でイギリス南部やフランス・ノルマンディー辺りが海のリゾート化で、パリ裕福層の避暑地になった。ノルマンディー・ドーベルは「パリの21区」「海辺のパリ」と称された。

 ギュスターヴ・クールベは1819年(文政2年。この時、葛飾北斎59歳。歌川広重22歳)、フランスはスイス国境近くの山村で生まれ。18歳で工業専門学校の寄宿舎へ。息が詰まって、町の小さな家に下宿(ヴィクトル・ユーゴー生家)。21歳、パリのソルボンヌ大学法学部入学も、親の反対を押し切って画家を目指し画塾に通って、ルーブル美術館で巨匠らの作品を模写。

namisyusaku_1.jpg 画壇は従来からの擬古典主義がほころび出した頃でジェリコー、ドラクロワ、アングル、ルソー、ミレーなど。クールベはお気に入りのパレットナイフを使って憑かれたように描き続けた。「絶望した男」から「石割り人夫」へ。彼のアトリエに屯うボードレールも描いた。22歳で初めて海を見た。

 1854年、35歳。南仏モンペリエ滞在。1855年、36歳。パリ万博に大作「画家のアトリエ」「オルナンの埋葬」が落選で、博覧会場近くに小屋を建て入場料1フランの、美術史上初の個展を開催。この時に「レアリスム宣言」。1866年、47歳で世界で最も猥褻な「世界の起源」(女性陰部)を描く。レアリストの面目躍如。神話的女体ではなく、肉感的に熟れ崩れ気味の女体「水浴びする女たち」など多数の裸体画を制作。彼の女性裸体画のほとんどは野蛮さと魔力の双方が指摘される)。

 そして1865~1869年頃にノルマンディーのトゥルーヴィル、ドーヴィル、エトリタなどに毎年出掛けて、盛んに「海・波」(生涯に100余点の海を)を描いた。1870年、51歳。パリ・コミューンに参加して逮捕。1873年にスイスに亡命。その4年後に58歳で没。

 マリー・ルィーゼ・カシュニッツ著『ギュスターヴ・クールベ ある画家の生涯』(鈴木芳子訳)も読んだ。だが最も猥褻な問題作『世界の起源』には相当にぼかし暗示した数行(トルコの王子のために描かれた秘密裡にしか見せられない女性の下半身に~)があるのみだった。(2018年9月のニュースサイトで、パリ発で同作モデルが判明!で盛り上がっていた)。

 ちなみにクールベが『世界の起源』を描いたのは1866年。北斎はその50年余まえから春画(艶本)を描き、バレ句を添えるなど〝遊び心〟に満ちていたし、また北斎の「波」も素晴らしい。

 世阿弥が能の神髄を「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と『風姿花伝』に記したが、それは形式芸能のことで、リアリスト宣言のクールベから『世界の起源』を隠しては意味ないように思った。~そう云えば、近所の「花園神社」境内「威徳稲荷」に、木製巨大男根像が「秘する」ように祀られているのを1週間程前に初めて知って、ちょっと衝撃を受けた。次にそれを記す。 

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