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矢来町③小浜藩江戸屋敷の変遷 [牛込シリーズ]

sakaisimoyasiki.jpg 史跡碑には「寛永5年(1628)、徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした~と記されているが、嘉永4年(1851)の切絵図(上)の南東部は「柳沢摂津守」で、安政4年〈1857)の幕末絵図では同地が「御上屋敷」になっていて、ちょっと混乱する。

 新宿歴史博物館刊の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』でお勉強。酒井忠勝が同地拝領したのは川越藩主時代。その後で小浜藩主になった。酒井家上屋敷は寛永12年(1635)の父・酒井忠利と子・忠勝時代は二の丸内。忠勝の子・忠朝は和田倉門内。安政4年に下屋敷隣接の「柳沢民部少輔光昭の上屋敷(5,427坪)」(靑枠)を拝領し、矢来屋敷は小浜藩の下屋敷であり上屋敷になったらしい。

yaraicyokuiki.jpg また中屋敷は、元和8年(1622)に父・忠利が浜町に約1万坪を拝領して、通称「海手屋敷」。安政5年には下屋敷近くの牛込揚場裏へ。小浜藩の上・中・下屋敷が一カ所にまとまったらしい。長い歴史の中で変化し続けた酒井家屋敷だが、変わらずは藩主一族の住居「中ノ丸・奥方」(家光の御成りは140回余もあったらしい)、北側中央の「ひたるが池」、代々小浜藩主の菩提寺「長安寺」。そして数や位置は変われど家臣らの家中屋敷、長屋、矢場、馬場など。

 4万3,500坪は、現「矢来町」のほぼ全域。小生が住む集合住宅地7Fから眼下に望む「尾張藩下屋敷(戸山荘)」の1/4ほどか。同下屋敷も矢来屋敷の左斜め上「済松寺」も家光がらみ。近くに松井須磨子墓の「多門院」があり、左角横には「儒学者・林大学頭屋敷(今は墓地のみ)」(共に緑枠)、右角上に「赤城神社」。右下一帯は家康以前は「牛込城」一帯だった。

 矢来屋敷は明治維新時にほとんどが明治政府に接収され、酒井伯爵家は矢来町1~11番地の約5万坪を有し、2万坪に本邸を建てて住んでいたが、戦後は本邸跡に日本興業銀行(今は総合されて)~みずほ銀行社宅「矢来ハイツ」になっている。庭園の茶室は、現在は杉並区柏の宮公園に「林立亭」として移築されているらしい。

 残りの3万坪(約850戸)は賃貸していたが、これも大正時代に売却。この際に住民と価格面で相当にもめたそうな(ネット検索すると、そんなことまでヒットする)写真下は明治40年の矢来町地図。

 次に名園の誉れある酒井家庭園を紹介した明治43年の『名園五十種』を読んでみる。

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