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青山二郎④骨董から文学へ [読書・言葉備忘録]

hasecyuhide_1.jpg 青山二郎は骨董修業中の大正13年(1924・23歳)、小林秀雄に出会って人生が変わった。柳宗悦の甥・石丸重治が小林の同級生で、石丸は同人誌『山繭』創刊に小林と青山の参加を勧め、青山に文学の扉が開いた。このとき青山23歳、石丸と小林は22歳。

 小林秀雄は同年に小説『一つの脳髄』(私小説)を、翌年2月に『ポンキンの笑い』(後に『女とポンキン』に改題)を発表。この時期に中原中也と出会った小林は、中原の恋人・長谷川泰子と同棲して三角関係。当然ながらこじれて、彼は昭和3年(1928)に奈良へ失踪。翌年春に帰京して『様々な意匠』で『改造』懸賞論文に応募して二席入選。批評家として文壇デビュー。(長谷川泰子は広島市の家出娘で、東京他で放浪し、関東大震災後に京都はマキノ・プロダクションの大部屋女優へ。16歳の中也と20歳の泰子は同棲生活を開始していた)

 青山にも事件が起きた。浜田庄司の展覧会で会った野村八重を見そめて、大正15年(昭和元年・1928)に結婚。だが八重は1年後に肺結核で死去。青山は昭和3年に11編(文学系世と民芸系)作品(雑文)を発表。文学系の『書翰往来』は、小林が「小説を書け、もっと身を入れろ」の叱咤に「俺の先生面をするな」の交換書簡。『新婚旅行』は八重の健康を気づかって妹帯同の新婚旅行記。青山は工芸家と連日議論で、妻と妹は買物。その中で俥で擦れ違った志賀直哉の眼に衝撃。『短い記憶』は身ごもった妻が亡くなるまでの経緯。

 一方の民芸系作では、柳宗悦との決別を漂わせていた。柳の民芸運動は「名工の形(上手物)」ではなく、民衆の生活用品(下手物=雑器の美=用が美を生む)を推奨。一方の青山は季朝の陶磁器など「百万中の一つ」の工芸に魅せられる志向で、「民芸」とは対極の観賞眼。青山は柳の民芸運動と決別して、自分の道を歩み出そうとする内容。

 ここで『別冊太陽』の白洲正子記『「ととや」の話』から青山の骨董世界を覗いてみる。~骨董は自分ひとりの所有にしたく、博物館に入ることは骨董趣味の死を意味する。季朝の名品「ととや」(島津家伝来)を小森松庵なる茶人が持っていた。広田熙に赤紙が来て、彼は死ぬ前に「ととや」を拝みたい。無事に帰還できた暁に「ぜひ譲って欲しい」と懇願。無事に帰国した広田と松庵の間で「譲ってくれ・譲らぬ」問答。カッとした松庵は「そんなに欲しいのか」と叫ぶや「ととや」を庭石に投げつけた。広田は破片を拾い集めて修復し、松庵に返し、改めて譲って貰った。その「ととや」が青山二郎の手に渡り、今は埼玉辺りにあるという話。骨董に興味もく、手も出ない小生にとっては、骨董は〝異常な貪欲で浅ましき世界〟にみえてくる。

 写真は「ウィキペディア」より左から小林秀雄、長谷川泰子、中原中也。次は〝青山学院〟について。

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