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つま先立ちで「ヴィーナスのえくぼ」 [散歩日和]

siriekubo_1.jpg 起床。まずコーヒーを淹れる。最初は20秒ほど蒸らす。後はゆっくりと注ぐ。せっかちゆえ、その待ち時間に「つま先立ち運動」をするのが習慣になって久しい。その結果だろう、下腿三頭筋が浮き上がっている。左図は吾の誇張なしスケッチですぞ。

 ある日、ふと「つま先立ち運動」を「踵をつけた八の字」でやってみた。するってぇと、尻上部と背筋下部辺りがビリリッと効いた。「あっ、ひょっとすると、この筋肉が大事なのかも」。以来その形で「つま先立ち」をするようになった。すると長時間歩いていても上体を支える疲労感が消え、歩く姿勢も良くなったような気がする。

 調べてみると、踵をつけた八の字のつま先立ちは、尻上部と背筋下部の筋肉を発達させ、そこに「ヴィーナスのえくぼ」が出来るらしい~説明があった。それはまた俯せで上体を起こす(反る)、下半身を上げる運動でも同じ効果が得られるとか。爺さんが言うことではないが、それが「美尻ポイント」とか。

 さて、それによって、長時間歩いても疲れなくなれば、今度はもう少し早く歩いてみたくなる。歩くのが早い人っていますよね。これは男女に関係なく、歩幅でもなく、足運びのテンポの速さのような気がします。歩いていると、そんな早歩きの人に抜かれ、なかなか追い着けません。

 かくして目下は、早く歩く練習をしています。それには、どの筋肉を鍛えたらいいのだろうか。若い時分は早歩きだった婆さんに訊けば「お爺さんはほどほどが肝心。無理をすると危ないですよぅ」と笑いやがった。

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貪欲に三つ巴かな蝦蟇 [散歩日和]

kaeru_1.jpg 2月の歩数計が目標の10万歩に至りそうもない。そこで「梅は咲いたかぁ~ 桜はまだかいなぁ~」と口ずさみつつ新宿御苑へ向かった。

 梅も寒桜も咲いていた。「おや、聴き慣れぬ鳥の声~」。双眼鏡で覗けば、鳥ではなく不気味な軟体物の塊の蠢き。眼を凝らし観れば、ヒキガエル(ガマガエル)3匹が絡み合う姿。

 3匹交接?と思ったが、それは人の性の概念で蛙を思う不見識。蛙は卵に放精する対外受精。背に抱きつくのは交尾ではなく産卵を促す「抱接」とか。

 ちなみに蝦蟇の季語は夏。「蛙女房=蛙の目(妻)の位置が上=目上、年上女房」だって。昔々「カエル=帰る・還る」また沢山の卵から豊穣、の縁起物と説明され、亡父が彫った実物大ガマガエルの石の置物を貰った。捨てられず今もにベランダ片隅にあるが、お金は廻り還らず出ずっぱりの貧乏です。しかしこの歳でも歩ける身体をいただいたと感謝すれば儒教っぽいか。

 自宅~新宿御苑~文明堂で土産「どら焼き」を買って帰宅。計8,669歩也。写真は簡易カメラでピン合わず。実際もこんな感じで、眼を凝らさぬと蝦蟇3匹とは分からなかったんです。春到来。

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安価トレス台入手 [スケッチ・美術系]

trace_1.jpg 昔々、デザイナーだった頃に「ライトボックス」を持っていた。当時の写真原稿は35ミリか6×6フィルムで、ライトボックス上でルーペ覗きつつの写真選びだった。

 写真のトリミング、切り抜き指定もライトボックス上の作業。対角線による拡大類似形の輪郭線アタリで、ほぼ正確な拡大図も描けた。

 そのカラーボックスを永い間持っていたが、コード劣化の危険に及んで捨てた。併せてデジタル時代。写真原稿もデザインワークもパソコン作業で、カラーボックスの必要もなくなった。

 隠居後に〝お絵描き遊び〟を始めたら、漫画家のようにトレース台(ライトボックス)が欲しくなった。彼らの作業を見ていると、ラフスケッチから下描き完成へは、トレース台を使って本番紙に決定線で写し描いている。またデジタルお絵描きならば、写真資料やラフスケッチから透ける仕掛けで仕上げている。

 かくして「トレース台が欲しいなぁ」です。しかし価格は数万円ほど。漫画家・カメラマン・絵描きでもなく「ブログ挿絵」程度ゆえに、より安価なものをとネット検索で2,399円製品(写真)を入手。A4サイズ、超薄型、電源はUSBケーブル。届いた箱にA4ペラの英文説明書。多分、東南アジア製だろうが充分に使えそうです。

 だが〝お絵描き〟は現地スケッチ、写真を見ながらでも、鉛筆ラフから次第に正しい(デッサンの)線を決めて行く過程に〝お絵描きの愉しさ〟の一つがあるんですね。なのに、この便利道具で安易に輪郭アタリを写すと、その歓びがなくなってしまう気がしないでもない。だがまぁ、楽をした分、その先でアイデア発揮という手もあろう。上手に使えば〝隠居お絵描き遊び〟のミニ革命になるかもです。

 昨日のテレビで「カラー筆ペン、消せるカラー蛍光ペン」が紹介されていた。トレース台でこれら新文房具で一気に描くってぇ~手もありそうです。(メモ:今日は新宿歴史博物館、毎日曜3回「戸山荘(尾張藩下屋敷)」講座第1回目受講日)

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新井白石の元禄地震、宝永噴火 [読書・言葉備忘録]

funkajisin_1.jpg 新井白石『折たく柴の記』。~今はいとまある身となりぬ。心に思い出づる折々、過ぎにし事ども、そこはかとなく記しおきぬ~を、いとまある身の小生も読む。ここでは「元禄地震」と「富士宝永噴火」の概略紹介。

<元禄地震> 白石が木下順庵推薦で甲府藩・綱豊(江戸は桜田邸)儒者になって約10年後。元禄16年11月22日に「相模トラフト」地震。熱海津波7m。伊豆大島の波浮池が海とつながった。

 湯島に住みし頃、癸未の年(元禄16年・1903)11月22日夜半過ぐるほどに、地おびただしく震い始めて目さめぬれば、腰の物どもとりて起き出るに、ここかしこの戸障子皆たおれぬ。(屋敷後ろが湯島天神の崖で、家族全員が東の大庭へ)

 地裂くる事もこそあれとて、倒れた戸などを並べ、その上に避難した。「我は殿に参るゆえ、皆は家にとどまれ」と言いて馳せ出づ。道を息切らせ歩いて行けば、家は小船が大浪に動くが如し。(桜田邸へ向かう途中、神田明神下で)再び地夥しく震え、家々に燈が見えた。家たおれなば、火こそ出づべけれ、燈うち消すべきものをと叫ぶ。

 (神田川を越え、駿河台~小川町~日本橋川へ。川が氾濫したか地裂けて水が湧き出ている。家々が倒れて人の叫ぶ声。石垣は崩れ、土塵が空を被い、早くも町に火が広がっていた。大手町から日比谷へ) 藩邸門の番屋倒れ、苦し気な声がする。藩邸を見れば火が上って、天井も落ちかかっている。やっと間部詮房と会う。家老たちは御庇に敷かれた十畳ばかりを庭上に座って避難していた。~など当日、翌日の詳細が記されていた。

<富士山噴火> それから4年後の宝永4年(1707)。綱豊が綱吉の世継ぎに決まって家宣と改名。白石は家宣に帝王学を進講。雉橋外の飯田町の拝領屋敷へ移居の半年後。

 11月23日。地震い、雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとく。よく見るに白灰の下れるなり。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。草木もまた皆白くなりぬ。25日にまた天暗くして、雷の震するごとくなる声し、夜に入りぬれば、灰また下る事甚し。この日、富士山に火出て焼けぬるによれりという事は聞えたりき。これよりのち、黒灰下る事やまずして、12月の初めにおよび、9日の夜に至りて雪降りぬ。

 そんな怖い災害体験を有している日本人なのに、何故に危険な原発をあれほど造ったのだろうか。しかし輸出まで目論む愚かしさ。日本人は何でもすぐ忘れて、目先の利に眼がくらんで過ちを繰り返す続ける。

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22)大塩平八郎、陽明学は両刃の剣 [朱子学・儒教系]

ohsioe_1.jpg 大塩平八郎は、与力の働きと同時に「洗心洞」で陽明学の講義を続けた。熱心な平八郎と塾生ら。その背景には、それだけ乱れた世があった。特権商人と農民の対立。物価高。役人の「忠・孝」は表の顔で、裏では褒美・官職・知高を上げるべくの功利主義蔓延。

 平八郎が扱った代表的事件は、文政10年35歳の時の切支丹事件。これはインチキ加持祈祷集団事件で、切支丹として6名磔他65名処罰。文政12年の奸吏糾弾事件。古参与力の悪事摘発で、贓金3千両を窮民に賑恤。文政13年には破戒僧遠島事件。不埒僧ら50名余を遠島など。

 この時の彼の役職は見付役、地方役、盗賊役、唐物取締役の各筆頭兼任で与力権勢トップ。清潔かつ正義感の名与力。だが彼は破戒僧事件後の上司辞任に併せて辞任した。余りの彼の潔癖さ、厳しさが同僚から敬遠され、軋轢を生んでの隠退らしい。

 致死(隠退)翌年、天保2年〈1831)に各地10万人規模の百姓一揆。翌々年に播州・加古川(神戸と姫路の中間辺り)で富豪を打ち壊し。飢餓が大坂に迫った。

 王陽明は反乱農民を次々に討伐したが、彼の陽明学を学んだ平八郎はどうしたか。反乱庶民を一網打尽にするのが「天地万物一体の仁」か? 民衆は公儀を恐れ法律禁令を守るが「孝」とは云え、それを破らざるを得ぬ民の討伐は「単に民衆支配の思想」ではないか? 民には父子兄弟妻子もいよう。彼ら討伐は「明明徳」を捨てることではないか? 小生は平八郎がそう思った瞬間、彼は陽明学を越えて〝狂〟になったと推測する。

 天保7年(1836)大飢饉。ついに大阪でも日に40人の行き倒れ。だが新任の大阪東奉行の窮民救済策は生ぬる上に、徳川家慶就任式費用の江戸廻米の奔走で、大坂の米を買い占めて江戸に送った。豪商らも飢餓状況を見て見ぬふり。

 平八郎は隠居の身ながら、町奉行に飢餓対策を建言するも却下で〝ついにキレた〟。「知行合一」で挙兵。檄文に「大阪の奉行並諸役人ども天地万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を~」。陽明学は「反逆討伐」と「幕政反逆」の〝両刃の剣〟になった。

 挙兵資金は、彼の蒐集書籍売却の620両他。だが挙兵は密告されて小1日で鎮圧。大阪市街5分の1を焼失しただけで終わった。「大塩平八郎の乱」の後世評価は賛否両論。安政の大獄~桜田門の変迄あと20年ほど~。

 彼の著作『洗心洞剳記』も未読だし、幕末周辺のお勉強もありましょうが、それらを宿題にして、このシリーズ暫らくお休みです。

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21)大塩平八郎は元与力 [朱子学・儒教系]

miyagihon.jpg.jpg 王陽明(陽明学)は政府中枢にいて農民蜂起を討伐し続けた。大坂町奉行所・元与力で陽明学者の大塩平八郎は、天保8年(1837)に幕府反抗の乱をおこした。以下、宮城公子著『大塩平八郎』を参考にする。

 陽明学については<11)陽明学から幕末へ>で島田虔次『朱子学と陽明学』、吉田公平著『王陽明「伝習録」を読む』を参考に記した。宮崎公子は島田と子弟関係らしく、肝心の陽明学に執拗に迫っているので読み通すに難儀も老脳に鞭打って読み通す。

 大塩平八郎は大阪・東町奉行与力の父と、同役の娘との間に寛政5年(1793)に生まれた。7歳で父を、8歳で母を亡くし、祖父に育てられた。文化3年、14歳頃に与力見習い。文化5年(1808)16歳から定町廻役(盗賊、乱暴者を捕える)。

 先祖は戦国武士で、今は町奉行配下で底辺の俗塵にまみれた自分を卑下していたとか。東西奉行所は各々与力50名、同心50名。与力屋敷500坪で200石だが役得多し。江戸から派遣の町奉行は数年で交代も、与力や同心は「地役人」。庶民と密接ゆえ実権は与力が握っていたらしい。

 20代半ばで、与力としての内面=道徳の重要性で儒教に接した。「孝・仁」と「五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)」を見つめ直す。だが身近な儒者らは束脩料(入門料)、祝儀、揮毫等の諸収入をいかに増やすかに夢中で、彼は次第に独学へ進む。そのなかで惹き付けられるように陽明学へ。

 著者は彼の陽明学傾倒は、その要点の一つ「人心の良を拈ず」にあったと記す。つまり「人心の良=人間の心の生まれつき持つ良きもの=良知(ナイーブな道徳心)を拈ずる(工夫して捻り出す)こと」

 平八郎の陽明学を、さらにこう説明する。~心は悪も善もない虚霊。悪や善が心を塞げば「良知」の働きを失う。それは『大学』解釈の「好色を好むが如く、悪臭を悪(にく)むが如し」。つまり心本体の正直な身体的知覚的直観まで深めた道徳心こそが「良知」。

 そんな「良知」に「習気情欲」が蔽う前、心の起念と同時に善悪が生じるゆえ、心が動く瞬間の微細さのなかに独り知る=良知の判断=誠意慎独が肝心で、その「功夫(くふう)の訓練、鍛錬」で咄嗟の瞬間を大事しようというもの。

 平八郎のそんな陽明学に耳を傾ける人が増えて、彼は屋敷地500坪内に私塾「洗心洞」を設ける。文政8年(1825)33歳、その体制が整って塾生(寄宿生)17,8名。門弟は与力・同心衆4、50名。普通の儒学塾は入門期間が短いが、彼の塾は縁戚関係も濃厚で在塾10数年余など結束も固い。文政11年(1828)36歳、洗心洞で王陽明300年祭を開催。「大塩平八郎の乱」まで、あと9年~。(続く)

 ※図書館で借りた朝日新聞社刊はカバーもなく汚れていた。〝書影ご自由にお使い下さい〟の「版元ドットコム」よりぺりかん社刊を拝借した。

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20)由比正雪の乱 [朱子学・儒教系]

cyuyahaka_1.jpg 王陽明は政府中枢にいて、各地続発の農民蜂起を次々に討伐しつつ「陽明学」確立の『伝習録』(47歳)を刊。大衆から〝謀略家・偽学の徒〟と非難中傷されると、自らを〝狂者〟と言ったとか。56歳でまた反乱軍討滅に出て、その帰還途中で病没。

 そんな王陽明(陽明学)の影響を受けた日本人は、民衆蜂起討伐とは逆に幕政に牙を剥いた。「由比正雪の乱」~「大塩平八郎の乱」、そして幕末へ。

 『伝習録』刊が1524年。日本は室町時代後期。その81年後の慶長10年に、朱子学の藤原惺窩が徳川家康から退き、林羅山は徳川に仕え続けた。むろん両人共に『伝習録』を知っていたが~

 それから45年後の慶安3年(1650)。日本の陽明学の祖・中江藤樹没後に和刻『伝習録』も刊。備前の岡山藩主・池田光政は陽明学に傾倒して、中江の弟子・熊沢蕃山を重用。慶安2年、光政に随行して蕃山も江戸に入った。

 進士慶幹著『由比正雪』には、江戸の紀州家(頼宣)で「経書」を講ずる熊沢蕃山が、兵書を講ずる正雪と同室になった。互いに謀反気ある危険人物と見破り合った。別説では見破ったのは家老・安藤帯刀の説もあり。

yuinoran_1.jpg また大橋健二著『神話の崩壊』では、慶安事件(正雪の乱)の陰の首謀者=頼宣説もありと記していた。正雪は紀伊徳川家の眷顧(けんこ)と称して浪人を集め、頼宣の名を利用して謀反を企てたのは事実ゆえと記していた。さらに国会図書館デジタルで石崎東国著『陽明学派の人物』(大正1年刊)の「熊沢蕃山と由比正雪」を読めば、池田光政が正雪を抱えるべく蕃山を差し向けたが、5千石の提示に正雪は難色。蕃山は彼には謀反の気ありと忠告し、抱えるに至らなかったと記されていた。

 慶安4年、由比正雪「慶安の乱」。慶長から慶安同年までの間に生まれた23万5千人の浪人。正雪の元に全国の浪人が結集(数百人~1500人)。丸橋忠弥らが江戸で騒動を起こして将軍・家綱を拉致。大坂では金井半兵衛らが決起で天皇を擁す。両陣営の総指揮を正雪がとる計画。だが7月23日に謀反露見。26日に正雪自害。僅か4日で鎮圧。幕府はこの事件を機に文治政府へ舵を切ったとか。

 進士著には、肝心の蕃山・正雪の〝陽明学〟についての記述僅少。熊沢蕃山は陽明学嫌いの保科正之や林羅山らに、その「王道主義」が批判されていた上での「正雪の乱」。以後は浪々の人世を送って亡くなったと記されていた。次回は陽明学を分析しつつの宮崎公子著『大塩平八郎』を読んでみる。

 写真は金乗院(目白不動)の丸橋忠弥の墓。絵は豊原国周の歌舞伎「樟紀流花見幕張」の簡易模写。絵は俄か道楽ゆえ、久しく描いていないと一気に描けなくなる。絵が拙いので文字(レタリング)で頑張ってみた。

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月10万歩の「街歩き」続く [散歩日和]

hasetara_1.jpg 1月の「街歩き」は11万6千歩だった。日頃は新宿繁華街歩きだが、時に北・西・東へも歩く。惚けて1月にどこを歩いたかは思い出せぬが、歩き途中で撮ったスマホ写真から、印象に残った散歩3題を記す。

 1)金乗院(目白不動)へ:コースは穴八幡~大隈講堂~面影橋~宿坂通の急坂前が金乗寺。昔、早稲田通りに面した小ビルに在住で、傍に「鎌倉街道碑」あり。同街道が宿坂道へつながっていた。また高戸橋際マンション在住もあって金乗院はご近所。そして今回初めて墓地内へ入ったんです。目下「由比正雪」読書中で、江戸蜂起役で鈴ヶ森処刑の第1号?「丸橋忠弥」の墓があると知ったんです。掃苔後に目白通りへ出て、別の急坂を下って帰宅。約8千歩。

 同院は戦災焼失の目白不動(長谷寺)合併で、小生は昔、恥かしながら石柱の〝はせ寺〟が読めなかったんです。「くずし字のお勉強をしましょ」と思った理由のひとつ。扁額(寺額)は「神霊山金乗院慈眼寺」の〝神霊山〟。読めますか?

 2)近所の路地で昭和を発見:大久保コリアン商店街の北側裏に幾本もの小路地がある。過日、息子と孫が来た際に「面白い公園」を見つけたと言う。路地奥からは想像できぬ立派な「キリン公園」あり。ならばと、明治通り~山手線間の全rojide_1.jpg路地を歩いてみたんです。写真のような煉瓦の暖炉煙突のお宅もあり。戦前は軍人・文化人が多数ゆえ当時の面影だろう。全路地の探検から新宿繁華街を歩いて帰宅で7千歩。

 3)江戸川公園の崖から椿山荘:戸山公園~大隈講堂から神田川沿いの江戸川公園へ。さらに護国寺~定信の庭園「六園」があった大塚3丁目まで歩く予定も、梅満開に誘われて公園裏の崖の階段を昇って椿山荘正面玄関へ。目白通りの植木屋さんを覗き、別の急坂を下って芭蕉庵~細川庭園~面影橋~早稲田通り~帰宅で9369歩。さて、次はどこを彷徨いましょうか。

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累計閲覧数250万余~ [ブログ&アクセス関連]

access1.jpg_1_1.JPG 昨今のブログ記事閲覧数は月平均3万。1日1千頁ほど。それより少ない日もあり、逆に1月例では504名訪問で閲覧頁1718、373名訪問で閲覧頁2304もあったりします。

access4_1.jpg 一時、閲覧数がグワッと増えたことあり。何事かと思えば自動的に「Twitter」や「 Facebook」共用になっていました。その10日ほど後から記事を書き終えてアップする時に、それらと「共用しますか」の選択になりましたが、小生どうも「Twitter」「Facebook」と肌が合いませんので無視です。

 アクセス数で面白いと思うのは美術系記事です。昔に記した記事が忘れた頃に再び閲覧が増えたりします。これは人気画家の展覧会というのは繰り返し行われ、かつ各都市巡展が多いからでしょう。でも小生、最近は美術展から足が遠のいています。美術展の〝商売臭さ〟で、余程ではないと観に行きません。

 歳時記系記事も、その時期に閲覧が繰り返されます。また「何故こんな記事が今頃に~」と思うこともまま。そんな時は巷に関連ニュースがあったりもします。アップ時に閲覧僅少も、後で閲覧が増える場合も多々。

 つまり日々のアクセスは、現在の自分が取り組んでいるテーマとは関係ないんですね。図書館や古本市に行きますと、未知の世界の無限さに圧倒されます。それだけ自分が無学、不勉強。初めて関心を抱くテーマ、無知ゆえ初めてお勉強は、無限に広がっています。

 今のテーマに区切りがついたら「次のテーマがない」と不安に思うこともありますが、不思議に次のテーマが浮上です。しかしブログ使用領域満了の懸念もありますから、先のことはわかりません。

 最近の反省は「カットは写真ではなく絵~」ですが、描き遊ぶ余裕がありません。ブログアップを3日置きほどにすれば〝お絵描き〟の余裕も~と思っています。

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19)定信の造園:大塚六園と海荘 [朱子学・儒教系]

rikuen_1.jpg 「浴恩園」の次は、大塚の白河藩抱屋敷「六園(りくえん)」について。同園は約2万坪。造園は文化5年(1808)で定信51歳。場所は嘉永期(1848~1855)の「江戸切絵図」(写真下)を見れば、護国寺の先(現・大塚3丁目交差点辺り)に「松平越中守」地あり。2万坪もありそうもない。ネットにアップされた「江戸の定信庭園」チラシらしきの「六園」地図を見ると、その地から現・東邦音楽短期大学から大塚公園(元・松平長門守下屋敷)手前まで広がっている。実際はどうだったのだろうか。

ohtukarikuen_1.jpg ここで気付くのは、「寛政の改革」時の仲間〝寛政の三博士〟らが葬られた「大塚先儒墓地」の眼前ではないか。この時期には、定信は彼らと〝没交渉〟だったのかしらとも思う。

 同園は春園、秋園、集古園・竹園・攢勝園で構成。「集古園」の石蔵には定信蒐集の古画、古書、古物、また『集古十種』版木などを収納。攢勝園には浴恩園から珍しい植物などが移植。また同園は抱屋敷ゆえ明治維新後も接収されず、明治43年に旧桑名蕃主松平子爵邸になったらしい。絵は国立国会図書館デジタルコレクションより「大塚里 六園館御苑真写之図」。

 かくして松平定信の造園道楽は歯止めなし。次に紹介は文化13年の定信59歳、深川入船の抱屋敷に「海荘(はまやしき)」を造園。東京湾に接し、房総半島の山々、羽田や品川沖に富士山を遠望。定信は築地の「浴恩園」から遊び船「問影丸・探香丸」に乗って「海荘」へと遊覧したらしい。現・東富橋の南詰に「海荘跡」の史跡案内板があるらしい。

 「寛政の改革」で倹約質素、贅沢禁止で江戸庶民文化の芽を摘んだ定信の、後の造園論や芸術論、また雅文の『花月日記』など読みたくもない。江戸庶民も定信晩年の姿まで厳しい眼(恨み)を注ぎ〝落首〟で憂さを晴らしていた。

 最後に定信の隠居後の他の主な仕事を簡単に記す。寛政12年の『集古十種』編纂。描いたのは谷文晁、白雲、大野文泉。谷文晁に古画模写をさせた『古画類聚』。弊ブログで司馬江漢シリーズを記したか、そこに登場の亜欧堂田善に銅版画を学ばせて蘭書を模写させている。蒐集した蘭書(天文・世界地図)を通詞・本木良永他に翻訳させている。また自身が名君だったと後世に伝えようと伝記『羽林源公伝』『宇下人言』などもあり。

 文政12年〈1829)72歳。神田出火の大火で松平家の八丁堀上屋敷、築地「浴恩園」、三田の中屋敷など類焼で、病身の定信が寝たまま大駕籠で避難。この時の落首も残されている。仮寓の中屋敷で同年5月、72歳で没。

 松平定信は大日本帝国時代に注目・評価され、戦後の民主主義と学問の自由によって、それまで隠蔽されていた部分などが明るみになって、今では注目もされぬ存在らしい。この辺で松平定信について終わりましょう。

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18)松平定信の造園道楽 [朱子学・儒教系]

yokuonzenzu_1.jpg 松平定信は「家柄+秀才=自己中心=人や世の理解不足=狭量」によって老中解任。その直後から庭園造成に没頭した。江戸では同年着手で築地下屋敷に「浴恩園」を、大塚の抱屋敷で「六園(りくえん」を、深川入船の抱え屋敷で「海別(うみやしき)」を造園。白河に約1万4千坪「三郭四園」と「南湖」の計5つの庭園を造った。

 5つの造園経費はどれほどで、どこにあったお金なのかしら。「寛政の改革」で庶民に執拗なまでの倹約質素、贅沢禁止を強いて「あんた、一体何をやってんの」と呆れてしまう。あなたの「儒教・朱子学」ってぇのは庶民を痛みつけ、自らは贅沢三昧、風流を気取るってことだったのかと思ってしまう。

tukijisijyo_1.jpg ここでは江戸の庭園のみを記す。「浴恩園」の地は現・旧築地市場。元・一橋家下屋敷の1万7千坪を老中首座時の寛政4年に入手。翌5年から造園着工で翌年の37歳に完成。寛政3年に山東京伝が手鎖50日の刑、蔦重が財産半分没。司馬江漢だって寛政6年に『西遊旅譚』絶版令。着物から煙管まで〝贅沢品だ〟で引っ張られた庶民は数え切れなくいたのではなかろうか。

 「浴恩園」の名は、実際に将軍に嫌われての解任なのに、働きが認められてを装った命名か。二つの池を中心に回遊式庭園で、隣の「浜離宮」と同じく水門調整で潮水を導入。池周辺に春風館、花月亭、霞台、秋風舘。そして定信居館は両池を見下ろす数百坪の千秋館。祖父・吉宗が飛鳥山で行った手法で51カ所の景勝ポイントを設け、名士の漢詩・和歌の筆跡を刻んだ碑を建て、詩歌会や琴棋書画四芸会などの風流遊び。

 文化9年(1812)55歳で家督を嫡子定永へ譲ると同園で生活。世俗を離れ忘れて風流を楽しむ「楽翁」と名乗ったらしい。同園で繰り広げられる宴の参加者は、在任中(寛政の改悪)のことには触れないが決まりだったとか。一体どういう神経で風流なのや。

 「浴恩園」は文政12年(1829)72歳時の、神田佐久間町から出火の大火(2800名焼死)で類焼。その跡地は明治維新に海軍兵学校、関東大震災後に日本橋から魚市場が移転してきた。そして今は市場が豊洲に移って、オリンピック時は車両基地。その後は国際会議場他に再開発されるらしい。

 写真は先日に「レガッタ汐留」より撮った現・築地市場跡。市場正面の壁に「浴恩園の史跡案内板」が埋め込まれているらしい。絵は「浴恩園全図」(国会図書館デジタルコレクションより)。次は大塚の「六園」と深川の「海荘」について。 

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17)定信の陰謀と落首 [朱子学・儒教系]

himitusyo1_1.jpg 松平定信は、天明飢饉の最中に養子先・白川藩主松平定邦の隠居、自身の家督相続に相当額を投じたとか。晴れて藩主になると、まぁ、有頂天の感で次々と飢饉対策の諸施策を発令。藩士らの渋い顔が浮かんでくる。

 「身分の高い家柄に生まれ育った方は、自分中心になりがち。自分の考え、理想、実行力に酔って、他への配慮に欠ける。大河の中にいる自分を見極めるのでなく、自ら大きな流れになって周囲を押し流してしまう」(平岩弓枝『魚の棲む城』の一文より)

 定信は松平先祖・定綱の木像を桑名から譲り受け、藩祖を敬えと御霊屋を設けた。それに併せて己も神として祀られるよう~の算段あり。そして田沼意次を恨みつつも、養父宿願の〝溜間詰〟昇格推挙を田沼家に媚びる腹黒さ。溜間詰が決まると「勤め向きの評価だ」と家中に言い広める。定信は常に他人が気になる。〝ええ格好しい〟の性癖あり。そんな人物に朱子学が摺り込まれていたから、その先は言わずもがな。

 溜間詰に決まれば、今度は老中首座を狙い、憎き田沼意次失脚へ一橋治済と組んで動き出す。天明6年8月、将軍家治没。その公表までの間に、田辺意次解任と同時に、30歳の定信が老中首座と奥勤めに決定(小生のくずし字お勉強で筆写したのが、その裏工作成功の秘密文書一部)。定信は老中首座になると田沼派を追い出し、同志を老中に、さらに若年寄、勘定奉行、勘定吟味役なで固める。

 その独裁体制をもっての6年間「寛政の改革」。その矢継ぎ早の諸施策を見れば(内容は何度も紹介済ゆえ省略)、彼の功を図り、焦り、てらい、かつ仲間や庶民への猜疑心までもが透けて見えて来る。独裁が進むと、己が描く将軍像を押し付けて将軍に嫌われる。頑固な倹約質素で大奥に恨まれる。やがては幕臣全般に反定信グループが出来てくる。そんな定信の状況にチャンスを狙っていたのが一橋治済だった。

oumugaesi.jpg_1.jpg ここで松平定信が江戸庶民から如何に人望なしだったかを物語る落首の数々。「ちいさい物ハ西丸下の雪隠と申候」(西丸下屋敷の定信の便所が小さい。ケツの穴が小さい、狭量だ)、「世の中に蚊ほどうるさき物ハなし 文武ブンブと夜も寝られず」、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」。

 寛政5年7月、約6年で老中解任。彼の常套手段で解任も〝依願辞任〟にすり替えた。その後の幕府は権力集中を反省して集団的な政治主導になったとか。かく老中引退後も落首は続く。よほど庶民から恨まれていたらしい。「白河に古ふんどしの役おとし 今度桑名でしめる長尺」(隠居後の松平家が桑名転封を笑って)、「越中が抜身で逃げる其跡へ かはをかぶって(以下略)」(文政12年大火で病床の定信が大駕籠に乗って避難の際に、邪魔な町人を切ったとの噂が流れて)。定信を見た幕臣の足軽が「あいつをみろ、世の中を悪くしたのはあいつで、馬鹿なやつだ」と口走ったとかの記録もあるとか。

 くずし字筆写は:松平越中守儀 弥(いよいよ)老中上座被仰付候御治定二而 来ル十九日比可被仰付御沙汰二付一両日之内 掃部頭方迄被仰付御達之程二候段 委細被仰付越承知致候 誠二御丹誠ヲ以無滞 愚願も相届致満足候 且土佐守事も被仰付候 以後世上共二評判宜趣二及承別而至大慶候~

 写真下は恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』の一部(国会図書館デジタルコレクションより)。恋川春町は定信から出頭を命じられ自刃したらしい。お墓は新宿2丁目の成覚寺に忘れられたようにある。

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16)松平定信の人物史観 [朱子学・儒教系]

sadanobuhon_1.jpg 磯崎康彦『松平定信の生涯と芸術』、高澤憲治の人物叢書『松平定信』を読む。磯崎は福島大名誉教授で地元・福島県在住らしい。平成20年の定信生誕250年に地元紙「民友新聞社」に〝松平定信公伝〟を連載。その後に新たな論文を加えた書。当然、定信賞賛派だな。

 「はじめに」に、定信は政治・経済の分野のみならず思想・文学・芸術などの領域においても多大な業績を残した。今日、研究分野が細分化され、定信は日本史・社会経済史・思想論・交易史・蘭学・文学史・美術史などの分野から追及される。そして「わが国では、定信に悪態をつくような著作はきわめて少ない」と断言。

 本当だろうか。小生は前項で平岩弓枝、村上元三、池波正太郎による定信否定派の小説を紹介したばかり。著者はかく断言したが、やはりそこにこだわったのだろう。第一章が「松平定信の人物史観」になっていた。

 徳川家重、家治に仕えた田沼意次は貨幣経済に力を注いだ重商業政策者で、定信はそれを否定した重農政策者。意次は賄賂の政治家で、悪政家の代表、好ましからざる為政者として悪評が固定化されていると記す。そして明治、大正、戦前までの定信賞賛の著者・著作を次々に紹介。定信は公明忠正な政治家で、定信の教育は守国の理想となり、まさに模範的な人物として担ぎあげられている、と同章を締め括っていた。

 比して高澤著「はしがき」では~ 最近まで定信は清廉潔白、儒教的仁政を行った理想的政治家などというものだが、これは昭和12年に楽翁公徳顕彰会が渋沢栄一著として刊行した『楽翁公伝』によるところが大。同書は自分の伝記を家臣に書かせ、後世に自身が儒教的政治家で、伝統文化保護や継承に務めたことなどを伝えたもの。それゆえ自分や自家に不都合なことは隠蔽。家臣が彼を賞賛するために作成された書物も多い。しかし第二次大戦後、学問の自由が保障された結果、隠されていた部分が明らかにされてきた。本書は彼がまとっていたベールを剥がし、実像に迫ろうとしたものです。

 まぁ、見事なまでの反対意見。悩ましいことです。ウィキペディアにアップされている松平定信の隠居後の楽翁像をクリックしたら、それは個人ブログで「江戸の〝習近平〟」とあって腰を抜かすほど驚いた。調べれば同絵は狩野養信筆、福島県立博物館蔵らしい。

 松平定信の画像検索を進めると、小生が5年前にブログアップした徳川黎明会による「江戸時代古文書を読む/寛政の改革」より「くずし字筆写」の秘密文書(一橋治済が中奥の小笠原宛に、松平定信が老中上座被仰付候御治定に而~の裏工作成功の報)もアップされていてまた驚いた(拙い書ゆえ次回書き直してアップ予定)。次回は朱子学、陽明学をもって独裁政治を行った場合の弊害・歪み・恐ろしさをもう少し探ってみたい。

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15)松平定信と田沼意次 [朱子学・儒教系]

okituguhon_1.jpg 松平定信および田沼意次の評価は賛否両論。小生、寛政期に江戸文化が芽生え武士、町人らが一緒になって狂歌、黄表紙、浮世絵などで盛り上がったことから同時代を覗いたので、彼らを弾圧した「寛政の改革(松平定信)」に良い印象なし。

 下町散歩で霊巌寺内「松平定信墓」を見た時に、その頑丈な鉄格子は江戸庶民の怒りを防ぐためかとさえ思ったもの。さて松平定信と云えば、まず田沼意次だろう。意次の生涯を描いた小説2編を読んでみた。

 平岩弓枝『魚の棲む城』に描かれた田沼意次は、一世の快男児でいい男。腹黑いのは次期将軍の実父に収まった一橋治済で、幕政参入願望の強い松平定信が巻き込まれて~の構図で描かれていた。悪徳政治家=田沼意次のイメージは、彼を失脚させて、自身が老中首座に収まりたい松平定信が流した根も葉もない噂。意次の嫡子で若年寄に抜擢された意知が凶刀に倒れたのも、暗に定信が裏にいたような思わせぶりの小説だった。

 次に村上元三の長編小説『田沼意次』を読む。まずこう提示している。天明7年に「田沼主殿へ仰せ渡されし書」で悪人にされたが、50年の後にそれが偽書だと証明された。果たして意次は伝えられるほど悪人だったろうか。田沼意次の蟄居後の居城・相良城を、定信が徹底破壊したがあれほど倹約質素主張の定信が、莫大費用をもって破壊した異常さは何だったのろうか。また同地が一橋治済の預かり地になったことからも、治済が定信を動かして田沼意次を窮地に陥れたのではないか。尊号事件にせよ、その背後に治済がいたに違いない~とも記していた。

 また「定信が〝陽明学者〟として一流の人物(ホントかいな)だったが、老中としては政道が窮屈すぎた。たとえば江戸中洲の繁華街を潰して、もとの河川に戻してしまったのも、田沼の行ったことすべてをひっくり返さなければ気が済まない確執があった証だろうと記す。まるで前政権の全施策・スタッフを徹底排除するあの国この国のようです。

 また松平定信が晩年に書いた(書かせた)自伝『宇下人言』も読んだが、朱子学者というより、やっと華咲いた江戸文化を弾圧した言い訳綴りのような内容。例えば~

「寛政四、五年の頃より紅毛の書を集む。南蛮国の書は天理地理、兵器、内外科の治療に益あるも、心なきものの手に渡れば危険があろうから〝我が方へ買い置けば、世にも散らず、御用あるときも忽ち弁ずべし〟と長崎奉行に断じて、舶来の蛮書買い侍ることと成りにけり」

 まぁ、己を神(実際に自身を祀っていた)とも思っての、マイファーストの独裁の弁明綴り。江戸庶民に倹約質素、贅沢禁止、異学の禁、出版統制など次々の禁止令。人を信用できぬ猜疑心から隠密に隠密をつけるなどで厳しい罪を科した6年間。

 だが権力欲から将軍・家斉から嫌われ、猜疑心や独裁から老中仲間に疎まれ、江戸庶民にはなにかと落首で馬鹿にされ続けた6年後に老中罷免。すると今度は造園趣味、蒐集してきた蘭書、書画に熱中で文化人面。どこが朱子学、陽明学かと。「寛政の改革」の6年間は何だったのかと思ってしまう。

 こう記した昨夜、女房が好きで観る再放送時代劇「剣客商売・御老中暗殺」にお付き合い。するってぇと田沼意次暗殺にうごめくのが一橋治斉の設定。池波正太郎もきっと〝田沼意次いい男派〟だったんだなと思った次第。次は小説ではなく定信評価正反対の高澤憲治著『松平定信』と磯崎康彦著『松平定信の生涯と芸術』を読んでみる。

 追記:池波正太郎の剣客商売『春の嵐』にこんな文章あり。田沼「一橋卿は、何としても、この意次を蹴落すおつもりであろうよ。そして、その後には、松平越中守殿に天下の政事を引きわたすのであるまいか。越中守殿なれば、わしを屈服させるよりも、たやすいことじゃ。激しく怒り、あからさまに手強く立ち向かう越中守殿なれば、一橋卿がつけこむ隙は、いくらも見出せよう。何となれば、一橋治済は、我が子の家斉を現将軍・徳川家治の養子にすることに成功してる。家斉が11代将軍となったあかつきには、一橋治済は将軍の実父として将軍同様~」。

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