SSブログ

GHQの〝性とツツガムシ〟(44) [千駄ヶ谷物語]

hikari_1.jpg GHQによる影響は、ファッションや音楽よりまず先に日本に大影響を及ぼしたのが〝米兵らの性〟だった。秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』のこんな記述に驚いた。

 「都民生局保険予防課長」の与謝野光が「GHQから東京の将校用、白人用、黒人用の性処理場3カ所の選定及び性病予防を仰せつかった」。あぁ!与謝野光と云えば、同氏の思い出本(左)から与謝野晶子・寛夫妻の「新詩社・明星」千駄ヶ谷時代を紹介したばかり。

 婦人解放を詠った母の長男ゆえ、その任に当たった気持ちはいかばかりや。当時の米兵らの性処理施策は二つ。一つは国務大臣・近衛文麿中心の日本政府施策として大森海岸の料亭「小町園」はじめの慰安所(ゲイシャハウス)設置。同ハウスに群がる米兵無数。仕事内容を知らずの応募女性もいて、眼を耳を被いたい悲惨・修羅場の展開。大金を稼いだ女性もいたとか。余りの凄さに7ヶ月ほどで閉鎖らしい。

 もう一つの施策がGHQプロジェクト。GHQに呼び出されたのが与謝野光課長。将校用に向島、芳町、白山の3地区。白人用に吉原、新宿、千住。黒人用に亀戸、新小岩、玉ノ井を選定。だがこれも米国本土の婦人団体などの抗議で1年半ほどで幕を閉じた。光氏「ペニシリンが実によく効いた」と言ったとか。

 行政主導の性処理慰安施策が閉鎖されれば、彼らの性は巷に及ぶ。米兵らに抱かれ、腕を組む女性たちが街を闊歩する。HGQは占領軍兵士の半減を打ち出すも朝令暮改。昭和25年に朝鮮戦争勃発で再び多数兵士が日本へ押し寄せた。

 かつて久保田二郎(ジャズ評論家)が「自由が丘、田園調布、成城なんぞ二流、三流のたかだか文化住宅地に過ぎず」とまで言った千駄ヶ谷邸宅街は、空襲後の復興時期にGHQの性に一気に呑み込まれて「千駄ヶ谷=連れ込み旅館街」となる。

 その性の浸透過程を探りたいが、その前に与謝野光のフォローもしておきたい。GHQ要請に命を張って拒否も出来たかも知れぬが、氏の経歴を見ると「〝七島熱〟研究で表彰」ともあった。〝七島〟と云えば伊豆七島。大島に多少の縁あるゆえ調べると「伊豆七島のツツガムシ病の研究」らしい。七島のツツガムシ(ダニ)特性の研究で、他と比較して症状は軽く、伊豆大島では「大人のハシカ」と呼ばれていたとか。その研究が島民の健康に寄与したことに間違いはなかろう。

 小生は昨年、1年間放置のロッジ庭に繁茂した大雑草と格闘して、脛が酷くかぶれた。新宿に戻って皮膚科へ行けば「草かぶれ」でペニシリン系だろう薬をいただきひと塗りで治った。「草かぶれとツツガムシ」の関係やいかに。次から米兵らの性が巷に拡散する様子を探ってみたい。

コメント(0) 

こころはいつもギャルソンヌ(43) [千駄ヶ谷物語]

mikabon_1.jpg ここはやはり藤原美智子『こころはいつもギャルソンヌ』を読んでみたい。同書は渋谷中央図書館にあり。第1章「焼け跡に立ち上がる」に、青山「ミカ・シスターズ」のことが記されていた。まずは著者が「ワシントンハイツ」に出入りするまでの経緯概要~

 藤原美智子は大正4年1月19日広島生まれ。「子供の頃、大八車に野菜を積んで売りに来ていた農家に誘われて遊びに行ったら、ピアノがあり、タイプライターを叩いたので驚いたことがある」。海外移住・留学が盛んだった広島。それは「ミカ・シスターズ」店舗設計・西村久二の父らの紀州と同じ。大逆事件で処刑された大石誠之助が西村伊作と作った「太平洋食堂」も、今のカフェのようだった。

 美智子は県立高等女学校卒後、昭和7年(1932)上京。教師養成の東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)へ。入学年が上海事変、翌年が国連脱退。皇室史観の授業に失望して、学校をさぼって文学書に親しんだ。「日本工房」(名取洋之助代表)の写真、デザインワークに惹かれた。

 昭和10年(1935)、クラスの卒業アルバム制作委員になると、お金もないのに同社へ長談判。ボランティアで事務所の掃除。カメラマン応募に火の玉小僧みたいな土門拳が面接を受けに来た。卒業アルバムのクレジットは撮影:名取洋之助、土門拳。装丁:山名文夫。編集:熊田五郎。

 小生の社会人最初がグラフィック・デザイナーゆえ、「日本工房」への憧れがあった。美智子は女高師卒後の義務で、広島から鈍行3時間の城下町の県立女学校教師へ。「坊ちゃん」的日々を耐えて帰京。今度は社団法人「外政協会」勤務。元・国連協会だが脱退後に名を変えた協会で、軍国主義の世にあってリベラリストが集う隠れ家のようだったとか。

 昭和20年(1945)、広島に原爆投下。父が石灯籠の下敷きで死亡。母は行方不明。妹・和子を連れて東京へ。再び学校へ。アメリカ佐官級カップルを招いた懇親パーティーの日本側女性として同校が美智子を推薦。パーティーが重なるうちにアメリカ人家庭に招かれたり、相談相手になったり。そこで彼女らがドレス仕立ての人を求めているのを知って、縫製得意の和子と組んでワシントンハイツ内を走り回ることになる。

 余りの忙しさに「そうだ、店を構えればいいんだ」。昭和25年(1950)、焼け野原の青山1丁目交差点近くに7坪の物件を35万円で契約。店舗設計・西村久二、ロゴデザイン・大智浩。ここから推測するに、彼女は再び「日本工房」関係ルートの友人に応援を頼んだような気がする。実はその辺の若者らの交流詳細が読みたかったのだが、同書には〝友人〟とだけしか記されていなかった。

 ともあれ、同店は「スタイル誌」の〝ミカ特集〟などで大人気。彼女は既製服事業へ乗り出して大成功と経営挫折から、大手のアドバイザーなどで活躍。青山・原宿のファンション街化のそもそもに広島原爆、「日本工房」スタッフ、西村伊作(文化学院)系の交流などがあったことを知っただけで了とする他はない。写真は『こころはいつもギャルソンヌ』の口絵。次回からはGHQから広がった性風俗について~。

コメント(0) 

ファッションの街誕生秘話(42) [千駄ヶ谷物語]

matuyapx_1.jpg 千駄ヶ谷にはアパレル個人企業が密集している。アパレル大手が集う青山・原宿に近く、ミニ物件が多く家賃も手ごろゆえだろうか。ネットに平成16年(2004)頃の「高橋靖子の千駄ヶ谷スタイリスト日記」があった。拝見すると「川村かおり、西田ひかる」の名が度々登場していた。

 余談だが、小生は両者のデビューに少し関わった。西田ひかるのレコード会社デビュー会議にJASキャンペーンガールの胸豊かな水着姿の新聞広告が示され、小生「お色気を抑えて」と発言し、デビュープロモート計画書を書いたと記憶している。川村かおりデビュー・パンフも作ったと思う。

 2004年ならば、川村かおりは他社移籍後で、その後に癌で亡くなった(享年38)と知って愕然とした。また同ブログには原宿の喫茶店「レオン」や「セントラルアパート」が登場。まだ店も少ない竹下通り奥に友人イラストレーターの事務所があって、打合せは「レオン」だった。セントラルアパート通勤の友人もいた。その後に同潤会アパートの某バンド事務所を訪ねたことある。

 だが原宿・青山辺りにファッション系企業が根付いたのは、そんな時代よりずっと前~のような気がする。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』に、概ねこんな記述があった。

 同ハイツの将校夫人らがPXで購った洋服生地でドレスをオーダーする。藤原美智子・和子の妹・和子がデザイン担当で、外務省外郭団体で働いていた姉・美智子が営業。二人は広いハイツ内を注文、採寸、仮縫いで日々歩き廻っていた。そのうちに店を構えた方がいいと、焼け野原の青山1丁目交差点際に「ミカ・シスターズ」を開店。ガラス張りショールームの店設計が西村久二、店名ロゴが大智浩。店の前にアメ車がズラッと並んだ。

nisimuraisaku.jpg PXで購入の生地を持ち込む、米国カタログ販売「シアーズ」で得たドレスのサイズ直し、そのうちに米軍関係者と仕事をする日本女性らも同店でドレスを注文。かくして周囲にファンション系店舗が増えて行った。後に藤原美智子は日本女性向けの既製服事業に乗り出す。

 ここで注目は、店設計が西村久二ということ。彼の父は西村伊作。伊作の父は大石余平。余平夫妻は濃尾地震で自身の教会崩壊で亡くなった。余平弟で医師・大石誠之助が余平夫妻の長男・伊作を育てた。大石誠之助家の近所に5歳年長の医師・佐藤春夫の父がいて、大石&伊作の「太平洋食堂」に佐藤春夫も集っていた。

 洋行帰りの誠之助が、社会主義啓蒙「家庭雑誌」に〝洋食紹介〟を執筆。そんなつながりで明治43年「大逆事件(幸徳事件、12名処刑)」の紀州グループ長として誠之助も逮捕され東京へ連行(のち処刑)。伊作は弟・真子がロス留学から持ち帰ったオートバイで誠之助の後を追って上京した。

 大正10年、西村伊作は神田に文化学院を創設。文化部長に佐藤春夫が就任。千駄ヶ谷で『明星』最盛期を築いた与謝野晶子・寛夫妻も参加。伊作没後の理事長に、仏国で建築を学んだ西村久二が就任。その彼(留学前)が「ミカ・シスターズ」店舗を設計。青山・原宿のファンション街化のそもそもに、大逆事件の系譜を覗き見て興味深かった。確か幸徳秋水の最後の家も、昔の千駄ヶ谷5丁目だったはず。西村伊作に関しては、左枠マイカテゴリー「佐藤春夫関連」に詳しい。写真上は銀座松屋「TOKYO PX」(国会図書館デジタルのモージャー氏撮影より)。写真下は西村久二の父・西村伊作伝『きれいな風貌』(黒川創著)。

コメント(0) 

焼け跡に日野皓正のトランペット(41) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0998_1.JPG 日野皓正、昭和17年、高円寺生まれ。昭和20年(1945)に疎開先の盛岡から焼け跡・千駄ヶ谷5丁目の親戚所有地に建てたバラックで戦後生活開始。(山手線と中央線に挟まれた一画か?)

 「焼け跡・千駄ヶ谷には未だ誰も住んでいなくて、富士山がよく見えた」。ワシントンハイツ竣工後で、バラック前に米軍接収の1軒家があった。皓正少年は同家のブッチ少年と交流。日野の父は戦前の日劇タップダンサーでトランぺッター。ブッチ少年は日野の父からタップダンスを習い、皓正も5歳からタップシューズを履き、父から厳しく仕込まれた。

 鳩森小学校に入学、(その名から「鳩森八幡神社」傍と思われるが、中央線の向こう側、新宿御苑の千駄ヶ谷門前。同小学校の通学圏は東京体育館、鳩森神社周辺の千駄ヶ谷1丁目、北参道駅周辺の千駄ヶ谷4丁目を含む)。トランペットの練習は小学3年、9歳頃から。父の古いトランペットで、学校へ行く前の30分、放課後に2時間、そして、父がキャンプやキャバレーの仕事から帰宅後の夜12時頃にまた練習。

 後のNYで活躍のベーシスト・中村照夫少年が、日野少年の〝河原〟での練習音を耳にしていたとか。最初は渋谷川と思っていたは、当時を思えば玉川上水が現・新宿南口の文化学園辺りから千駄ヶ谷へ「原宿村分水」が2本も流れ込んでいたゆえ、その河原と推測した。(あぁ、中村照夫ライジング・サン・バンドのレコードを持っていたような~)

 皓正少年は、練習より遊びたい。東郷神社の池で泳いだり、明治神宮の池で鯉を釣ったりの悪戯盛り。中学生になると代々木寄りへ移住だが、弟・元彦と共に馴染の地、外苑中学校(現・明治通り内側に千駄ヶ谷小学校で、山手線側に原宿外苑中学校)へ入学。

 父がタップで、弟がドラムスの「日野ブラザース」でワシントンハイツに出演。皓正少年は〝見世物はイヤだ〟と荷物運び。この頃に「原信夫とシャープス&フラッツ」のトランぺッターがカッコよく、それを見たことで練習に熱が入る。日系2世のディ―プ釜萢の新宿(大久保)の「日本ジャズ学校」(昭和25年設立)や、千駄ヶ谷に出来たジャズ学校へ通い出す。

 昭和28年(1953)、父に連れられて「浅草国際劇場」公演のルイ・アームストロングを観た。前座はフランキー堺のバンドだった。次第に腕を上げてワシントンハイツから成増、立川、朝霞などのキャンプに出演。中学生で早くも新宿のキャバレー「リド」にも出演。佐藤勉に師事・修行。

 日野皓正の少年時代を例に挙げたが、戦前からのジャズマン、戦中生まれの多くのミュージシャンたちが、かく米軍キャンプや米国文化に触れつつ、戦後日本のジャズや、ポピュラー音楽のブームを興して行ったことは衆知のこと。またワシントンハイツ在住の日系アメリカ人、ジャニー・ヒロム・キタガワが、同ハイツ内の「ジャニーズ少年野球団」に代々木中学校野球部の飯野修實、真家弘敏、青井輝彦、中谷良三が通って来たことから最初のユニット「ジャニーズ」誕生。アイドルもまた同ハイツから生まれたと言ってもいいでしょう。

 以上、日野皓正については、小川孝夫著『証言で綴る日本のジャズ』、秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』、ネットに多数アップのインタビュー記事からの再構成です。

コメント(0) 

ワシントンハイツの影響(40) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0981_1.JPG 「ワシントンハイツ」のアメリカ文化が日本へ与えた影響は大きかった。小生の高校時代の部活ランニングコースに「ワシントンハイツ」フェンス沿いがあったことを思い出す。同ハイツ接収は東京オリンピック前年まで続いた。

 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ~GHQが東京に刻んだ戦後』序章は、著者が西麻布1丁目の木造アパートに住み始めて、突然の爆音に驚いたことから書き出されていた。今も接収が続く米軍ヘリポート(六本木トンネル辺り)の離着爆音だった。

 同書から「 ワシントンハイツ」の概要をまとめる。敷地面積27万7千坪。工事費8億円は全額日本の賠償金。工事従者延べ216万7千人。工事を請け負ったのは鹿島建設、清水建設、戸田建設。

 安普請の低価格住宅は家具付きで827戸。平屋一戸建て、平屋及び二階建ての二戸建て、二階四戸建て。間取りは9種。ガスレンジ、ガス瞬間湯沸かし器、電気冷蔵庫、バス、シャワー、水洗便所、電気暖房装置など。加えて学校、教会、ガスタンク、消防署、クラブ、三つの野球場、テニスコート2面、ヘリポートなど。芝生5万8千坪、立木1万3千本などで整えて昭和22年(1947)9月に竣工。

 「白洋舎」がドライクリーニング、ランドリー工場設立命を受けて大躍進。東京では他に成増飛行場跡に「グランドハイツ(1267戸)」、永田町の閑院宮邸跡に「ジェファーソンハイツ(70戸)」、霞が関に「リンカーンセンター(50戸)」が竣工。娯楽面では日比谷・宝塚劇場が「アーニ―パイル」劇場へ。同劇場についてはカテゴリー「ミカドの肖像」で詳細報告済。

 これら米軍接収施設の米国文化が日本に及ぼした影響は多大。米軍キャンプ巡りのミュージシャンらが日本にジャズ旋風を、また歌謡曲、ポップスを盛り上げた。ハイツからアイドル・ジャニーズも生まれた。ハイツ将校夫人らのアメリカン・ファンションが、焼け跡の青山・原宿をファッション拠点化した。「青山・紀ノ国屋」が米国式スーパー・マーケット第1号。米兵らによる性風俗も様々に影響した。

 一方、日本の極貧環境による疫病防止にGHQによるDDT散布。大量飢餓防止に諸国から集められた対日援助物資(ララ物資)が支給され、日系人からの救済400億円援助。欧州の困窮者支援団体から180億円などが続々寄せられた。昭和21年、都内89校を手始めに脱脂粉乳はじめの学校給食が開始。小生も脱脂粉乳の味を覚えている。

 次に米軍接収施設が日本に及ぼした音楽、ファッション、性のそれぞれについて調べ記してみたい。

コメント(0) 

天皇の戦争責任(39) [千駄ヶ谷物語]

syowatenno_1.jpg 『東京プリズン』の米国ハイスクール留学のマリちゃんのために、小生も「天皇陛下の戦争責任」について少しお勉強。まず『「東京裁判」を読む』から~

 半藤「ポツダム宣言は軍隊の無条件降伏で〝国体護持の保証を条件に日本国は降伏する〟と言っている」。保坂「つまり〝天皇を裁かない〟が条件」。半藤「だが国民は余りに愚か・残酷な戦争ゆえ〝何もかも糞くらえ〟の気分」。保坂「国体護持には三つの考えがあった。(1)旧憲法のままの形で継承。(2)旧憲法から離れるも天皇が主権者・元首は変わらない。(3)天皇の名前と存在が認められればそれでいい。

 半藤「天皇はマッカーサーと10回も会談。まさに〝たった一人の反乱〟で(3)まで頑張った」。保坂「裁判所条例を出したのが昭和21年1月19日。天皇を訴追しないと決めていた」。半藤「ゆえに御前会議にはふれていない。共同諜儀になりますから」。保坂「天皇を訴追したら米国は百万の軍隊が必要になるという認識もあった」。同書余白に小生のメモ。~米国は防共の為に天皇制を利用し存続させた。また同書には真珠湾攻撃は奇襲ではなく、半藤「ルーズベルトもハルもマーシャルも事前に知っていたから、奇襲と云えば米国が墓穴を掘るゆえ有罪認定から外れていた」

 次に古川隆久著『昭和天皇』(写真)を読む。第五章「戦後」。「木戸日記」に概ねこんな記述があると紹介。。天皇「戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍び難い。自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」。天皇は責任を感じていたが、木戸が「退位が皇室廃止に結びつく可能性」を指摘し、退位に至らなかったと。

 9月25日のNYタイムズの天皇インタビューで「裕仁、記者会見で東条に奇襲の責任を転嫁」の見出しで掲載。だが天皇発言とされる東条批判部分は、勅書の利用のされ方についてで、開戦判断の責任についての言及ではなかったと説明。

 天皇・マッカーサー会見10回の内容は、一部公開のみだが、その内容は「宣戦布告前に攻撃する意図はなかったが、そうなったことを含め、日本の行動に対し自分に最終的な責任があると明言していた」らしい。マッカーサーは「陛下が平和の方向に持って行くため御軫念(しんねん=天子が心を痛めること)あらせられた御胸中は、自分の充分諒察申上ぐる所」と同情。元帥側近のフェラーズ准将は「天皇の君主としての責任は明らかだが、天皇の〝聖断〟で米国被害を減らすことができた」。そして「天皇を訴追したら、さらに百万の軍隊が必要になる」。

 以後は、各自のお勉強にお任せ。なお同著には、昭和天皇批判論は井上清著『天皇の戦争責任』、擁護論は栗原健著『天皇』が定評高いと紹介。マリちゃんに教えてあげよう。それにしても千駄ヶ谷は、かくも様々な問題を考えさせます。次回から「ワシントンハイツ」の影響について。

コメント(0) 

東京裁判と「原田日記」(38) [千駄ヶ谷物語]

saiban2.jpg_1.jpg 徳川宗家が慶喜から家達に代わって、家達邸がGHQ接収で将校クラブ「マッジ・ホール」へ。小説『東京プリズン』では主人公・母が同所出入りで「東京裁判」資料下訳をし、娘は米国高校で「天皇の戦争犯罪」肯定のディベートに臨む。そして戦前の千駄ヶ谷のお屋敷住人らに「東京裁判」関係者が多いと知って千駄ヶ谷物語〟は「東京裁判」お勉強が強いられている。

 前回の続きです。第3章:弁護側立証を読む ~の鼎談で井上亮「弁護側が出した文章は公文館所蔵約2130件、頁数約15000。だが焼却を免れた資料ゆえ証拠能力に乏しかった」。清瀬副団長の冒頭陳述について保坂「彼の能力では無理だった。〝共同諜議〟の概念が分かっていなかったのではないか」。半藤「御前会議が共同諜儀にあたると思い当たっていたのではないか。それより欧米列強に圧迫、屈辱を受けてきたアジア諸国の歴史を代表して語れば良かったんだ」。さらに「そもそも国民や民間は、軍部が何を考えていたかなんて知らなかったし、軍事的知識もなかった」と弁護力不足を指摘していた。

 そして三人の同意見「ポツダム宣言受諾時の首相・鈴木貫太郎が『終戦の表情』で、天皇の意思に反して陸軍が誤った侵略戦争をしたと記しているのだから、彼に発言させたかった」。また三者は繰り返して「勝者の無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下などを列挙すれば〝日本人は残虐〟だなんてレッテル付けも出来なかったはず」と悔しがる。

 以降は、第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄~と続くが、〝千駄ヶ谷〟からどんどん離れるので、この辺で止める。最後に鳩森八幡神社の隣で在住だったジャズ評論家・久保田二郎著が「僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊雄男爵家」とあったので「原田日記」について記す。

 「東京裁判」の個人弁護段階で、検察側の反証材料で突然に「原田日記」が登場する。185件提出で140件も採用。同日記は最後の元老・西園寺公望のために私設秘書・原田熊雄が動き回って情報収集した「西園寺公と政局」と題された記録。原田が近衛秀麿夫人(泰子)を筆記役に口述。原田没後に里見弴(原田の親戚)が原稿整理。加筆もあろうし不正確情報もあったらしいが、400字×7千枚の膨大日記。

 原田は皇室や宮廷官僚とはいい関係も、政治家や軍人関係の話は〝また聞き〟が多かった。軍部は同日記を危険視。東条英機も原田を毛嫌いしていたとか。裁判では『原田日記』と『木戸日記』では違った記述があって、両日記比較による反証が多かったらしい。

 なお『西園寺公と政局』は全8巻・別巻1セットで岩波書店刊。『木戸幸一日記』は上下巻で東京大学出版会刊。両日記を較べ読むのがいいそうだが、小生にはそこまで読む気力がない。最後に米国高校で「天皇の戦争犯罪」ディベートに立つマリちゃんのために、その辺も少し勉強してみたい。写真は東京裁判被告写真(国会図書館デジタルより)

コメント(0) 

『「東京裁判」を読む』(37) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0991_1.JPG 『「東京裁判」を読む』は第1章:基本文書を読む 第2章:検察側立証を読む 第3章:弁護側立証を読む 第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄。そして各章毎に半藤一利・保坂正康・井上亮の鼎談で構成。

 三者は冒頭で「裁判記録が60年余(2008年)後に公開されて、今は従来の〝東京裁判史観〟軸の政治的解釈ではなく、歴史的に捉えるべき(史実検証)時と確認し合う。かつ東京裁判は〝勝者の裁き〟で、勝者も無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下、さらにはベトナム戦争など〝戦争犯罪〟を裁ける立場ではなく、東京裁判を受けた日本人こそが裁判批判可能と語る。

 それにしても「裁判記録を読むほどに、日本人は無知過ぎた」と三者は嘆く。無理もない。国民も一般兵も耳にするのは〝大本営発表〟のみ。さらに終戦同時に軍部(マスコミも)は戦争資料を徹底的に焼却し尽くした。ドイツ文書は保存されているも、日本人は歴史に対する責任皆無。これでは弁護ができるはずもない。法務省地下倉庫に30年余も眠ったままで、国立公文書館へ移って公開された資料は、焼却を免れたものばかり。いきおい『高松宮日記』『原田日記』『木戸日記』などがクローズアップ。公文書破毀、隠蔽、改ざん~ 現在の日本行政も余り変わっていない。

 第1章:基本文書を読む ~の鼎談では「東京裁判」はポツダム宣言(軍隊降伏で、国家は無条件降伏ではない)を根拠で行われたマッカーサー裁判。同元帥は天皇を訴追しない、東條と数人を裁いて終わりの予定だったが、ニュルンバルク(ドイツ)裁判の「平和に対する罪」「人道に対する罪」を採用したことで訴追対象が拡大したと指摘。

 第2章:検察側立証を読む ~の鼎談ではA級(級=カテゴリー)で百人余も逮捕するも、冷戦開始で裁判どころではなくなってA類戦犯28名に止まった。メインの南京事件も資料なしで証言だけ。20~30万人説もあるが半藤は3万人で、秦郁彦調べでは4万人とか。先日(5月13日)、BS日テレNNNドキュメント’18で「南京事件Ⅱ」の再放送を見たが、兵士インタビューや焼け残った資料からの再現映像があって、観ていて鳥肌が立った。

 半藤「日本は中国と何のために戦争をしているのか分からなくなって政府発表した。それが<日中戦争の理想は我国肇国に精神たる八紘一宇の皇道を四海に宣布する一過程として、まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり>。何年か前に、若い女性タレント議員が国会で「八紘一宇は大切な価値観」と言ったニュース映像が流れ、腰を抜かしたことがあった。

 またこんな記述もあった。保坂「東条は国際法を知らない。無茶苦茶です」。半藤「当時の日本の指導者には国際法の知識がなかったんですよ。みんな〝夜党自大〟であった」。保坂「東京裁判の怖いところは、被告たちの証言で彼らの無知、愚かさが浮かび上がってくるところです」。おぉ、怖い怖い。今も為政者のレベルは同じような気がしてなりません。(続く)

コメント(0) 

千駄ヶ谷と東京裁判(36) [千駄ヶ谷物語]

saiban1.jpg_1.jpg 赤坂真理『東京プリズン』は、母が「マッジ・ホール」出入りで「東京裁判」資料下訳をし、米国ハイスクール留学のマリは「東京裁判」見立てのディベートに立つ。

 実は小生の息子も米国ハイスクール卒。真珠湾攻撃の日にいじめられるのではないかと心配したもの。

 千駄ヶ谷の戦前のお屋敷住人を調べれば、「東京裁判」関係者が多いのに気付く。徳川邸前に住む幣原喜重郎は「原爆なる武器出現の世に戦争など真っ平御免」と「平和憲法」へ。鳩森八幡神社の南側在住だった松岡洋右は国際連合脱退、日独伊三国同盟締結時の大臣で「東京裁判」出廷後に病死。その南側に住んだ林銑十郎は、陸軍大臣・内閣総理大臣で昭和18年2月死去。もう少し長く生きていたら「東京裁判」主役の一人だったかも。

 同神社隣の久保田二郎が「僕の家の横手が〝原田日記〟の原田熊雄男爵家」と記す、その「原田日記」(「西園寺公と政局」)は、検察側の反証材料に140件も採用。獅子文六の三番目の妻は、原田熊雄の妻と姉妹。文六家の南は「東京裁判」日本側弁護団長の鵜沢聡明。團琢磨邸跡の一画に住んだのは重光葵(「巣鴨日記」)。原宿竹下口の奥には東條英機に次ぐ主役・広田弘毅(主に盧溝橋事件と南京事件で訴追)も住んでいた。

 どうやら千駄ヶ谷は「東京裁判」抜きでは語れそうもない。小説『東京プリズン』にはA級B級C級の記述が幾度も登場するが曖昧のまま。まずはそこからお勉強です。教科書は思想的偏りのない著作が肝心。半藤一利・保坂正康・井上亮の『「東京裁判」を読む』(平成21年、日経ビジネス人文庫)を選んだ。

 A級「平和に対する罪」、B級は「通常の戦争犯罪」、C級は「人道に対する罪」。BとCの区別が曖昧ゆえ「BC級戦犯」と一括で呼ばれもした。「BC級戦犯」は世界49ヶ国で起訴件数2244件、被告者約5700人。各国の軍事法廷で約1千人が死刑判決。赤坂真理の母は「BC級裁判」資料の下訳だったのかしら。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)は昭和21年(1946)5月3日~昭和23年11月(2年半)に市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で行われた。日中・太平洋戦争時の政府・軍指導者を新たな概念のA級「平和に対する罪」で裁き、7名が絞首刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑。

 これら裁判資料は朝日新聞の裁判取材で収集したものの他に、昭和31年(1959)の「戦争裁判関係資料収集計画大網」省議決定で本格収集。国内外で行われたA級・BC級約2千数百件、5千数百人に関する膨大文書を収集。後者資料は平成11年(1999)まで法務局倉庫に30年余も眠ってい、法務局から国立公文館に移管されてマイクロフィルム化、平成19年(2007)4月に初公開。「A級裁判記録」約6千件、文書枚数は約5万8千枚。300頁書籍換算で200冊相当。翌年に〝コマ番号化〟されて検索し易くなった。

 膨大さゆえ読み込むのは至難。前述の3名が1年間読み込んだ分をまとまたのが『「東京裁判」を読む』。前段が長くなったので本題は次回へ。(写真は国会図書館デジタルコレクションより)。

コメント(0) 

マッジ・ホールと津田塾(35) [千駄ヶ谷物語]

tudajyuku_1.jpg 赤坂真理は千駄ヶ谷をこう記していた。「千駄ヶ谷は昔を歩いているような気分になる町だ。都心に近い山の手なのに、エアポケットのように昔の風情が残っている」。獅子文六も同じような文章を残している。

 『東京プリズン』の主人公マリは、母が千駄ヶ谷へ通ったワケを電話で問う。以下、会話文を要約する。母「津田で速記を習っていて、近くにマッジ・ホールというのがあったのよ。たぶん進駐軍の施設で」「どういうスペル?」「MUDGE」「ワシントンハイツみたいなところ?」「あぁいうのじゃないの。住居ではなく将校が集まるようなところ。たぶん、もとは個人の邸宅」「どんなどころ?」「洋館なの。入ると絨毯が敷いてあって~。そこは今、東京体育館があって、昔はその通り沿いに、出入りの商屋みたいのが並んでいた。あと鳶とかの職人、井戸掘り屋とかがあって。そこは高台だから、自然に坂になってるでしょ。下がると川があって観音橋があった。川のそばには貧しい集落もあった」

 マリの母は日本女子大英文科で、千駄ヶ谷の津田で速記を習った。その縁から「マッジ・ホール」に出入りして「東京裁判」の下訳をするように至る。千駄ヶ谷駅前の津田塾概要も知っておこう。

 Webサイト「津田塾大学」を見る。明治33年(1900)、津田梅子が私塾「女子英学塾」を生徒10名で麹町1番地に開校。明治36年、元園町を経て5番町へ移転。昭和6年(1931)に小平市に新校舎。昭和23年(1948)、津田塾大設立。千駄ヶ谷が出て来ないので、次に「津田塾大学同窓会」のサイトを見る。

 昭和21年(1946)「津田英語会」規模拡大のため、千駄ヶ谷の鷹司侯爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成。昭和23年「津田スクール・オヴ・ビジネス」各種学校認可。昭和24年、津田英語会拡大のために千駄ヶ谷の土地1613坪を購入。昭和26年、津田英語会鉄筋コンクリート校舎落成。昭和63年(1988)(財)津田塾会「津田ホール」建設。

 鷹司公爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成の〝裏〟を読む。確か徳川家達の実母は津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子は従兄妹。そして鷹司信輔の妻・綏子は、徳川家達の次女ではなかったか。この地は元・徳川家達敷地ゆえ、綏子から鷹司家へ渡ったものと推測してみたが、いかがだろうか。

 さて、クラシックの殿堂と称された「津田ホール」(写真)は今はない。小生の千駄ヶ谷散歩が最後の姿で、現在は工事癖に囲まれて解体~津田塾大の千駄ヶ谷キャンパスの教学施設になるらしい。ちなみに同ホールは槙文彦設計で、槙は数年後に現・東京体育館を設計。

 千駄ヶ谷は江戸の寺院を残しつつ明治維新、明治神宮出現、戦前から戦後へと様々に変貌を遂げ、今また国立競技場、津田ホールが姿を変えつつある。渋谷川は暗渠になったが、町の様相は〝ゆく河の流れは絶えずして~〟です。(※後に大庭みな子著『津田梅子』を読んだので、機会があれば興味深い幾つかの同大エピソードを記したい)。

コメント(0) 

赤坂真理『東京プリズン』(34) [千駄ヶ谷物語]

akamari1_1.jpg 保科順子著『花葵~徳川邸おもいで話』に、GHQ接収で「マッジ・ホール」と名を変えた徳川邸を訪ねる記述があった。そこの将校らが何をしていたかは書かれていないも、将校クラブと聞けば〝松本清張的勘〟でクンクンと探りたくなる。クン!と反応したのが赤坂真理の小説『東京プリズン』(2012年刊、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学書)だった。

 『東京プリズン』は、16歳少女が米国ハイスクール留学の進級に「東京裁判」見立てで「昭和天皇は戦争犯罪人である」を肯定するディベートに立つことになり、それを自身の母子の女系物語に絡めた内容。同小説を書くに至った理由を「そもそも私の家には、何か隠された秘密があった」で、母には英文科時代に津田塾を出た人から東京裁判資料の下訳を誘われて千駄ヶ谷の「マッジ・ホール」に出入りしていたキャリアが明らかになる。

 ネット掲載の著者インタビューで「それは事実で、父もGHQ通訳していた」と語っていた。著者は小説のなかで千駄ヶ谷をこう記す。「マッジ・ホールはGHQ接収前は徳川宗家になった徳川家達邸で、大河ドラマの天璋院篤姫が晩年を過ごした場所。つまりは、私たちは何代か遡ればすぐ江戸時代に到達してしまうのに、江戸時代をまったく断絶した共感不能なものとして感じている。マッジ・ホールは江戸と明治の断絶の象徴のようにそこにあったのだが、そこを通った昭和の人間は、すでにそれに思いを馳せることはできなかった。私たちは明治維新と第二次世界大戦後という大断絶を二度経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしくなっている」

akasakasinsyo_1.jpg そう、千駄ヶ谷の最も大きな魅力は、それら時代断絶の溝が幾つも秘められているところだろう。江戸時代の長閑な郊外情景と明治維新・大日本帝国の溝。寺社だけでも神仏習合、別当寺、神仏分離、廃仏稀釈などの溝。明治天皇を祀った明治神宮内苑と外苑の狭間の千駄ヶ谷。学徒出陣の舞台「明治神宮外苑競技場」と戦後の2度のオリンピック。軍部愚挙に耐え忍んだ日々とGHQ接収によるアメリカ文化の影響。戦前の高級住宅地と戦後の連れ込み旅館街のギャップ。そうした時代の断絶、溝の宝庫が千駄ヶ谷なんですね。

 そんな千駄ヶ谷に触れると、日本とは?を改めて考えたくなって来る。著者も同小説刊の2年後に、日本の諸状況に次々とクエスチョンを投げかけて日本再構築を試みる『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)を著わしている。著者がそこから何を掴んだかは定かじゃないが、著者の今後の問題だろう。

 小生は、そうした断絶と激変の度に、日本人は何かを得て、大事な何かを失って来たような気がしないでもなく「千駄ヶ谷散歩」はウォーキングの域を超えて頭クラクラになる。軽い気持ちで始めた「千駄ヶ谷物語」。鴨長明『方丈記』全文くずし字筆写と同時進行だったが、『方丈記』が終わっても『千駄ヶ谷物語』は終わる気配が未だなし。困惑しつつの続行です。

コメント(0) 

戦前・終戦時の記録・思い出(33) [千駄ヶ谷物語]

sibuyatosyo_1.jpg 読みたい本があって、渋谷区中央図書館へ行った。同地は元池田侯爵邸跡。池田侯爵を調べれば、鳥取藩主14代の池田仲博。なんと!徳川慶喜の5男じゃないですか。池田侯爵の嗣子没で、彼は同家次女・亨子に婿養子。池田侯爵家を相続・襲爵。かつて「徳川慶喜は自転車好きだった」で登場の、父と共にポタリングの〝彼〟だった。

 同邸の庭設計は著名な長岡安平で、鴨池のある典型的な貴族庭園だったらしい。池田家が同邸処分後の昭和12年に「海軍館」(海軍資料展示。現在は原宿警察署)が、昭和15年に「東郷神社」(日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎を祀る)が建った。図書館はその一画に在り。

 お目当ての書を借りて閲覧予定だったが「貸出致しましょうか」に誘われ、渋谷区立図書館利用者カードを作ってしまった。ならばと地域資料コーナーで以下3冊を借りた。各書の概要を記す。

 『千駄ヶ谷昔話』(渋谷区教育委員会)は大正末期~昭和初期の千駄ヶ谷1、2、3丁目通り、千駄ヶ谷大通り、観音坂通り、北参道、鳩森小学校界隈、代々木駅前など全15地区の当時の詳細地図(店舗名入り)と説明で構成。

 雨宮央樹著『原宿わんぱく物語』:空襲で焼け野原になった原宿・神宮小学校(表参道の青山同潤会アパート裏)の青空教室で授業再開の少年が主人公の小説7話。米兵が子供らの頭からDDTを吹き掛けるのに抗議した新任女性教師。それに応えて石鹸をくれた日系二世兵との交流。彼は肺炎で入院中の級友母の為にペニシリンも調達。

 秘密トンネルから明治神宮へ忍び込んで池の鯉を捕った話。隠田川の清流、代々木練兵場から巻き上がる赤土を含んだ「練兵場颪(おろし)」。GHQ指令で各学校設置の奉安殿(御真影と教育勅語を納めた)の取り壊し作業。ラジオにかじり付いて聴いた放送劇「鐘の鳴る丘」や全米水上選手権の古橋選手らの活躍実況。爆弾でさらに深くなった東郷神社の爆弾池に潜り赤フンが絡まっての瀕死体験。絵画館前池での水遊び、同潤会アパート在住だった大投手スタルヒン家の少年との交流~。

 家城定子著『原宿の思い出』:海軍館の明治通り反対側の「吉川酒屋(空樽問屋)」で少女時代を過ごした方の思い出。隣が團琢磨家。当主は岩倉具視の遣米欧使節団で米国で鉱山学を学んで三井財閥総帥へ。昭和7年に血盟団員に暗殺された音楽家・團伊玖磨の祖父。明治通り反対側の実業家・池田亀三郎邸の思い出。池田侯爵邸跡に海軍館や東郷神社が建つ経緯。そして実家の空樽倉庫は「民芸」稽古場へ。原宿3丁目町会や明治神宮の見世物小屋のこと。

 さらには原宿・宮廷駅の北側一帯、数万坪を有した徳大寺侯爵邸跡地(千駄ヶ谷3丁目)に政治家・永井柳太郎、経団連会長・植村甲午郎、龍角散の藤井家、江利チエミ(チエミ御殿・洋館。林真理子のモデル小説「テネシーワルツ」に注目)、片岡仁左衛門などが続々移転してきた話。片岡仁左衛門65歳、妻26歳、女中12歳と65歳は、昭和21年3月に12歳女中の兄(22歳、座付き見習い作家として住み込み)の食糧難の恨みで斧で全員殺害された。

 徳大寺侯爵は明治店天皇の侍従長・徳大寺実則。父は徳大寺公純で公家・鷹司政通の子。実則の弟が侯爵・西園寺公望。西園寺の私設秘書・原田熊雄(鳩森八幡神社近くに在住)の「原田日記」は「東京裁判」で140記述の採用。千駄ヶ谷や原宿の高級住宅地に住む貴族・軍人らの名を知れば、千駄ヶ谷物語は「東京裁判」へと誘われます。

コメント(0) 

千駄ヶ谷周辺のGHQ接収(32) [千駄ヶ谷物語]

palace_1.jpg 終戦翌月の昭和20年(1945)9月18日、明治神宮外苑はGHQ接収で「メイジパーク」となって米将兵運動場になった。野球場が「ステートサイド・パーク」で内野に芝生が張られた。競技場が「ナイル・キニック・スタジアム」(ナイル・キニックはアメリカン・フットボールの名選手名)。共に照明塔新設でナイトゲーム可能に。神宮プールは「白人専用プール」、相撲場が「メイジボール」でボクシング場。中央広場にはテニスコート、ソフトボール場などで「神宮レクリエーション・フィールド」、日本青年館は「メイジ・ホテル」。そして徳川宗家邸が将校クラブ「マッジ・ホール」へ。他には現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)も接収。将校家族用に現・明治通り沿いのBSテレビ朝日の地に建っていた和洋折衷の池田侯爵(鳥取藩主)邸の一部、その向かいの團琢磨邸跡のドイツ大使・武者小路金共(実篤の兄)の洋館も接収。

 「ステートサイド・パーク」は米軍優先ながら、戦後初の6大学野球OB戦、早慶戦、大相撲夏場所(国技館接収のため)、プロ野球初の日本選手権試合なども行われた。また「ナイル・キニック・スタジアム」では早慶サッカー定期戦をはじめ陸上競技も行われた。「プール」ではトビウオ・古橋広之進選手が活躍。そして昭和27年(1952)に接収解除。

 「代々木練兵場(代々木の原)」(92.4万平米)は合衆国空軍兵と家族のための団地「ワシントンハイツ」へ。兵舎と家族住居827戸に学校、教会、商店、将校クラブなど。昭和27年(1952)のサンフランシスコ条約で日本占領終了も、今度は安保条約で〝在日米軍〟となって引き続き駐留。全面返還されたのが昭和36年(1961)11月で、その後の東京オリンピック選手村・競技場用地になった。

 千駄ヶ谷の西側が「ワシントンハイツ」ならば、東側の現・国立劇場や最高裁判所辺りの2万坪が「パレスハイツ」(写真。国会図書館デジタルのモージャー氏撮影より)もあった。同ハイツ返還は昭和33年(1900)11月。そして青山霊園東側、現・国立美術館の地にあった旧陸軍第一歩兵師団第三連隊(麻布三連隊。2.26事件で多くの反乱将校が所属)、第一連隊(現・東京ミッドタウン)も接収。現在のその一部「赤坂プレスセンター」の名で「星条旗新聞社」、ヘリポート、米陸軍宿舎「ハーディー・バラックス」は接収されたまま。

 GHQはかく千駄ヶ谷周辺の多数施設接収だが、同時に「神道指令」(国家神道の廃止、政教分離)。国立競技場を除く「明治神宮内苑・外苑」が国から離れて「宗教法人・明治神宮」へ。さらに現在は、外苑北側・信濃町は「創価学会の街」と化していて、北参道際には「神社本庁」(日本会議の主団体)があり、代々木に共産党の本拠地。

 いかなる宗教団体、政治団体にも属さぬ小生は、この辺を散策する度に胸底に戸惑いを覚えざるをえない。それら真ん中に位置する千駄ヶ谷は、なんともスリリングな町とも云えます。次は赤坂真理小説『東京プリズン』を読む。

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。