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光子⑧ 日露戦争 [牛込シリーズ]

kikutikutie_1.jpg 明治35年(1902)の日英同盟が日露開戦の弾みになった。英国は領土拡張から輸出拡大期になって、東シナ海の自由運航・自由貿易が最重要でロシア南下に懸念。同時に英国は日本が軍需産業の最大顧客。日清戦争(14年前)の6万トンが、英国軍艦購入13.8万トンで計25万トン。戦艦6隻、重巡6隻、軽巡3隻の艦艇全94隻。日清戦争時の海軍力32位から一気に第5位(ロシアはその5倍)。陸軍も7個師団から13個師団(ロシアは75個師団)。

 桁違いの大国ロシアを敵国に定め、国家予算4割強の軍事費。国民は増税に泣き耐えた。海軍司令部が陸軍参謀本部と対等に昇格。連合艦隊司令長官に東郷平八郎。御前会議5回を経て明治37年(1904)に開戦決定。

 このとき「万朝報」の開戦同調に異を唱えて境利彦・幸徳秋水が退社声明。内村鑑三も論壇から退く宣言。それを読んだ荒畑寒村少年が感激していた。堺・幸徳が『平民社(平民新聞)』を創刊。この辺は既に勉強済。https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2012-06-25

 2月8日、旅順港奇襲攻撃。仁川港のオトリ役「千代田」が湾外に誘い出したロシア巡洋艦、砲艦を撃沈で日露戦争の初勝利。次に旅順湾閉塞作戦。三度試みて17隻を沈めるも航路塞げず。

nipponkaisen_1.jpg 陸戦は第1軍が鴨緑江を渡って九連城を攻略。第2軍は南山戦で苦戦。機関銃砲を浴びて4300名が死傷。横から攻め、艦砲援護も得て被害甚大なるもロシア軍退却。与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」。大本営(為政者、軍人)は死者の個々人を無視して数字(グロス)で捉える怖さ恐ろしさよ。

 旅順港では名著『海軍戦術論』のマカロフ指令長官の旗艦が、前夜に仕掛けた機雷をひっかけて爆沈。マカロフ中将の死に、日本では提灯行列で追悼とか。兵士の̪死はグロスで処理し、英雄のみ美化する変な風潮が蔓延っていた。

 陸軍は南満州の要塞・遼陽でロシア22万5千人と対峙(日本軍13万5千人)。日本軍は脚気(森鴎外の怠慢)と弾丸不足。退却するロシア軍も追撃も出来ず。旅順は日清戦争時が1日で陥落も、今回は203高地で死傷者6万人の犠牲を重ね、5カ月を要した。高地頂上から旅順港を見下ろせば、山越え弾が当たった旅順艦隊が全滅。遼陽戦は奉天まで退いて厳冬期休戦を経たロシアが耐寒装備コサック騎兵で攻撃開始。苦戦を重ねて辛勝す。

 一方、バルチック艦隊がバルト海を出航していた。英国が行く先々で石炭の補給妨害などの嫌がらせ。艦隊がウラジオストックへ向かうには宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡か? 日本艦隊(40数隻)は波の荒い朝鮮海峡で砲撃訓練を積み、火薬や信管も改良して準備万端。信濃丸が五島列島付近でバルチック艦隊を発見。対馬ルートと判明し「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」も敵艦隊の先方をUターンし、最初の30分で攻勢。夜襲も成功してロシア艦隊38隻のうち25隻撃沈、7隻捕獲の大勝利。

 明治38年8月10日、ポーツマス講和。小国が清国の次に超大国ロシアをも破って列強国入り。9月5日に日露戦争終結。大将らが伯爵になり、高級軍人計131人が爵位。半藤一利は「日露戦争は勝ち過ぎた。事実を隠蔽して美談や神話ばかりが膨らみ、戦勝気分に浮かれて軍部の慢心が始まった」。「富国強兵」に耐えてきた国民も目標を失った。36年後に太平洋戦争~。

 写真は『日清日露戦争物語~附・アジアの盟主日本』(菊池寛他、昭和12年刊)の口絵(国会図書館デジタルコレクションより)

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