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本居宣長①少年・青年時代

motoorihon1_1.jpg 今まで幾度か本居宣長(もとおりのりなが)が弊ブログに登場。例えば、小林秀雄と城福勇著『本居宣長』を手にしたが投げ出したと告白(2019‐08‐06)。小池著『日本語はいかにつくられたか』の「日本語の音韻の発見・本居宣長」の章を紹介(2019‐06-24)。儒教シリーズ中、本居宣長の「わが国の国土と国民の支配は天照大神~天皇~東照大権~将軍~大名という委任論」を紹介(2018‐11‐24)。~と云う事で、ステイホーム中に再挑戦で城福勇『本居宣長』を読み出した。

 徳川吉宗の時代、享保15年(1730)、伊勢松坂生まれ。弊ブログでお馴染み「大田南畝」より19歳年長。そんなに昔の人ではない。松平定信「寛政の改革」で危険察知の南畝は、狂歌仲間から離れて学問吟味へ挑戦したが、宣長はすでに57歳だった。

 これで時代アタリが掴めて、次は松坂。若い時分で幾度か仕事で「ヤマハ合歓の郷」や「伊勢神宮」へ行ったことがあるから概ねの地理感はある。さて父は定利、母は後妻かつ。先祖は武士だが詳細省略。松坂は伊勢街道の主要宿駅で商業都市(商人の町)。富商三井家発祥地。江戸店持ちの大商人多数で、江戸大伝馬町木綿問屋(松坂商人の出店=通称伊勢店)あり。宣長が属する小津家もその有力構成員。彼ら大商人らは上方に近いことで公家的(貴族的)雅の趣も有していた。

 宣長誕生の翌年には歌人団体「嶺松院歌会」も創設。この会員10名中4人が宣長の親戚。宣長の義兄・宗五郎(定治)は、後妻かつに宣長が生まれたことで小津家相続を辞して江戸に下った。富を得るも経営悪化し、立て直しに向かった父が江戸で病死。宗五郎が松坂に戻って小津家を相続すると、かつは子を連れて本宅から別宅に移った。宣長もその家で育った。寛延元年(1748)19歳で山田妙見町(伊勢神宮外宮の鳥居前の地域)の紙商・今井田家の養子へ。だが商人向きではなく翌年に離縁。

 宗五郎は小津家を相続するも、再び江戸へ出て40歳で死去。宣長が江戸へ出て後始末。帰路に富士山に登って帰郷。宝暦元年(1751)22歳で家督を相続したが、宣長が商人向きでないことから、母の裁量で財産4百両を隠居家に預け、利息(年40両)で暮すことになる。母は彼を京都で学問させて医者にする計画だった。

 宣長は母の教育方針で8歳から習字を、12歳から書道・謡曲を、17歳から射術を、19歳から茶の湯を、20歳から寺で『易経』『詩経』『書経』『礼記』素読を、17、18歳から和歌・俳諧も勉強。菩提寺への関心から仏教を、さらに伊勢神宮に近い場所柄で神道関係も勉強。

 今井田家養子中に『源氏物語覚書』を、22歳で『かなづかひ』を編む。以上が宣長の出自・少年・青年期。勉強経歴ばかりで面白くなく、前回挫折もこの辺りにあったか。次は京都遊学時代へ。

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