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佐藤邸設計・大石七分の横顔(佐藤邸8) [佐藤春夫関連]

kikufuji_1.jpg <佐藤春夫邸>も8回目で、やっと設計者・大石七分に辿り着いた。七分(しちぶん)はいかなる人物か。加藤百合と黒川創の両著より、西村伊作の末弟・七分について記された部分をピックアップしてみた。

 明治24年、濃尾大地震で両親が亡くなった。「伊作・真子・七分」の三兄弟はどうなったか。父の弟・誠之助が米国から帰国し、伊作を手許に引き取り、七分を余平姉・くわの家に預けた。明治36年、叔母くわと共に真子・七分は京都に移って同志社普通学校に入学。この時期に伊作は、米国に帰る宣教師から紀伊・山田で自転車を買い取り、その足で京都に弟たちに逢うべく走った。往復300キロ。明治に凄いサイクリストがいた。

 明治39年、真子がロサンゼルスに留学。翌40年、七分はマサチューセッツ州のハイスクールに留学。明治42年、伊作はヨーロッパ各国を巡って太平洋を渡り東海岸へ。ボストンで七分に逢い、彼が通う郊外の小さな町の高校・校長と面談。伊作はさらに西海岸へ移動して真子と逢う。真子と彼が内緒で買ったオートバイ(家一軒が買える価格)共に船で帰国。明治44年、叔父・大石誠之助が「大逆事件」で処刑。

 大正3年、七分帰国。大正5年、七分は本郷「菊富士ホテル」で、「いそ」(カフェ女給)との生活を開始。同ホテルは大正3年に帝国ホテル、日比谷ホテルに次ぐ3番目のホテルとして開業。地下1階・地上3階で30室。七分は気が合う友人、大杉栄と伊藤野枝のカップルを隣の部屋に呼んだ。しかし、この時に大杉・神近市子の「日陰茶屋事件」が起きた。サザンが「鎌倉物語」で♪~砂にまみれた 夏の日は言葉もいらない 日影茶屋では~ の「日陰茶屋」。これは大杉を巡る妻・愛人・野枝・神近の四角関係のもつれ。同ホテルから遊びに行った神奈川・葉山「日陰茶屋」で、神近市子は言葉も発せず大杉の喉を短刀で切った。絶えず警察の尾行が付いた大杉栄、しかも四角関係のもつれとなれば、マスコミが放っておかぬ。常に伊作の影にいて表に出ぬ七分だが、この時ばかりはマスコミに注目された。二人を同ホテルに呼び寄せた大石七分もまた、「いそ」をピストルで撃つなどの騒動を起こしたりして話題は膨らむばかり。結局、大杉・野枝はホテル代を一文も払わぬまま他の下宿屋へ。その全滞在費を七分が払ったそうな。

 この事件で同ホテルは一躍有名になり、以後は文壇ホテルの呈をなして行く。この辺は近藤富枝著「文壇資料 本郷菊富士ホテル」(写真)に詳しい。西村伊作関連書ではお目にかかれなかった七分と、妻「いそ」の写真が、なんと同書に掲載されていて、初めてその風貌に接することが出来た。兄・西村伊作に似て日本人離れしたクールな美男。同ホテル滞在の文人らのほとんだがだらしない着物姿だが、彼だけが洒落たスーツでピンホールのシャツでビシッと決めている。本文中には粗い写真ながら、お腹が大きくなった妻「いそ」と共に立つ二人の写真も掲載されていた。

 そんな七分だが黒田創著「西村伊作伝」には、こんな記述があった。「七分は絵がうまく、建築の設計も上手にこなすので、伊作はそうした腕前を買っていた。だが、アナキストの大杉栄らと付き合いながらも、金持ちの末弟としての自分を持てあましていたのか、彼は派手な暮らしを好み、金が尽きるて窮まると、気がふれたような言動も現われて、病院に入ったりする」

 大正7年7月~11月、雑誌「民衆の芸術」の編集・発行人となる。

 関東大震災後しばらくして、伊作が麹町に日本家屋を借りた。そこに2年ほど滞在していたフランスから七分が米国経由で帰国し、この麹町の家に腰を落ち着かせた。彼がフランスで同棲の女性を妻にすると言うも、伊作が彼にフランスに戻る金を与えず。七分は諦めて妻・いそ、子・窓九を麹町の家に連れてきて一緒に暮した。

 震災から3年後、大正15年に伊作は阿佐ヶ谷に土地を借りて、七分の設計・監督による一家が揃って住める家を建てた。昭和34年12月、七分は満69歳で長男夫婦、孫たちに最期を看取られて死去。晩年まで家の設計図をよく描き、絵も描いたという。七分でわかったことは、これだけ。(続く)

 山崎様へ:コメント機能うまく使えずく、ここで返信します。素敵なおじい様(の御兄弟を含めて)ですね。佐藤春夫関連の他に、山田新一著『素顔の佐伯雄三』を読んでいましたら、川端画学校の画友として赤いバイクで通ってくる七分氏のことが紹介されていました。コメントありがとうございました。


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