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劉生7:松本清張『岸田劉生晩景』 [スケッチ・美術系]

ryuseiend1_1.jpg 松本清張『岸田隆盛晩景』は、岸田麗子『父岸田劉生』が記す「父の研究は鵠沼時代までの画業が多く、京都鎌倉時代の研究は少ない」の指摘から書き出すノンフィクション。まず同時期の研究が少ないのは、見るべき作品がない点と、劉生日記が途切れていることだろうと日記空白時期の劉生像を探りたいと記す。

 京都移住は大正12年10月。新居が落ち着くと、劉生は古美術蒐集にのめり込む。彼の東洋画観を、彼の随筆集から読んでみる。

 ~東洋の美術を見た目で西洋美術を見ると「作られしもの」の感がする。東洋画の美的要素は意思的ではなく自然的・無意識的な深さがある。渋さ、苦さもある。比して西洋画は人為的で騒々しく甘味もある。東洋画には「間抜けさ=深い稚拙感=現実味の拒否・欠如=写実の欠如」が「仙・気韻・真髄」の感を生み出している。

 かくして劉生は東洋画、肉筆浮世絵のいい作があれば、金がなくても「江賀海鯛(絵が買いたい)」先生で、借金も返せない。絵を売りたいが京都にファンもパトロンも少ない。

 大正14年3月、我儘が嫌われて春陽会脱退。旧友の木村荘八、中川一政らは同会に留まった。淋しい。友人の質も変わって酒席通いが始まった。茶屋遊びのお相手は祇園の花菊。当時の日記「昨夜また茶屋へいってしまった。(中略)別に女と深入りする訳ではなく酒をのんでさわぐだけだが自分にはどうもやはり女を弄んだような感じがして罪の感がのこり~」

 だが元クリスチャンの劉生は隠遁者・荷風のように、アナキスト・大杉栄のように、エロス追及の池田満寿夫のように、ピカソのようには性を奔放に愉しめない。いや、手も握れないのだ。デカダンス、退廃美の理解は頭だけ。

 木村荘八は「内心の謎=追及心」が失せて制作面に情熱を失ったと記し、清張は武者小路が記す「家庭の暗い事情」や、麗子が記す「母は女盛りを美しく飾って、取り巻きの若い連中と京の名所旧跡巡りで楽しんでいた」から夫婦間に〝秘められた疑惑〟があったのではと彼らしい推測もする。

 大正15年、鎌倉に移住も酒毒消えず。今度は新橋料亭「幸楽」に流連(いつづけ)から、三流処の茶屋に落ちるも、どこも迷惑顔だ。

 昭和3年秋、満鉄招待で大連へ。画会や肖像画で金を得てフランスへと思うもままならず。大連からの帰路に山口県徳山へ。ここで体調を崩して入院。昭和4年12月死亡。39歳だった。

 清張は最終3頁でこうまとめていた。~ゴッホらの〝模倣の天才〟から写実神秘派へ。そして肉筆浮世絵、唐画の先人画家らの〝形式の模倣の旅〟を続けた。かれの〝リアリズムの手〟が新たな精神の獲得の邪魔をした。エコール・ド・パリが画壇の主流で、それら時代の波と闘ったことで批評家、コレクターから背を向けられた。彼はその先の自己の芸術が発見できぬ煩悩で耽溺生活に逃げ込んだ未完成の画家だった。

 清張、通り一遍の結論だな。清張もまた性、デカダンスには臆病だった。清張に出来たことは39歳で亡くなった劉生を反面教師に、44歳で手にした文壇の座を維持すべく、ただひたすらに原稿を書き続けただけのような気がしないでもない。

 小生は、劉生・晩年の写実から脱した作品群から推測すれば、さらに絶望を深め(ボス的、家長的挫折)、かつ生き永らえば、抜群の写実力を有すも次々に作風展開のピカソのようになれたのではないかという気もする。ピカソのキュビスム開眼は36歳。劉生の死は、美を追求するには余りに早過ぎた。(未消化だが終わる)

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