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藤田嗣治5:高田馬場でマドレーヌ夫人急死 [スケッチ・美術系]

fujita4fuji2_1.jpg 藤田夫妻がパリ帰国後、ユキ夫人がシュールレアリスムの詩人デスノスと不倫。1930年、藤田は「カジノ・ド・パリ」の赤毛の踊り子〝雌豹〟ことマドレーヌとアメリカから中南米各国への旅に出た。インカやマヤ遺跡を訪ね、各国で個展を開催しつつ2年余の大旅行を経て、1933年(昭和8)11月に2度目の帰国。

 図書館で当時の朝日新聞を見た。帰国前日の16日に記事あり。内容は概ね次の通り。「世界的な藤田画伯は、パリから南北両アメリカに渡って各地で絵行脚を続けてゐたが、新夫人同伴で明日帰朝する。これは退役陸軍軍医総監・藤田継章翁の八十の賀に列席のため」。そして淀橋区百人町1の30の藤田家の談話を紹介。

「当分は日本に滞在して親孝行がしたいと言っていたから、その通り実行するのでせう。アメリカで描いたスケッチが沢山たまってゐて、東京で落ち着いてまとめたいと言ってゐる。今度連れてくる家内は前のユキと別です。女房運が悪くて困ったが、今度のマドレーヌは好さそうだ、といってゐます」。

 翌日の帰朝記事13行は割愛。田中穣『評伝藤田嗣治』にはマドレーヌについて、とんでもない記述があった。「彼女はアメリカの実業家の妾だが、彼がやくざな人間とわかり、たんまりせしめていた金とダイヤを頂戴して南米に逃げた。モルヒネ中毒で、その手配もした」と大富豪・薩摩治郎八の弁を紹介。

tigukafujita1_1.jpg 藤田夫妻は大久保百人町の父の家ではなく、何故か二番目の姉やすの嫁ぎ先、高田馬場の中村緑野(陸軍軍医総監)宅に寄寓(新聞記載の住所は「戸塚町3の963」。現・早稲田通り「シチズンプラザ」の裏辺りだろう)。藤田はややして、同邸裏庭にメキシコ風建築のアトリエ(2LDKS)を建築。腰を据える積りだったのだろう。

 田中穣著には、こんな記述もあり。東北の若い富豪・平野政吉の談として「アトリエを訪ねると、マドレーヌが素裸で生活。藤田はそうして生きた姿を観察、スケッチしている。やはり天下の藤田は凄い」。だがマドレーヌが一時帰国中に、藤田は日本橋の料亭仲居で純日本風の堀内君代と親しくなって、四谷左門町に愛の巣を構えた。

 パリでこれを知ったマドレーヌが急きょ帰国してひと悶着・ふた悶着。そして事件勃発。なんと1936年(昭和11年)6月、マドレーヌが戸塚の家で急死。翌日の朝日新聞は「戸塚の自宅で就寝中午前三時頃脳血栓を起し急逝した」。近藤史人著では「コカイン中毒で急死」。湯原かな子著では「アルコールと薬物で心身を冒されて極度の精神衰弱を病んでいた。自殺説から他殺説までさまざまな風説が飛び立った」。田中穣著では「庭の芝生に散水中に禁断症状の説、ひとり浴槽につかっていての説あり。警視庁詰めの記者団から、死因を究明せよという抗議のまじった要望があったとも伝わる」。騒いでも陸軍軍医総監宅である。陸軍の闇は深くどうにでも処理できる。

 さぁ、大変。同家で葬儀を終えると、辛い思い出の戸塚アトリエ宅にはもう住めない。1937年に麹町区下六番地に純和風の家を新築した(この地は島崎藤村の隣地で、帰国後も二人の交流が続いていたことをうかがわせる)。ここで共に暮すは、記すまでもなく24歳下の堀内君代夫人だった。

 なお、『天才画家「佐伯祐三」の真贋事件の真実』を著わした落合莞爾のネット公開文によれば〝陸軍の裏側を見た吉薗周蔵〟なる人物が佐伯祐三、薩摩治郎八、甘粕正彦(大杉栄一家殺害)などと絡んでいて、周蔵が残した文章から、こう記していた。「(マドレーヌの死は)モルヒネ中毒が進んで入浴中に死んだ。牧野医師が駆けつけた時は、もう手遅れであった。何しろ変死、しかも外人である。牧野は、布施一の処に行って善処を頼めという。布施さんにどういう力があるかと聞くと〝行って話せばわかるよ。特高の諜報部だよ〟と言われ、周蔵は眼を剥いた」とあった。他に藤田嗣治の裏の顔も記している。マドレーヌの死が高田馬場なら、佐伯祐三アトリエ保存記念館は下落合、大杉栄一家が憲兵・甘粕に連れ去られたのは百人町。陸軍の闇が絡んでいる。


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