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激変中の渋谷の思い出 [散歩日和]

scramble_1.jpg 江戸時代で遊んでいると〝今〟に疎くなる。テレビが「渋谷激変中」と報じていた。かつて街が余りに激変し、何が何だかわからなくなった事がある。

 高校2年、「恵比寿ビール」でアルバイトをした。それで当時4、5万円程の登山靴を入手したが、後に同地が「恵比寿ガーデンプレイス」になって、高校時代の記憶と今の風景がどうしても結び付かない。

 平成3年に大島にロッジが建った際に、幾度も車で「豊洲ふ頭」まで荷物を運んだ。23年後に豊洲へ行くと、あの時の「七島海運」が何処にあったかわからず、全く別の街が広がっていた。記憶寸断の同地だが「豊洲市場」は、造成中の脇を幾度も自転車で走ったから、そこに何が建とうが土地勘は揺るぎない。

 そうか、激変過程を一度でも眼に入れておけば、後で〝きょとん〟とすることもないと気付いた。そんな某日のウォーキングを、激変中渋谷の〝我が青春巡り〟とした。

 渋谷の最初の思い出は10代の頃。東京オリンピック前で、渋谷西口のバスターミナルの向こう側の露地奥にあった喫茶店「リルケ」のバイトだった。『リルケ詩集』を読みつつドリップコーヒーの淹れ方、サンドイッチの作り方を覚えた。

 当時の喫茶店はどこもそうだったと思うが、ネル(布のフランネル)ドリップで何十杯分も抽出し、オーダー毎に一杯ずつ温め直して出す方法。ドリップの技を仕込まれた。初めて棒タイを結んだ。後でベン・ケーシー風の白衣姿になったように記憶する。やがて店長に誘われて、新宿西口の大喫茶店に移ったが、あの頃の「リルケ」は今どうなっているのだろう。

 それから10数年後の30代最初に、再び渋谷に通った。「銀座ヤマハ」の会報編集を請け負っていて、その担当者がヤマハ音楽振興会・宣伝部への人事異動に小生を連れ込んだ。当時の宣伝部は「渋谷エピキュラス」にあって、未整備だった所属アーティストのプロフィール資料や、彼らの活動紹介の定期ニュースリリース、新曲宣材のコピーなどを書き始めた。

 「エピキュラス」のスタジオと宣伝部を、裸足の中島みゆきが走り回っていた。彼女の『魔女の辞典』シリーズは、エピキュラスから同社宣伝部が目黒に移った直後だったか。小生が設問を出し、彼女がちびた鉛筆をなめなめしつつの感で書き込んでくれた。

 小生ずっと新宿暮し。遊びも買い物も新宿中心で、隠居すれば仕事で渋谷へ行くこともなくなった。御無沙汰の渋谷は今どう激変中なのだろうか。昔々の喫茶店「リルケ」や「エピキュラス」はどうなっているのだろうかと歩いてみた。写真は渋谷駅の上に建つ「渋谷スクランブルスクエア」。来年秋頃に開業らしい。(続く)

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儒者の墓(12)林羅山の後半生 [朱子学・儒教系]

ieyasu1_1.jpg 慶長11年、羅山24歳。京都で宣教師ハビアン(日本人の元禅僧)と会談。地球図を見た羅山は、〝物皆上下有り〟の封建的身分制度が絶対ゆえ、地に上下なしの球体説を一蹴。(山鹿素行は儒教の〝天円地方説〟否定で、地球天体説を支持。朱子学を批判して赤穂藩に配流された。地動説は司馬江漢によって普及)。そしてキリシタン教理論破も試みる。これら逸話も羅山のイヤな性格の一端だろう。

 翌年春、羅山は排仏論者ながら剃髪して僧号・道春となる。家康が彼を儒者ではなく学僧として任用したためで、これまた立身出世願望ゆえと揶揄されている。羅山はこの頃に宅地と土木料を賜わる。慶長14年、27歳で12歳の亀さんと結婚。

 慶長15年末、明国の船が五島へ。駿府で家康に拝謁の際の幕府外交文書を羅山が記す。慶長16年、家康上洛時の「在京の諸大名に誓書を奉らしむ」法令三ヶ条を起草。

razanhaka_1.jpg かくして羅山は家康の側近として仕え出すも、家康は儒教奨励に至らず。慶応19年、家康71歳。生存中に豊臣氏を撲滅したく、その口実を求めているのを知り「孟子」解釈で〝討ってよし〟。家康の世になれば朱子学で人の上下は先天的に決定で〝革命思想否定〟。また羅山の〝阿諛迎合・曲学阿世〟の象徴として「方広寺の鐘銘事件」がある。家康が豊臣家財力消耗したく、方広寺大仏殿再建を秀頼母子に勧め、羅山は学識悪用で鐘銘に謀反ありと読み「大阪の役」へ。

 鈴木著は羅山を責め過ぎたと思ってか、次に彼の業績も紹介。家康命で羅山は「駿河版」なる出版事業に携わる。仏典の抄文集などの刊行で、これがなんと国内初の銅活字版。返り点や送り仮名が難しく、すぐ衰退したそうな。

 元和2年、家康歿で2代将軍秀忠へ。家康葬は天海・崇伝の神道二派が激論しつつで、羅山は蚊帳の外で駿河文庫詰め。堀著では羅山不遇期とされるも、鈴木著では弟・永喜が秀忠の側近で、兄弟で徳川家に仕える達成感のなかで学業充実期と説明されていた。

 元和4年、羅山36歳。江戸は神田鷹師町に宅地を賜るも京都生活が主。元和19年、家光が次期将軍と決まり、羅山は家光の御咄衆の一人として寛永元年に家光に拝謁。寛永3年、羅山44歳。家光の狩りに従行から次第に側近として幕政参与。

 寛永7年末、48歳。別邸として上野忍岡に5353坪、学校を建てろと費用200両を賜る。私塾・書庫を建て、2年後に孔子廟建立。建永9年、秀忠没で将軍は家光に。崇伝が病没で、幕府の政治・外交文書起草が羅山担当になる。寛永20年、天海没で羅山の地位・権勢強化。

 慶安4年、家光病没。4代将軍は家綱(11歳)。年号は承安へ。明暦2年、74歳。羅山の妻没で別邸で儒葬。同年9月、別邸類焼で同地が寛永寺附属となり、林家(三世・鳳岡)に牛込(現・山伏町)の2千坪を下賜。別邸の墓を牛込に改葬。

 平成30年、縮小された「林氏墓所」公開を小生も見学。このシリーズ、最初に戻って一区切りです。シリーズを通し、朱子学を幕府学問と定めた「寛政の改革」松平定信の時代が大きなポイントかなと判断した次第。写真は羅山の墓「文敏先生羅山林君之墓」。

 今、机上には小島毅『儒教が支えた明治維新』、土田健次郎『江戸の朱子学』、岡田武彦『江戸期の儒学』、白川静『孔子伝』、加地伸行『儒教とは何か』、島田虔次『朱子学と陽明学』、垣内景子『朱子学入門』がある。この辺のお勉強は始まったばかりです。

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儒者の墓(11)林羅山の前半生 [朱子学・儒教系]

razanbon_1.jpg 儒者の墓シリーズ最後は「林羅山」。時代を遡るので整理する。11代家斉(老中松平定信、寛政の三博士)、10代家治9代家重(老中田沼意次)、8代吉宗(室鳩巣)、7代家継6代家但(新井白石・間部詮房)。そして徳川家康・秀忠・家光・家継がらみが林羅山になる。なお家光・家綱は保科正之が補佐。保科は朱子学の徒で神儒一致を唱え、他の学問を弾圧した。

 堀勇雄著『林羅山』の「はしがし」の概要。~羅山の単行本は一冊もない(初版は昭和39年)。その理由は戦前・戦中において皇室中心主義・国粋主義・皇国史観が横行も、羅山はその物差に当てはめると失格者。戦後において儒学は時代遅れの旧思想。羅山の学説は取るに足らずと考えられ、さらに羅山の人格・品格が立派ではなく魅力に乏しいゆえ~

 これでは読む気も失せる。そこで平成24年(2012)刊の鈴木健一著『林羅山』を併せ読むことにした。同著「序章」では小林秀雄の文、~羅山の功績は、徳川幕府の意向に従って四民を統制するための道具として朱子学を加工したことで、それは単なる御用学問で、真の学問ではない~を紹介。さらに司馬遼太郎の小説『城塞』より、~林道春(羅山)は、家康にとって都合がよかった。出世欲がつよく、権門のためなら物事をどう歪曲してもいいと~(略)彼は幕府意向で人間の諸活動を制限したり、その身分を固定する悪魔的な仕事に従事し、後世の日本人にはかり知れぬ影響をあたえてしまった~を紹介。それでも両氏は羅山の学識を認めての執筆。両著から林羅山の人生まとめです。

 羅山は天正11年(1583)、京都生まれ。父の兄の養子へ。養父は米穀商。幼少期は病弱で学問好き。13歳から健仁寺で学ぶ。15歳、優秀ゆえ禅僧になるべく剃髪を勧められるも、学問好きだが信仰心なしで、家に戻って勉学に励む。

 18歳、学問は五経研究の「経学」(朱熹)にありと朱子学を選ぶ。当時は朝廷許可なしに自由読法や自由開講禁止。羅山より22歳年長の藤原惺窩が法衣なし(儒者として)で家康に進講。独自和訓で四書、五経もテキスト化。

 羅山は公然と禁を破って自分流講義を市中で展開。同時期に幾人もの学者が、公家独占の『百人一首』『徒然草』『太平記』講釈で学問開放が同時進行。その権威の明経博士(清原家)が告訴するも家康は無視。学問が朝廷・寺院から解放、儒教も民間学問になった。

 羅山22歳。藤原惺窩に会う。惺窩一門の深布道服姿で講じ、惺窩を師として学識を深める。両者に思想的差異多く、かつ惺窩は羅山の出世欲に「名利を求めて学問をするのならしない方がまし」と叱るも、学問の自由をもって懐広く関係を続けたとか。

 慶長10年、羅山23歳。惺窩紹介で初めて徳川家康に謁見。家康は羅山の思想はどうでもよく、該博な知識から〝百科辞典代わり〟に側に置いた~が定説らしい。(続く)

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儒者の墓(10)寛政の三博士・柴野栗山 [朱子学・儒教系]

sibasada_1.jpg 「寛政の改革」の凄まじさに大田南畝も狂歌を断って「学問吟味」に挑戦した。行き詰まった時の政府の常套手段が庶民苛めだ。今回は「武」奨励と「文」の締め付け。そのヒステリックなまでの厳しさに「世の中に蚊ほどうるさきものはない ぶんぶというて寝てもいられず」。

 「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学を幕府公認学問として、聖学堂が昌平坂学問所に。そこに招聘されたのが「大塚先儒墓所」に眠る〝寛政の三博士〟こと柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉(後に古賀精里)。藤田覚著『松平定信』(中公新書)に、柴野栗山についての記述があった。

 ~栗山は天明8年〈1788)に定信に登用されて幕府の儒者となり、寛政の文教政策に重要な役割を果たした。〝栗山上書〟は執筆年不詳だが、定信へ差し出した意見書は~

yusimaseido.jpg.jpg ~畢竟 日本国中の万民、天道より将軍家に御預け成され指し置かれ候ようなる物にて御座候~で始まって、武家が政権を掌握したのは、朝廷が道理・徳を失い権力を失ったため。つまり天帝・上帝である天道が、日本国民を将軍に預けたようなもの。「天道~将軍~大名・役人~国民」ゆえに、江戸幕府が道理をたてなくてはいけない、と記してあると紹介。

 一方、国学者・本居宣長は「わが国の国土と国民の支配は天照大神~天皇~東照大権~将軍~大名という委任論」。後期水戸学の祖・藤田幽谷は定信の求めに『正名論』で〝尊王〟を説いた。幕府が朝廷を尊べば、諸大名が幕府を尊び、家臣が大臣を尊ぶ。これで上下の秩序が保たれ平和が維持されるの論。いずれにせよ国民は被支配層。

 以上から定信は、幕府の政権は天皇・朝廷から委任されているという大政委任論を表明(これが最後の将軍慶喜の〝大政奉還〟まで続く)。よって定信は京都御所焼失(天明大火)に莫大予算を投じて、荘重で復古的な御所を再建して朝廷崇敬。

 小生は以前のブログに「財政逼迫で江戸庶民を苛め抜いている最中に、彼は何を考えているのか」と疑問を呈したことがあるも、その意が今になってわかった。藤田著には「定信は天皇は天地のあらゆる神々に護られて万民を子とする人民の親であり、国家と国民の興廃に密接に関わる存在である」と結論したと紹介。なにやら大日本帝国憲法がすでに始まっているようです。

 田沼憎しと上記の論で、庶民から盛り上がった文化を徹底的に弾圧する強引さと権力集中に、庶民は「白河の清き流れに魚住まず、濁れる田沼いまは恋しき」で愛想が尽きた。将軍家斉からの信頼も失って6年で失脚。窮屈な世から解放された江戸庶民は再び「文化文政文化」の大きな花を咲かせることになる。写真下は現在の湯島聖堂・大成殿。

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儒者の墓(9)寛政の改革と三博士 [朱子学・儒教系]

sibano_1.jpg 「大塚先儒墓所」には〝寛政の三博士〟こと柴野栗山(左の絵)、尾藤二洲、岡田寒泉(寒泉に代わって古賀精里)が眠っている。弊ブログでは「寛政の改革」に苛められた文人らについて幾度も記して来た。それら既読の多数関連書を思い出しつつ、新たに読んだ藤田覚『松平定信』(中公新書)を参考に記してみたい。

 徳川吉宗が紀州から江戸入りしたお伴の一人に田沼専左衛門がいた。彼の子が意次で、次の将軍・家重の小姓になった。16歳で父の600石を継ぎ、9代将軍・家重に本丸で仕えた。家重没後に10代将軍・家治へ(村上元三『田沼意次』より)。新将軍は父の遺言通り側用人に意次を登用。意次は安永元年(1772)に大名昇格と同時に老中に。幕政はすでに老中制確立で、将軍は学芸趣味に没頭。ちなみに将棋7段。

 老中・田沼意次は一貫して「商業重視」。それによって元禄の上方文化に比す、江戸文化が一気に花開いた。天明3年の浅間山大噴火による飢餓もあったが、浮世絵は錦絵になり、狂歌、黄表紙、洒落本もブーム。武士と町民が一緒に盛り上がった。「江戸っ子」なる言葉もこの頃に生まれたらしい。蘭学も盛んで『解体新書』刊。洋画(油絵・版画、遠近法)も導入。

 だが天明6年、家治歿。家治の子が急逝ゆえ、徳川治斉の子・家斉を養子にして次期将軍に決めていた。自分が将軍になると思っていた松平定信の歯ぎしり。家治薨去が公布されるまでの1ヵ月間に、反田沼派の暗躍で田沼意次が老中解任。

sibanonohaka_1.jpg 翌年「天明の打ち壊し」。吉宗の孫・定信が老中首席になって、将軍への道を阻止した田沼への恨みが爆発する。熾烈な田沼施策弾圧「寛政の改革」が始まった。勘定奉行逼塞。天明期文人らのパトロン・土屋宗次郎は死罪。平秩東作が「急度叱」。恋川春町は自刃か。宿屋飯盛が江戸払い。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦屋重三郎が身代半分没収。派手な衣装・かんざいを見付けると即奉行所へ引っ張った。「隠密の後ろに隠密をつける」執拗な取締り。

 「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学が幕府公認学問へ。聖学堂が官立の昌平坂学問所(寛政の三博士は同所教官)になった。贅沢品禁止。倹約の徹底。幕府批判の禁止。混浴禁止。帰農令。囲米。棄損令(旗本らの借金チャラ)。出版統制も厳しく司馬江漢『西遊旅譚』も出版不可だし、艶っぽい浮世絵も姿を消した~と枚挙にキリなし。

 世の中が俄かに堅苦しくなった。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜も寝られず」「白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋ひしき」の落首に庶民喝采。晩年の定信は芸術を愛したそうだが、老中6年間は実に嫌なヤツだったに違いない(お上嫌いの小生に偏見あり)。次回はそれを支えた〝寛政の三博士(全員が関西人)〟が何を考えていたか。さて、そこが探れましょうか?(カットはその一人・柴野栗山とお墓写真)。

 追記:森銑三著作集・第八巻「儒学者研究」に約80頁の長編「柴野栗山」がある。天明2年頃までの年譜中心の評伝で「寛政の三博士」「封建制度」「大塚先儒墓所」については一切書かれていなかった。発表は柴野の地元・香川の琴平宮(金刀比羅宮)機関誌「ことひら」掲載で発表は昭和10年。天皇についての記述は憚れたとも推測される。

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儒者の墓(8)室鳩巣(Ⅱ)享保の改革 [朱子学・儒教系]

murosan1.jpg_1.JPG 8代将軍に吉宗就任で、間部詮房・新井白山が罷免。室鳩巣は、当初の吉宗政治を「粗鄙浅露(低俗で深みがない)」の域と判断。確か藤沢周平『市塵』にも室鳩巣が「吉宗は文盲にてあらせられる」と言ったの記述あり。

 吉宗は、まず老中全員に直接会い、例えば「年間収納高は?」などを質問。全員不勉強が露呈。吉宗は白石の下で働いていた者でも仕事が出来れば再任。室鳩巣の吉宗評も次第に変化。

 「トップがバカなら官僚は忖度するも、吉宗は聡明ゆえ、それもかなわない」と記す。今の我が国のトップは愚かゆえに忖度が罷り通るのだろうか。室は一方「余りに厳しいと、家臣らの心も離れる。部下が上へ上げるべき書類を握り潰すこともある」とお手並み拝見の姿勢。

 吉宗の有力側近は有馬氏倫、加納久通。吉宗は彼らを大名にせず金子で加増。旗本に留めたことで、彼らには下からの情報も集まった。老中らは彼らに媚を売る。室はそうした姿を冷静に観察。吉宗政治は、かくして徐々に「険素」実践の人物が増えて姑息・へつらい・おもねる者が少なくなっていった。そう分析する室鳩巣が表舞台に出たのは享保6年正月の初御前講義から。ここで思想大系より『室鳩巣の思想』(荒木見悟)の記述より~

 「元禄年間に湯島の聖廟が落成し、林鳳岡(三世)が大学頭になるも一向に儒学興隆せずで朱子学の萎靡沈滞。吉宗は大学頭の怠慢とみて、享保4年(1719)に高倉屋敷(学館)を別立し、室ら木門(木下順庵門下)の儒者らをその講授に当たらせた」

 そうした実績を踏まえて室の初御前講義に至ったのだろう。これを機に室鳩巣も、吉宗の政務に参画。だが室は「身構えず、自らの考えを誤魔化さず、忖度せずに述べ、それの良し悪しは、お上の判断」というスタンス。吉宗はそんな姿勢が気に入ったらしい。

 享保7年、倹約令(幕臣の俸禄カット)。参勤交代制度の緩和(江戸滞在期間を半分+米の上納)等々~。室は質問に調べ報告するも〝断を下すは吉宗〟の姿勢を貫いて、享保19年に没。

 なお福留真紀著には、室鳩巣の思想に言及なし。新書の帯の「権力は誰のものか」を見た隣家の小学生が質問をしてきた。「おじさん、国民主権は何時からだったの」。「日本は〝天皇~将軍~大名~役人〟の封建国家がずっと続き、幕末に将軍が抜けて〝天皇~大名〟になり、明治には廃仏廃仏毀も~。戦前・戦中は〝天皇~軍部〟で、国民主権になったのは終戦後、おじさんが生まれた頃からだよ」と説明したが、それでいいのだろうか。次回は大塚先儒墓所に眠る寛政期の儒者らの、その辺を考えてみたい。(続く)

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儒者の墓(7)室鳩巣と新井白石 [朱子学・儒教系]

muronohaka_1.jpg 「大塚先儒墓所」に〝寛政の三博士〟が眠っている。弊ブログでは「寛政の改革」で痛みつけられた戯作者、狂歌、版元らについて記してきた。その辺は見逃せないが、まずは彼らの先輩・室鳩巣について。

 参考書は『将軍と側近~室鳩巣の手紙を読む』(福留真紀著、新潮新書)。著者は息子世代で、そんなに若い方の歴史書を読むのは初めて。初々しい語り口です。

 同書はウォーキング途中に新宿紀伊国屋で購い、翌日読了。少し前に新井白石をお勉強して、中野・高徳寺で墓も掃苔。「林氏墓地」から「大塚先儒墓所」も掃苔。同書は新井白石、林氏、室鳩巣がらみの内容で、まさにジャストの読書。

 著者のテキストは室鳩巣が、門人・青地兄弟に宛てた書簡集『兼山秘策』。著者はお茶の水女子大学大学院のゼミ4年間で輪読とか。同書は早大古典籍データベースで公開。小生もくずし字勉強中だがスラスラと読むに至らず。そうでなくとも目下は貝原益軒『養生訓』筆写中断。ここは著者記述と、日本思想大系『貝原益軒・室鳩巣』解説文、白石のお勉強済の知識も交えて自己流でまとめてみる。

 同書簡の期間は正徳元年~享保16年。木下順庵の推薦で新井白石が甲府藩・綱豊に仕え、綱吉没で綱豊が6代将軍・徳川家宣になったのが宝永6年。その2年後が正徳元年(1711)。同年に新井白石の推挙で室鳩巣が幕府儒学者になった。室先生、すでに53歳。

murohon_1.jpg 同書簡は、激務翻弄の白石の体調を気遣う手紙から始まっている。徳川家宣体制は<老中土屋はじめの幕府官僚vs甲府時代からの側近・間部詮房+新井白石>。白石は大学頭・林信篤(三世・鳳岡)の職責半分を担って(対立して)500石幕臣へ。将軍質問に白石が先例調べ⇒間部を交えた家宣詮議で結論を出し、それを書付にして幕府官僚に渡す体制。

 そこから「生類憐みの令」廃止。未決囚8831人保釈。老中の反対を押し切って朝鮮通信使への日本側要請を通したり~。諸施策については新井白石の項で紹介済ゆえ省略。家宣政治は「文を以て治をいたす仁政」。旗本らの困窮に一度に700人を召し出したり、庶民の声にも耳を傾けた。室の手紙には、そんな家宣政治に感激する報告が多かったそうな。

 だが家宣は、翌正徳2年秋に没。5歳の家継が7代将軍に就任。間部・白石は休む間もない。家宣の増上寺埋葬で増長した同寺大僧正の態度に、ならば踏み潰すぞに、寺は慌てて侘びを入れたとか。大学頭・林信篤も幕府官僚とつるんで反撃に出て来た。年号「正徳」は不吉。家継の服喪がおかしい、家継の「継」がよろしくない等々~。それらに間部・白石はことごとく論破。林家と他儒者の仲が芳しくなく、墓所が異なる意もこれで納得。

 そして正徳6年(享保元年)に家継8歳で没。質実剛健の徳川吉宗が9代将軍に。室鳩巣はその7年後、享保7年の殿中侍講をもって、吉宗ブレーンの一人になった。(続く)

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儒者の墓(6)大塚先儒墓所を訪ねる [朱子学・儒教系]

senjyumon_1.jpg いざ「大塚先儒墓所」へ。婆さん「そんな風体では墓所の鍵も貸してもらえないし、職質のお巡りさんが来ますよぅ」ってんで〝フツ―〟の格好で出かけた。有楽町線「護国寺」駅。不忍通り(富士見坂)を護国寺~豊島岡墓地先際の小道を左折。同墓地沿いに進むと「吹上稲荷神社」へ至る。お賽銭、二拍二礼して社務所へ。

 あんれぇ~、閉まっている。神社参拝趣味風の年配者に「先儒墓所」を訊ねれば「はぁ~」。それほど知られていない。

 出直そうと未練っぽく振り向けばドアホン(我家も最新ドアホン設置したばかり)が眼に入った。「先儒墓所を訪ねて来ましたが~」に、若い女性の声「ハァ~イ」。社務所の窓が開いて氏名、住所、電話番号を記し、鍵をお預かりした。なんと、小生の前の記入者住所は愛知県だった。

 同神社から北へ50m先、住宅に挟まれて「大正三年九月建」と刻まれた「大塚先儒墓所」石柱。その鉄柵は開いてい、その奥の扉が施錠されていた。その先に「大塚先儒墓所」690坪が住宅、豊島岡御陵に挟まれて広がっていた。

 『大塚先儒墓所保存会報告書』の略図片手に各儒者の墓を掃苔。各墓石に一輪の花が手向けられていた。貝原益軒調べでは「儒者の墓には仏教のように花を手向けることはない」と記された文言があったと記憶するが、実際はどうなのだろう。

senjyutizu_1.jpg 墓所に入ってすぐ正面に「故博士寒泉岡田先生之墓」(岡田寒泉)の墓。岡田氏墓地は泉寒先生を除いて墓碑なし。土饅頭跡の丸く置かれた石のみが遺っていた。右最奥が室氏墓地で4基。最左が「室鳩巣先生之墓」。保存会報告書の口絵写真には墓碑後に芝に覆われた墳墓があったが、今は丸く置かれた石が埋もれかけていた。

 その左に池上村から大正3年に移葬された「木下順庵先生之墓」。墓碑には「木恭靖先生之墓」。さらに左側に柴野氏墓地。その最左に「征夷府故伴讀栗山芝先生之墓」が柴野栗山先生之墓。墓所奥の豊島岡御陵寄り左の区域が尾藤氏墓地。「江戸故掌教官二洲藤先生墓」が「尾藤二洲先生之墓」。これまた同報告書口絵写真には、芝に覆われた墳墓が写っていたが、今は丸く置かれた石だけ。左最奥が古賀氏墓所。古賀精里はじめ同家の基が多数並んでいた。墳墓はなし。

 墓所には永井荷風が記した桜が、今は古木となって幾本かが聳えて、春には人知れぬまま美しい墓所風景になるのだろうと思った。さて、儒者の墓を掃苔後は、改めて彼らのことを少しお勉強しなければいけません。(続く)

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儒者の墓(5)「大塚先儒墓所保存会報告書」 [朱子学・儒教系]

funboari_1.jpg 次に紹介は『大塚先儒墓所保存会報告書』。口絵写真に「鳩巣室先生之墓」「尾藤二洲先生之墓」があって、なんと!推測通り、墓碑裏に丸い石囲いに芝で覆われた墳墓がしっかりと写っていたじゃないか。「尾藤二洲先生之墓」の白黒写真から着色したスケッチをアップ。同報告書からは以下の二項目の概要を紹介。

<木下順庵先生等の移葬> 大正三年二月を以て本会の趣旨に基き木下順庵先生及び貞簡先生等の墳墓を府下荏原郡池上村より移葬せり。従来の墳墓地は千束郷と云う幕府より賜はりし控屋敷。明治維新の際に裔孫が所有申告を逸して割烹の所有へ。店主は散在した順庵先生以下の墳墓を一カ所に聚(あつ)め、かつ墳墓に接して家屋を建設したる為に兆域(墓所)甚だ湫隘で展墓する者皆慨せり。よって快諾していただき移葬せり。

<墓地の整理及び建碑> 垣墻(垣根)を繞(めぐ)らしてbisyusensei_1.jpgjyunan_1.jpg四至(しいし、四方の境界)を明らかにし荊棘を除きて新たに樹木を植え道路や水道を導いて盥嗽(かんそう、手を洗い口をすすぐ)の便などを設け、東方一帯の崖地に石を築き、墓所の入口に石段を築いた。古賀茶渓先生の墓所には木標あるのみだったので新たに墓碣(ぼけつ、墓碑)を建て碑陰に文を刻せり。

 又柴野、古賀、岡田の三家の墓域中には墳墓はあるが碑碣のなきものもあった。岡田家の如きは寒泉先生を除くの外はたゞ土饅頭あるのみだった。墳墓の頽(くず)れたるのも之を修め、墓碑無きものは石を建てたり~ と整備したことが記されていた。ここまで勉強したら、あとは実際に「大塚先儒墓所」を訪ねてみたい。(続く)

 写真下左は現状の「尾藤二州先生之墓」。右は移葬された「木下順庵先生之墓」で墓碑は「木恭靖先生之墓」。〝恭靖〟は氏の諡(おくりな)。

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儒者の墓(4)「史蹟大塚先儒墓所沿革」 [朱子学・儒教系]

senjyuzenkei3_1.jpg 「都中央図書館」で「史蹟大塚先儒墓所沿革」(二つ折りチラシ)と小冊子『大塚先儒墓所保存会報告書』と併せて閲覧。

 共に発行は、大正10年に国史蹟指定で、翌11年(1922)に東京市が管理者に指定された頃と思われる。『史蹟大塚先儒墓所沿革』はネット未公開だろうゆえ、原文で紹介。

 初め水戸藩の儒者、人見道生その私邸を埋葬地とす。次で享保十九年室鳩巣、駿河臺の賜邸に没するや、遺志に従ひ此地に葬る。寛政年中柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲連署し當地に儒葬の儀伺書を差出し、許可を得て葬地となせり。

senjyuzenkei1_1.jpg 後又古賀精里、此地を儒葬地と為すを許さる。是に於て人見、室、柴野、尾藤、岡田、古賀の六氏相並びて墓所を此處に設け、子女をも併せ葬る。(人見氏の墓所は後他に移轉し、今なし)時人称して儒者棄場と云へり。

 斯の如く由緒深き先儒墳墓も、明治維新後子孫世變に遇ひて家門衰ふるあり、或は他に移れるあり、為に漸く荒廃し、都下西郊の一名蹟も將に煙滅に帰せんとせり。

 明治三十年頃、帝国大學文科大學長外山正一同教授島田重禮氏等荒廃を慨し、之が保存を考究せしも、事成らずして両氏共に歿す。明治三十四年、東京帝國大學總長濱尾新氏深く之れを惜しみ、二氏の遺志を継ぎて、大塚先儒墓所保存會を組織す。大正二年男爵濱尾新氏より、宮内大臣に大塚先儒墓所保存會組織の事を申陳し金千圓を御下賜の御沙汰書を賜ふ。

kansen1.jpg_1.jpg 大正三年保存會の趣旨に基き、木下順庵の墳墓を、府下荏原郡池上村より移葬せり。

 同四年五月、維持資金二千圓を添へ、之を東京市に寄附し以て、永久維持保存せらるゝに至れり。大正五月十二月二十四日保存會に於て祭典を修し、報告を為す。大正十年三月一日史蹟名勝天然記念物保存法に依り、史蹟として指定せられ、次で同十一月、内務大臣より本市に其管理者に指定せらる。

 同年春、市に於て参拝道路を新設し、植込みをなし庭園風とせしも、墳墓は總て奮位置に存し、只其區劃と風致とは大いに面目を改むるに至れり。

 なお、国会図書館デジタルコレクションで大正5年刊『岡田寒泉伝』(重田定一著)を見ると、当時の「小石川地籍絵図」が掲載。そこから推察すれば、当初は儒者各々が同地域に墓地を購ったらしく「岡田氏墓56坪+山林70坪=計126坪」の記入。その先が山林で、その奥に室氏墓、柴野墓などが認められる。上記沿革以前の状態が記録されていた。長くなったので、ここで区切る。(続く)

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儒者の墓(3)大塚先儒墓所とは [朱子学・儒教系]

ohtukaryakuzu_1.jpg 江戸時代は「檀家制度」で寺に埋葬が規則ゆえ、儒教者らは「林氏墓所」のように拝領地片隅に埋葬。明暦2年(1656)、林羅山は別邸・上野忍ヶ岡で夫人の儒葬を行った。その14年後、寛文10年(1670)に林羅山の門人・人見道生(水戸藩初代儒者)が自身の邸内(現・大塚5丁目)で儒葬された。これを機に同地は林氏外の錚々たる儒者らの墓所「大塚先儒墓所」になった。

 同墓所沿革については後述するが、儒葬は神道や仏教のような葬儀を行わずに遺体埋葬が主で、近辺の人々は同地を「儒者捨場」と言ったそうな。荒廃した同墓所が明治後期の保存運動で整備され、大正10年に史蹟指定。(隣接の天皇皇后を除く皇室専用墓所=豊島岡御陵は明治6年から)

ohtukaenkaku_1.jpg 永井荷風が「大塚先儒墓所」を訪ねて「日乗」に記したのは昭和12年3月26日。「晴れて風甚寒し。午後大塚坂下町〝先儒捨場〟を見る。往年荒涼たりしさま今はなくなりて、日比谷公園の如くに改修せられたり。路傍に鐵の門を立て石の柱に先儒墓所と刻したり。境内に桜を植えたるなど殊に不愉快なり」。(川村三郎『荷風と東京』では〝儒者捨場〟掃苔を見落としている)

 荷風さん、日頃から江戸風情が次々に西洋化される様へ苦言を呈しており、同墓所も整備改修されて日比谷公園のようになるのを危惧したのだろうが、実際は逆で今も人知れずひっそりと在る。または「寛政の改革」で弾圧された戯作者らが好きだった荷風さんのこと、松平定信配下の儒者らが嫌いだったとも考えられる。

 小生、フリーランサーになった20代半ばから同墓所至近の大塚3丁目交差点際の写植屋さん(活字とDTPの間)を懇意にして何年も通っていたが、迂闊にもその〝坂下〟に「大塚先儒墓所」があるとは気付かなかった。

 同墓所を訪ねるネット記事を拝見すると「墓石の後ろにミニストーンサークルのような丸い石が~」などと記す例もあるが、とんでもない。それは墳墓(土饅頭)を囲む石ではなかろうか?

 さて、同墓所を訪ねたくも天候芳しくなく、その前に有栖川公園の都中央図書館(地元・文京区図書館に蔵書なし)で『史蹟大塚先儒墓所沿革』(東京市役所発行)と『大塚先儒墓所保存会報告書』(共に東京市が管理者に指定された大正11年頃の発行)を閲覧することにした。

 そこで小生、思わず膝を打った。『保存会報告書』の墓所略図にはちゃんと墓石後ろに各墳墓が描かれ(クリック拡大で確認を)、さらに口絵写真にも芝で覆われた墳墓がしっかりと写っていたじゃないか。我が推測通りなり。写真は「報告書」の墓所略図と「沿革」チラシの表紙。(続く)

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儒者の墓(2)林氏墓地へ [朱子学・儒教系]

hayasisibosyo_1.jpg 「林氏墓地」場所は市ヶ谷山伏町。大江戸線「牛込柳町」駅近く。幾度が鉄柵門から覗いたが初めて入った。新宿歴史博物館ボランティアガイドが丁寧に説明して下さり、資料チラシ、さらにボランティア氏メモも写真コピー、資料『国史跡林氏墓地調査報告書』が図書館にあることも教えて下さった。それらから簡単にまとめてみた。

 林羅山は徳川家康に仕え、寛永7年(1630)に拝領した上野忍ヶ岡の別邸で家塾を設けた。明暦2年(1656)に羅山夫人没で別邸内に埋葬。その際に羅山は中国資料(詳細不明)で調べ、それに倣った儒葬を行った。その詳細を二世・鷲峰(長兄・次兄は夭逝)が『泣血餘滴』に記録していた。以下、そのポイントを要約する。

jyusou1_1.jpg まず壙(あな)を穿ち、穴の周囲を板で囲って、檜板の棺で埋葬(穴や棺の寸法などは省略)。その上に土を盛って墳墓とする。高さ約76㎝で形は「臥斧、馬鬣封の如し」。斧のような、馬のたてがみのような形で、崩れないように芝を植える。その前に高さ約48㎝の台石の上に、45㎝四方・高さ約76㎝の石碑(頭は四角錘)を立てる。(林氏墓地は、さらに石で墓城を囲んでいて、この形式も詳細記述)

 「林氏墓所」内の8代述斎~11代復斎の4基が、ほぼ上記の「儒葬形式」で写真の通り現存。だが4基共に石碑後の墳墓がなく、木が育っている。これは永い年月・風雨に墳墓が崩れた後に木が植えられた(育った)のだろう。

 では姿なしの墳墓「臥斧、馬鬣封のごとし」とは。これは羅山夫人葬にならったという水戸光圀公の墓(常陸太田市瑞龍山)のネット写真を見ると概ねの形がわかる。天下の光圀公ゆえ台座・墓碑も豪華誂えで、強固に拵えられた墳墓だが、そこから形が伺える。儒教の影響を受けた大名級の墓に、このような形が多い(カット参照)。林氏墓所の墳墓も当初はこんな形の土墳で、芝で覆われていたように推測される。

mitukunihaka_1.jpg 同墓所の変遷についても簡単に記す。羅山夫人が儒葬された上野忍ヶ岡の別邸は元禄11年(1698)の大火に遭い、その後に牛込の地(現・新宿区市ヶ谷山伏町)に2090坪の屋敷地を拝領。同屋敷北西端に羅山夫人、羅山、2世鷲峰らの墓をここへ改葬(墓石のみ)。同墓所は明治以降、徐々に縮小。最後は約20㎡の狭隘な敷地に約80基の墓碑・墓標等が林立。儒式原型をとどめるは前述4基。雑草樹木が繁茂の荒廃で、昭和6年に東京市が修築して永久保存。その後は新宿区が文化遺産保護で墓地を公有化。

 「林氏墓地」を訪ねたら、都内のもう一つの儒者墓地「大塚先儒墓所」(当時の通称〝儒者捨場〟)も訪ねてみないといけない。そちらは昭和12年に永井荷風も訪ねていた。(続く)

 追記:小島毅著『儒教が支えた明治維新』(晶文社)にこんな記述があった。~地方の大名の中には、より積極的に朱子学を受け入れ、仏教に代わる教学として位置づけようとする動きもあった。~として野中兼山、保科正之、池田光政、徳川光圀、前田綱紀らが神儒一致を唱えて朱子学式の葬送儀礼の実施を企てた、と記されていた。それぞれの墓をネットで見れば、彼らの墓所は多少の違いはあれ儒式だった。また、野中兼山は母の葬儀と墓制を朱熹の『家礼』に遵って実施した、と記されていたゆえ、林氏の儒式も『家礼』に遵ったように推測される。

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儒者の墓(1)掃苔を振り返って [朱子学・儒教系]

hakuseiitimon_1.jpg 小生の儒者掃苔を振り返る。

 まずは永井荷風の外叔父・鷲津毅堂(元尾張藩儒者)の天王寺墓地(谷中墓地隣接)を掃苔。円墳上に長い角柱が聳えていた。どう解釈しても儒式ではなく神式だった。同じ谷中墓地の徳川慶喜の神式の墓に似ていた。鷲津は儒者と云うより漢学者のイメージ。

 貝原益軒『養生訓』筆写にあたって益軒をお勉強した。仏教を捨てた益軒の墓は、福岡・金龍寺にあってネットで写真を見れば〝ほぼ仏式〟の墓だった。

 次に「千駄ヶ谷シリーズ」新宿御苑・千駄ヶ谷門辺りの屋敷で亡くなった儒者・新井白石調べで、中野区上高田の高徳寺の墓地を掃苔。低い四角柱の墓石で「新井源公之墓」(写真上が一族の墓。下が白石夫妻の墓)。浅草の寺から相当に圧縮改葬されたのだろう、儒葬の面影は全くなかった。

hakusekihako_1.jpg かくして儒者の墓が神式、仏式、低い四角柱などで小生には「儒者の墓(儒葬)」が全くわからなく成り申した。

 手元に岩波書店『日本思想大系/貝原益軒・室鳩巣』がある。同書によると貝原益軒も室鳩巣も新井白石も木下順庵の門下(木門)で、林羅山一族の昌平黌に対する陣を張った存在だったと説明されていた。

 貝原益軒は若い時分に江戸へ出た際に、林家二世・鷲峰を訪ねで儒学の道を進み、後の京都勉学中は木下順庵が幕府招聘されるまで相往来する仲だった。室鳩巣は20年余も順庵の指導を受けた。新井白石は順庵が幕府招聘されてからの門人で、後に林家三世の大学頭・林凰岡と職務を二分(張り合った)した存在。

 そして木下順庵、室鳩巣ら江戸の錚々たる儒者らは〝儒者捨場〟と呼ばれた「大塚先儒墓所」で眠っているらしい。同墓所は明治維新で昌平坂学問所が廃止された後に荒廃し、大正3年に整備されて都史跡へ。現在も湯島聖堂棋文会主催で年1度の「先儒祭」が行われているとか。

 一方、幾度か扉から覗いたことがある市ヶ谷山伏町「林氏墓所」は、狭い敷地に墓碑・墓標が林立。林氏墓所ならば昌平黌(昌平坂学問所、現・湯島聖堂)に最も縁が深いと思われるも、ここは新宿区の管理で湯島聖堂とは関係ないらしい。

 かく「儒者の墓」が分からず仕舞いだった小生だが、ここで一気にそれら疑問を解く機会が巡ってきた。新宿歴史博物館主催で「儒学者林羅山とその一族の墓81基」の年1度の特別公開で、林家の墓81基のなか8代述斎~11代復斎の4基が「儒葬形式」を留めた貴重な文化遺産とあった。さっそく訪ねてみることにした。(続く)

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国立競技所を「バベルの塔」へ [暮らしの手帖]

kokuritu5_1.jpg 「スマホの歩数計」が、10月末であと少しで8万歩越えゆえ、新宿伊勢丹を越えて千駄ヶ谷まで歩いた。国立競技場の全貌が現われ始めていた。「あぁ、凄い建物を造っているなぁ」と巨大さにワクワクした。

  10月初旬に検査院が「オリンピック予算3兆円越え」と指摘。いや、実際は4兆円越えとの声もあり。

 五輪後に負の遺産もあろうが、誰も責任はとらないだろう。福島原発の責任も誰もとらない。呆れた財務省トップの責任もなしの、それはそれは〝美しい・美しい日本〟です。

 加えて安倍政権の「米製兵器ローン残高5兆円」で、それら兵器維持費もン兆円とか。すでに高齢者社会は始まっている。日本列島は災害多発で、復興に予算も回らない。更なる大災害も予測されているというのに~

 あたしは巨大な国立競技場を見つつ、屋根など造らず、日本の無責任政治を象徴すべく天まで届く「バベルの塔」を造ったらいいのに、と思った。

 隠居(老人)すると、この世に未練なしゆえ、遠慮なしの文句が増える。テレビは観たくもない顔ばかり。まぁ、露出度の多い偉そうなタレントは凡そ大嫌いだし、子供時分から泣いたり怒鳴ったりのテレビドラマも嫌い。観るテレビ番組は限られている。 

 政治も〝嘘をつくことが仕事〟と思っている総理が3選され、それを選んだ議員らも税金を食い扶持にする保身ばかりが透けて見える。政権に擦り寄り自ら〝なっちゃんです〟と云う薄気味悪い代表もいる。

 「あぁ、いやだ・いやだ」と鴨長明の方丈小屋を想ったりするが、そこまでスネなくも、せめて授かった残り少ない生に感謝すべく貝原益軒『養生訓』のお勉強に戻りましょうかと思う「こ・の・ご・ろ」です。

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大島の西風強し収束線 [週末大島暮し]

nisi2_1.jpg ロッジ前の海・波、貝、野田浜の溶岩をお勉強したら、冬の強い西風(ニシ)についても知りたい。

 ロッジを建てた当初は、防風林に守られていた。今は〝開発(防風林伐採)〟されて海一望。つまり冬の強い西風に直撃されるようになってしまった。

 先日の神田古本市で團伊玖磨『八丈多与里』を立ち読みしたら、こんな一文に惹かれて買ってしまった。

 ~ここ暫らく、八丈島は吹き続ける西風の中に居た。年が変わる頃から、毎年の定めの通り、西風は春を産む陣痛のように、朝も、昼も、夜も吹き荒んだ。眼に見えぬ冷たい気体の塊りは、来る日も来る日も西の海から島を攻撃して止まぬばかりか、勢い余った日には、ぐるぐると廻りながら、北から東からも島に攻め寄せた。

 ~冬の伊豆七島は、西風の強い日が多く、一旦風が吹き始めると数日は吹き止まぬ事も間々あって、風が吹くと実際の温度よりもずっと寒く感じるのが人の常だから、そういう日は、戸外を歩くのは辛い。

 「ははっ、小生と同じく冬の西風に怖がっている人あり」。ここはひとつ、伊豆諸島西海岸(大島西海岸)に吹く冬の強い〝西風(ニシ)〟のお勉強をしなければいけません。

 まずは台風。南洋で発生した低気圧が西に移動し、その後に偏西風となって日本列島を襲う。日本は端から西風を受ける定めにある。そして冬の季節風(寒冷高気圧、北西風)が問題となる。

 冬の季節風は、日本海を越えて日本列島を襲う。中部山岳に当たった季節風は北回りで迂回する風と、西回りに迂回する風に分かれる。北回りの風は関東平野へ回り込み、西回りの風は駿河湾を回り込んで、二つの風が伊豆諸島北で合流する。これを「季節風の収束線」と云うらしい。

 北回りの風は陸上を経て来るので、風速は弱いが低温の「北東風(ナライ)」になる。駿河湾を回って大島を襲う風は、海上経由ゆえに勢いがある。これが冬の強風「西風(ニシ)」になる。大島は楕円形で、中央に三原山がある。特に元町~野田浜の西海岸に「西風(ニシ)」が襲い、特に先端の乳が崎辺りに風当たりが強い。一方、泉津~筆島辺りには北東風(ナライ)が吹く。これが伊豆諸島(特に大島~新島)の冬の特異な現象になっているらしい。(『大島町史/自然編』他を参考)

 大島の先人は、この辺がわかっているから、防風林で囲った中に畠や家を建てていた(ロッジ地もアヤメ科ワットソニア・アルバー=檜扇水仙の栽培地だった)。そうした事情を知らぬあたしら新参者が、家を建て、防風林を伐採して、後でナキをみている。

 『八丈多与里』でも崖の上の草原に家を建てるに当たって、古老に西側に硝子を使わぬよう忠告されたが、12年後の西風(台風)で800㍍先の黒砂山から飛んできた拳大の石ころに西側の温室、居間のガラスがことごとく直撃された、と記していた。(追記:『八丈島誌』風向は西が圧倒的に多い。11月になると西の季節風期に入る。冬季12月~2月はほとんど西風で、風力も強く毎日のように強風注意報が出ている)

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