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光子⑤ ハインリッヒ駐在時の日本とウィーン [牛込シリーズ]

mitsouko2_1.jpg 松本清張の「当時の外人のほとんどがそうだったように日本の骨董収集に凝っていて~」からフェノロサを思い出した。彼の来日が明治11年(1878)。その古美術蒐集・研究に尽力したのが岡倉覚三(天心。似顔絵)。

 当時の日本は廃仏稀釈で日本美術は瀕死状態。世は文明開化で西洋かぶれ。お雇い外国人の月給が数百円に比し、狩野芳崖など有名日本画家らは1円にも困る生活。古美術・浮世絵は古道具屋に満ち、外国人らは古美術蒐集に熱中。だがフェノロサの『美術真説』によって逆に洋画排斥、日本美術の保護育成が盛り上がった。それを反映して東京美術学校の初代校長は岡倉天心、副校長がフェノロサ。

 林忠正が二束三文で古道具屋で仕入れた浮世絵を、パリで売りまくって巨万の富を得た。ゴッホが最初に買った浮世絵は3フラン。瞬く間にパリ市民の1ヶ月生活費相当300フランに高騰の「ジャポニスムブーム」加熱。

 一方ウィーンでは明治6年に「第5回万博大博覧会」開催。この時の日本出品作は工芸品中心。高評価で完売するもブームには至らず。特筆すべきは随行員70名のうち20名が残って、欧州の諸技術を学んで帰国。津田仙の花粉交配技術が日本の果実栽培に革命をもたらせたとか。またドイツを追われてウィーン大学教授になったシュタイン̪氏に、伊藤博文はじめ多くの日本人が学んで明治憲法制定の基礎になった。明治天皇お気に入りの侍従も1年間はシュタイン門下生。

 ウィーンのジャポニスムは、上記から工芸品中心だったが、明治30年(1897)頃の世紀末ウィーン(文化爛熟期)を迎えてアカデミックな芸術団体を嫌った人々が「ウィーン分離派」を形成。35歳のグスタフ・クリムトが同派会長に就き、明治33年(1900)に分離派会館で「ジャポニスム展」を開催。クリムトは博物館の日本工芸品などの影響から金箔多用に平面的官能的絵画を発表し出した。

tensinmaru.jpg ハインリッヒの日本滞在(明治25年~29年)は、まさに本国でジャポニスムの時。松本清張『暗い血の旋舞』は、ウィーンのヒーツィング墓地で、光子の墓探しから始まるが、光子の墓を探し出すまえに、分離派のオットー・ワグナー、グスタフ・クリムトの墓を見つけている。

 ちなみにクリムトの弟子、エゴン・シーレはウィーン美術学校入学だが、ヒットラーは同校入試に2度失敗。シーレと妻エディットが「スペイン風邪」で死去の数年後に、ヒットラーは独裁者への道を歩み出していた。

 松本清張は「ゲラン香水〝ミツコ〟は、グーデンホーク光子とは無関係だろう。1909年にパリ刊のクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』のヒロイン名Mitsoukoからで、当時の欧州では日本女性=光子が浸透していた」と説明していた。

 写真上は我家のトイレ窓棚に長年放置の「Mitsouko」。写真下は岡倉天心の似顔絵を、今朝覚えたばかりの「楕円トリミング」でアップ。

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