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光子⑨ 松本清張の光子 [牛込シリーズ]

saraebojiken_1.jpg 松本清張『暗い血の旋舞』は、光子のロンスペルク城の暮しを、次男リヒャルト『回想録』『美の国』からこう紹介していた。

 ~兄弟は庭園を囲む壁の中で外界と遮断したように暮した。庭園、屋根裏、中庭、台所、地下室、礼拝堂。二階の城内劇場、食堂、図書館(父の書斎)、有名哲学者らの多くの胸像~。

 小生が古城暮しに触れるのは、堀田善衛『ミシェル城館の人』以来。クーデンホーク家は代々の「伯=小部族長」のドイツ系貴族。食事は燕尾服の貴族趣味。だが彼らがロンスペルク城で暮らし始めた時期は、チェコ人の民族運動が次第に激しくなっていた。

 松本清張は若き日に木村毅『小説研究十六講』によって小説家を志し、大家になって木村毅が著わした『クーデンホーク光子伝』に挑戦し、師とは違う角度で描こうとした。クーデンホーク家と同じボヘミアのホテック家(反カトリック)を描き、さらに光子家に出入りしていた駐墺大使館の武官(山下陸軍少佐)の神出鬼没の眼を通して民族独立運動、ドイツ民族党、反ユダヤ主義のキリスト教社会主義の三つ巴のなかで光子を描こうとしたらしい。

16saiseicyo.jpg ホテック家は第一次世界大戦の引き金=サラエボ事件(オーストラリア皇帝の皇太子フェルディナイト大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者に暗殺された)のゾフィー実家がボヘミアの大地主ホテック家。第一次世界大戦の発端となったゾフィーのホテック家と、光子次男リヒャルトによる「パン・ヨーロッパ」運動をも対比しつつ大スケールで描こうと試みる。

 光子はロンスペルク城暮し12年(夫死後2年を含む)後に、自身もウィーンに移住したが、その裏に城周囲のチェコ民族運動の活発化があっての移住だろうと推測し、通説「光子はウィーン社交界の花」も、日本人で未亡人の光子がウィーン社交界の花になれようはずもないと考える。

 さらには光子は江戸時代がつくった女性像「執念・忍耐」を体現していた。芝・紅葉館で働いたのも行儀見習いではなく、父・喜八がそこに集う名士らとの〝良縁〟を求めてのこと。その証拠に喜八は光子結婚に「商売発展の多大な金銭」を受けている。江戸時代に吉原に身売りされた女は、実家の敷居を跨がない風習も光子に生きていたのではないかと記す。

seicyo2touhei.jpg 帰国したハインリッヒが外交官を辞めて領地管理をするようになったのも、ドイツ人に対するチェコ人農奴への警戒感があってのこと。ゆえに専制的態度で臨むことによって領主維持ができると考えた。光子にもそのように教育した。光子が夫の死後に性質一変して、領民や子らにも専制的に接し出したのもその影響があってのことだろうと記す。

 同書はそんな意欲的視点で臨んだ「取材ノートに過ぎず」とでも言っていいのかも知れない。清張はその後に完全版を書く積りだったろうが、それを果たせず5年後に亡くなった(伊豆大島墜落「もく星号」書は三度も書き直している)

 それでも同書最後は、プラハ道端でビスケット売りのボヘミア女に、己の母の姿をダブらすシーンで終わっている。不甲斐ない父。母は小倉や下関で露天商や餅屋で生活を支えた。読み書きも出来ぬ母だが、粘り強い強靭性と意地があった。清張はボヘミア女の露天商の女と己の母、さらには青山光子をダブらせたところで同書を締め括っていた。

 写真は国会図書館デジタルコレクション『大戦争写真帖』(大正4年刊)より。キャプションは「サラエヴオの凶変に全欧禍乱の導火線となりし墺皇儲殿下とその家庭~」とある。画は作家以前の松本清張。小学校卒後の給仕時代、徴兵時の松本清張。少年要寝ん・青年時の清張は未だ下唇は出ていずハンサムボーイだった。

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