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青山二郎⑧晩年 [読書・言葉備忘録]

bianca2_1.jpg 再び時系列に戻る。青山二郎の妻は、伊東市に疎開時は宇野千代が記す〝恵子さん〟は、年譜の「服部愛子」のことらしい。二人は昭和19年(1944)に正式入籍し、昭和23年47歳で離婚(青山は恵子の姪・和子と添遂げる)。『梅原龍三郎』や『富岡鉄斎』を発表。翌年にレコード2千枚を売って伊藤の家を出て、五反田の坂本睦子のアパートに仮住まい(睦子は大岡昇平『花影』モデル。文壇の高名作家に抱かれ、以後は同作家を慕う文士らが次々と競うように彼女を抱いたとか。当時の文士はろくでもねぇ)。

 昭和25年、『眼の引越』『眼の筍生活』発表。青山の執筆に、小林秀雄が付きっ切りで面倒をみたとか。昭和26年、青山学院のメンバーが秦秀雄(骨董界)の「梅茶屋」(代々木の割烹旅館)入り浸って連日の議論。広間に青山・小林は座って〝高級漫才〟。周囲に数十人が取り囲ん囲んだとか。『上州の賭場』『博徒風景』を発表。

bianca1_1.jpg 同年、父・八郎右衛門死去。昭和28年に兄・民吉死去。そして昭和35年に父の遺した「二の橋」の土地に高速道路が通ることで何億もの金を得る。同年、福留和子と結婚。毎年暮れから2月まで志賀高原ホテルで青山専用部屋で過ごす。この頃からカメラと雪上自転車に凝る。そして夏の2ヶ月間は広島暮し。志賀高原では越後高田の骨董屋・遊心堂で遊び、広島ではヨットや水泳で遊ぶ、夜は呑み屋「梟」が青山学院の広島分校になる。青山はとにかくどこで暮そうと〝群れ〟を作りたがる(小生嫌いなタイプ)。

 昭和39年(1964)、オリンピックの年に渋谷区神宮前のマンション「ビラ・ビアンカ」の設計段階で、6階2部屋(2350万+850万円)を購入。ベランダに植木屋を入れるなど自分流に改良。昭和45年に川奈に別荘完成。昭和51年、志賀高原から帰京後に牛込清和病院に入院し、翌年に自宅で永眠。77歳だった。墓地は谷中の玉林寺。

 田野勲著『青山二郎』は最後にこうまとめていた。「青山は生涯を余技と考えていた。本の装幀、絵を描く、骨董売買、文章を書く、写真を撮る~すべてが余技と考えていた」。当然ながら仲間を集めての議論=青山学院も余技。それが実現できたのは子供時分から母から毎月500円(当時の小学校教師初任給が50円)の小遣いをもらい、父と兄死去後に高速道路でン億円を手にしたことで成り立った人生。働く必要もない(職業なし)極楽トンボ。その意でも自由な立場で物事への発信が出来た、と記していた。

 加えて学校生活経験なしゆえか、とにかく群れたがった。核心の「生涯を余技と考えたこと」は、特別の事ではなかろう。人の世は無常、仮の世、仮の宿~。何を今さら~と思ってしまった。彼が骨董を見るように、彼の中年後の顔写真を先入観なく見れば〝好き〟なタイプではなかった。

 そんなワケで白洲正子が『いまなぜ青山二郎なのか』を読んでも〝なぜ〟かわからずらず仕舞い。古本屋で青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』を入手したが、その文章は魅了されるほどでもなし。小林秀雄がなぜ彼に惹かれたか。これは『小林秀雄』を読んでみなければわからない。目下は小林秀雄全集の2冊を図書館で借りて来たが、とりあえず、この辺で「青山二郎」を終わる。

 写真は築57年になった「ビラ・ビアンカ」。場所柄だろう、アパレル系事務所が多数入居らしくこの日も、若い女性らが衣装をいっぱい持ってマンションの中に消えて行った。

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