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矢来町⑤酒井忠勝とは~ [牛込シリーズ]

rekisisakaihon_1.jpg 新宿歴史博物館発行『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』、『矢来町遺跡Ⅲ』の「小浜藩酒井家について」、そして赤木駿介の小説『春潮記』を参考にする。

 酒井家は徳川宗家の始祖から出た松平氏の別流で一、二を争う家柄。徳川将軍家に仕えた譜代の家系。左衛門尉酒井と雅楽頭(うたのかみ)酒井の二流に別れ、雅楽頭酒井はさらに忠勝の父・忠利のときに分家したので三家になった。左衛門尉酒井から家康四天王の筆頭、酒井左衛門尉忠次(家康の主な戦いに全参戦。徳川家・家老)が出ている。雅楽頭酒井からは重忠・忠利が出て、重忠の子・忠世(家康に仕えた後に秀忠の筆頭年寄。嫡孫の忠清が家督を継いだ)が活躍。一方の備後守忠利の子が酒井忠勝(幼名・与七郎)。忠勝の本家筋が15歳上の従兄弟・雅楽頭忠世。(小説家の説明はわかり易い)

 酒井忠勝は23歳で讃岐守になり、28歳で下総国3千石へ。妻は見弥。三河国長沢城主松平親能の娘。五人の女児を産んだ後に六人目に待望の男児・隼人を産んだ。元和6年、将軍秀忠の推挙で世子17歳の竹千代の補佐役見習いで西の丸に勤仕。元和9年、将軍秀忠が竹千代(20歳)に将軍職を竹千代=家光に譲り、忠勝は正式に家光補佐役になった。当時の老中は酒井忠世、酒井忠勝、内藤忠重、稲葉正勝。秀忠付きから土井利勝、永井尚政、青山幸成が年寄衆に加わった。

 寛永11年、家光が30万7千人の大行列で上洛中に、忠勝に若狭・小浜藩転封の命。越前敦賀と関東一部と入洛の便に近江高島郡も合せて11万3,500石へ。

 慶安4年、家光が48歳の生涯を終え、世子・竹千代(11歳)が4代将軍家綱へ。その宣下直前に嫌な事件が幾つか続いた。その一つが「由比正雪の乱」。江戸で丸岡忠弥が捕まり、駿府で正雪らが捕まって正雪は自刃。もう一つが刈谷城主・松平能登守定政の老中批判。さらに浪人首謀の「承応事件」。江戸中に増えた困窮浪人問題が一気に噴出した。

 忠勝はこれら事件に対処し、さらに家光没3日後に大奥の女房3,700余人に暇を出す大奥人員整理を断行後に、甥の忠清29歳はじめ青年老中らに座を譲って大老職を返上。小浜藩主も忠直に譲って万治3年(1660)に剃髪して「空印」と号し、寛文2年(1662・76歳)で矢来屋敷で没した。

 なお酒井家は14代忠禄が、明治の廃藩置県で小浜藩知事。16代当主・酒井忠道が明治17年に伯爵(大正9年に没)。酒井伯爵邸の名園とは酒井忠道時代の庭なのだろう。以上で矢来町お勉強を終わる。梅雨が明けて~、今後の矢来町散歩が楽しみです。

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