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8)藤原惺窩と林羅山の違い [朱子学・儒教系]

fujiwaraseika.jpg_1.jpg 儒教が朱熹の謹厳さ反映「朱子学」になった。小生はこの辺で御免蒙りたいが「孔子vs朱熹」と同じく「藤原惺窩vs林羅山」も面白いので記してみる。

 惺窩には孔子的な人間味があり、また権力者・家康から離れたのに比し、弟子の林羅山は家康に〝曲学阿世〟で擦り寄った。以下は太田靑丘著『藤原惺窩』参考にまとめる。

 藤原惺窩は川中島合戦最中、永禄4年(1561)の播磨(兵庫)生まれ。父は歌道の下冷泉家系。7、8歳で仏門へ。18歳で父と兄が戦死。京都相国寺で禅学に専念。(若冲が〝山川草木悉皆仏性〟で描いた「動草綵絵」奉納は約185年後のこと)。30歳、朝鮮国使の宿舎・大徳寺に出向いて筆談。朝鮮はすでに朱子学の時代だった。

 文禄2年(1593)、33歳。豊臣秀俊(秀吉養子)に従って朝鮮出兵の後方根拠地・備前の名護屋(佐賀県唐津市)赴任中に明国信使に会い、また徳川家康にも謁見。これを機に、同年12月に家康に招かれて江戸へ。政治家必読『貞観政要』(唐皇帝・太宗の帝王学)を講じた。

 翌年、母の訃報で京都へ戻る。3年の喪があけた慶長元年(1596)、惺窩は明に渡って直接朱子学を学ぶべく薩摩から明へ渡航を企てるも、疾風で「喜界ヶ島」に漂着。

seika_1.jpg 京に戻った惺窩は、慶長3年(1598)38歳で、伏見城で監視下にあった朝鮮役捕虜の朱子学者・姜沆と会う。惺窩は彼から四書五経を写本。慶長5年、惺窩44歳、林羅山22歳が入門。羅山が同写本(新注)を読む。この辺は「林羅山」の項で消化済ゆえ省略。

 ここからが二人の分岐。惺窩は家康から身を退いた。森銑三著作集・第八巻「藤原惺窩遺事」にこんな記述あり。「或時(家康が)湯武の事を聞きたいと再三御望有れば、合点のゆかぬことぢゃ。大坂でも討つ思案かとて、それから御前へ出られなんだ」。(湯武放伐論=「孟子」にある討伐論)。

 惺窩は家康の野望察知で身を退き、慶長10年に京都鞍馬山麓の山荘に隠棲した。清貧に甘んじ、家系の和歌を、連歌を詠み、芸を否定せず、ユーモアも解し、神儒一致志向へ。心の広さから陸象山や王陽明らの長所も認めた。元和5年(1619)秋、59歳で没。

 惺窩の弟子で姻戚の30歳下の京都・松永尺五の講習堂の門人は数千人。ここから木下順庵、貝原益軒らが出て、順庵門から新井白石や室鳩巣らが輩出された。

 一方の林羅山は家康に擦り寄い、引き続き家光~家綱に仕えて、三世・鳳岡が大学頭へ。松平定信「寛政の改革」で朱子学が幕府公認学問へ。聖学堂に昌平坂学問所を設置。そこに招聘されたのが「寛政の三博士」。彼ら朱子学者の主張が「天道~将軍~大名・役人~国民」だった。(写真は藤原惺窩。国会図書館デジタルコレクション「肖像集」江戸後期刊より)。

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7)美女を見る孔子と朱熹の違い [朱子学・儒教系]

nyugokubijyo1_1.jpg 小生『論語』を読み始めているが、早くも「第二・為政篇」。『論語』は端から為政者の思想(儒教=徳治主義)で、被支配層=大衆庶民・小生は俄かに興味を失った。(孔子の当初弟子は約70名。孔子と同じ士階級中心で官僚を目指す者が多かった)。

 また吉川幸次郎、貝塚茂樹の両解釈を読むと、両人ともに〝朱熹(朱子学)嫌い〟らしく感じた。その辺を庶民・熊さん的下世話さで「学而編」の「下夏曰 賢賢易色~」解釈を例に挙げてみる。

 貝塚訳注は「子夏曰く、賢を貴ぶこと色(おんな)の易(ごと)くせよ」。つまり、人は美人を好むと同じように賢人を尊敬しようの意。当時の「賢を尊ぶこと、色(美女)への想いの如く」の格言からで、孔子は美女のみではなく、すべての美を愛する欲望が文化の根源、と考えての言葉だろうと指摘。比して朱熹は「賢者と美女を並べるとは何事だ」と反発。謹厳な朱熹は、孔子の真意を誤解していると記していた。

 吉川幸次郎解釈でも、古注は「賢人を賢人として尊敬すること、美女を尊敬する如くなれ」で、次の六朝時代の解釈は「賢者に遭遇した場合は、賢者を尊重してハッと顔色を易(か)えるほどであれ」と解釈。わが仁斎の「論語古義」、萩生徂徠「論語徴」共にそれを祖述。だが朱熹「新注」では「賢を賢として色を易(かろ)んぜよ。賢人を尊重せよ。美人は軽蔑せよ」になっている。

rongohon1_1.jpg 「私の学力では、どれがよいとも定めかねるが、元来の儒教には欲望を否定する思想は少なく、従って女色は否定されていないから、しばらく〝賢を賢とすること色よき美人のごとかれ〟という古注に従っておくと記し、加えて「子罕篇第九」の以下の言葉もあると指摘。それは~

 「子曰 吾未見好徳如色者也」。子曰く、吾れ未だ徳を好むこと、色を好むが如くする者を見ざる也。つまり美人を愛するほどの強烈さで、道徳を愛する人間に、私はまだ出会ったことがない。相当に思い切った言葉を発している。これは孔子57歳の時に、衛の霊公の淫蕩な美しい夫人・南子に謁見した際の言葉。孔子の人間臭さに思わず微笑みたくなるも、朱熹は「とんでもない」と言っているらしい。

 貝塚もほぼ同解釈で、美人と有徳者を対照とするのは、ふつうの道徳家には考えようもないことだが、孔子は音楽、書、詩、礼~すべての美に対して敏感だった。それが孔子の調和の世界観だったのだろうと記していた。

 その問題の〝色〟=淫蕩な美しい夫人・南子は「第六・雍也篇」にも登場する。さて、人間味豊かな孔子(儒教)と謹厳な朱熹(朱子学)のどっちが好きでしょうか。やはり儒教は孔子で留めておくのがよろしいようにも思うのですが~。

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6)儒教から朱子学へ [朱子学・儒教系]

syuki3_1.jpg 儒教が生まれて中国は三教(道教、仏教、儒教)の時代へ。道教=自己努力による不老長生。仏教=因果や運命に基づく輪廻転生。儒教=先祖祭祀による現世への招魂再生。

 儒教は、やがて新解釈の朱子学を生む。この辺をわかり易く書いた土田健次郎著『江戸の朱子学』を参考に、自分流解釈でまとめてみる。

 孔子没は紀元前479年。未だ書物のない時代で、日本は弥生時代。(井上靖『孔子』は、孔子と弟子らの放浪生活が思い出の形で描かれている)。孔子の弟子らによって『論語』本文がまとめられたのは約700年後の後漢末期(~220)。その約900年後の1130年に朱子(朱熹)が生まれた。『方丈記』の鴨長明が生まれる25年前のこと。

 朱熹は9歳で『孟子』読破。19歳で「科挙」合格(中国の「科挙」制度は隋代〝587年~〟から1905年まで1300年間も続いた)。朱熹は「科挙」合格も、出仕せずに家居で儒学を深めた。

 朱熹の先輩哲学者に程兄弟がいた。兄・明道は自由闊達、春風和気。弟の伊川は謹厳・秋霜烈日。兄の系譜上に「陸象山」が登場して、弟の謹厳さを朱熹が受け継いだ。(ゆえに朱熹の『論語』新注は人間味のないつまらん解釈らしい)。四書(論語・中庸・孟子・大学)、五経(易・書・詩・春秋・礼記)などを新解釈。かつ儒教に欠けていた宇宙観、物質観を組立てた。それによって「原儒=死の不安」~「儒教=生命論、家族論」~「朱子=政治論、宇宙論、形而上学(存在論)」へ発展した。

edosyusi_1.jpg その核が「気と理」の二元論。~この世は「気」で出来ている。「気=けはい」はエネルギーを帯びて、陰(静態的)と陽(能動的)があり、五行(木、火、土、金、水)の側面も有す。五行が混合して万物になる。

 陰陽のモデルを男女とすれば、陰陽の関係で子が生まれる。つまり陰陽は「関係・感応の運動(例えば心の動き)」で、この世は「感応する世界」。その感応には法則・秩序があって、それが「理」だと説明。感応が「理」にのっとった状態で心が動けば「道徳」になる。まともに動けば「善」で、歪めば「悪」になる。「気」の歪みは学問や修養で修正する。(この朱熹論を読んでみたいが、それはどこに書かれているのだろう?)

 朱熹没は1200年。中断されていた「科挙」が再開された時に、朱子注の「四書」「五経」が科目になって、朱子学が権威になった。(だが朱子論では、気が散じて死ぬも、散った気の行方が不明で、儒教で肝心の「祖先の祭祀」の説明が不十分になる。この辺は島田虔次著『朱子学と陽明学』に詳しい)

 朱子学の「気」の説明を読んでいると、若い時分に読んだフッサール『現象学』を思い出した。この辺でそろそろ日本に舞台を移したい。

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5)『論語』のさわり~ [朱子学・儒教系]

rongokaisyo_1.jpgrongokuzusi_1.jpg 小生、子供時分も良い子ではなく、学校で「漢文」を習ったことも覚えていない。青年期からの読書も翻訳本中心。而して隠居後に〝古典〟を読み始める体たらく。国会図書館デジタルコレクションの、天文2年(1533)刊『論語』冒頭「論語学而第一 何晏集約」の最初頁を筆写。不勉強爺さんがスラスラと読めるワケもなく吉川幸次郎と貝塚茂樹の『論語』を参考にしつつ読んでみた。

 子曰 學而時習之 不亦説乎 有朋自遠方来 不亦楽乎 人不知而不愠 不亦君子乎

 子(孔子)曰く、学び而(て)時(時々ではなく、折々に)之(『詩経』や『書経』とか)を習う。亦た説(悦)ばしからず乎(不~乎=なんと~ことではないか=悦ばしいことではないか)、朋有り遠方自(より)来たる、亦た楽しからず乎(や)、人知らず而(して)愠(いか)らず(自分の勉強が人に知られなくても怒らず)、亦た君子ならず乎(それも君子ではないか)。

 吉川解説では「之」は読まずにリズム充足の助字。「亦」も軽い助字。相手に同意を導き出すとあり。貝塚著では〝当時の習う〟は未だ書物はなく、木や竹の札に記した時代ゆえ〝口伝〟の学問。ここでは礼儀作法の自習のこと。「時」は助字で「これ、ここに」の意。また「君子」は学者、人格者、求道者と説明されていた。

 有子曰 其為人也孝弟 而好犯上者鮮矣 不好犯上 而好作乱者 未之有也 君子務本、本立而道生 孝弟也者 其為仁之本與

 有子(孔子より43歳下の弟子)曰く、其の人と為りや孝弟(親に孝行、年長者によく従う)にして、而(しか)も上を犯す(目上に抵抗)を好む者は鮮(すくな)し矣(乎=捨て字で読まず。断定・詠嘆の助字の場合は語勢を強める)、上を犯すことを好まず、而(しか)も乱を作(な)す(争いを起こす)を好む者は、未まだ之を有らざる也。君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちで道(仁)生ず。孝弟なる者は、其れ仁の本(もと)為(な)る與(与=か。断定を躊躇する助字)。

 それにしても『論語』の代表的読み手の貝塚、吉川両氏の解釈違いの多いこと。それが『論語』でもあるのだろう。永井荷風も夏目漱石も儒教とは関係なく、子供時分にこうして勉強して漢文、漢詩に親しんで行ったか。

 小生の息子は日本語がどの程度かは知らんが、英会話は出来る。あたしは日本語も満足ではなく、外国語はまったく出来ない。子供時分は「ひ=し」の〝江戸弁〟はまぁ普通で、目下は「くずし字」を勉強中。『論語』は楷書よりくずし字の方が書き易く、書いていて楽しかった。

 お正月は『論語』読みで過ごしましょうか、と思ったが、読めば読むほど小生には無縁と思ってしまった。孔子の言と反対が小生で、そこを記せば「父母の意見・希望に逆らい自分勝手の人生を歩み出し、社会に入れば群れから離れたがり、上司うざったくフリーランサーになり、スタッフ抱えれば、その無能さに怒り、馴れ寄る若者もうざったくワンマンのワーカホリックで、為政者や役人への怒りも胸に~」。〝あぁ、論語は読めねぇ〟と思ってしまった。

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4)孔子経歴と『論語』経緯 [朱子学・儒教系]

kousitogyo_1.jpg 前回は最後文のブログアップ出来ぬ障害に遭ったが、次へ進む。湯島聖堂で孔子銅像を撮ったら、孔子経歴も知りたくなった。清水書院の3人共著『人と思想・孔子』、影山輝國著『「論語」と孔子の生涯』を参考にまとめてみた。 

 孔子は春秋末期に中国東部(現・山東省西部)の小国「魯」は昌平郷で生まれた(〝昌平坂学問所〟の由来)。当時の魯は周囲に従属する小国。

 孔子は70歳余の父、孫のような巫女を母に生まれた。高齢者と少女の婚で〝野合〟とか。孔子3歳で父没。父は下級なれど勇敢な武士だった。孔子は父の血をひく立派な体躯で、母を助けつつの貧窮生活。13歳から学校へ。15歳で学問を志す。19歳、魯の下級官僚になって妻を迎えた。子供は男女の2人。仕事は倉庫管理や牧場の繁殖係りなど。

 20歳、教師になる。音楽と学問好き。多数弟子を抱える。24歳で母没(父の墓に合葬すべくも所在地わからず。母も早く亡くなって孤児の説もあり)。36歳、君主が斉に亡命で、孔子も斉へ向かった。斉の貴族の家臣になる。斉の君主が抱えようとするも、孔子の儒の儀礼作法は費用がかさむと実務型政治家が拒否。

 37歳で魯に戻る。以後10数年間は私塾で子弟を教育。誰もに貴族独占的教育だった『詩』『書』などを教えた。52歳、魯中部の宰(町長)に就任。政治的手腕が認められて魯の司空職(土木を司る)から司寇職(裁判を司る)へ。

kousubyo_1.jpg 53歳、隣国・斉が魯を属国扱いにすべく会談に全権大使役で臨み、相手の策を一喝。斉は侵略耕作地を返すなどで謝罪。孔子は大司寇(法務大臣)に昇格。孔子の国政参画で魯は人心安定。次に三家に私物化されていた軍を魯国軍に統一すべく画策するもこれに失敗。孔子56歳より14年間の放浪生活へ。69歳で、魯に残した弟子らに呼び戻されて政治顧問になる。

 閑職ゆえ、弟子らの教育と古典整理に傾注。散逸していた『礼』『楽』『詩』『書』を整理し、魯国史『春秋』執筆。71歳、長男と一番弟子・顔淵が没。73歳、愛弟子・子路も没。孔子も74歳で没。

 孔子死後、門人らが師との対話集として編纂し、漢代に入って何晏らにがまとめた『論語集解』注釈(古注)が定着。その背景には、漢の前「秦」始皇帝が儒教弾圧で、漢王朝になって儒教が重んじられたことの影響もあるらしい。そして朱熹(朱子)による新注『論語集注』へ至る。

 日本では平安~室町時代が「古注」で、江戸時代に「新注」が読まれた。面白いのは萩生徂徠の弟子が足利学校書庫で写した古注本『論語義疏』が寛延3年(1750)刊で、それが中国に伝わって古注復刻版が相次いだこと。

 写真上は湯島聖堂の孔子銅像と後ろの孔子廟。写真下は入徳門から孔子廟を臨む。江戸時代には孔子廟左側に「昌平坂学問所」が広がっていた。今は東京医科歯科大学キャンパスになっている。

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3)蜆売り新太の「論語」読み? [朱子学・儒教系]

IMG_1682_1.JPG ちょっと小難しい書を読んだので、女房の時代小説を持って風呂に入った。宇江佐真理『雪まろげ』。冒頭編「落ち葉踏み締める」で、蜆売りの14歳・新太の説明で、こう記されていた。

 ~新太は勉強が好きな子供だった。「論語」だって澱みなく言えたし、暗算も得意だったが、病に倒れた父親が死ぬと、新太は手習所へ通うことができなくなった~

 おや、手習所(上方では寺子屋)で『論語』素読までやっていたのかしら?と首をひねった。新太の父は押上村の農家生まれ。魚屋奉公から〝剥き身売り〟になった。その子が通う手習所が『論語』素読までさせていたのだろうか。

 「江戸時代は武士に限らず誰もが『論語』を学んでいた」なる記述は多いが、何も考えずに鵜呑みすると〝チコちゃんに叱られる〟。前田勉著『江戸の読書会』を読むと、朱子学で習う順は『大学』(1851字)から『論語』(総字数13700字で字種は約1529字)~『孟子』(34685字)~『中庸』(3568字)へ。素読が済んだら「講釈」。そして「会読」(討議)へ進むとあった。

 だが、この学習法は武士の子らが通う私塾や藩校で、庶民教育の手習所では、儒教のテキスト素読を行うことがあったとしても、主なテキストは『商売往来』『百姓往来』などの〝往来物〟であった、と記されていた。(早大古典籍総合データベースの「往来物」で多数冊が閲覧できる)

 また加地伸行著にも「朱子が編んだ『小学』は子供のための簡約版だが、庶民には程度が高く、村塾へ通う庶民の子供は、定型的な教訓を三字一句に盛り込んだ『三字経』など通俗教科書を読んだであろう、と記していた。やはり<蜆売りの新太が『論語』を澱みなく言えた>には無理がある。なお物語の新太は母から末弟・捨

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2)白川静『孔子伝』の〝仁〟 [朱子学・儒教系]

kousizo1_1.jpg 加地伸行著『儒教とは何か』に記された「儒教以前の〝原儒〟」については、白川静著『孔子伝』の〝儒の源流〟が別視点(こっちが定評)で説明されている。簡単にまとめてみる。

 孔子の母はおそらく巫女。野合で孔子が産まれたとか。巫女の庶生子。巫祝社会に成長し、聖職者らが伝える古伝承の実修を通じ、伝承の世界を追体験。その意味を再解釈し、それを意義づけようとした。(詳しい経歴は後述する)

 孔子の儒の源流は「神と人との関係」から生まれた巫史(ふし)の学。儒教は、それら伝承のもつ多様な意識の諸形態を吸収しつつ、民族の精神的な営みの古代的集成として成立された。よって儒家の経典には喪礼や祀礼に関する記載が多い。

 「儒」は雨請いをする男巫で、儒家はもと「仁」と自称していた。『論語』のなか58章に及んで「仁」が論じられ、「仁は人なり」で「仁=最高の徳」。(それ程の〝仁〟だが、小生20代の頃の東映任(仁)侠映画で〝仁〟は大流行り。松竹映画でも寅さんが仁義をきっていた)

 また儒が喪礼の関係者から出ていることで「礼記」49編のうち、その半分余は喪葬に関する古文献の解釈。他の諸編も喪葬ら祀礼に関する記述が多い。つまり〝あらゆる祀礼〟の礼を守ることで社会を安定化し、「礼」の本質「仁」をもって、徳性を高めると説明されていた。

IMG_1748_1.JPG また加地著でも白川著を引用。「~孔子の生きた時代には、古くから巫祝(ふしゅく=シャマン)がいた。もともと〝儒=巫祝〟の意で、呪的儀礼や喪葬などに従う下層の人たち。大儒と小儒の階層があって、孔子の言う〝君子の儒〟は古典学を修めた知識層。その層にも内祭(宗教儀礼)担当と外祭(政治的儀礼)担当の二系統があり、やがて宗教と政治の分離が起る。一方の小儒は祈祷や喪葬を担当。孔子は白川説のように礼制に詳しい有数の知識人だった」

 かくして孔子による「儒教」は、中国における古代的な意識形態のすべてを含む「仁」を核に成立され、中国2千数百年にわたる伝統として確立された普遍的思想になった、と説明されていた。(写真上は昭和50年に湯島聖堂に建立された世界最大の孔子銅像)

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1)〝原儒と孝〟から始まった。 [朱子学・儒教系]

kajijyukyo_1.jpg 「儒者の墓シリーズ」を終えたが、実は儒教・朱子学を知らず。遅ればせながらのお勉強です。しかし惚け始めた頭では手強く、今後の勉強のガイドメモ風に記してみます。

 まずは「儒教=倫理道徳=封建的思想」なる観点ではなく「その本質は死と深く結びついた宗教性」を指摘すべく書かれた加地伸行著『儒教とは何か』を読んでみる。

 著者は、孔子による儒教以前を「原儒」と名付けて説明。原儒は太古から続くシャマニズム(神や霊と人との交流儀礼を行う呪術、宗教形態=招魂再生)を基礎に、そこに「孝」の概念を嵌め込んで「家族論」、その上に「政治論」までを体系的に構築したと記す。(白川静著『孔子伝』では「仁」を持って統一したと記されている)

 加地著では、儒教の核は「孝」。子の親に対する愛情=孝は<祖先~祖父母~父母~自己~子~孫>の繰り返しで「孝=生命論」になる。自分の身体は先祖~明日へ続く生命。最も親しいのが親ゆえ、キリスト教の「博愛」とも違う。

 (面白いのは〝孝=続く生命〟ゆえ、男子を産むためには妻以外の女性=側室OK。徳川家康の側室20人余とか。貝原益軒も1年に1人、3年で3人の側室とセッセと励んだが子は出来ず。このシリーズはかく脱線するいい加減なお勉強です。悪しからず。)

 そして親の葬礼(礼)に心をこめる。その「礼」が社会規範になって政治理論に至る。また孔子は文献学者でもあって、整理した「詩」「書」「礼」「楽」などが儒教教科書になる。「詩」「書」は心を読む解釈学へ。「礼」は敬・慎み・和・譲・倹の在り方を説く。

 孔子による儒教は、紀元前2世紀(前200~前100)に国家公認学問になり、隋代(587年~)から続く「科挙制度」の教科書になる。「科拳」はなんと!1905年(明治38年)に至るまで1300年間も続き、儒教的教養を身に付けた文官(科拳出身者=官僚)が国の指導層になる。(日本の鎌倉時代では武官が儒教的教養を身に付けることで「孝」より「忠」が重視傾向になる)

 原儒が、かく儒教になり、そして新しい儒教・朱子学へなるも、この先は後述。なお著者は冒頭で「日本の葬式は儒教が混在」と指摘。仏教に於いて死者の肉体は単なる物体。僧侶は故人が成仏すべく本尊に読経をするのが本道。だが日本の葬式は本尊には知らん顔で遺影を仰ぎ、柩に礼拝し、焼香し、家族が出棺し、遺体を地中に葬り墓を作る。仏壇も位牌さえ儒教式。さらに「清め塩」は日本古来の死生観、神道だと指摘していた。

 著者は最後に「儒教の宗教性、家族の礼教性は、現代人の心の深層の中に生きている」と記していた。

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華燭より散る落葉らの艶やかさ [散歩日和]

akikenran_1.jpg どうです、この秋の豪華な光景。金糸銀糸の花嫁衣裳、金襴緞子の帯よりも、数段に鮮やかです。

 この豪勢な〝散り様〟を見ていますと、小生は肩書・地位なく、功徳もせず、まして大樹でもありませんから、散る時は一人〝ひっそりがいいなぁ〟と思いました。

 目下、儒教・朱子学系を読書中です。どうやら儒教は「孔子=儒=巫祝=喪礼・儀礼=礼・仁」が核のようです。さらに朱熹の朱子学確立は、鴨長明の時代と被ります。やっぱり儒教より日本隠者の〝ひっそり、さっぱり〟がいいなぁと思います。

 ブログは次から「儒教」お勉強シリーズです。

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老妻の車椅子押し紅葉狩り [散歩日和]

oimomiji1_1.jpg 新宿御苑の続き。逆光に輝く紅葉へ向かって、車椅子を押す老人の姿があった。

 あたしより幾つか上の世代だろう。彼らの幼き頃に戦時中の疎開や東京大空襲の体験があったかもしれない。

 あたしも近い将来には、婆さんの車椅子を押しつつ、御苑の四季を愉しむと決めていた。

 だが自分の方が先に、脊柱狭窄所や腰痛で歩行が辛い日々を迎えた。目下は克服中だが、先日の御苑ウォークでは、あたしの方が先に音を上げた。あたしは、もう少し頑張らなければいけない。

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吾は長らへ同じ景を見ゆ [散歩日和]

kareha_1.jpg 御苑〝秋の風物詩〟に、プラタナスの枯葉で埋まるベンチがある。

 写真を撮った後で、同じ写真を8年前にも撮ってアップしたと気付いた。その見出しが「枯葉降り老いを呑み込むベンチ在り」

 この枯葉を近所の高校生らが掃く光景も見た。8年前に見た高校生らは、すでに社会で活躍していよう。比して吾が〝老い暮し〟変化なく、また同じ情景を見ている。

 写真が同じならば少しは進歩・変化をと、短歌に初挑戦。「年毎に落葉掃き経て旅立つ子 吾は長らへ同じ景を見ゆ」 うむ、無理あり。短歌のお勉強も始めましょうか。

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煩悩を枯葉に乗せて無我の境 [散歩日和]

meiso_1.jpg 再び新宿御苑を歩いた。世界放浪風の外国青年が、大樹の下で瞑想していた。

 ビートニック、ピッピ―が流行った若い頃に、鈴木大拙の禅の書を幾冊か読んだ覚えがある。

 別の場所でも、座禅を組む青年がいた。頭上に枯葉が輝いていた。煩悩を枯葉に乗せて流す~。そんな文をどこかで読んだ気もする。

 秋っていいなぁ。(後姿だが写真は止めてスケッチにした)

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骨董市美女が描ける筆五本 [暮らしの手帖]

IMG_1690_1.JPG 新宿・花園神社で、お酉様の屋台撤去と同時に「骨董市」が再開されていた。ウォーキング途中に覗くと、中国系骨董商が広げた商品群に、箱へ投げ込まれた沢山の細筆があった。三百円と三百五十円の未使用筆。

 「これ一本で百人の美女描けるね」と店主。五百人の美女を描きたく五本購った。筆には中国語の刻印。さて使い心地は?

 新宿・世界堂で千五百円と千円の習字細字筆を求め、貝原益軒『養生訓』筆写を始めている。筆の三分の一をほぐす〝筆下ろし〟だが、含んだ墨がすぐ切れてしまう。次は根元まで下ろしてみよう、また習字細筆を水彩画に使ってみたら~とも思っていたんです。

 ユニクロダウンの内ポケットに五本の筆を突っ込んでウォーキングを続行。帰りにスーパーへ寄れば、レジ嬢にお釣りの百円玉を落とされた。拾うに屈めば、内ポケットの細筆が折れる。

 五本の筆をレジカウンターに置き、百円玉を探した。「ゴメンナサイ」。たどたどしい日本語に見上げれば、中国系レジ嬢が筆を手に「筆下ろし、上手にしてね」と微笑んだ。

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白鷺や姿写して日がな哉 [散歩日和]

daisagi_1.jpg 新宿御苑で撮った。ダイサギだろう。郊外には〝サギ山〟なる繁殖地もあるらしいが、都心で見るサギは、概ねロンリー。どこか遠くの塒から飛んで来て、餌を食って、夕方に帰って行くのだろうか。

 餌を探し狙う姿は、何時だって、とても静かな佇まいです。手足微動だにせず集中・没頭。禅僧が瞑想でもしているようです。

 新宿は花園神社のお酉さまも終わって師走の街です。人の落ち着きのないこと。

 そんな世にわれ関せずの、サギの静かな佇まいを、のんびり見ている隠居のあたし。



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激変の渋谷ウォーク [散歩日和]

sibuyaroji_1.jpg 前回の続き。いざ渋谷へ。まず10代の頃のバイト先・喫茶店「リルケ」を探す。スクランブル交差点を渡って、京王井之頭線と道玄坂に挟まれた入り組んだ路地のなか。

 おぉ、見知らぬビルが建っていた。井之頭線を懐にした細長いビル「渋谷マークシティ」。「リルケ」は同ビルに呑み込まれたか、いや、その前に昔の面影の露地が僅かに残っていて、その一画にあったか。余りに昔のことなので記憶薄れて場所の特定に至らず。

 その「渋谷マークシティ」は平成12年(2000)開業とか。1・2・4階が井之頭線渋谷駅に直結した25階建て。地下に「東横のれん街」。5階が高速バスと羽田・成田へのバスターミナル。他が商店35店舗と「渋谷エクセルホテル東急408室」とか。

IMG_6651_1.JPG 次に246際の「東急プラザ渋谷」も工事中。18階建ての「渋谷フクラス」が来年秋に開業。1階が一般路線バスや空港リムジンバスが入って、上が商業階とオフィス階。屋上に広場が出来るらしい。

 工事中の同ビル脇の246を歩道橋で渡って、次は「渋谷エピキュラス」を探す。ちょっと迷ったが見覚え有る坂があった。坂を登り切った処に「ヤマハエレクトーンシティ」看板で閉鎖中の「元・渋谷エピキュラス」があった。ここは「桜丘口地区市街地再開発地域」で解体工事直前。なにやら「桜丘町〝まちじまい〟」とかのアートイベント中らしかったが当日は休館。「エピキュラス」最後の姿を見ることができた。

 その高台から東の写真を撮った。手前の建物は全て再開発され、線路向こうに新しいビルが三つ見えた。ガード下を通って、明治通り側に出る。昔の東横線渋谷駅続きの線路地に、ビル外観が白パネルをランダムに張り付けたようなビル「渋谷ストリーム」。35階・地下4階。オフィス、店舗、ホテル、ホールを有した大型複合ビル。「大階段」前が渋谷川で、川壁面に水が流されて広場っぽくなっていた。

epicukara3_1.jpg そこから歩道橋を渡って、既に開業の「渋谷ヒカリエ」へ。エレベーターを二つ昇ったホールから渋谷駅を見る。眼前に「渋谷スクランブルスクエア」の東館47階が聳えていた。これも来年秋に開業とか。地下2階~14階までが商業域で、17~45階がオフィス。45階の屋上が全面展望施設「渋谷スカイ」。地上230mの展望が楽しめるらしい。2027年には中央棟、西棟も建つらしい。

 以上、激変中の渋谷レポート。振り返れば小生の小・中・高校も今はない。東京の故郷は消滅し、この世にデベロッパーが存在する限り、街は限りなく超高層都市へ変貌し続けるのだろう。北海道から上京した中島みゆきは、東京をどう歌っているのだろうか。

 写真上は取り残された露地。写真中は元・渋谷エピキュラス。写真下は同地から渋谷東口側を見る。「渋谷ストリーム」奥に「渋谷ヒカリエ」左に「渋谷スクランブルスクエア」。

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