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青山二郎⑤青山学院と分校、分室 [読書・言葉備忘録]

kawazoinagaya_1.jpg 青山二郎は昭和5年(1930)に同人誌『作品』創刊にも参加。河上徹太郎、永井龍男とも知り合った。青山はその頃に武原はんと再婚。「一の橋」の父親の四軒長屋で新生活を開始。その長屋の隣に永井達男が〝青山学院〟に入学すべく、母親と共に引っ越して来た。そこは川っぷちの古い4軒長屋(2階1間・階下2間)。

 かくして青山・永井の長屋に小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平ら文学青年が連日集って〝青山学院〟スタート。青山宅には、京橋の一流骨董店に飾られていた高価品が転がっていて、浜田庄司の瀬戸物は唾をやたらにする中原中也の痰壺になっていた。

 昭和6年に小林の論文集で処女出版『文芸評論』装幀を青山が担当(すでに自作『陶経』などの装幀を手掛けていた彼は、生涯に400余点の装幀を手掛けることになるが、青山の装幀に関しては後述)。同年、晩翠軒・井上恒一に頼まれて朝鮮に行き、当時はゴロゴロしていた季朝陶磁を蒐集。翌年1月に「朝鮮工芸品展覧会」開催で、季朝陶磁期のブームになる。

IMG_8185_1.JPG 昭和7年、武原はんと別居~離婚して一人暮らしになった青山は、①で紹介の「四谷花園アパート」に移り、そこが第2の〝青山学院〟になる。同部屋にも季朝の棚、船箪笥、衣装ダンス、壺類、中国の皿、九谷の皿や陶片が所狭し。滝井孝作が「織部の逸品が入ったとか。拝見しに来た」と言う。それは今日出男が灰皿にしていたものだったとか。

 四谷花園アパート時代の青山学院の〝〈議論の)揉み揉まれ〟は、銀座・出雲橋の小料理屋「はせ川」。芝浦の安待合「小竹」、新橋の縄のれん「よしの屋」、浅草馬道の待合「老松」にも延長して「分校・分室」になったとか。

 四谷花園アパート時代は昭和8~17年(1933~1942)。昭和17年、41歳。伊東市竹の台の2階から海が見える2軒続きの借家に疎開して7年間滞在した。借家ながら青山らしい独自の雰囲気に改良。1軒に家族が住み、1軒1階に約2千枚のレコード、酒盃50個。2階8畳間の書斎にキリスト教書が約5百冊とか。

 この伊東分校にも小林秀雄、河上徹太郎らが通い、伊東在住の宇野千代、尾崎士郎、出版関係者の疎開組の佐々木茂策(文藝春秋社・社主)、石原龍一(求龍堂)らが集った。その名は「みぎわら・くらぶ」。この頃に青山が入手した「古染付むぎわら手向付」からの命名。主に古美術を楽しむ会。

 この時期に小林は『モオツアルト』を、青山は『千利休伝ノート』『梅原龍三郎』を執筆。ここで彼は「茶道は器に対する愛」と主張。小林は青山から骨董を教わり、青山は小林から文章表現を教わった。

 宇野千代『青山二郎の話』によれば、その頃の同居人は某酒場から引き抜いてきた「恵子さん」。彼女は「前から好きだった男のところで一晩泊まって来た」と青山に報告する馬鹿正直な女性だが、水か空気のように目立たない存在だったとか。

 昭和35年、麻布・二の橋に高速道路が出来て、青山は何億円もの大金を手にすることになる。写真は「東京都オープンデータカタログ」より首都高速が出来る前の一の橋辺り。川っペリに当時の長屋風情が残っている。

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