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岡崎「宿毎に夕化粧して客をまつ~」 [狂歌入東海道]

39okazaki_1.jpg 第三十九作目は「岡崎」(矢はぎのはし)。狂歌は「宿毎に夕化粧して客をまつこころもせはしぢょぢょのぢょん女郎」。「岡崎女郎衆」の〝ぢょぢょ〟リフレイン。今の漫画世代には「ジョジョ立ち」が浸透しているが~。

 当時は山東京伝『敵討岡崎女郎衆』(文化三年刊)有り。♪岡崎女郎衆は好い女郎衆~ なる歌もあったほど〝岡崎女郎衆〟は有名だったらしい。とは云え遊郭があったわけでもないから〝岡崎女郎衆=飯盛女〟のことだろう。

 岡崎宿は〝家康と三河武士〟の町。岡崎城(家康生誕の城)の城下町。防衛のためだろう〝岡崎二十七曲〟なる曲がり続く町並みに旅籠が約百五十軒。この宿毎に夕化粧して客を待つ飯盛女らがいた。

 弥次喜多らは「ここは東海に名だたる一勝地にて、殊に賑しく、両側の茶屋、いぢれも奇麗に見へたり」。そんな茶屋で昼飯に「鮎の煮びたし」を〝うめぇ・うめぇ〟と食った。その奥座敷から居続けの近在客三人が、それぞれの相方の遊女に送りだされて〝空尻馬=駄賃馬〟に乗って帰って行く。その光景が面白かったのだろう~

39okazakiuta2_1.jpg 「三味せんの駒にうち乗帰るなり岡崎ぢょろしゆ買に来ぬれば」。岡崎女郎衆と遊んで、三味線の駒ならぬ駄賃馬(駒)に乗って帰るよ、詠っている。そして宿場外れの松葉川に架かる矢矧(やはぎ)橋へ。

 この絵は、橋の向こうに岡崎城が描かれている。保永堂版も同じ構図だが俯瞰で描かれ、橋を渡っているのが大名行列。この橋は長さ二百八間(約370㍍)で当時の日本一。余りの立派さにシーボルトが精密スケッチを遺しているそうな。

 「欄干は弓のごとくに反橋やこれも矢はぎの川にわたせば」。「矧(はぎ)」は弓偏に引でアーチ橋。今、この橋はなく、岡崎城は明治維新に取り壊され、戦後に三層五重の天守閣が復元とか。

 田辺聖子は岡崎宿の記述で面白いことを記している。「大阪は太閤はん贔屓で、徳川嫌いである」。そして小生は思う。江戸っ子は「徳川好きで、朝廷や天皇に馴染なく、薩長嫌いだ」と。江戸っ子は突然の官軍の御旗と〝宮さん・宮さん~〟に眼を剥いたに違いない。

 ★sabotenさん、コメントありがとうございます。このシリーズは数年前のもので、小生は目下別テーマで遊んでいますので、当時記したことへの質問をされても少々面倒です。また専門家でもなく「隠居遊び」ですから、間違いも多々をご了承の上、ご自由に参考にして下さい。このシリーズ冒頭に記した通り、この「狂歌入り」は古本市で3千円で入手のボロボロ、明治頃の刷りだろうと思います。価値はありませんが56枚揃いですから、勉強なさる方がいらっしゃるのあれば、手元にあったら便利でしょう。差し上げますよ。★sabotenさん、メールアドレスをコメント欄にご記入下さい。確認次第消去しますからどうぞ~。


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松尾 守也

(翻刻) : 宿毎に 夕化粧して 客をまつ こころもせはし ぢょぢょのぢょん女郎
(原文) : 宿毎に 夕化粧して 客をまつ こころもせハし ぢょぢょのぢょん女郎  千歳 松庵
(読み) : 宿毎に 夕化粧して 客を待つ 心もせはし ぢょぢょのぢょん女郎  千歳 松庵

追って、「宿毎に客を待つ」のは飯盛女だと思われますが、岡崎では「女郎」だったのですね。
 恋川笑三「旅枕五十三次」には岡崎は、「昔より遊女の名高く、ここも”おじゃれ”のよそおひ一風ありて心にくし。」とある由です。岡崎女郎衆はレベルの高い女郎で有名でだったようです。この”おじゃれ”を「ぢょぢょのぢょん”と表現したのですかね?
 それとも「女郎(じょろう)」の頭をとって「じょじょ」の「じょ」んとしたのかもしれません。
 また、江戸時代の三味線稽古唄として『岡崎女郎衆』があり、その内容は。「岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆はよい女郎衆」とリフレインする唄のようですが、三味線の音を「”じょ””じょ”の”じょ”ん」と表現
したのか?(普通は”チン・トン・シャン”と表現するのでしょうが)。
by 松尾 守也 (2017-02-04 15:30) 

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