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応仁の乱(9)銀閣寺と東求堂 [日本史系]

tokyudo_1.jpg 文明13年(1481)末、46歳の義政は近習を連れて御所を出た。天皇が驚き帰京を命じるも無視。剃髪して僧侶・隠棲の準備を開始。彼は31歳の時に東山に隠居所をと定めているも「応仁の乱」で叶わず。15年を経ての実行。

 翌14年、資金に苦労しつつ造営開始。最初に「常御所(つねのごしょ)」(南北7間、東西6間。6畳の寝所、その東側に昼御座所、北東に4畳の書院他)を完成。文明17年(1485)50歳で臨済宗(禅宗)の僧として出家。東山山荘で当時の建物現存は銀閣寺と東求堂のみ。河合著参考に両建物中心に記す。

 常御所に住みつつ、まずは「西指庵(せいしあん、禅室)」と「東求堂(とうぐどう)」を建てた。文明17年4月に月待山中腹に「西指庵」完成で、ここに移り住む。寝所に蚊帳も用意。安静と呼ばれた書院もあり。書棚に中国禅僧の伝記や語録などの書籍があって、臨済宗・禅室的な雰囲気。

 「東求堂」は持仏堂で浄土宗風建物。四つの部屋があり、仏間は板の間で阿弥陀三尊を安置。障子に阿弥陀を囲繞する十僧の図を狩野正信に描かせた。higasiyama_1.jpg北東隅が四畳半の書院、名は「同仁斎」。北側に出文机(付書院)と違棚。出文机に漢詩文中心の書籍、硯、筆架、水入れ。違棚には茶道具類。義政はこの「西指庵」と「東求堂」での生活に重点をおいたらしい。前述の外山英策著『室町時代庭園史』では、~「同仁斎は後世に茶室の濫觴(らんしょう)と称されて甚だ著名だが、書斎であって茶室ではない」と記している。

 文明19年に「会所」竣工。会所は政治事の談合場所だが、義政の会所は同趣味の者と絵画鑑賞、茶の湯、連歌を楽しむ場所になった。長亨2年(1488)から観音堂(銀閣)普請開始も、義政はその2年後の55歳で亡くなって死後に完成。遺命で禅寺「慈照寺」として奉献。同建物は下層が書院造の心空殿。上層が禅宗造りの潮音閣。

 西指庵(臨済宗・禅宗)と東求堂(浄土宗)、慈照寺も下層(書院造)と上層(禅宗)、漢詩(禅宗)と和歌(王朝)を楽しんだ。これら融合一致が「東山文化」と推測できるが、この辺は後述です。

 庭園は臨済宗の禅僧・夢窓疎石による西芳寺庭園(苔寺)が参考にされた。外山著には苔寺の西來堂⇒東求堂、指東庵⇒西指庵、湘南亭⇒釣秋亭、合同船⇒夜泊船などの名称からも西芳寺を模した証拠と指摘していた。

 写真上は外山英策著『室町時代の庭園史』(国会図書館デジタルコレクション)より東求堂写真と河合正治著『足利義政と東山文化』

 追記:飛田範夫『庭園の中世史』冒頭で、義政は東山山荘の庭園を造営した際に、しばしば寺院や公家から樹木と庭石の掠奪を行っている。たとえば~ と具体例を書いている。

 ★ツバメ初認:3月27日。3日前、ベランダから箱根山の3、4分咲きソメイヨシノを眺めていたら、眼前を一羽のツバメがツッ~と横切った。「こんなに早いとは」。間違いと思ったが、もう一度眼前を横切った。

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応仁の乱(8)銀閣寺は苔寺を参考に~ [日本史系]

nihonbi_1.jpg 私事。小生は「古流」と「江戸千家」おっ師匠さんの子。母の茶の稽古は覗かぬも座敷に炉が切ってあり、床の間には季節毎の掛軸と雅でも華麗でもなく渋い花が常に活けられていた。

 さて足利義政の東山文化=日本美(侘び・寂び)と指摘されていれば、その辺のお勉強もしたい。ドナルド・キーン『足利義政~日本美の発見』、河合正治『足利義政と東山文化』を読む。

 まずキーン著。氏は昭和28年頃に京都在住で、観光化される前の廃寺のような等持院(夢窓疎石の開山、造園)に通っていた。彼が日本で書いた最初の原稿が、今も当時の雰囲気を保つ同院の霊光殿のこと。歴代足利将軍の等身大の木造座像が並んで不気味な冷気を発していたと述懐。

 文久3年(1863)、神道の平田篤胤を信奉の志士らが「日本国王」(天皇ではなく)の肩書を受け入れた足利尊氏、義詮、義満の木造の首を斬りおとし、賀茂の河原に晒した。氏が通っていた頃には、斬られた首は胴体に戻ってい、義満の首は尊大暴君の感がしたと記す。

 義教が恐怖政治によって暗殺され、武将らのタガが外れた。独裁者の子の義政の命を武将らはきかず。父への反発を一身に受け、彼は将軍の意欲を失って趣味の世界に入った。「応仁の乱」の時に詠んだ彼の歌「ハカナクモ ナオ収マレト 思フカナ カク乱レタル 世ヲバイトハデ」。勝手に書き直せば「儚くもなお収まれと思ふかな 斯く乱れたる世をば厭はで(厭とは思わず)」。キーン氏は、傍観者に成り切った心境の歌と解釈する。

kokedera_1.jpg 京に飢餓死の遺体が満ちても、百㍍先で戦闘中でも、義政は御所内で茶の湯を楽しみ、庭園を愛で、蒐集した中国・明の山水画を眺めて楽しんでいた。美的優雅の追求に身を捧げた中国の徽宗帝と同じで、彼は捕虜になって死んだが、義政はどちら側にも立たぬことで「応仁の乱」10年余を生き抜いたと記す。

 キーン氏は次に義政の〝造営〟について。彼が7歳から16歳まで住んだのが烏丸御殿(母方一族・公家で義政育ての親・烏丸資任の屋敷)。金に糸目をつけぬ増築・別棟建造も、自分の趣味が明確化した22歳、大飢饉最中の長禄2年に「花の御所」(室町御殿)へ移すことを決めた。翌年に新しい御所へ移った後も会所、泉殿、庭園を整備。その新御殿と庭園の見事なこと。

 寛正3年の27歳。母のために豪勢な高倉御殿を建造。庭園は善阿弥の妙発揮。その為に義政は夢窓疎石による西芳寺(苔寺)に再三出向いて参考にした。「花の御所」は応仁の乱では無傷も、天明8年の一揆暴徒の放火で全焼。将軍家財宝も灰と化した。富子と義尚は小河御殿に避難。文明12年、義尚は新婚早々に、義政寵愛の女とも情交で、親子対立がさらに激化。翌年に妻・富子とも再衝突。義政は妻、子とも関係を断ち、世事を離れて東山山荘の造営に没頭したと筆を進めていた。写真下は碓井小三郎編『花洛林泉帖』(明治43年刊。国会図書館デジタルデータ)より義政が造営参考にした西芳寺の湘南亭)。

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応仁の乱(7)東山文化の誕生 [日本史系]

ginkaku_1.jpg 「応仁の乱」はどう終わったか。石田晴男『応仁・文明の乱』を読む。文明4年(1472)正月に細川勝元と山名宗全が和睦交渉。畠山義就と大内政弘も参会したが、勝元の嫡子問題で決着せず。

 その間にも各武将らは守護地で合戦続行(朝倉孝景の越前制圧。美濃守護代・斉藤妙椿の越前・飛騨・近江・伊勢・尾張・三河への勢力拡大。江戸では文明8年に長尾景春が内乱など(早くも戦国時代の様相)。文明5年(1473)に西軍総大将・山名宗全が70歳で、東軍総大将・細川勝元が44歳で没。

 翌文明6年、代が代わった山名政豊と細川政元の単独講和が成立。室町時代の〝守護在京〟も無視され、武将らは次々に帰国し、文明9年(1477)に「応仁・文明の乱」が終わった。最初から最後まで暴れた畠山義就も赦免決定の戦後処理が文明18年(1486)。

ginkakuhasi_1.jpg 足利義政は、乱が落ち着いた文明14年2月から念願の東山荘の造園に専念。翌年に同地へ移住。錦鏡池中心の「池泉回遊式庭園」と建物群に己の美意識すべてを注いで、東山文化の神髄=簡素枯淡美の一大山荘を造った。

 国会図書館デジタルデータより外山英策著『室町時代庭園史』(昭和9年刊。写真も同書より上が銀閣寺、下が池南側の龍背橋)を読む。~東山殿(慈照寺)は、従来から義満の北山殿(金閣寺)に模し、相阿弥の作と伝承されているが、それは間違いだろう。築庭当初には天下第一の称ありし善阿弥がいて、相阿弥の出る幕は無かっただろう(★ドナルド・キーン:義政は河原者の庭師の中でも文明14年に97歳の高齢で亡くなった善阿弥を最も信頼していた)。実際の築庭は彼の子の二郎、三郎、孫の又四郎の3代が携わったのだろう。

 義政の東山荘の趣旨は、自らの禅僧の生活を喜び、山居を楽しむ心で、世事を厭ひて風流三昧に太平を楽しもうとした趣旨で作られたもの。義政が東山を詠った歌が「我いほは月待山のふもとにてかたむくそらの影をしぞ思ふ」。隠棲の心境だな。彼は延徳2年(1490)55歳で没。同日、遺命で相国寺の大智院を慈照院とし、東山殿を慈照寺とした。

 なお善阿弥は、他に将軍の縷々出入りせし相国寺諸頭や蔭涼軒、睡蓮の庭、奈良大乗院の築庭も造った。泉石の妙手で「山を築き、水を引く妙手比喩なし」と記され、彼らの築庭には禁忌や風水が多く反映されている。東山荘は其の後の火災で、観音堂と東求堂の他は焼亡。今日の大部分は慶長の再興後のもので庭園も甚だしく変化した、と記されていた。

 「応仁の乱」で京は荒廃したが、それ以上に重要なのが義政によって育まれた東山文化=日本美。それは現在の日本人のこころ、生活にもしっかり根付き、生き続けていると紹介されていた。ならば次に、東山文化に焦点を当てたドナルド・キーン著『足利義政~日本美の発見』、河合正治著『足利義政と東山文化』を読んでみる。まずは共に足利義政の人物像にスポットを当てているので、今までの<~(6)>の文に補足してみる。

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応仁の乱(6)宇野玄周の扇屋 [日本史系]

ougie_1.jpg 小説『深重の橋』の続き。武具屋(皮革商)宇野屋仁阿弥は妻子なく、「牛」に宇野屋を継ぐように依頼。「牛」は人を殺める武具甲冑商はイヤで〝扇屋〟への職替え了承で家督を継ぐ。従来の檜扇から、扇骨を紙で被った蝙蝠扇(かわほりおうぎ)を製作(そこに詩歌や絵を描く扇の祖)。宇野屋はその扇商でさらに財を成したとか。

 「牛」は相国寺に参禅し「宇野玄周」と改名。「頼助の弟・平助」は後に僧形になって文成梵鷟(ぼんさく)と改名して相国寺の一院を委されたそうな。同小説は最後に将軍義政を評して「愚かな将軍と烙印を捺されているが、銀閣寺や庭園など日本文化を成立させた稀有な人物だった」。「あとがき」で『深重の橋』はミネルヴァ書房『中世を生きた人びと』のなか「宇野玄周」を読んで創作意欲が湧いて書いたと記している。

 一方、呉座著『応仁の乱』では、こう要約されていた。~応仁の乱は、新興勢力たる山名氏が、覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦争という性格を持つ。さらのこう分析する。~この大乱の本質は二つの大名連合の衝突で、そうなった要因には室町幕府の体制にあった。幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じて(在京義務)、彼らの動きを監視・統制しようとした。複数国の守護を兼ねる有力武将を「大名」として、幕府へ意思決定参加を認めて「守護在京制」を執った。従って京都には内裏、将軍御所の他に大名らが屋敷を構えた。自ずと大名らの交流が派閥形成され、細川派と畠山派の抗争が深刻化。また諸大名の意見を吸い上げる機能が失われたことにもよる。一方、守護在京制は結果として京都文化が地方伝播した面も見逃せない。さらに乱を終え、京都からそれぞれ国元へ戻った武将たちによって「戦国時代」が始まるとまとめていた。

 小説『深重の橋』はここで終わりだが、「応仁の乱」終結の経緯をおさえておかなければいけません。写真は「応仁の乱」の207年後の天和4年(1684)の菱川師宣筆『圑扇絵づくし』(国会図書館デジタルより)。宇野玄周による「蝙蝠扇」が江戸時代、そして今の日本に当たり前のように定着です。また義政が育てた茶道、華道、能、水墨画、書院造りなど「侘び・寂び」の日本美も今の私たちの暮しにしっかりと定着で、その辺にも注目すべきでしょう。

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応仁の乱(5)「牛」息子の死と足軽 [日本史系]

asigaru5_1.jpg 小説『深重の橋』に戻る。一色義直が宇野屋仁阿弥に傭兵を乞う。主人は38歳・牛に「宇野屋牛坊丸」の名を与え、その35人の大将にして東軍・一色の館へ向かわせる。高島屋へも東軍・細川一族と昵懇の京極持清より傭兵依頼。そこに「もも」が産んだ牛の子、17歳「頼助」がいた。

 まず合戦の前哨戦は「御霊合戦(上御霊神社の戦い」。西軍・畠山義就(よしひろ)の軍勢3千騎が、東軍に攻め込んだ。「頼助」は京極軍の背後にいて、朝方に西軍の勝鬨を聞く。東軍・畠山政長軍の50名が討死。政長は細川勝元の館に逃げ込んだ。

jinjyuno2_1.jpg 朝廷は、この戦いを終えさせるべく「応仁」(1466)に改元。「牛」は東軍・一色義直軍で参戦も、一色(伊勢・志摩・丹後の守護大名)は、地元で細川系の若狭守護・武田信賢と戦争中で、「応仁の乱」では西軍に移った。かくして「頼助」は東軍、「牛」は西軍で対峙することになる。

 「応仁の乱」勃発。「牛」参加の一色軍に、東軍の細川・武田勢4千人が攻め込んだ。「牛」は一色大将を馬に乗せて脱出し、山名宗全の館に逃げ込む。小康状態を経て、西国の雄・大内政弘が西軍加入で上洛。火に油を注ぐ激戦で、京都は半月で名刹全焼失。西軍は勢いに乗って東軍支配の相国寺、花の御所を猛攻。これが「相国寺合戦」。同寺は七重塔一基を残して焼失。

 翌日、窮地の東軍は畠山政長率いる3千名を中心にした1万余の軍勢で、西軍を押し返す。この戦いで際立ったのが「応仁の乱」初登場の「足軽集団」だった。彼らは出自無関係の土一揆勢の同じ階層。戦術も甲冑もなしで疾風のように神出鬼没。権威も命令も無視で掠奪・放火・寝返り~何でもありの無頼集団。

 文明3年(1471)、「牛」は戦場転々とする間に早や41歳。「船岡山の戦」で「牛」の戦術に、京極持清の傭兵らの退路が断たれ、その中で「頼助」が果敢に戦っていたが矢が胸を射った。「牛」と瓜二つの「頼助」。親子の名乗りを交わすも「頼助」の意識は薄い。

 ここで「牛」は大義名分のない戦いの虚しさに、一色の軍勢から離れて宇野屋に戻る決心をする。我が子を戸板に乗せ、武具を脱ぎ、口に矢を銜える古式にのっとった戦場退却の形で帰還。介抱虚しく「頼助」死去。やがて「もも」夫妻も無頼の足軽らに家を焼かれ殺されたと知る。(作家は「応仁の乱」史実にフィクションを上手にのせて描いている)

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応仁の乱(4)東軍・西軍の陣容 [日本史系]

ikyutohon_1.jpg さて、追手から逃れた「妊婦もも」は奥路地へ逃げ込んだ。元武士で盗賊に右足を斬られ、今は笠張職の夫妻に助けられた。彼らの保護で「牛の子・頼助」出産。その1年後に彼らの妻が病没で「もも」が後添えに。4年後に九郎三郎の子「平助」誕生。

 康正元年(1455)、20歳になった将軍義政に日野富子が嫁す。その4年後の長禄3年〈1459)、人買いに売られて15年後の「牛」も30歳。宇野屋手代の相談相手にまで成長。

 長禄の4年間は凶作続きで土(土倉=金貸し)一揆が頻発。四条橋から見る賀茂川は飢餓による死体の山。某僧が数えた推定で8万2千余とか(関東大震災の死者行方不明者は10万5千名と推定)。「そうだ京都、行こう」と思えぬ地獄絵。★ドナルド・キーン著:飢饉最中の長禄2年、義政は贅沢な将軍御殿(烏丸殿)の修復工事完成直前に、その御殿を義満が建てた室町第のあった場所に移すと金に糸目をつけず遂行。

 将軍義政に子が出来ぬ。弟・義視を後継者にしたが、その後(寛正6年)に日野富子が男児(後の義尚)出産。富子は我が子を将軍にしたく山名宗全の力を借りた。義視と昵懇の細川勝元・山名の対決構造がはっきりした。かくして応仁元年(1467)から文明9年(1477)の11年に及ぶ「応仁・文明の乱」。京都は徹底的荒廃へ向った。

 内乱の陣容を記す。将軍義政も合力の東軍大名=細川勝元・成之・成春、常有・持久。畠山政長、京極持清、武田信賢、斯波義敏、赤松政則、山名是豊。(主力は細川一門と畠山、京極で兵力は最大16万騎)

 西軍大名=山名宗全・教之・政清、豊。斯波義廉、畠山義就、一色義直(将軍側近だったが国で若狭守護武田と戦っていたために西軍参加)、土岐成瀬、六角行高、富樫政親、後に大内政弘。(主力は山名一族と斯波義廉、畠山義就。兵力は最大11万騎)。これは国元の合計兵力で、現地開戦に召集は両軍合わせて5万人ほど)

 なお、この時期の一休宗純は最晩年。禅宗の腐敗に抗して(世も終わりの荒廃。既存価値崩壊、混沌にあって人の原点復帰への喚起ではと考えるのが正しいだろう。ならば意地の張り合い終始の武将らに比しまともなのは一休さんと言えなくもなかろう)の奇行。77~87歳で4、50歳も若い盲森女と暮し、赤裸々な性愛も詠った漢詩集『狂雲集』を刊。「美人陰有水仙花香」楚台応望更応攀、半夜玉床愁夢顔。花綻一茎海樹下、凌波仙子繞腰間。どなたか現代文に訳していただけますか。

 カットはいとま持て余して「一休宗純」似顔絵に、石田晴男著『応仁・文明の乱』をWindows「ペイント」で合成してみた。ドナルド・キーン著:墨斎描く一休像は、顔から複雑な性格が読み取れる一人の人物を描き出した日本最初の肖像画である、と記している。一方、伝・土佐光信が描く足利義政の肖像画は人物についてほとんど何も語っていないと記す。

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応仁の乱(3)嘉吉の変 [日本史系]

IMG_1973_1.JPG 小説の「牛」は「奈え」(湯屋に買われた仲間)が病気で臥せったままで「捨てて来い」と命じられる。「牛」は彼女を賀茂川と荒野川の合流、荒蕪地に住む頭に世話を頼むべく賀茂川へ。

 そこで作庭作業員を求めに来た「新蔵」(人買いで買われた仲間)と再会。彼は山水河原者(作庭を業とした人の呼称)として名高い「善阿弥」に買われて修業中だった。時は文安6年(宝徳元年1449)。元服した足利義政が8代将軍になった頃。

 ここで改めて「応仁の乱」までの政情を、呉座著と石田著を参考にまとめてみる。まずは6代将軍・足利義教(よしのり)の時代。永享元年(1429)に大和国(奈良)の守護職・興福寺が弱体化し、大乗院と一乗院衆徒が覇権争い。義教は当初「大和放任論」も、ここで武力介入。以来、義教は討伐命、赦免、家督替えの峻烈果断な政治を行った。

 永享10年(1438)、大規模動員で足利持氏(関東公方)を討つ=「永享の乱」。嘉吉元年(1441)前年には、下総結城城(茨城県)に結集の反乱軍を攻略。戦況芳しくなく畠山持国へ出陣命も動かずで、異母弟・持永へ家督替え。嘉吉元年4月の総攻撃でやっと結城城陥落。

 この戦勝祝宴として将軍を自邸に招いた赤松家が義教を暗殺=嘉吉の変。★ドナルド・キーン著:義教が際立っていたのは残忍な気性。公家はじめ高貴な身分の者80名を処罰。少しでも気に食わぬと都追放、投獄、暗殺、斬首の〝恐怖政治〟。満祐は狂人を装って義教の猜疑心をそらせていたが、一説では義教が赤松一族の美男・貞村を寵愛し、彼に満祐所領の播磨・備前・美作を与える噂であったこと、従来からの足利家への忠誠も認められずに義教の首を取った、と説明されていた。義教亡き後は7代将軍に嫡男・千夜茶丸(8歳。後の義勝)が継承で、管領の細川持之が政務代行。 

 義教のタガが外れて、失脚中の畠山持国が武力で家督復帰。同じく楢原氏に家督を替えられた越智の子・春竜丸も家督を奪取。興福寺追放の経覚も力づくで禅定院(大乗院)門主に復帰。畠山氏も持国の実子・義就と、弟の遺児・弥三郎が対決。弥三郎が細川勝元に助けを求めたことで細川・山名宗全VS畠山義就の構図が出来た。

 その最中、嘉吉3年(1443)に7代将軍義勝が10歳で没。彼の弟・三春(8歳、義政)が継ぎ、14歳で元服して文安6年(宝徳元年・1449)に8代将軍義政(よしまさ)誕生。★ドナルド・キーン著:義政の母は日野重子。乳母は10余歳年長の今参。今参は乳母かつ愛人(妾)でもあり。富子との結婚前に数多くの色事経験で三人の女児を産ませているのも今参の影響。結婚後の今参は側室に佐子を入れて娘を生ませている。政治に口も出す。富子に念願の男子誕生を果たすも間もなく没。母・重子が今参の呪いと説き、今参は流罪・自害した。

 義政は持国・義就側に立って弥三郎を討伐命も、弥三郎勝利で彼の畠山家の家督を認めた。細川が不満で趣旨撤回。また弥三郎討伐へ。義政の迷い、討伐、赦免、家督替えで大混乱。

 ●河合正治著:義教の恐怖政治のタガが外れて、義政の時代になると、彼がいくら命令を下しても守護や地方武士らは言う事を聞かず。義政は本来が武人に向かない性格で優柔不断、かつ側近たち動かされて朝令暮改に終わることが多かく、いきおい文化面に専念する。

 ややこしいので小説「牛」に戻る。「もも」が彼の子を身籠り、二人は湯屋を脱出。薪拾いの荷台に「もも」を隠して逃亡も追手に囲まれる。「もも」を逃がした「牛」のピンチを、将軍に仕える一色義直(応仁の乱では西軍)に助けられる。一色の脇に控えた武具家(皮革商)宇野屋仁阿弥が「牛」を預かることになる。

 小説『深重の橋』も「応仁の乱」関連書もここまで大半を要すも一挙にまとめてみた。似顔絵は著作権問題が面倒臭いから自己流で描いている。似るも似ないも筆まかせ。

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応仁の乱(2)鴨川の薪拾い [日本史系]

gennji.jpg_1.jpg 湯屋の続き。京には亀屋のような立派な湯屋の他に〝町風呂〟が市中に数10軒。さて「牛」は荷車を曳いて鴨川べりや町辻で薪拾いと釜焚き手伝いで働き出した。鴨川は大雨の氾濫で流木が多い。だが河原の叢には死期を迎えた病人、飢餓死の遺体が棄てられ、その衣服を剥ぐ男もいた。遺体多く死臭満ち、それを狙う犬も鴉もいた。

 鴨川近くの荒無地には、領主に仕えぬ河原者と呼ばれた社会底辺で置かれた人々も住み着いていた。澤田小説では「貴族や富裕層は、自分たちが行えぬ物事に携わる人々を差別の対象にした。死牛馬の始末、皮剥ぎ、捕鳥、弓弦や矢の製作、壁塗り、井戸掘り、清掃、道路普請、造園、また染色は化学知識なき時代ゆえ、呪術的行為に携わる異能者と見なされた」と記す。そうした人々のなかの芸能者から、やがて歌舞伎や猿楽(能)も誕生した。

ohninmoran.jpg_1.jpg 著者はさらに『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』「和歌」などは、そうした庶民の辛苦の上に成り立った王朝文化・文学で、庶民には無縁だった。だが彼らに卑賎視された庶民の間から「わび・さび」が誕生したと記す。

 以上を小生調べで補足してみる。足利将軍の室町時代は2代足利義満が「北山文化」。金閣寺が建ち、将軍保護下で観阿弥・世阿弥(嘉吉3年没)が鎌倉時代からの猿楽・田楽を「能楽」に大成。世阿弥は『風姿花伝』に芸道論を著わした。出雲阿国が鴨川・五条河原で歌舞伎踊を演じたのはずっと後の慶長3年(1603)。『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』成立は平安時代。

 8代足利義政の時代が「東山文化」。銀閣寺が建ち、禅宗の影響で「わび・さび」の「侘び茶」が開始(次の戦国時代に千利休が完成)。また同時代は鎌倉時代から続く連歌も盛ん。絵画面では足利将軍家の部下(同朋衆)の能阿弥、真阿弥が山水画を。東山時代に画僧の技法を経て雪舟が水墨画を完成(明での水墨画修業から帰国が応仁3年)。狩野正信~元信によって、水墨画と大和絵の技法融合で狩野派へ。

 さて小説の「牛」も下人のひとり。河原や町辻で薪を拾いつつ「いろは」「九九」を、また市中に貼られた為政者を笑う落首の漢字を読みたく「論語」で漢字も勉強。湯屋に売られて5年を経て20歳に。共に湯屋に売られて垢かき女にされた姐御肌「もも」といつしか深間の関係へ。

 カット上は庶民に無関係世界が描かれた「源氏物語絵巻」。カット下は大正2年刊「少年日本歴史読本」より応仁の乱の1頁。共に国会図書館デジタルコレクションより。

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応仁の乱(1)『深重の橋』の人買い市 [日本史系]

jinjyunohasi2_1.jpg 澤田ふじ子『花篝』最終編『あしたの雪』は、「応仁の乱」で朝廷財政窮乏、権威も失せた第104代・後柏原天皇に仕える勾当内侍(こうとうのないし)妙子の物語だった。京は焼け野原、禁裏御料も入らず。亡き帝の葬送費用、即位の費用もない。破れ築地から内裏に忍び込んで届けられる〝供御〟が頼り。妙子が土佐絵を描くことで供御の礼をする。そんな時代があったとは(ちなみに即位式は21年後の1521年。鈴木良一著『応仁の乱』)。~で「応仁の乱」のお勉強です。

 「応仁の乱」とは? 再び古本屋で澤田ふじ子の「応仁の乱」がらみ小説『深重の橋』上巻、呉座勇一著『応仁の乱』(中公新書)を入手。図書館で『深重の橋』下巻・初版本、石田晴男著『応仁・文明の乱』を借り、これらを参考にする。

 『深重の橋』第一章「無頼の市」は、86頁に亘って〝人買い市〟が描かれていた。今から575年前、嘉吉4年(1444)の摂津国広瀬(山崎宿の南)の人買い市。百数十人が手・足を縛られ、「場立ち」で次々に売られて行く。女は小袖の上半分を剥がされ、裾をめくられる。主人公「牛」15歳は10貫(江戸時代の10両相当)で湯屋・亀屋に買われた。※以下、史実を虚構で、虚構を史実で補いつつ記す。

ouninnoran2_1.jpg 第二次世界大戦も酷かったが、応仁の乱も酷かった。同乱は応仁元年(1467)から11年間もダラダラと続き、京都・奈良は地獄ほどに荒廃。小説「牛」が売られたのは嘉吉4年(1444)。その3年前、嘉吉元年に赤松満佑・教康が、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した(嘉吉の変)。将軍を千也茶丸(後の義勝)が継ぎ、幕府軍が赤松氏を討伐。嘉吉2年、義勝将軍誕生も翌年に没。三春(義政)が継ぎ、文安6年(宝徳元年1449)に元服し、8代将軍・足利義政が誕生。

 澤田ふじ子『深重の橋』第二章は「火の枕」。「牛」が湯屋で働き出して2年後ゆえ文安3年(1446)か。亀屋は洛中一の湯屋。場所は内裏(一町四方)とその倍の広さを誇る足利将軍邸(花の御所)近くの一条室町。

 亀屋は檜造り。にじり口に似た引違戸を開けると、15畳ほどの簀子の板敷に筵。客は並べられた木枕に横になって蒸気浴。簀子下に湯釜、その下は燃える竈。湯場奥は水浴び部屋。その先に手桶で運ばれた湯船の部屋。さらに「ふたの物(腰巻)一枚で、ててれ(褌)姿の男の垢落としをする〝垢かき女〟(江戸時代の湯女)が快楽へ誘う別室があった」。

 今の時代で室町時代を想像するのは難しいも、現・特殊浴場(旧トルコ風呂)のような湯屋ありとは驚いた。時代激変だが、そっち方面は何も変わっちゃいない。長くなったので次回へ。

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我が転倒史 [暮らしの手帖]

korobu1_1.jpg 小雨の日に図書館へ行き、帰り道で転んだ。「この靴、少し滑るなぁ」と注意していた。無事に家近くに戻った。家前の道は多少ザラツキありで、滑らぬと油断。そこで仰向けに転んだ。

 タイル状個所で滑ったらしい。足首と肘が痛い。上着とジーンズが濡れた。家に戻って「あっ、鍵がない」。転倒現場に急いで戻った。転んだ場所に鍵。転倒に動転して気付かなかったらしい。

 「最近よく転ばないかい」と女房。某日、二人で緩い坂を下っていた途中で、小生コロコロと転がった。小石を踏み、斜めになった足首が堪え切れずの横転らしい。若い時分は、その程度は持ち耐えたが、踏ん張りが効かなくなっているらしい。今は歩道に小石があれば、脇に片づけておくのが習慣になった。「よく転ぶ」と言われたゆえ、他に何度か転んでいるのだろう。

 7年前の自転車の大転倒はよく覚えている。折り畳み自転車の輪行で、西船橋・三番瀬へ行った。ちょっと脇目をした瞬間に「3.11」で生じた段差に直撃し、自転車ごと前方一回転。多少の打ち身はあるも大事に至らず。

 そんな事から、自分には転倒時に身を庇う転び方が備わっているらしいと思った。昔、トライアルバイク熱中で、崖や大岩越えに挑戦し、失敗の度に転びつつ上手くなった。それで転ぶのが上手になったのかも。

 女房は緩い下り坂で「コロッ」ではなく「ドタッ」と転んだ。顔面、擦り傷。何故かそれを機に禁煙し、顔の傷が治った頃に〝禁煙成功〟だった。

 某日、孫が幼稚園で習った〝でんぐり返し〟を得意気に披露した。手本を見せるべく、あたしもでんぐり返しをした。その時に頸椎に電光走る衝撃。異様な痛みで死ぬかと思った。気持ちが若くも、身体は老い錆びついている。つま先立ちで下腿三頭筋、自転車で大腿四頭筋を鍛えたが、これからは足首も鍛えなくてはいけない。

 さて、雨の日の転倒時のバッグん中に図書館で借りた澤田ふじ子『深重の橋』(下巻)と石田晴男著『応仁・文明の乱』が入っていた。共に11年も続いた内乱がテーマ。ちょっと重過ぎたのかもしれない。

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澤田ふじ子『花篝』の日本画語彙? [読書・言葉備忘録]

hanakagari_1.jpg 澤田ふじ子の小説日本女流画人伝『花篝』収録12編より、まずは葛飾北斎の娘・応為(お栄)主人公の『野狐』を読んだ。お栄の評伝・小説は幾作か読んできた。外国女性作家の力作『北斎と応為』も読んだが、やはり江戸文化・情緒を描くには無理っぽかった。

 『野狐』は僅か文庫30頁の短編だが、お栄の存在感、吐息までが伝わってくるようで「うまいなぁ」。氏の時代小説は初めてゆえ、どんな作家かしらと調べれば、池坊専応を描いた『花僧』を、松岡正剛「千夜千冊」が取り上げていて「そうとううまい。いつも堪能されてきた」と記していて驚いた。

 応為の他11編は、主に日本画系かつ京都に生きた女性画家が主人公。小生、日本画に無知。また関西系日本史も無知ゆえに全篇が新鮮だった。日本画については、九鬼隆一の妻・初子と岡倉天心の不倫がらみで、初子モデルの狩野芳崖『悲母観音』について少し記した程度。かくして同短編集から日本画関連かな?の語彙のお勉強にもなった。例えば~

 丹靑=絵具、彩色、絵画。略筆=要点以外を省略して描く、書くこと。規矩=手本、規則。披麻皴=山水画における皴法。毛筆さばきで山、岩、樹幹などの襞を立体的に表現する技法のひとつ。渇筆により麻の繊維をほぐしたように波打たせて山や岩の襞を表す法。破墨=南画に多用される水墨画技法。薄墨で描いた上に次第に濃い墨を加え、墨色の濃淡やにじみ具合の趣をみせる技法。点綴=物がほどよく散らばっていること。臨写=手本を見て描くこと。彩管=絵筆。墨守=頑固に守ること。儒教の〝仁〟を差別愛とし、血縁によらない反戦・平和を説いた墨子より(ウム、墨子もお勉強しなくては~)。絵の妙諦=真理・真価・真髄。画幅=絵の軸物。等々~

 またそれらに関連して~ 短檠=背の低い行燈。儀軌=方法、規則、典籍。天稟=才能。藹々=和やか。沛然=雨が盛んに降るさま。蕭条=物淋しいさま。桎梏=手かせ足かせ。暮靄=夕のもや。さらにスケッチブックより「画帳」がよく、絵道具、筆の引きよう、妙線、筆数、画趣、画事などもいい。

 同氏による〝江戸〟女流画人伝『絵師の首』もあるとかで、それは図書館で借りて読んだ。『花篝』と同じ文体を期待したが、ガラリッと違った娯楽時代小説風で、スラスラと半日で読了。なぜそうなったかを探っても詮無いことゆえ、そこは流す。

 また『花篝』最終編『あしたの雲』は、〝応仁の乱〟当時の後柏原天皇に仕えた勾当内侍・妙子の話。これを読んで、俄かに「応仁の乱」をお勉強したくなって、また古本探しのウォーキング再開に相成候。

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城野隆『風狂の空~天才画家・小野田直武』 [読書・言葉備忘録]

onodaesi_1.jpg 目的地が決まっているとウォーキングに出で易い。それが決まらぬ場合は、新宿繁華街か早稲田古本屋巡りが多い。そんな某日、古本屋・店先で1冊100円で3冊を入手。その1冊が表題の文庫本。

 数年前に「司馬江漢」をブログテーマにした。巣鴨・慈眼寺の掃苔から始めて彼の人世・足跡を辿った(全23回)。そこに登場の人物・事件は鈴木春信(錦絵誕生)、平賀源内(鉱山、エレキテル、空摺り、金唐革など)、南蘋派・宗紫石、秋田蘭画、銅版画、遠近法、長崎出島、『蘭学事始』から『解体新書』(玄白、良沢、淳庵、森嶋中良ら)、そして定信お抱え銅板画の亜欧堂田善ら。

 同小説・主人公は『解体新書』挿絵を描いた小野田直武。上記人物や事件が総登場で、全てが頭に入っているから物語展開も承知之介。知識のおさらいのように愉しませていただいた。

 その文体も小説ならではの陶酔感へ誘うリリシズム、フィクション少なく、事象記述のようでもありました。田中優子先生が源内と直武はゲイ関係~と記しているも、主人公が陰間茶屋遊びをするのも一度だけ。ネタバレになるが平賀源内、小野田直武の悲劇の裏に田沼意次、松平定信、一橋治斉の暗躍が絡んでいたというところか。

 さて、読後にカバーイラストを改め観て「いいなぁ」。イラストレーター・宇野信哉のサイトを訪ねて他作品も拝見。イラスト制作中の「You Tube」も拝見した。まず背景色をベタ塗り。そこに下絵裏に鉛筆を塗って転写。固い油絵筆で下塗りをブラッシュ&テッシュで「白抜き」にしてから細筆に描いて行く手法。

 細筆は〇〇で、穂先の鋭さ、毛質の保ちよし。輪郭線は中太筆から色をチョイと借りる感じで細筆に移すとポタッを避けるなど。小説と表紙イラスト両方をたっぷりと楽しませていただいた。

 他の各100円2冊は、昔に図書館・書店で探せなかったクララ・ホイットニー著『クララの明治日記』と、澤田ふじ子の日本女流画人伝集『花篝』。後者は最初に北斎の娘・お栄が主人公『野狐』を読んだ。とても良かった。

 おかげで2月は11万歩突破。大充実の3冊計300円。女房が「貧乏が身に付いたお楽しみ~」と笑った。

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乳ヶ崎は江戸=千賀崎、明治=千ヶ崎だった。 [週末大島暮し]

inoutiga.jpg_1.jpg いとまある身ゆえ、伊豆大島関連の古書ネット検索に興じた。明治6年(1873)頃刊の伊能忠敬/測量・製作「大日本沿岸輿地全図」第102図がヒットした。

 あらっ、現「乳ヶ崎」が「千賀崎」表記だった。同地図完成は文政4年(1821)頃だろう。(左図上:国会図書館デジタルCより)

 他に江戸期の図を探す。弘化3年(1846)の絵巻、嘉山外史(画・長谷川晋吉)「伊豆七島図絵」(都立図書館蔵)も「〝千賀嵜〟遊竿図」とあった。

 次に明治期を探す。明治35年(1902)の佐藤傳藏著『伊豆大島に於ける観察雑俎』一部がヒットした。「千ヶ崎の地貌の奇體なること」で「千賀崎が千ヶ崎」に変わっていた。

 taisyotiga_1.jpg そして大正時代へ。大正3年刊の斉藤和堂編纂『伊豆大島』(写真下。国会図書館デジタルCより。キャプションは千ヶ崎)を見ると、本文では 「千ヶ崎」と「乳ヶ崎」混在していた。

 さらに9月1日「防災の日」説明で ~大正12年(1923)9月1日、午前11時58分発生の関東大震災の震源は、伊豆大島北端の「千ヶ崎」の北15㎞の相模湾の海底で、マグニチュード7.9で~の記述。大正末まで「千ヶ崎」が頑張っていたらしい。

 以上から明治末~大正期が「千ヶ崎」と「乳ヶ崎」が混在期で、「乳ヶ崎」名称が固定したのは昭和になってからかなと推測した。それだけの話さっ。

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23)垣内景子〝無思想で歩め〟 [朱子学・儒教系]

syusigaku_4_1.jpg 朱子学・儒教シリーズを中断したが、垣内景子著『朱子学入門』(ミネルヴァ書房)を読んでから一区切りにしたくなった。著者が言いたいことは「はしがき」と「おわり」に記されていた。

 (目下、オルテガ『大衆の反逆』読書中だが、結論が各章最後にある。そこを読んでから最初から読み始めるとわかり易い)

 垣内は同著趣旨を「はじめに」でこう記していた。~(朱子学は)心の問題を解決し、より心安らかに生きるための思想。私たちの考え方や感じ方には、知らずうちに規定しているものの一つに朱子学が入っていないか。ならば朱子学から自由になるために、その正体を知らなければならない。

 入門書ゆえ、本文は儒教~朱子学~陽明学などの解説中心で、それはこのシリーズでお勉強してきたので省略し、一気に「おわり」の結論へ飛ぶ。

 ~(本文を終えて、さて)私たちは朱子学から自由になれたか。その正体をつかみ、その外に出ることができたか。朱子学の何がそんなにまずいのか。「あるべき」は本来「あるがまま」と考える朱子学だが〝世界をそのように単純化し、人間をそのように一様なものと見なしてよいのだろうか〟。そうした反省をした時に、私たちは初めて朱子学の外に立てるのではないか。

 かつての日本人は、朱子学を通して得た「思想」という武器で対外的に強くなろうとした。その「思想」の排他性や闘争性は、朱子学の「理」の正体でもあった。いま私たちは、日本の「無思想」をこそ武器にして、国際社会の中で独自の役割を果たすべきではなかろうか。

 日本の「無思想」は、無節操や無責任ではなく、むしろ研ぎ澄まされたバランス感覚で、安住を拒否し続ける覚悟に他ならない。理屈を振りかざす者たちの確信に満ちた姿に胡散臭さを嗅ぎ取る感覚が必要だ。

 そこで朱熹のバランス感覚に注目したいと続ける。朱熹とその後の朱子学の違いは〝偏らない〟点にあった。決して終わらない「工夫」の道程を進むこと。学び続けること。朱熹の生き方は、無限の連続の保証。安定的な足場に安住しない。無限の移動でもあった。

 この書を、こうまとめて「朱子学・儒教シリーズ」に一区切りをつけます。

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