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藤田嗣治6:戦争画責任を押付けられ [スケッチ・美術系]

attutou2_1.jpg 1937年(昭和12年)、2月21日より174時間を要して秋田で大壁画を完成。この年、日華事変、翌年10月、従軍画家として漢口攻略戦を取材。「漢口突入の光景」など制作。

 従軍画家がイヤになったか、藤田夫妻は1939年にモンマルトルのアトリエ村に戻って制作没頭するも、第二次大戦勃発。翌年、慌ただしく帰国。喜望峰をまわる船上でパリ陥落の報。危機一髪だった。

 帰国後、オカッパ頭から角刈りに。ノモンハン事件の絵を依頼さる。戦車に銃剣で挑む兵を描いた「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」。公開せぬ秘蔵絵は、日本兵の死体累々の阿鼻叫喚、悲惨さを描いた作品で行方不明。

 1941年5月、画壇の錚々たる顔ぶれが揃う帝国芸術院会員に推挙さる。土門拳が撮影でアトリエに日参。12月、真珠湾攻撃。この時、藤田は従軍画家としてサイゴンにいた。翌年、シンガポールから東南アジア各国へ派遣され、1943年に迫力と臨場感満ちる傑作「アッツ島玉砕」を完成。

 1944年秋、神奈川県小淵沢村藤野(相模湖の奥)に疎開。最後の戦争画「サイパン島同胞臣節を全うす」を描く。矢内みどり著では「1937年のピカソ『ゲルニア』を意識し、戦争の悲惨さを訴えるべく描いた」。画集『藤田嗣治』で尾崎正明は「彼はドラクロアを熱く語っているゆえ、戦争画ではなく歴史画、絵画として後世に残る絵を描こうとしたと考えても不思議がない」。

 1943年終戦。1946年からGHQによる軍事裁判開始。戦争画でも戦争協力者探しが始まった。「暗い雨の一日」事件。日本美術会の書記長が雨の日に藤田宅を訪ね「陸軍関係の戦争画を描いた代表になってくれ」と言ったとか。この辺の真実は謎だが、狭量姑息な画壇を語るエピソード。だがGHQは藤田を戦争協力者に当たらぬと断。藤田の日本への気持ちがプツンと切れた。

 1949年3月、日本と決別すべく渡米。君代夫人も追うように日本を後にし、アメリカから終の国フランスへ。日本脱出のまずはアメリカビザ(査証)発給に力を貸したのは誰か。諸説あるも矢内みどり著では「フランク・エドワード・シャーマンと戦後」なる章で詳細記述あり。カット絵は「アッツ島玉砕」一部だけをラフ模写。(追記:左の顔に手を突きつけられつつ剣を突き出す兵士絵は、ダ・ヴィンチの素描やラファエロの壁画にもあって、藤田がそれを参考にしたらしい。9月19日から開催の「東京国立近代美術館/特集:藤田嗣治」で、原画が展示されて、参考元の画像も紹介されていた)。


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