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新井白石、千駄ヶ谷で隠棲~3(追加メモ5) [千駄ヶ谷物語]

hakusekihaka_1.jpg 「正徳の治」の内政主施策は朝幕関係の融和増進(朝廷の幕府信頼の向上)、武家諸法度改定(従来の武断主義に〝仁政〟理念を加味)、元禄期の金銀貨改悪を改善、司法関係諸事件の処理(前述の大赦、評定所の改革など)。

 外交面では対朝鮮外交の刷新、対琉球外交の強化、清・阿蘭陀など長崎貿易の改革(貨幣改鋳や密貿易取締りなど)。

 宝永6年(1709)にはイタリア人カトリック宣教師シドッチ(41歳)の小石川・切支丹屋敷で尋問。シドッチは屋久島~長崎奉行~同屋敷へ。白石は彼から欧州各国の地理、政治、日本への潜入事情などを三日をかけて詳細聞き取り。処分は生活費を与えて同屋敷拘留も、後に獄卒夫妻が洗礼を受けたことで地下牢へ。シドッチは正徳4年(1714)獄死。(数年前に出土の人骨3体の一つがシドッチだろうと報道されている)

 白石は併せてオランダ商館長とも会談し、今度はプロテスタント側も調査。ここから後の名著『西洋紀聞』を著わした。さらに琉球使節との対話から、これまた後の沖縄研究の名著『南島志』を刊。オキナワに〝沖縄〟の漢字を宛てた。

m_kirisitanzaka1_1.jpg また白石は正徳元年、55歳で辞職申請するも許されず。逆に加増五百石で計千石、拝領屋敷も一ツ橋外(小川町)へ。正徳2年10月、将軍家宣没。家継が7代将軍に。享保元年(1716)、家継の8歳没まで仕えた。8代将軍に吉宗就任。前将軍の近習者全員罷免。すでに白石は辞職願済で未練なし。旗本の身分、千石そのままで屋敷替え。その地が内藤宿六間町だった。

 「内藤宿 窪田弥惣兵衛五百五拾八坪之上ヶ屋敷」。当地へ行けば「杭は打たれているも周囲には誰も住んでなく麦畑が広がっているばかり」。まずが伝通院裏門辺りに仮寓するも、享保6年(1721)に焼失で、同年七月に千駄ヶ谷に家作。この時、白石65歳。

 手紙に「四谷大木戸より左の方へ十二町計り入り候処~」。現・新宿御苑内一隅で、文字通りの隠棲。「閑静にして言ふこと少なく。営利を慕わず」。庭には美しい草花が満ちての学究・著作生活。同時期の主著作は、わが国の学術上の大遺産『経邦典例』(歴史書21巻)、『史疑』(現存せず)、地理書『蝦夷志』『奥羽五十四郡考』『采覧異言』、古代史解釈の『古史通』など。

 享保10年(1725)5月、60歳で没。浅草報恩寺内(寺中寺)の高徳寺に埋葬(同寺は中野区上高田に移転。写真上の石垣内に夫妻墓石。左「新井源公之墓」)。写真下は切支丹屋敷跡。志賀直哉が自転車で切支丹坂を下ったと自慢する随筆ありで、7年前に同坂を訪ねた折の写真。

 藤沢周平全集・第22巻『市塵』を読んだ。最終28頁ほどが千駄ヶ谷暮し。そこで室鳩巣のこんな言葉があった。「(次代将軍・吉宗は)おそれながら文盲にてあられられる」。読み書きが出来ぬ?まさか、教養がないの意らしいが~。敬遠してきた新井白石だが、江戸の学者ゆえ身近な地に足跡がある。今後は抵抗なく彼の著作が読めそうです。

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新井白石の前半生~2(追加メモ4) [千駄ヶ谷物語]

hakuseki.jpg_1.jpg 宮崎道生著『新井白石』(吉川弘文館)、藤沢周平『市塵』(文芸春秋)を参考に、新井白石の前半生のまとめ。

 父、13歳で江戸へ出奔。31歳で土屋利直(上総久留里藩主で徳川秀忠の近習)に召し抱えられて目付役に。古武士的風姿。母は奥女中(訳あり?)出身で歌道、書道、琴などの教養あり。白石は父57歳、母42歳の明暦3年正月の「明暦大火」直後に長男として誕生。土屋利直は白石を「火の児」と呼び、実子のように寵愛(これも訳ありそう)したとか。

 幼くして聡明。神童。剣術にも熱中。延宝3年(1675)に土屋利直死去。同家内紛から父は謹慎処分~浪人生活へ。父75歳、白石21歳だった。既に3人の姉も亡く、母も死去。白石は浅草在住。この頃、なんと!俳諧に凝って桃靑(芭蕉)と競っていたとかで、ちょっと驚いた。富商の婿養子、医業への勧め、縁談などあるも拒否。

 天和2年(1682)、白石26歳、奉公構えが解けて、5代将軍綱吉の大老・堀田正俊に仕える。その数か月後に父没。朝鮮使節来日で自身の『陶情詩集』の批判を乞い、序文などを贈られる。同年、大老が木下順庵を招聘し、白石(30歳)も順庵に入門。

 この年、白石は堀田家の藩士の娘と結婚。元禄4年(1691)35歳で嫡男誕生も、堀田正俊が城内で暗殺(謎)されて再び浪人生活へ。私塾で生計。元禄6年〈1693)末、順庵の推薦で儒者として甲府藩・綱豊(江戸桜田邸)に仕える。この頃の白石の家は、湯島天神の崖下辺り。元禄16年(1703)11月に大火、4日後に元禄大地震、その7日後も大火で湯島の白石家も焼失。。

 綱豊に『四書』や『五経』を講義。5年後に宝永元年(1704)12月に綱豊が綱吉の世継ぎに決まって、名を家宣と改名。白石48歳、西ノ丸御側衆支配「西ノ丸寄合」の身分へ。家宣に帝王学を進講。白石の教えは孔子の「仁」の政治。すなわち「仁政」+「詩書礼楽」とか。

 宝永4年(1707)5月、白石は雉橋外の飯田町に355坪の屋敷を拝領。11月に富士山大噴火。江戸に鳴動と黒い灰が降った。宝永6年(1709)1月に綱吉逝去で、家宣が6代将軍に。この時、白石は53歳。

 新体制は間部詮房が側用人。老中格・柳沢吉保の隠居願いを許可。大学頭・林信篤の職責大半を白石が担って500石の幕臣へ。「生類憐みの令」廃止と未決囚8831人を釈放。白石が教えた「文を以て治をいたす=仁政」、家宣の〝正徳の治〟が始まった。今回はここまで。専門家が記す人物評伝は、知識豊富ゆえだろう、話があっちこっちに飛んで、こうして時系列に短くまとめるのも(自分流の取捨選択)大変です。写真は国会図書館デジタルコレクションより。

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新井白石終えんの地(追加メモ3) [千駄ヶ谷物語]

araibotu_1.jpg 新宿御苑・千駄ヶ谷門の横、鳩森小学校の御苑側、千駄ヶ谷6丁目1番1号に「新井白石終えんの地」史跡案内板がある。御苑は子供時分から馴染で、同看板の存在は知っているも、新井白石に興味抱かず仕舞いだった。

 目下ブログは「貝原益軒」シリーズ中で、益軒は京都遊学の明暦3年(1657)頃から「木下順庵」と相往来。順庵が江戸幕府に儒官として招聘されると、江戸での門下の一人が新井白石だった。

 かくして初めて新井白石を知りたく相成候。そこで改めて「千駄ヶ谷物語」は『江戸名所図会』や『絵本江戸土産』からスタートしたも、歴史的には新井白石から入るべきだったと反省。

 まずは『森銑三著作全集』から〝新井白石評〟を拾いつなげてみた。「江戸の学者に新井白石あり。儒学から出て、史学に、地理学に、語学に新生面を開いた。その覇気の強いのは、やはり関東の生んだ学者であった。またその詩は近世期の第一人者とせられるし、或はその仮名交じり文もまた近世期の第一人者に推してよいのではないかと思われる偉才であった。それにしても白石は『折たく柴の記』(松岡正剛も新井白石を江戸時代きっての大学者と評し、同著は〝屈指の自伝文学〟と紹介)や、『藩翰譜』(江戸時代の家伝・系譜書。全12巻)の独自の文体を、一体古典の何から得たのであろうか。詩人としても近世文芸史上に決然として群を抜いてゐる」

todaiotitaku.jpg_1.jpg 新井白石は千駄ヶ谷に隠棲してから、友人への書簡にその地をこう説明したそうな。「此たびの新宅は、内藤宿の六間町と申す所に候。其辺に千駄萱の八幡とか申す有之候。かの社より西の方、六~七町の可有之候」

 同地に隠棲した白石は著作活動に没頭だが、その合間に鳩森八幡神社へも散歩をしただろう。いや、そんな事より「新井白石」をスルーしてはいけないような気もした。写真上は「新井白石終えんの地」の史跡看板辺り風景。

 『折たく柴の記』を探したら、森鴎外の直筆入りの東京大学総合図書館所蔵「森鴎外文庫」よりの同書表紙を見つけた。赤字で「明治三十一年三月源高堪」ゆえ鴎外直筆だろう。読み違いもあろうが面白いので記す。「我家に折たく柴記写本三巻あり。本書中巻三十六頁「外使の事しるすにつけて」云々より下を漫(みだ)りに分ちて三巻とせたものなり。中山堂の桜(印)あり。貸本屋などいふものゝ押したるにや直ちに破り棄てんも惜しければ試みに対校して本書の傍に註す」。昔の人はみんな白石を読んでいたんですね。次回は新井白石の経歴概要。

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草木丹精より重いわが身の養生(10) [貝原益軒「養生訓」]

yojo4_1.jpg園に草木をうへて愛する人ハ、朝夕心にかけて水をそそぎ、土をかひ、肥をし、虫を去て、よく養なひ、其さかえを悦び、衰へをうれふ。草木は至りてかろし、わが身は至りて重し。豈わが身を愛する事、草木にもしかざるべきや。思ハざる事甚し。夫(それ)養生の術をしりて行なふ事、天地父母につかへて孝をなし。次にわが身、長生安楽のためなれば、不意なるつとめは先さし置いて、わかき事より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふハ、是人間第一のおもくすべき事の至也。

<爺婆談義> 爺:「わかき事より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふハ~」は後の祭りで、若い時分は「止めてくれるな、おっかさん」。カウンターカルチャーの青春で、親の反対が何でも良かった時代。随分と無茶をしてきた。婆:そんな若かったあたしたちを、両親はどう見ていていたのだろうか。爺:それでも親は親。行き詰まったり、辛くなったりすれば、黙って応援してくれていた。婆:比して益軒さんも奥さんも、子供時分からひ弱で養生が第一。無茶はしなかった。爺:同じ儒学者でも「新井白石」は剛毅だった。眉間に「火の字」。烈火のごとく激しい性格で武術も夢中。白石だったなら、これほどまでに「養生大事」とは言わなかった。

<私注> 「土をかひ=土を交う・換ふ=土を入れ違いにする」。「しかざる=如かざる=如の否定。及ばない」。

★新井白石が出てきた。貝原益軒と新井白石の師は「木下順庵」で、新井白石の終焉の地が「千駄ヶ谷」ゆえに、次回は「千駄ヶ谷シリーズ」(追加メモ)です。

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身命を養うには久しく行うこと(9) [貝原益軒「養生訓」]

yojo3_1.jpg万の事つとめてやまざれハ、必しるしあり。たとへば、春たねをまきて、夏よく養へば、必秋ありて、なりはひ多きが如し。もし養生の術をつとめまなむて、久しく行はゞ、身つよく病なくして、天年をたもち、長生を得て、久しく楽まん事、必然のしるしあるべし。此理うたがふべからず。

<私注> 「やまざれば=止め・ざれば=止めなければ」。「なりわひ=ここでは作物」だろう。「理=ことわり(道理)」

<爺婆談義> おまいさんは「久しく行はゞ~」が出来ない。テレビで「酢納豆」が良いと言えば、走って酢と納豆を買いに行く。「もち麦」が良い、「砂肝」が良いと聞けばスーパーで探し購う。なんでも最初の数日だけで「久しく行はゞ~」と参らない。飽きっぽいんだ。爺:面目ねぇ。長続き、持続力なし。信念に基づかぬゆえダメなんだろうな。婆:それでもヘビースモーカーのおまいさんが、一度の禁煙でピタッと止めたのは見事だった。今度はそのお腹を平らにすることだな。

<筆写について> 最初は手本を見つつ、たどたどしく書く。そのブログアップした「くずし字」を音読すれば、次第に文の意・韻が浮かび上がってきて、文字が生きていないなぁと思う。かくして少し気持ちを込めて~と書き直すことになる。

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慾より身命。養生術を学べ(8) [貝原益軒「養生訓」]

newyojo2_1.jpg如此ならむ事をねがハゞ、先(まず)古の道をかう(ん)がへ、養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身ハ至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚なる至り也、身命と私慾との軽重をよくおもんばかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危をおそるゝ事、深き渕にのそむが如く。薄き氷をふむが如くならバ、命ながくして、つひに殃なかるべし。豈楽まざるべけんや。命みじかければ、天下四海の富を得ても益なし。財の山を前につんでも用なし。然れば道にしたがひ身をたもちて、長命なるほど大なる福なし。故に寿(いのちなが)きハ、尚書に五福の第一とす。是万福の根本なり。

<爺婆談義> 婆:「五福」とは何ぞや。爺:長命、財力、無病息災、徳を好む、天命を全う。婆:ははっ、おまいさんは「財力なし・徳なし」だ。庶民ゆえ、せいぜいが寺小屋で、儒学を学ぶ教育環境もなかった。爺:てやんでぇ、夏目漱石だって14歳で漢学塾・二松学舎で『孟子』『論語』をさらって漢詩が得意も、やれ「文明開化」ってんで、漢詩より英語習得にロンドンへ旅立ってノイローゼになっちまった。荷風さんだって、小石川竹早町の師範附属小高等科に進学した10歳から、学校帰りに儒学者某の許に立ち寄って『大学』『中庸』をあげて漢詩も書いたが~。婆:結局はフランスに憧れちゃった。「古き道」を歩むのも簡単なこと事ではなかった。

<私注> 「尚書=書経の古名」。「長命なるほど大なる福なし=長命にならねば大なる福はない」「な〝らむ〟=~なのだろう、~であるのだろう」。「ざるべけんや=~しないでいられようか」。「殃(わざわい)」。「豈=あに」(打消し表現を伴って)決して。(下に反語表現を導いて)どうして。くずし字では「哉・楽・處・貴・軽・薄」を暗記カードに記した。

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人の身は天地父母のみまたもの(7) [貝原益軒「養生訓」]

newyojo1_1.jpg養生訓 巻第一 総論上

人の身ハ父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐミをうけて生ま、又養はれたるわが身なれバ、わが私の物にあらず。天地のみまたもの、父母の残せる身なれば、つゝしんで、よく養ひて、そこなひやぶらず。天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひてハ、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不幸なり。況大なる身命を、わが私の物として慎まず、飲食色慾を恣にし、元気をそこなひ病を求め、生付たる天年を短くして、早く身命を失ふ事、天地父母へ不幸のいたり、愚かなる哉。人となりて此世に生きてハ、ひとへに父母天地に孝をつくし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべく程ハ寿福をうけ、久しく世にながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の各願ふ処ならずや。

 ★筆写参考は、益軒が同著刊の正徳3年(1713)から121年後の、天保5年(1834)の浪花・岩井寿楽蔵版。江戸後期「くずし字」木版は読み易い。ここでは現代語訳は省略。

<爺婆談義>で勝手解釈です。爺:おや、端から儒教根本の「孝」です。婆:儒教の芯ですよ。「儒教=子の親への孝」と思われがちも、孔子は祖先への祭祀(過去)~父母への敬愛(現在)~子孫を生む(未来)の生命論として「孝」を捉えたんですね。爺:キリスト教では、子は神の賜物で、仏教は妻帯せずゆえ子を設けない。ホントかいなぁ~。婆:でも「孝行のしたい時分に親はなし」。爺さんのように老いれば~。爺:「飲食色欲を恣にして」も元気なうち。老いれば食いたい物も、色慾もなし。

<私注>「人倫=人として守り行うべき道」。「義理=道理、道筋」。いやだねぇ、こんな言葉にも縁遠くなってしまった。「況=いわんや」。「恣=ほしいまま」。「寿福=長命で幸福なこと」。「なら〝ずや〟=文末に用いて~ではないだろうか」。

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「洋行組」が多かった邸宅主(追加メモ2) [千駄ヶ谷物語]

 千駄ヶ谷の邸宅調べをすると「洋行組」が多いの気付いた。すでに紹介済人物が多いので、以下に洋行記録だけを一覧してみた。

<榎本武揚> 鳩森八幡神社隣接のジャズ評論家・久保田二郎(父・金四郎)邸の前住者が榎本武揚。文久2年(1862)品川発。翌年オランダで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学び、慶応2年(1866)に竣工の「開陽丸」で帰国。「五稜郭」の戦い後に明治政府の逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任。子爵になった。

<團琢磨> 千駄ヶ谷小学校の南側に團邸があった。明治4年(1871)岩倉使節団に同行して渡米。マサチューセッツ工科大・鉱山学科を卒業して明治11年(1878)に帰国。息子は團伊玖磨。

<津田初子> 津田塾本校は小平だが、千駄ヶ谷駅前に津田塾・千駄ヶ谷キャンパスがあるので一覧に加える。津田梅子は、上記の岩倉使節団に随行した女子留学生(最年少の満6歳)として渡米。私立女学校アーチャー・インスティチュートを卒業した明治15年(在米11年)に帰国。帰国後に幾度も徳川宗家・家達を訪ねている。

<徳川家達> 千駄ヶ谷に広大地を有した徳川宗家・家達は、明治10年(1877)、イギリスのイートンカレッジ留学。明治15年(1896)に帰国。

<幣原喜重郎> 徳川家達邸の前。明治29年(1896)に外務省入省。ロンドン、ベルギー、オランダ、ワシントンの領事館や大使館に勤務。大正4年(1915)に外務次官。同8年に駐アメリカ特命全権大使他。軍部に反する平和外交に務めた。第44代内閣総理大臣。原爆なる恐ろしい爆弾が出来た時代に戦争などしてはいかんと平和憲法(戦争放棄)を誕生させた。

<松岡洋右> 鳩森八幡神社の南側に邸あり。明治26年(1880)に渡米。ポートランド、オークランドで勉学後に、オレゴン大学法学部入学。明治33年(1900)卒業。明治35年(1902)、9年ぶりに帰国。

<獅子文六> 千駄ヶ谷小学校の東側。大正11年~14年(1922~1924)にフランス新劇を鑑賞・研究で滞在。フランス人の妻を娶り、ハーフのお嬢さんと千駄ヶ谷生活。

<鷹司信輔> 現・津田塾千駄ヶ谷キャンパスの地が鷹司地所。元・明治神宮内苑宮司。大正13年(1924)、ベルギーで開催の万国議員商事会議参列で渡欧し、1年半ヨーロッパ各国を視察。

<原田熊雄> 久保田二郎邸の横。母がドイツ・日本のハーフ。大正11年(1921)頃に宮内省嘱託としてヨーロッパ見聞。東京裁判の『黒田日記』で有名。

<永井柳太郎> 江利チエミ邸と明治通りの間に邸あり。後の鉄道大臣、逓信大臣、拓務大臣。明治39~42年(1906~1909)にオックスフォード大に留学。

 以上簡単調べですが、元・千駄ヶ谷の邸宅主には、かくも「洋行帰り」が多かったというお話。これほど「洋行組」が固まって住んでいた街は他にないでしょう。(丁寧に調べれば、他にも洋行組がいたかもしれません)

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日本のアリストテレス(6) [貝原益軒「養生訓」]

torirui.jpg_1.jpg 元禄8年66歳、辞職を請うも叶わず。翌年、百石加増で計300石。元禄12年に古希。黒田家の忠之、光之、綱政3代に仕えて翌年に隠居。この頃に親族・学友・知人の死去相次ぐ。好古37歳で没、楽軒78歳で没。

 元禄16年(74歳)。養子の重春が、東軒の姪を娶る。益軒はこの頃は年に数冊ペースの著作。同年刊は『和歌紀聞』『黒田忠公譜』『五倫訓』『君子訓』。

 宝永4年(1707)78歳。蓄髪して「損軒」と号していたが「益軒」と改号。「損」は下に損(へら)して、上に益す。つまり国家安泰・発展が民のための意。「益」は上を損して下に益す。まぁ、同じ意だが、藩主・光之没で人生区切りの改号らしい。

 宝永6年(1709)80歳。本草学者として『大和本草』(草木、禽獣、魚介、鉱石など1360余種についての名称、来歴、形状、性質、効用などを解説。16巻+附録2巻+諸品図2巻)を刊。本邦初の本格・体系的な博物学書。これは後の平賀源内『物類品隲』(宝暦13年・1763)へつながるのだろう。

 正徳3年(1713)84歳。40年余連れ添った妻・東軒が12月に62歳で没。この年に『養生訓』を刊。正徳4年85歳。春に『慎思録』(6巻。哲学・道徳・倫理・教育・修養・交遊・礼儀など古今の典籍から得た持論を漢文でまとめた処世訓)を刊。夏に『大疑録』を成す。

 これは漢文2巻。明和4年・1767年春に江戸の書肆・須原屋市兵衛から刊。「学を為むるには、疑ひなきを患ふ。疑へば則ち進むあり。故に学ぶ」の朱子学信条にのっとって朱子学への疑問を表明。益軒は自ら歩き、観察するが信条。朱子学を知り尽くした上で「知行併進=考えつつ飛べ」的な自然科学的実証主義からの疑問提起。

 同年8月27日、85歳で没。71歳の隠居から85歳までの著作30冊余。生涯の著作98部247巻。山崎光夫著では日本の最大ベストセラーは紫式部『源氏物語』、松尾芭蕉『奥の細道』、貝原益軒『養生訓』と記される。その分野は歴史、政治、農業、地理、医学、本草学(博物学)を網羅で、シーボルトは益軒を「日本のアリストテレス」と感嘆したとか。

 また勉強ばかりではなく、晩年は大いに旅を、読書を、音楽を、家庭生活を、交遊を、著作執筆を、飲食を、自然を、善行を、養生を愉しみ暮したらしい。辞世は漢詩2首と和歌「越し方は一夜ばかりの心地して 八十路あまりの夢をみしかな」。

 菩提寺は福岡市・金龍寺。夫妻同じ大きさの墓。益軒は仏教を捨てたが、実際は多数僧侶とも交流。ここでも寺僧と互いを認め合い、益軒の墓は仏教のしきたりの華燭、花を手向けることなしとか。現在は墓とは別にほぼ等身大の銅像座像が設置。明治32年には森鴎外の「小倉日記」に掃苔記ありとか。次回から筆写に入ります。

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壮年期に健脚を発揮(5) [貝原益軒「養生訓」]

furokukan1.jpg_1.jpg 寛文11年(1671)42歳。藩庁で渾天儀(中国製天文観測機)を説明。『黒田家譜』編纂に着手(6年を経て12巻完成。50両を賜る)。延宝4年(1676)47歳。珍書購入命で長崎へ。この頃から中国・朝鮮の漂流船に筆談調査して、長崎に送り届ける仕事を60歳まで続けたとか。

 延宝7年(1679)50歳、肥後杖立温泉に逗留で『杖植紀行』刊。延宝8年(1680)51歳で大阪、奈良、吉野山に遊ぶ。大和の郡山から有馬温泉へ。武庫山に登って大阪へ。『畿内吟行』『京畿紀行』『大和河内路記』を刊。旅から帰ると福岡藩は疫病・飢饉。知行所で「一人の餓死せしむる事なかれ」で困窮農民に寄金。天和2年(1682)53歳。藩命で藍島に朝鮮通信使を迎えて筆談の大役を果たす。

 益軒、気付けば福岡から京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回。日光東照宮や足利学校も訪ねている。ひ弱だった少年が、中年になって驚くほどの健脚を発揮。その際に自身と同行者(使用人)の「歩幅×歩数=行程距離」も算出。後、60歳になって「算を知らざるは万の事、疎かにて拙し」で『和漢名数』(元禄2年)、『続和漢名数』(元禄8年)も刊。

 まさに福岡の伊能忠敬。いや、歩く儒学者・益軒。去来の父・向井元升とも親交ありゆえ、松尾芭蕉にも会っていたかもです。旅仕度を記した『旅装記』も刊。夫人同伴旅行も元禄4年(1691)に大阪・京都へ。元禄11年(1698)には有馬へ熟年温泉旅行。84歳の『諸州巡覧記』まで計13の旅行記を刊。

 これら多数の和文紀行記は、当時の活発な出版事情も反映。ちなみに井原西鶴『好色一代男』は天和2年(1682)で、上方文化成熟で木版製版が普及。加えて伊勢参りなどの旅行熱も反映していたらしい。

 ここで貝原家について。11歳上の長男・家持は、壮年になって浪人。遠賀郡で商人になって高利貸しもして裕福になるも、役人の悪口に反論。傲慢無礼で古希の身で禁固刑中に没(71歳没)。次男・元端(存斎)は京都・江戸に留学後に出仕も、後に身体の不自由から致仕。遠賀郡吉田村で農業と寺小屋で生計も、晩年になって身体を壊した。親子共々益軒が自宅に迎え養った。元端は74歳で没。5歳年長の三男・義質(楽軒)は浦奉行を務めた後に致仕。その後は学問に精進。78歳で没。

 兄弟全員が長寿だった(徳川の15代将軍平均寿命は51歳とか)。子のない益軒は、元禄8年、66歳で楽軒の次男・好古(恥軒)を養嗣子に迎えるも、益軒69歳で東軒と京・大和旅行中に出奔。次に存斎の次男・重春を迎えるが身持ち悪く、それでも益軒81歳で孫が誕生。そういえば司馬江漢も娘婿がままならず苦労していた。カットは79歳で完成『大和本草』16巻(国会図書館デジタルコレクションより)。

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22歳下の嫁と琴瑟相和なれど(4) [貝原益軒「養生訓」]

toukenfujin.jpg_1.jpg 明暦3年(1657)、28歳。京都留学の命(以後、7年間にわたって藩費で留学)。まず京で儒教・朱子学の著名先輩ら、特に「木下順庵」と相往来。次第に『小学』『大学』などを講じるようになる。学業精進で20石へ。

 31歳、藩命で江戸へ。4ヶ月間、藩邸で儒学を講じる。帰藩命令で5年振りの福岡。33歳、30石6人扶持。9月に藩主・光之の参府に従う。京都で『論語』『中庸』『孟子』などを講じて聴講者多数。儒者の地位を確立。寛文4年(1664)、35歳で帰郷し、藩主から邸宅を与えられ、加えて知行地、150石を賜る。

 寛文5年、36歳、再び京へ。さらに学者らと交流を広げ、この頃から朱子学一途。また島原の遊郭・小紫と遊ぶなど京の風流も楽しむ。同年、父・寛斎死去(69歳)。

 寛文7年、38歳。体調を崩す。疝気、疝淋(淋病?ではなく尿路胆石?)、排瀉、秘結(便秘)など。寛文8年、39歳。福岡藩の支藩、秋月藩士の娘・初子(17歳。親子ほどの年の差。後の東軒夫人)と結婚。益軒の指導よろしく和歌、箏、古琴、楷書も巧み。

 益軒は再び蓄髪して加増50石で計200石。荒津東浜に邸宅を賜った。翌年、藩主が綱政の代になって俸禄300石。中級武士の生活になる。益軒と若妻は共に箏、琵琶などの古楽合奏など琴瑟相和なれど、子供が出来ぬ。子が出来なければ離縁もあろうが、益軒さんはなんと、1年に1人ずつ、3年で計3人の側室(妾)とセッセと交接に励むも、遂に子は出来なかった。この頃に『近思録備考』『小学句読備考』『朱子文範』などを刊。

 益軒、東軒夫人共に「蒲柳の質」。益軒は病弱な伴侶の健康維持にも取り組んだ。ちなみに益軒54歳の時に52.5kgで、32歳の東軒は35.2kg。(82歳の益軒は47.1kgで、60歳の東軒は32.8kg)。益軒は「痩せ気味」で、夫人は「激痩せ」体型。(二人は生涯で5回ほどの体重測定記録を残しているとか)

 カットは明治35年刊『近代立志伝・貝原益軒』で紹介の東軒夫人。説明文「東軒夫人は益軒の事業を助け、和歌を作り隷書を書くのも上手で、当時の文学界に名高いものであった」。

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19歳で出仕。そして6年間浪人(3) [貝原益軒「養生訓」]

kaiharamokuzo_1.jpg 11歳の冬、父は役務で福岡・新大工町へ、糸島郡へと移住。この時期に益軒は漢文『太平記』読破。13歳、継母没。彼は下女の〝おばさんっ子〟。14歳、父は再び浪人。医者と子供らに読み書きを教える生活に戻る。父は益軒に薬や食物の効用、医学基礎を教えた。

 その頃に、藩命で医学修行(京都遊学)から福岡に戻った次兄・元端から「四書(儒教の論語・大学・中庸・孟子)」を学び〝仏教信仰〟を捨てる。次兄に従って福岡・荒戸新町へ行き、引き続き「儒書」を学ぶ。同年冬、父は再出仕で江戸詰め4年間。18歳の長兄は浪人、次兄は豊後日田で開墾。貝原家は藩主・忠之と相性が悪かった。

 慶安元年(1648)、益軒19歳。藩主の御納戸御召科方(衣服調度の出納係)として仕え4石扶持(1年で玄米20俵)。20歳、藩主の参勤交代で父と共に江戸へ。慶安2年春に帰郷し、夏に藩邸で元服。藩主に従って長崎警護(外国船監視)へ。この時、益軒は唐書を目にし、唐通事や蘭通事らと会ったらしい。同年の出島を調べると、蘭館医カシパル・シャムベルゲルが渡来し「紅毛流外科」を長崎・江戸の医師らに指導。

 長崎で役務の域を脱する行動があったのだろうか、長崎から帰郷後の21歳、藩主・忠之の怒りにふれ閑居15日から謁見不許可4ヶ月。そして遠賀郡の藩主別荘を守る任を経て、藩主の宿直(とのい)で仕えるも、今度は俸禄も失って浪人生活へ。

kaibarajinbutu_1.jpg 22歳。ストレスから眼病、胃潰瘍。まさに艱難辛苦の青春。生活手段として医学修得。長崎へ2度。同地で医師・向井元升に教えを受ける。奈良・京都、さらに江戸へ。この間に本草学、地理、農学、歴史など幅広く学ぶ。26歳、食うために医者になるべく剃髪。柔斎と号す。江戸では父と藩邸暮し。林羅山の子・林鷲峰より朱子学も学ぶ。次第に「黒田藩に貝原益軒あり」の評価を得て行く。

 浪人生活6年後の27歳、藩主が忠之の嗣子・光之の代になって出仕。父が致仕(辞職)し、父の家禄を継いで6人扶持。次兄は藩医となって150石。3代光之は、先代藩主とは正反対の文治主義体制。益軒は水を得た魚で、一気に才能開花。俄かに前途が明るくなった。以後、光之から4代藩主綱政へ44年間仕えることになる。

 写真上は横山俊夫編『貝原益軒~天地和楽の文明学』(平凡社)、下は吉川弘文館の人物叢書、井上忠著『貝原益軒』。

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不運続きの幼少期(2) [貝原益軒「養生訓」]

kaibara4.jpg_1.jpg 前述紹介本より、貝原益軒の経歴をお勉強する。益軒の祖父は甲斐・武田家に仕えたが、信玄没後に黒田如水・長政(博多城)に仕えた。祖父の長男・貝原利貞(号は寛斎)が益軒の父で、長政没に福岡藩を継いだ黒田忠之に18歳で仕えた。祐筆役150石。益軒は寛永7年(1630)11月に福岡城内・海沿いの屋敷で生まれた。

 益軒は5男子(長男は早逝)の末男。父34歳の子。初めは助三郎、後に九兵衛、諱(いみな、本名)は篤信。号は損軒(益軒は晩年の号)。父は益軒誕生の翌年に博多片町へ、さらに6年後に博多築港地へ移住。理由不明だが、禄を失ったらしい。医薬を売り、子供らに読み書きを教えての生計。

 益軒は誰も教えぬ間に平仮名・片仮名を覚えたらしい。虚弱体質で近所の子らと遊ぶより、部屋に籠っての読書好き。兄の算法啓蒙書を読み、独学で算盤も修得とか。

 藩主・忠之が、幕府から謹慎を命じられたのは益軒3歳の時。藩主、甚だ精神的粗野ゆえに、父は禄を失ったと推測される。益軒6歳、母没。継母を迎えた。8歳、父は再び藩の禄を得て、福岡から約30キロ先の峠を越えた八木山高原の警備所(知行地)へ赴任。一家は山間の侘住居40坪で3年間暮らした(現在はその屋敷跡に石碑あり)。

 9歳の秋、島原の乱(天草四郎の原城籠城)。父と長兄が出兵。藩主・忠之は功を焦って1万5千の兵を出し、戦死者326名、手負い2293名。一揆勢は1万数千人が打首。

 同年。益軒は9歳年長の次兄・元端(存斎)から漢字を習った。元端は3歳で重い天然痘を患って両手が不自由ゆえ、家に籠って書に親しむ生活を送っていて、益軒の読書素養を育んだらしい。近所の家から『平家物語』『保元物語』『平治物語』などを借りて読んだとか。肖像は元禄7年、65歳の益軒。狩野昌運筆の一部らしい。

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養生訓~まずはじめに(1) [貝原益軒「養生訓」]

kaibara2.jpg_1.jpg 「おまいさん、最近はお習字をしないのかえ」とかかぁは言う。『方丈記』最後の〝筆写〟から数ヶ月が経つ。さて、次の題材は~。『徒然草』がいいかなぁと思うも、己の寿命も残り僅かゆえに、貝原益軒『養生訓』で遊んでみましょうか。

 早大図書館の古典籍データベースに「天保5年(1834)、浪花・岩井壽楽蔵版」あり。おや、書き出しがスラスラと読めるではないか。うむ、ちょっと儒教臭くてイヤだなぁ。そう思いつつ数頁を読み進む。くずし字の書き順調べで『漢字くずし字辞典』を手にすれば、次第に〝くずし字〟の魅力に引き込まれ、『方丈記』筆写時の愉しさが甦ってきた。

 伊藤友信・全現代訳『養生訓』(講談社学術文庫)、加地信行『儒教とは何か』(中公新書)、島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)を紀伊国屋で、早稲田の古本街で日本思想体系『貝原益軒・室鳩巣』(岩波書店)を購った。さらに図書館で井上忠『貝原益軒』(人物叢書、吉川弘文館)、土田健次郎『儒教入門』(東京大学出版会)、山崎光夫『老いてますます楽し~貝原益軒の極意』(新潮社)、横山俊夫編『貝原益軒~天地和楽の文明学』(平凡社)を借りた。★この文を参考書一覧を兼ねる。

 うむ、39歳で17歳の娘を娶った。二人の仲は琴瑟相和も子が出来ず。益軒さん、なんと一年に一人ずつ三年で計三人の妾と交接に励んだとか。だが「四十者は十六日に一泄す」なんて記しているらしい。文と実際とは違うを承知で読んでみましょうか。

 目下、小生は歯医者通い。益軒翁は一本の虫歯もなかったらしい。遅きに逸したが、小生も彼の〝養生訓〟を心がければ、彼と同じく84歳まで生きられるかもしれない。こんな記述もあるとか。

 「老後は、若き時より月日の早き事、十倍なれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、むだな日を暮すべからず~」。うむ、原文で読んでみたくなりました。その前にどんな人物かを知らねばいけません。こんな顔の御仁らしいです。「貝原益軒先生 正聖五年八月廿七日八十五」。(画像は国会図書館デジタルコレクションより)

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久保田金四郎と榎本武揚(追加メモ1) [千駄ヶ谷物語]

daobosatu.jpg_1.jpg ジャズ評論家・久保田二郎が住んでいたのは、鳩森八幡神社に隣接の「東京都渋谷区千駄ヶ谷3丁目527番地」。当時の地図で確認すると、そこは「久保田金四郎』宅。彼の父だろう。『千駄ヶ谷昔話』では「代議士で白壁をめぐらせた大きな屋敷」とあった。

 久保田二郎は『極楽島ただいま満員』に、こう記していた。「父は大逆事件の幸徳秋水の弟子だった」。これは〝読み捨て〟ならぬ記述で、ずっと気になっていた。さらに「(この邸は)昭和20年5月の大空襲で焼けたが、五稜郭の戦いで有名な榎本武揚の屋敷だった」。

 彼の父だろう「久保田金四郎」をネット検索すると、意外なサイト『大菩薩峠』の中里介山・詳細年譜に辿り着いた。

 「明治36年(1903)19歳。北豊島郡岩淵小学校の代要教員になる。この頃、王子の扇屋なる料理屋の一室に久保田金四郎(後の司法次官)と自炊生活を始め、のち日暮里諏訪神社通りの森田重太郎(車夫)二階に下宿。幸徳秋水、山口孤剣、堺俊彦等の社会主義者と交渉」。

 そして中里は「平民新聞」に寄稿し、19歳で同新聞の懸賞小説に佳作入選。21歳、母の猛反対画で「平民社」を離脱して「都新聞社」入社。明治44年、27歳1月、幸徳秋水ら12名処刑「大逆事件」。大きな衝撃を受け、その影響が作品にも反映されているとか。ちなみに永井荷風は、同事件で隠棲志向を固めている。中里介山、29歳より『大菩薩峠』連載開始。同小説には、王子・扇屋の場面も出てくる。

 以上から久保田二郎の「父は大逆事件の幸徳秋水の弟子だった」と記す〝裏〟が少しわかった。さらに同年譜に「久保田金四郎(後の司法次官)」も気になった。社会主義傾向にあった青年が、その後に体制側、しかも司法官僚へ生き方を変えたらしい。さらに検索を続けると「愛媛県警察部長、東京地方裁判所検事、福島県警察部長、広島県警察部長」などの経歴もヒット。その後に司法次官になったと推測。残念ながらネット検索ではここまで。

enomoto.jpg_1.jpg 次に久保田金四郎邸が「五稜郭の戦いで有名な榎本武揚の屋敷だった」の記述も気になっていた。榎本武揚は徳川幕臣を率いて「五稜郭」で官軍と闘い、後に明治政権の中枢で活躍。

 阿部公房『榎本武揚』を参考に、明治政府での活躍を記せば「明治5年:北海道開拓使奏任出仕。7年:海軍中将、ロシア派遣特命全権公使。12年:条約改正取調御用掛。13年:海軍卿。15年:皇居造営事務副総裁、清国駐在特命全権公使。18年:逓信大臣。20年:子爵。22年:文部大臣。24年:外務大臣。27年:農商務大臣。

 福沢諭吉は『痩我慢の説』で勝海舟と榎本武揚に対して「痩我慢で隠棲すべきも、体制側で出世している」と非難。小生「青山外人墓地調べ」で、福沢諭吉のシモンズ墓碑銘解読から「勝は粋、福沢諭吉は野暮」と記した。福沢より江戸っ子の勝、榎本好きだが、福沢視点から見れば千駄ヶ谷の広大な敷地を有した徳川家達(慶喜から徳川宗家を引き継いだ)もまた隠棲が筋。勝の庇護下で育ち、表に出ることを抑えられていたが、貴族院議長など明治政府内でしっかり出世。

 福沢視線ならば、千駄ヶ谷は徳川家・幕臣ながら、明治政府で出世の人々の屋敷町だったとも言えそう。こうなってくると腰を据えて阿部公房『榎本武揚』を読みたくなってきますが、いずれまた~。「千駄ヶ谷シリーズ」で書き残したテーマを、気が向き次第〝追加メモ〟として記して行きます。写真上は『大菩薩峠』、写真下は榎本武揚。共に国会図書館デジタルコレクションより。

 うむ、榎本武揚で気が付いた。千駄ヶ谷邸宅組のほとんどが江戸・明治・大正時代に欧米留学・視察・駐在体験者だと。これもいずれ一覧してみたい。

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