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③山鹿素行と赤穂藩と墓所 [牛込シリーズ]

yamagahaka_1.jpg 素行35歳からの10年間が成熟期。寛文2年(1662)41歳頃に「朱子学から古学へ転向。(古学=『論語・孟子』など朱子学や陽明学の解釈を介さす、直接原文を読んで真意を求めた学。これを素行は「聖学」、伊藤仁斎は「古義学」、萩生徂徠は「古文辞学」) 寛文5年(1665)44歳で古学の主張を発表。

 同年に父81歳没。宗参寺に葬る(宗参寺は鳳林寺と同じ駒込吉祥寺末寺。父埋葬をもって宗参寺が山鹿家の菩提寺になったと思っていいのだろう)。翌年、妾「駒木根不知」が万助を産むも難産で死去。宗参寺に葬る。

 寛文6年、古学の主張を公にした『聖教要録』が幕府の思想統制に反する(朱子学尊奉者・保科正之の告訴)として、赤穂浅野家へお預け(配流)。『配所残筆』には、家に遺書を残し、死罪の場合を覚悟して懐に一通を忍ばせて参上したと述懐している。

 10月9日未明に江戸を立ち、24日に赤穂着。11月には妻子も合流。「讁居(たっきょ)」とは云え、不自由ない暮しで素行は学問専念。「日本中朝主義」(儒教の中国崇拝思想を自己批判し、日本は中国と違って尊王思想が貫かれ、より優れている)思想を固める。

 寛文9年に保科正之、翌年に北条氏長が亡くなり、延宝3年に江戸より赦免の報。満8年3ヶ月で江戸に戻った。なお著者は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに、素行の教育・思想の影響があったか、また討ち入りの際の山鹿流陣太鼓について、それはなしだろうと記している。

 江戸に戻った54歳~64歳が素行晩年期。浅草田原町(4百坪)に暮して10年。晩年も「学問老いて益々盛ん」。借家にあった「積徳堂」をそのまま堂号にして、諸侯との交際再び活発化。素行の『年譜』は日記体裁で、死去4ヶ月前まで綴られており、再晩年は夢を多く記していた。64歳の3月には「葵の紋の小袖を着る」。最後まで幕府中枢に上がる夢を抱いていたらしい。

 貞享2月(1685)64歳、黄疸重態で没。写真は牛込・宗参寺の「山鹿素行先生墓所」。中央の「月海院殿瑚光浄珊居士墓」が素行墓。左は母・妙智、その左が父・貞以の墓。この3基の向い側に妻・浄智、次女・鶴、嫡子・高基ほかの2墓。山鹿家の他の墓は近年に小平霊園に移されたとか。

 山鹿素行学の信奉者としては吉田松陰、乃木大将が有名。乃木希典は赤坂の自宅から学習院への通学途中に宗参寺墓所をお詣りしていたとか。乃木死後に遺族が乃木「最愛の梅」を墓所に移植。その碑もあり。なお「素行学」お勉強は『山鹿素行全集』(全15巻)、尊王思想歴史書『中朝事実』などをどうぞ。

 また山鹿家子孫は平戸松浦家と弘前津軽家に仕えた二派に分かれた。「積徳堂・山鹿文庫」は平戸(平戸大橋近く)に移築され、平戸藩の学問兵学の道場になった。山鹿文庫はまた立川市役所隣接「国文学研究資料館」(ロバート・キャンベル館長)に寄贈されている。余談だがキャンベル氏は『コロナ後の世界を生きる』で式亭三馬の享和3年(1803)の麻疹を描いた『麻疹戯言』はじめ江戸を襲った感染症の記録を紹介している。

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