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藤田嗣治4:ユキ同伴で17年振りの帰国 [スケッチ・美術系]

hentuguji1_1.jpg 藤田は「パリ狂乱」の寵児。乱痴気騒ぎに加わるも、人知れずアトリエに戻って絵の精進。そんな真面目さに妻フェルナンドは飽きて、若い日本人画家と不倫。これ幸いに21歳の可愛いバドゥが三人目の妻になる。肌が白いので「ユキ」と命名。若い時分には食えぬ画家らの最初の妻は概ねしっかり者の年上で、売れてくると若い女に走る。これ、画家のパターンらしい。

 1925年、ドゴール勲章とベルギーからレオポルド一世勲章を受章。豪邸住まい。パリでは日本人と見ればタクシー運転手も子供らも「フジタ・フジタ」と発する大人気。これに反発する日本人画家がいないわけもない。

 パリ留学の日本人画家の多くが洋画習得一途で、オリジナリティー発揮に至らない。それでも帰国すれば、パリ留学の箔で画壇本流グループに身を置ける。比して藤田は端からパリで評価を得るのが第一の目標。そこから「面相筆の墨の輪郭と乳白色の肌」の域に到達した。

 藤田人気を妬む輩は「ピエロ、宣伝屋、フランス人への媚び、日本の品位を貶めている」。羨望の裏返しだな。パリ滞在17年を経た1929年(昭和4年)、藤田はユキ同伴で初帰国。大衆はヒーローとして迎えるも、パリで高評価の作品が日本に持ち込まれれば、日本画壇で築いた地位や権威崩壊を危惧した画伯もいただろう。藤田を無視するか、いや陥れるか。いやだねぇ、藤田に嫉妬の渦が蠢いている。

 素人なりに解釈すれば、北斎も多視点で描いていた。広重のディフォルメも素晴らしい。多くの絵師等がシュールレアリスムとは云わずも超現実作品を描いていた。絵が庶民の側にあって、体制へ反抗ゆえに表現もあの手この手と自在だった。しかし明治大正に何故か画壇形成で権威主義。すなわち日本的アカデミズムの弊害。アートに最も大切だろう柔軟さ、自由を失った。これでは新しい絵画は育たない。

 人気と拒否。藤田は複雑な気持ちで翌年早々にパリへ戻った。アメリカ経由のパリ行き。横浜港出航船が「大洋丸」と知って驚いた。私事だが祖父に同船乗組員時期あり。幼児期にサンフランシスコ港の「大洋丸」デッキで写された祖父の船員服写真を見つつ、将来の夢は〝外国航路の船員〟だった。祖父は「大洋丸」で藤田夫妻に逢っていたや。

 カット絵は、藤田版画に面白い二作を見つけたのでその説明図。一つは自転車を漕ぐ両足がこっち側。これでは漕げない。もう一つは「ユキ」を描いた絵で、頬杖の手の形がどうもおかしい。


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