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本居宣長③町医者になり、文芸から神道へ。 [読書・言葉備忘録]

norinagazou_1.jpg 宣長は松坂に帰ると「町医者」(内科医)になり、生涯の生業になった。開業当初は医者業を頑張って年間70両。次第に医者と学問の両輪で、寛政期には40~50両。学問塾の門人収入(謝礼・中元・歳暮など)、自家調整薬「胎毒丸」「あめぐすり」などで補った。

 宝暦8年(1758)、京都遊学記念的な『古今撰』(「万葉集」などから秀歌を選び出し分類した詞華集)、歌論集『俳蘆小船』を完成。宝暦13年(1763)に『石上私淑子言(いそのかみささねごと)』三巻三冊で〝物のあわれ〟の説を軸にした歌論を唱えた。また同年には『紫文要領』(「源氏物語」要旨)も著わした(後の寛政8年67歳『源氏物語玉の小栞』から『玉の小櫛』として改稿)。宝暦14年、『梅桜草の庵の花すまひ』成立。これは口語が交って、後の『古今集遠鏡』の先駆になる。宣長の歌論は定家『古今和歌集』が最高手本で、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三大集を尊重すべきという主張。

 当時の宣長の私生活は、宝暦10年に「みか」を娶ったが数ヶ月で離縁。学問漬けの夫とソリが合わなかったか。同12年、宣長33歳、同じ景山門人の娘「たみ22歳」と結婚。たみは終生の伴侶となって男3人、女4人を設けた。

 彼は松坂で「嶺松院歌会」の主宰者になり、自宅で『源氏物語』講義を開始。この塾での諸講義は生涯を通じ(40年間)規則正しく続行。講義=自身の勉強。『源氏物語』は1ヵ月8、9回。他に『伊勢物語』『土佐日記』『枕草子』『百人一首改観抄』『万葉集』を開講。

kamosyouzou_1.jpg 宣長はまた、京都遊学から戻った頃に、江戸からの人に賀茂真淵『冠辞考』(万葉集の枕詞326語の精密な解釈書)を見せられ、読むほどに共鳴。古代語への関心を深めた。宝暦13年(1763)、伊勢参りに来た賀茂真淵と松坂で対面する機会を経て、翌14年(明和元年1764)35歳、賀茂真淵に入門。『日本書紀』『古事記』研究に入って、文芸一辺倒から神道への関心を深めた。

 この頃、宝暦13年に長男が、明和4年(1767)に次男が誕生。長妹はんは婚期を逸し、30歳で剃髪して終生宣長と同居。母かつは善光寺で剃髪し、明和5年に64歳で亡くなった。

 明和元年、宣長はいよいよ『古事記伝』に着手。「歌学者ハ、以テ神典ヲ学バザルベカラザルナリ。神学者ハ、以テ歌学ヲ学バザルベカラザルナリ」。明和6年(1769)10月、賀茂真淵が73歳で死去。

 画像は若い頃の本居宣長と賀茂真淵。以上、ここに紹介の諸書籍が読めるわけもなく、宣長の足跡を辿ったに過ぎない。後で小林秀雄『本居宣長』を読む時の予習になれば~です。

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