SSブログ

劉生6:京都時代の蒐集耽溺 [スケッチ・美術系]

ryuseienikki1_1.jpg 劉生32歳、関東大震災から8日後の9月9日の日記。~ねころんで「女性」誌の荷風『耳無艸(みみなしぐさ)』などみる。この人も古美術を愛するらし。今の境地にてこの文をみて、かわける時水に会うような心地幾分したり。

 荷風へ言及で、これは確認したい。『耳無艸』は後に改題『隠居のこゞと』。大正12年4月2日『断腸亭日乗』に、~夜随筆「耳無艸」を草す、と有り。『荷風全集』15巻「麻布襍記」に『隠居のこゞと』収録。長文ゆえ雑誌「女性」に連載と推測する。

 内容は、昨今(大正当初)の編集者らの行儀の悪さ(無知)の指摘に端を発し、衣食住全般の堕落を嘆き、良き明治の森鴎外や江戸文化(浮世絵など)を懐かしく述懐。最後は大震災に遭ったが、被害の少なかった山の手に暮らしていて助かったと結んでいた。

 雑誌「女性」や「苦楽」はプラトン社発行で、同社調べも面白そう。劉生の絵に挿入される装飾(描き文字、額縁風模様など)は、同誌の山六郎、山名文夫のタイポグラフィー、イラストにどことなく似ている。

 また鵠沼脱出前、9月20日の日記に「大杉栄が甘粕という大尉に殺された由、大杉は好きではないが殺されるのはよくないと思ってへんに淋しい気がした」。誰が言ったかは忘れたが〝劉生の日記は、荷風の日記と同じくらいに面白い〟なる記述があった。

masuoeniki2_1.jpg 話を戻す。劉生が京都生活を始めたのが大正12年10月。月謝25円の長唄師匠も京都に落ち着いた。当時の京都は古美術の宝庫。まず唐画「雁」を購入し、自らを「陶雅堂」。鵠沼時代に芽生えた唐画、日本の初期肉筆画への関心がさらに深まった。

 「又兵衛」を5~800円で購入、古茶道具を70円で購入。日記にはあれ・これ欲しいと金策ばかりの記述が続く。大正13年正月の日記に「今年もよき年であってくれるよう、よきものの手に入るよう」と記す。骨董商の誘いで茶屋遊び、深酒の遊蕩も始まった。

 借金も返せないのに、欲しい作があれば買ってしまう。自ら「江賀海鯛(絵が買いたい)先生」と称し、「美の鑑賞は創造と同価値」を広言。そして大正14年7月9日に、大正9年元旦から続けられていた絵入り日記が突然終わる。その原因が様々に揶揄されるも、松本清張『岸田劉生晩景』が、この耽溺時代の劉生像を描こうとしているので、この先は同書を読むことにする。

 挿絵は、劉生〝絵入り〟日記の小サイズ超ラフ絵のひとつ。日記内容の雰囲気が伝わって愉しい。またまた余談だが池田満寿夫『尻尾のある天使』(文春文庫)を読めば、画家による同じような感じの超ラフ絵掲載。どこか似ていて面白いも、池田満寿夫の方がアートしている。岸田劉生を例えば永井荷風、大杉栄、池田満寿夫らと比せば、その像もより明確になって来よう。弊ブログ絵もこんな感じのラフ絵が描けたらいいなぁです。(続く)

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。