SSブログ

光子④ 光子のとハインリッヒのプロフィール [牛込シリーズ]

kanbansyasin_1.jpg 光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父は明治20年になっても「ちょん髷頭」の旧弊な男。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた。光子は当時の女児教育=奉公で躾修業。美人ゆえ芝の和風一流料亭「紅葉屋」(鹿鳴館と双璧の社交場)へ。茶の湯、生け花、和歌、三弦、琴、絵画など各師匠より習いつつの仕事。実家に戻ったのが16歳で、以後は家事手伝い。

 NHK特集「ミツコ 二つの世紀末」5話の「第1回/麻布・青山・ウィーン・ボヘミア」で吉永小百合が、光子の曾孫ソフィアを青山通りで迎え「光子の家系はこの辺一帯を持っていた大地主で~」。ウムム、それは家康の家臣・郡上藩青山家だろう。

 光子の父・青山喜八は町人。リヒャルト自伝によれば喜八は、幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。身もち悪く放蕩ゆえに、妹婿に本家を継がせ、彼は分家されたとか。

 時代は「たね油から石油」へ移る時代。油に見切りをつけて骨董屋2店を経営。上記テレビ番組では吉永小百合がソフィを三軒茶屋「正蓮寺」の「青山喜八之墓」へ案内。喜八の妻つねは、支店の妾を統括する御寮さん(次々と女に手をつけた勝海舟の年上女房・お民さんみたい)。子らは「母はそんな祖母の気質を継いでいる~」。

 次は夫ハインリッヒ。ウィーンで安政6年(1859)生まれ。光子より15歳年上。父は外交官伯爵、母も貴族マリー(旧姓カレルギ―)36歳で他界。曾祖父=初代クーデンホーク伯爵夫人は稀代の名媛で、その美しさ知性をゲーテも讃えたとか。

 ハインリッヒは12歳からウィーンのイエズス会神学校寄宿舎へ。卒業後にウィーンで青年少尉として服役。20歳の時に、フランス人音楽留学生マリーと恋愛~妊娠。彼は結婚を望むも父は猛反対。マリーが平民のため、息子が学業半ばのため、妻と同じフランス人で名も同じゆえ~と反対理由は諸説あり。

 父の城に呼び戻されて外出禁止。そんな某日、同城の花壇にマリーと女友達二人のピストル自殺遺体あり。彼はさらに祖父の山中別荘に送られ、ロシアとルーマニアの国境近くの大学で法律の勉強。(彼が亡くなる直前にマリーの子が3歳で夭死を知る)。

tukijikyokai.jpg 大学卒業後は、故郷を逃げるように外交官としてアテネ、リオデジャネイロ、コンスタンチノーブル、ブエノスアイレスへ。トルコ語、アラビア語、ヘブライ語などを習得(計18ヶ国習得の語学天才)。仏教的厭世思想=ショーペンハウエル著作を耽読する彼は、明治25年2月末に来日し、3月16日に光子と結婚。その早業に狩猟的好色と思われがちだが、次男自伝に「父はジェントルマンで、家政婦が入室でも立ち上がって迎える人」とか。光子に夢中の程が想像できる。

 「内縁・私生児」の戸籍を、正く「正式結婚・我が子」に改めると同時に、光子をカトリックに改宗させるべく築地教会内聖ヨセフ学校へ通わせた。英語とドイツ語の勉強から、同教会で洗礼から挙式。木村著には当時を知る老人の言「純白のウェディングドレスの光子さんが、空色の文官正装の六尺豊かな伯爵の腕にぶら下がるようにして聖堂から出て来た光景を覚えている」を紹介。

 写真上は史跡看板の「渡欧前の光子」。光子関連書には挙式写真が不可欠だが小生は転載不可。そこで4年前の「築地居留地・自転車散歩」の際に撮った「築地教会」です。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。