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①山鹿素行と祖心尼の関係 [牛込シリーズ]

yamagasokouzou_1.jpg 東西線「早稲田」駅近く「宗参寺」に「牛込氏」の墓あり。そこから「牛込氏」をお勉強したが、同寺に「山鹿素行」の墓もあって驚いた。その驚きは、昨年の金乗院(目白不動)墓地で「丸橋忠弥」の墓を見たのに似ていた

 かかぁが「おまいさんは〝丸橋忠也〟も知らないのかえ」と呆れつつ、由比正雪の噺をしてくれた。今回も「山鹿素行」の話を持ち出せば、かかぁは三波春夫『元禄名槍譜俵星玄蕃』の長科白を唸り出しかねない。~時は元禄15年12月14日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流の陣太鼓。しかも一打ち二打ち三流れ。おもわずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え「おぉ、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ~」

 小生、かかぁが唄い出す前に慌てて「山鹿素行」のお勉強に相成候。参考書は人物叢書の掘勇雄著『山鹿素行』。『日本の名著 山鹿素行』(中央公論)。忠臣蔵の山鹿素行の墓が、なぜ早稲田に~と思いつつ読み出した。

 時は元和8年(1622)8月、素行は会津若松で生誕。父・貞以(さだもち)の主君は関一政(秀吉配下の蒲生氏郷与力大名。戦功で白河城5万石)。父は関家の亀山~白河~川中島~多良(岐阜)への転封に従いつつ、その途中で祖父を失い父が報録200石を継ぐ。さらに亀山~黒坂(鳥取)へ。ここで事情不明も「同輩を撲殺して」会津へ奔り、会津時代の馴染・町野幸乃を頼った。

yamagasokou_1.jpg 町野幸乃は貞以を自分と同じく蒲生秀行に仕えしめんとするも、幸乃も秀行もその途中で死去し、蒲生家仕官ならず。加えて蒲生家は嫡子なく領地没収。町野幸乃の嫡男・幸和と貞以は江戸(神田)で浪人生活に入った。素行が生まれたのは、会津の町野家に奇遇の時で、彼は6歳まで町野家屋敷内で育ったが、ここで驚いたのは町野幸和の妻が後の「祖心尼」だったこと。

 最近の弊ブログお馴染みの「祖心尼」。牛込天神町「斎松寺」の祖心尼~。春日局亡き後の大奥の長・祖心尼~。彼女の娘が産んだ「お振」が家光側室になり「千代姫」を産み、千代姫が尾張藩2代徳川光友に嫁いだ。祖心尼は家光からの拝領の寺領地一部4万6千坪を光友に譲って尾張藩下屋敷=戸山荘が誕生。さらには斎松寺一画に由比正雪が住んでいたの説もあり~の祖心尼です。

 祖心尼35歳の時に生まれた素行は、6歳まで同屋敷で育ち、両家の江戸浪人時代も一緒に暮らしたか。祖心尼が素行坊やに勉強を熱心に教えて才能を開花させたと思われる。6歳~8歳で「四書・五経・七書・詩文」を読み覚え、9歳で林羅山に入門。この入門も、祖心尼が遠縁の春日局の子・秋葉丹後守勝正から手をまわして実現させたとか。

 町田幸和は浪人5年後の寛永9年(1632)に5千石で家光に仕え、左近殿新組与力廿騎で仕官。貞以は剃髪して町医者へ。貞以の長男(正妻の子で素行より18歳上)が与力になった。素行は神童の誉れ日々高く、11歳で2百石で抱えたい藩主も現れるも、父はより有利な条件を求めて応じず。素行、15歳で「四書」を講釈。儒学者として歩み出した。21歳で修学終了し、一人立ちの学者として社会に乗り出した。(続く)写真は国会図書館デジタルコレクション『配所残筆』(大正2年刊)の口絵より。

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