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矢来町②鏑木清方旧居跡 [牛込シリーズ]

yaraikoen_1.jpg 「矢来公園」の「小浜藩邸跡・杉田玄白生誕地」史跡柱を見た後に公園周りを歩くと、令和2年設置の真新しい「鏑木清方旧居跡」史跡説明板あり。こう記されていた。

 ~日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯(説明板の右奥)である。

 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野年方へ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃貸し、のちに購入して、懇意の建築家・吉田五十八へ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾亭」と称した。

 代表作となる「築地明石町」(昭和2年)のほか「三遊亭圓朝像」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。ない、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。

kiyokatahon1_1.jpg 補足すると、鏑木清方は「條野採菊」の三男。父は幕末~明治の作家・ジャーナリストで、明治5年に仲間と「東京日々新聞」を創刊。同新聞社には福地櫻痴、岸田吟香、岡本綺堂などが入社。また「やまと新聞」も創刊し、圓朝の人情噺速記に月岡芳年の挿絵などで人気。明治20年に同社近く(木挽町)に歌舞伎座竣工。そんな明治の下町暮らし、文人や芸人との交流、思い出が綴られたのが昭和36年刊『こしかたの記』、昭和42年刊『続こしかたの記』。清方の挿絵デビューも「やまと新聞」挿絵だった。

 『続こしかたの記』には「夜蕾亭雑記」と題した五編が収録。その書き出しは「矢来町三丁目は、もと酒井邸の構内で、住居のあたりも字を山里と呼んで、隣家の庭には幾抱へもある銀杏の老樹が聳え立つた。久宗元台湾銀行理事から譲り受けたこの家も明治中期の建築と見えて、畳を敷けば二十四畳になる洋間の応接間は先ず学者か医者を連想する~」

 「道はやがて小高く。その右側北下りの崖上にたつのがわが家である。~二階からは護国寺のうしろに筑波山が見え、西の高い小窓からは富士山を眺めることもできた。その筑波の見える画室で〝築地明石町〟を描いた」。赤城神社については「その時分は江戸初期の特色ある黒塗の柱、極彩色にした花鳥の彫物のある欄間などに、参詣の都度懐古に耽ったものである」。

 同著には、他に当時の神楽坂の町や店、文人らとの交流、関東大震災の体験などが記されている。また江戸の暮しが漂う下町(京橋、湯島)暮しの思い出や、父・條野採菊に興味を持ったが、次は「小浜藩矢来屋敷」のお勉強に移る。

 メモ:10日の東京都コロナ感染者、最多の243名。新宿区64名。新宿の定額給付金支給は14%で23区最低。九州豪雨の死者63名・不明16名。住宅被害1.3万棟。

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