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矢来町①小浜藩邸と杉田玄白 [牛込シリーズ]

yaraiobama_1.jpg 「矢来町」と云えば、あたしの場合は「古今亭志ん朝」だ。志ん朝が矢来町のどの辺に住んでいたかは知らないが、自分が老いて病院や養老院暮らしになった時の愉しみに、随分も前から『志ん朝CD全集』を備えている。某日のウォーキングで早稲田通り「牛込天神」から、矢来の文字に誘われて「矢来公園」へ出た。

 そこに「小浜藩邸跡」史跡柱があって、その横に「杉田玄白生誕地」とも刻まれていた。杉田玄白については、2年間のブログ「司馬江漢シリーズ」で『蘭学事始』(83歳の玄白著)を読み、似顔絵付きでアップ済。菊池寛の同題を「青空文庫」で読み、不満足ゆえ中公クラシックス刊『蘭学事始ほか』を読んだが、この矢来公園=小浜藩邸生まれとは知らなかった。

 「小浜藩邸跡」の史跡柱下の石板に、こう刻まれていた。~若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから矢来町の名が付けられました。もと屋敷内には、小堀遠州作による庭園があり、蘭学者の杉田玄白先生もこの屋敷に産まれました。

m_kaitaisinsyo_1.jpggenpaku5.jpg 改めて杉田玄白の転居歴を調べてみた。享保18年(1732)に同屋敷で生まれ、父が小浜詰になって7~12歳が小浜藩暮し。再び父が江戸勤めで矢来屋敷へ。ここで漢学と、芝の西玄哲家へ通って医学修業。

 20歳で小浜藩医として上屋敷(昌平橋内)へ。5年後に日本橋で開業。父の死で家督・侍医を継いだ37歳で新大橋の中屋敷(浜町)へ。43歳で中屋敷を出て浜町で開業。この頃にオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を藩に買ってもらって、蘭学仲間と翻訳した『解体新書』を刊。確か『蘭学事始』に、翻訳の苦労が詳細に書かれていたと記憶する。同書の「解体図」模写は平賀源内が江戸に連れて来た「秋田蘭画」を学んだ小野田直武。田中優子(現・法政大総長)は『江戸の恋』で源内と直武はゲイ仲だった~と記していた。

 さて、例の通り芳賀善次郎著『新宿の散歩道』の「矢来屋敷」説明。~寛永16年(1639)の江戸城本丸の火災で家光がこの下屋敷に避難した。まわりに竹矢来をつくり昼夜警固。酒井忠勝は以後、垣や塀を設けず竹矢来にした。また矢来町71番地あたり一帯は、明治末期までひょうたん形の深くよどんだ池があり、これを「日下が池」とか「日足が池」と書いて「ひたるが池」と読ませていた。長さ約108m、幅36m、面積800坪。(中略)こにに長さ12.6mの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられた。

 矢来公園の周りを歩くと、真新しい史跡説明板「鏑木清方旧居跡」があった。かくして次第に、この小さな「矢来公園」の明治、江戸へ惹かれて行った。

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