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戸山荘④ 随柳亭~行者堂~文殊堂へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

zuiyouteikaramonjyu_1.jpg かたはらに老木の柳の木ずえ(梢)高く風になびき、緑も深き江にそふたる一ツのおほん(御)屋作り。是をなん「随柳亭」<絵図:左下>と名付て、御とのゝ(殿の)画はかの御家にて養壽(尾張藩御用絵師・神谷養壽)とかやいへるか。手を盡してぞえがきし墨絵の山水にこそ。所々砂壁なと取合て、かりそめのおぼん(御)住居の様なり。御縁(縁側)には緋の氈(かも・せん=毛氈)を敷わたし、御床には范安仁か藻に魚の絵いける(活ける)がごとし(范安仁=没骨描法の藻魚図が有名)。世に有所の写しなどもかねて見しが、似もにぬ(似るも似ぬ)ものなり。藻と魚とをそのまゝにとり出で、帛(ハク・絹)におしあてゝ見る心地にこそ。

zuiryutei_1.jpg 小卓靑貝、御香炉紫銅のおし鳥つきづきしく(しっくりしている)ぞ見べし。書院の床には明〇とかや、さゝやかなる唐銅のふくべのかたちなるに、いかにも立花のさまにて、松・尺南花(シャクナゲ)・まるめろ(バラ科の落葉高木。セイヨウカリン)・杜若(カキツバタ)・金銀花(スイカズラ)・さつき・しやか(アメマ科)をぞ立かれける。かく立花しける事、だれだれもいまだ見ぬ事とて、いとめであへりし(愛で饗りし)。ふた間三間隔て、御釜子其外の御調度まで取そへてかざらせ給いける。其余の御間には、釜なんと二ツ三ツすへられ、茶のぐ(具)など数多ありし。

<将軍家斉の御成は、新暦で今頃。戸山公園(箱根山地区)を散策すれば上記と同じ花々が咲き誇っている。「随柳亭」と「養老泉」の間辺りのシャクヤクも満開だった>

 是は供奉の人々に給はらんための御もふけ(設け)ならんかし(~なのだろうよ)。此殿にて御わりこなとき(?)こしめした(越しめして=丁寧語)、御供の人々にも給られかしと有しに。みなみな後の事の思ひやられて、しばしと申あへりしかば。やがてとく(着く、到着する)宿内といへる御やとりにぞおくり遺しける。<座敷に将軍の座布団もあり、供の者にも握飯などの接待があるも、皆は庭の前途への心配があったので、それを断って宿内といへる御やどりへ先送りした~の意)

koujicyu_1.jpg 此所を出たゝせ玉ひて、「役の行者堂」、古ひわたりし様なり。傍に鈴木三郎か(義経の家臣・鈴木三郎か)の笈(おい=修験者が背負う籠)螺貝なりといにしより云ならはし伝はりしなと聞へし。「王子権現」に「廬山そさんし(盧山寺)」など過行ほどに、「文殊の御堂」左の山におはします。石の階を登りて左り右りに石もて柱の様したるものぞ有ける。これもろこしの花表(中国の鳥居)などいへるものならんかし。すべて此御庭の仏も石も垣も塔も皆ももとせ(百年)あまり五十年も過にたれば、古みわたりて殊勝さいわんかたもなし。

<一行は池伝い随柳亭~吟涼橋~行者堂~王子権現(池の中に鳥居あり)~廬山寺~文珠堂へ。絵図下は「随柳亭」(「尾張公戸山庭園」より)。写真は「文殊堂」があった辺り。そこは目下「メゾンドール早稲田」(池側の国家公務員宿舎を買収して)の建替工事中(写真下)。その工事前発掘で池の土留め、古道岐(園路)跡、中国系の陶磁器類・煙管・擂鉢などが出土。また池跡からは明治9年頃に試射された米国銃の弾丸、英国銃の薬莢が出土。その上の地からは花卉栽培跡などが確認・調べられたらしい>『和田戸山御成記』(3)

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戸山荘③「山里御数寄屋」の逸品の数々 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yamazatosukiya_1.jpg 山をくだりて松楓樅など生茂し、あたりに一棟作りし萱の屋あり。外のさまにかはりて数寄(すき・風流)をつくし、棟梁(むねはり)なんともふとき(りっぱな)伽藍のごとく、垂木のミな竹にて言葉にも盡しがたし。ふしぶし多くありていとたふとく拝し奉りける。御床(床の間)には島物とやらんの瓶に、夏菊の花をいとたへたへしくも(途切れ途切れに)入られける。書院のかざりには夢の浮橋といへる彼御家に名たる盆石を置れける。いつの世よりか伝はりけん。古めかしくおかしくあはれげにまたなき御宝とこぞ思ひやられ侍し。

<釈迦堂(二重の塔)右の「山里御数寄屋(おすきや)」(茶室)に尾張家の御宝が置かれて、それら説明が延々と続く。著者・三上に限らず当時の上級武士らには茶道の嗜みがあったと伺える。これら御宝は今も名古屋の徳川美術館にあるかも知れない。>

 御釜責細のさまにて浄味(信長に仕えた京釜師)の作。紹鷗棚(炉用の棚)には御かざりの御天目(茶碗)あらたに造らせられけん。今焼の瀬戸、杉の木地の御蓋、御臺は朱色、御茶入はもろこし(中国)とり伝へし御壺なり。四方盆靑貝、御水差青磁、茶釜置はいま渡りの呉洲、御茶杓利休の作なり。おほん(御)水屋にはもろこしの炭斗菜籠(すみとりさいろう=籠製の炭取)、香合(香の容器)跤趾(こうし焼き?)ミつ羽(茶道具の三羽の羽箒)はちとせ(千歳)を祝ふて置せ給ふ。南蛮の灰鉢には老松となんいへる名におふ薄茶器を取そへ、御茶碗は是もあらたに造られし唐津の産なり。古田綾部の御茶杓を錺られし。誠や世に茶敷寄く人々を此御数寄屋にあつめて目を悦ばしめたき事になん。御うやまひの至りにや。御棚の四方を羅にてかこひ、御釜もともに大納言ミづから〆(標)をぞ懸られし。

 夫より山を下りに石をもて沓(くつ)のたよりにそま(杣)ふけ(深け)られし。此石なんとも世に似ぬさまなりしゆへにとび侍りければ、尾州の産する所にこそありけれ。垣根は黒木(クロモジ属の落葉低木の皮つき丸太)もて造り、わらび縄(蕨根の繊維の縄)結びめ長くたれしもいはんかたなく(何とも言いようがない)わびしげなり。手水石の姿又なく面白く珍らしけなり。山を逆さまに返したるやうに覚ゆるもおかし。

fujitogakusyuin_1.jpg 爰を下り盡くして「吟涼橋」は芝萩などもてつくれる橋なり。左りの入口の汀には、むらさきと白き藤の打まじりて盛なりけり。右りの方を見やれば、つる亀島とて万代のためし盡せぬ松竹梅柏などいかにも小さく造植置れしも、年ふりたれば(年を経れば)おのづからさまに見ゆるもめでたし。

 <絵図は釈迦堂(二重塔)の隣に山里御数寄屋。石伝いに下ると小さな入江に吟涼橋。西山ガラシャの小説『公方様のお通り抜け』では〝芝萩などでつくれる橋〟を〝柴を萩の蔓で編み込んだ吊り橋〟とあってアレッです。「柴橋=庭園の池に架け渡された柴などの雑木で作った橋」。絵図も吊り橋ではなく、新宿歴史博物館刊チラシには(元・王子土橋)ともある。柴(雑木)を蔦で結わえ、軽く土で覆った小橋が正しいだろう。「随柳亭」先の池には鶴・亀の島がある。これは夢窓疎石からの池の定番。さて今も学習院下辺りに見事な藤棚が咲き誇っていた。そこでアッと気付いた。将軍が御成りの3月23日は旧暦で、現4月27日。まさに今頃だったと。写真の藤棚の奥は現・学習院女子。千駄ヶ谷の秩父宮ラグビー場の地にあったが空襲で焼失。昭和24・25日に戸山町へ移転>。『和田戸山御成記』(2)

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戸山荘②家斉、穴八幡放生寺から御成門へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

onarimon_1.jpg 以下『東京市史稿・遊園篇』(珍しい〝くずし字活字〟交じりの昭和4年刊)より、寛政5年の11代将軍家斉(20歳・いえなり)が戸山荘(尾張藩9代藩主・宗睦)を楽しんだ際の三上季寛(御手先頭600石)による『和田戸山御成記』を読んで行きます。読み易く濁点を付け、固有名称は「」で、小生の勝手解釈を( )で、誤り多々も少しずつ解読です。絵図は「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全図」(国会図書館デジタルコレクション)より部分アップして行きます。

 けふは弥生下の三日(寛政五年三月の二十三日)なりけるに、妻こふきゝす(雉♂)のありかをもとめ、又のこんの鴈(残っている雁)など獲給はんとて、辰の時のはじめ(午前七時頃か)西の御門の拮橋(西拮橋・にしはねばし)より出たゝせ玉ふに、きのふまでは春雨こまやかに事ふりたりけるに、けふは雨もふらずいとゞ(いっそう)こゝろものどやかなり。まづ穴八幡放生寺といへる御寺に入らせ給ふ。したがひ奉る人々に物たうべ(食ぶ=丁寧語)などせさせとて、しばしやすらはせ給ふと、よけの告(禍除け)ありて、御むつましの(慕わしい)とふとき(尊き)かの尾張大納言(宗睦)の山荘和田の戸山に入らで玉はんとす。

kirieana_1.jpg <現地図で説明すれば、皇居の西拮橋~武道館の田安門~早稲田通りを神楽坂下から牛込~高野馬場か。〝鷹狩りのついでに寄る〟はあくまでも建前。この頃の家斉はすでに松平定信に嫌気充分で(4ヶ月後に定信罷免)、定信が江戸に居ぬ間の戸山荘訪問は、かつて定信の老中首座推薦の宗睦も、すでに反定信で動いていての極秘会談があったかも知れない。そこを探るのも面白そうだが、ここはまぁ、政治抜きで戸山荘を楽しみましょう>

 まづ御庭のかこひなんどつねよりもあらたに(囲いなんど常よりも新たに)二重のかまへ内の門をば「神明車力」のかどと(洒落て?)名づけ、茅もてふけるもさわやかにこそ、左り右り(みぎり)に白と藍との布ませ(仕切り)の幕張わたしたり。扨(さて)門のうちへ入らせ給へば、左の方に見渡されたるは所謂(いわゆる)大原とてかぎりもなき廣芝原なり。右の方の小き岳には神明のミやしろ(御社)神さびわたり(万葉集にある語。神々しさが広がって)、木ずえ高く生茂(はえしげ)りて、いとどふとし(さらにしっかりしている)。古道の跡とて川越道鎌倉道とて二筋の道あり。かまくら海道とて右りの方へ入らせ給ふ。からはらの(傍らの)六社の神を崇め奉れり。新たに宮造りしてしづめ(鎮め)祭れり。又こくらき(小暗き)森の内に釈迦堂ものさびしげにたてる。右に稲荷社ふり(古り)にしさまなり。

gakusyuinjyos_1.jpg <絵図に川越街道と鎌倉道の分岐「古道岐」の名あり。その先に広大庭内に散在の小祠を集めた「六社」。西側に二重塔の「釈迦堂」、左は「稲荷社」。その45年後の「江戸切絵図」を見れば穴八幡、別当放生寺の位置は当時から今も変わっていない。その道(現・諏訪通り)を西へ行けば左に現・学習院女子大の北門辺り(写真)に「御成門(神明車力)」があった> 『和田戸山御成記』〈1)

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戸山荘①尾張藩下屋敷とは [大久保・戸山ヶ原伝説]

hakoneyama.jpg 過日、新宿歴史博物館で「尾張藩下屋敷・戸山荘」の3回講座を受講した。小生の部屋から、かつての戸山荘の「箱根山」が見える。16年前のHPで戸山荘について、また大田南畝が写本した久世舎善『戸山御庭記』(享和20年)をアップしたことがある(写真はその時の箱根山)。

 今回は東山文化の庭園もお勉強した。それらを記念して『東京市史稿 遊園編」より『和田戸山御成記』をアップしてみようと思い立った。時は「寛政の改革」の寛政5年、11代将軍家斉20歳が、高田で放鷹の際に戸山荘へ立ち寄った際の御手先頭・三上季寛(600石旗本)による記録。なお三上季寛で検索すれば〝鬼平〟モデル・長谷川宣以8年後の「火付盗賊改方頭」180代目(寛政9~10年)でヒット。多分同一人物だろう。

 小野武久著『尾張藩江戸下屋敷の謎』は、同日に御小姓・佐野義行の随行記『江戸の春』を中心に、三上季寛の文章も参考に戸山荘を紹介だったが、小生は逆に三上季寛『和田戸山御成記』を中心に、小野著を参考に読み込んでみたい。

toyamaso2_1_1.jpg まずその前に、簡単に戸山荘概要。江戸時代に現・戸山町1~3丁目一帯に尾張藩徳川家の下屋敷「戸山荘」があった。広さ13万6千坪(約43万㎡)。東京ドーム9個分。浜離宮庭園20万㎡の倍の広さ。江戸大名屋敷の随一の池泉回遊庭園。

 現地図で説明すれば明治通り、諏訪通り、大久保通りに囲まれた一帯。今は同地に新宿区立西早稲田中学、都立戸山高等学校、学習院女子大・中・高校、東京都心身障害福祉センター、戸山公園(箱根山地区)、戸山ハイツ、一般住宅、国立国際医療センター、国立感染症研究所、早大一部を含んだ地域。ここからもその広さが伺えよう。

 戸山荘の造営は、尾張藩2代目藩主光友が綱誠に家督を譲った寛文9年(1669)から24年間にわたって行われた。池泉は約2万坪。その土で築かれたのが玉円峰(箱根山)。寺社多数、遊びの町「小田原宿」(36軒の町屋)、25景の名勝ポイント(儒者・細井徳民による命名。その意でも禅師・夢窓疎石の庭とは趣旨が違う)、また田畑、花卉栽培場もあたったそうな。

 尾張徳川家は庭園好き、無関心の藩主さまざまだったが、第15代将軍家斉(いえなり)は4回も訪れて「すべての天下の園池はまさにこの荘をもって第一とすべし」と言ったとか。明治になって陸軍が接収。戦後に上記諸施設や住宅が建ち、一部が公園として残されて「箱根山」など当時の名残が多く残されている。

 発掘調査も断続的に行われている。戸山荘以前の地層から弥生式土器が出土。早大文学部学生会館建築前の発掘では「龍門滝」の石組発掘(この石組は今、名古屋「徳川園」で再現されている)。最近でも池の土留め、街道跡、生活品、花卉栽培場の跡、近衛騎兵連隊遺構などの発掘調査が行われている。

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恵比寿のビールは登山靴の味がした [散歩日和]

cyoubou_1.jpg 高2の夏休みに、恵比寿のビール工場でアルバイトをした。お金が欲しかったんです。すでに「山岳会」に入ってい、冬山に備えて「本格皮製のオーダー登山靴」の必要に迫られていた。

 「エビスビール記念館」の昔のビール工場模型を見つつ、高2のバイトの日々が甦って来た。そこでビールを飲めば、修学旅行費を親に内緒で山の経費にし、厳冬期南アルプスの縦走、亡くなった北壁挑戦の先輩らのことなど山の思い出がドッと甦ってきた。もう登山が出来る歳ではなく、山の代わりに「恵比寿タワー」からの眺望を愉しんだ。

ebisukarakita_2_1.jpg 39階(167m)から北方を見ると(写真下)、渋谷の新ビル群が見えた。今秋開業の「渋谷スクランブルスクエア」の屋上「渋谷スカイ(230m)」の眺望が楽しみです。神宮の森の先が新宿の高層ビル群、右にNTTドコモ代々木ビル。

 次に北東側を見る(写真上。山頂から眺望する姿をマウスで描き加えた)。左から「東京ミッドタウン」「六本木ヒルズ」、手前の茶色2棟が「同レジデンス」。三角錐が壁に張り付いたような「六本木グランドタワー」、高低差ある3棟の濃靑ビルが「泉ガーデン」(下に荷風旧居跡碑あり)、上部へ曲線で絞られた「アークヒルズ仙台山森タワー」、トップ形状が特徴の「虎ノ門ヒルズ」。その後ろにスカイツリー先端が覗く。斜め手前の薄茶キノコ状が「元麻布ヒルズフォレストタワー」。トップを絞った「愛宕グリーンヒルズ」が2棟。屋上が円型の「ヒルズ」、隣のより高いのが「MORIタワー」。そして東京タワー、東に湾岸風景~。

 小生の高層ビルからの眺望好きは、若い頃の山登りの影響があるのだろうか。だが峰々の眺望に比し、高層ビル群の光景は、いま生きている人間の業・欲・営みの姿だろう。鎌倉~室町の禅師・庭師「夢窓疎石」にこの眺望を見せたら何と言うだろうか~。

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高2バイトの恵比寿ビール工場へ [散歩日和]

ebisu5_1.jpg 新聞に恵比寿のイラストマップが載っていた。「そうだ恵比寿、行こう」。

 過日、若い時分の渋谷体験を探しつつ、変貌する渋谷を歩いてみた。その時に町が変貌し過ぎて「昔の思い出」が結びつかない例として「恵比寿」を挙げた。

 高2の時に、恵比寿のビール工場でアルバイトをした。その思い出が「恵比寿ガーデンプレイス」とどうしても結びつかない。確か夏休みのバイトで「営繕課」配属。ブロック小屋作りを手伝ったり、木樽ん中のアルミ製球体に亀裂がないかをスコープライトのような物で検査をしたりした。

 社会人になってからも恵比寿の思い出がある。線路脇にあった録音スタジオで、楽曲のラジオスポットを制っていた時期もある。ナレーターは「小林克也さん」でY社とPC社の楽曲。いつも5曲ほどの各15秒、20秒、30秒パターン。5曲×3パターン=計15の台本。


ebisu2_1.jpg ストップウォッチ片手に、楽曲のどの部分を使い、ナレーション原稿を考えて嵌めて行く。ナレーションは楽曲キャッチコピー風を軽快語り。自分でナレーションを語って秒数計算。概ね時間ギリギリまで格闘してスタジオへ向かった。何曲分かの台本を渡して、残りを脇のテーブルで書き仕上げていたりした。「克也さん、そこをDJ風に英語で張って下さい」など。あの日あの時の事を思い出す。

 恵比寿の電算写植屋へ仕事を頼んでいたこともある。小生が中年オジさんになると、演歌系の仕事が多くなった。恵比寿に事務所を構える歌手の仕事も永く続いた。演歌を代表する男女歌手のスポーツ紙連載(ゴースト)の担当者に呼び出されて飲む場も恵比寿だった。

 平成6年(1944)に「恵比寿ガーデンプレイス」開業。高2の時のアルバイトをチラッと思い出したが、特別な用事もなく同地に足は向かず仕舞い。で、今回初めての「恵比寿ガーデンプレイス」です。

 まず最初にイラストマップで知った「エビスビール記念館」へ。平日だが試飲2杯のガイドツアー(500円)の客が大勢いた。エビスビールの昔の写真パネルの数々をガイド嬢が説明をしている。その脇に「昔のビール工場」模型があった。「フムフム、働いていたのはあそことここで~」と思い出しつつ模型に見入った。息子より断然若いガイド嬢が近づいてきて「ご説明しましょうか~」。

 当時、高2のあたしは、お金がどうしても欲しかったんです。(続く)

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応仁の乱(16)夢窓疎石の作庭 [日本史系]

sosekiniwa_1.jpg 前回の桝野著に加え、飛田範夫著『庭園の中世史』も読むことにする。飛田著には現・西芳寺は殆どが明治11年以降のもので、湘南亭さえ慶長年間に千小庵が築造。よって国師(夢窓)作庭は当時の文献から推測する他なしと記されていた。

 桝野著には「上段の洪隠山部の石組は完全に残されていて、国師の作風を知るに貴重。ここから枯山水が始まる」と記されるも、一方の飛田著には、洪隠山石組の記述は室町時代の史料にない。文明元年(1469・応仁3年)に西軍の攻めで西芳寺焼亡。文明17年(1485)に蓮如上人が西芳寺を再興。その10年後に「泉石比類なし」の記述がある。天文3年(1534)に再び兵火焼失。永禄11年(1568)に信長が再興を命じた。ゆえに石組が築かれたのは蓮如によってか、信長命による可能性もある」

 また国師は西芳寺開山の2ヶ月後には天龍寺の開山も請われ、西芳寺と天龍寺の造営が同時進行と思われる。小生は造園史無知、かつ両庭園を実際に見てもなく、以上から解釈不能に陥った。以下、理解出来る点を箇条書きで整理しておく。

<日本庭園の歴史的代表例> ①平等院庭園=平安時代末期の古典的な浄土式庭園。神殿造りの庭に阿弥陀堂を造り、死後の極楽浄土を現世に再現の願いで造営された。②龍安寺石庭=室町期の禅庭典型の枯山水形式。③桂離宮庭園=江戸初期の池泉回遊式。★国師造営の西芳寺や天龍寺は、②の龍安寺石庭への過渡期的造営になるのだろうか。

<曹洞宗と臨済宗> 奈良・平安時代は旧仏教の宗教闘争が絶えず。そんな仏教に代わって中国宋から「無我無念・無心の悟り」を求める禅宗が伝わった。 ●曹洞宗=永平道元によって、ひたすら自己鍛錬の座禅で「悟り」を求めた。農民中心に広がり、山奥に入って中央政権と距離をとった。禅芸術分野では良寛、能の世阿弥、南画の風外本高など。

●臨済宗=明庵栄西による禅問答(公案)を問う形の禅宗。北条氏の帰依を受け、武士階級中心に鎌倉で地盤を固め、京都に活動拠点を広げた。五山なる官寺制度の確立で地位不動へ。臨済宗の僧は夢窓疎石をはじめに庭園分野で多数。一休宗純、雪舟、茶の湯・村田珠光、能の金原禅林など。

<方丈庭園と書院庭園> 臨済宗の最初の本格禅宗形式寺院は建長寺。曹洞宗の最初は興聖寺だが現存せず。●方丈南庭=建物の南側に位置する庭園。禅の世界を表現する場として〝自然風〟に造営した(西芳寺や天龍寺)。⇒寺院が狭くなって破墨山水画の世界に近づいた大仙院 ⇒龍安寺の抽象化された石庭~と時代変化して枯山水庭園が確立。庭の掃除=作務が修業の一部になる。

<その他メモ>★国師は石、樹木、掃除にこだわった。特に桜を愛し植えた。「なおもまたあまた桜を植ばやと花みつたびにせばき庭かな」。★国師=臨済宗は問答(公案)ゆえに「境地」を模して建物・橋・景色部分に名前〝十境〟などを設けた。(その後の庭園に十景など凝った名が付けられているのはその名残か~)。★国師は山頂に塔亭を設けて眺望を楽しんだ。★国師の庭は二段の空間構造が多い。「心字池」と、そこに鶴亀モチーフも定番。

 「応仁の乱」シリーズは、最後に「東山文化シリーズ」になった。いつもながら未消化だが、この辺で終わる。

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応仁の乱(15)名庭を造った夢窓疎石とは [日本史系]

musou2_1.jpg 東山文化を代表するものに夢窓疎石(以下、国師)の庭園が欠かせない。それら名庭や建物を思うと、山ん中のボロ小屋「方丈庵」で暮し、義政と同様な歌を詠み、阿弥陀仏も飾っていた晩年の〝鴨長明〟を思わずにいられない。鴨長明の没から、国師・夢窓疎石の西芳寺(苔寺)開山まで123年。どんな時代変化があったのだろう。

 国師による主な庭は永保寺、瑞泉寺、西芳寺、天龍寺など多数。禅僧とはいえ、時の権力と結びついた名庭園。桝野俊明著『夢窓疎石~日本庭園を極めた禅僧』を参考に、彼は何者だったのかを探ってみた。

 生まれは鎌倉時代の建治元年(1275)らしいが定かではなく、三重県北伊勢の領主・佐々木家の出の説もあり。奈良・平安の仏教に代わり、大陸からの「禅」が脚光を浴びた時代。国師は4歳の時の一族紛争で、父方の源氏の縁で甲斐へ移住。

sosekihon_1_1.jpg 9歳で甲州源氏の菩提寺、当時は密教寺院へ出家。10歳で母の七回忌法要で7日間の法華経読誦とか。18歳で奈良は東大寺での受戒で一人前の僧になる。翌年に甲斐の寺に戻るも、疑問を抱いて禅宗へ。修行後に「夢窓疎石」を名乗る。鎌倉や京都の禅師を巡って悟りを得る。正式な禅師になった10年後に甲斐へ戻って浄居寺を開く。

 39歳、多治見で「虎渓山永保寺」開山。修業者が押しかけて、山へ逃れて閑居・修行。そこにも修行僧が押しかけて別の場所への繰り返し。51歳、正中2年(1325)、遂に御醍醐天皇の声がかかって南禅寺住持に迎えられるが固辞。だが北条高時の力も借りた上洛要請で南禅寺に入る。月3回の法話に修行僧が集結。今度は北条高時が鎌倉・寿福寺へ住持を要請。国師これを固辞し、南禅寺も退院。伊勢に善応寺を開山。

 ここから足跡を辿るのは止めよう。天皇、幕府から住持を要請されると修行僧殺到で寺は隆盛。また別の寺に移るの繰り返し。後醍醐天皇、鎌倉幕府と敵対する双方から支持される禅僧になったらしい。

 60歳で「出世」(禅僧として表舞台へ)の生活へ。権力側も平穏な世を願い、本人もそう願っての出生とか。荒廃していた西芳寺(苔寺)を禅寺として中興開山したのが65歳、1339年(北朝・暦応2年/南朝・延元4年)。その地名が彼の尊敬する唐・亮座主(りょうざす)の隠棲地と同じ名前で、かつ自然環境が良かったことで「作庭心」が湧いたとか。その心を漢詩で記し、その訳文が以下らしい。

 「仁徳を体得した人は、もとより山の静かなところを愛し、優れた智者は、自然の水の清らかな場を楽しむ。私が庭づくりに没頭するのは、おかしなことではない。ただ、この庭づくりによって、みずから仏道を磨こうとしているだけである」 これでは鴨長明、いや「ポツンと一軒家」の住民と変わらない。さて、別の書も読んでみましょうか。(続く)

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窓外にワカケホンセイインコ来て [私の探鳥記]

wakake1_1.jpg 「お前さん、またインコだ。今度は大きいインコだよぅ」。

 以前、ベランダ手すりに〝手乗りインコ〟が止まっていた。吾の肩に止まって家の中に入ってきたインコもいた。かくして今度は〝大きいインコですよぅ〟になった。

 かかぁの指差す先を見れば、二羽のワカケホンセイインコ(輪掛本靑鸚哥、外来繁殖種)が、ムクドリ(都会でも繁殖中)の群がるリンゴを狙っていた。

 〝鳥撮り〟をしていた時に石神井公園でワカケホンセイインコが「熟柿を食うシーン」を、新宿御苑で「桜散らしシーン」を、雑司ヶ谷霊園で「荷風さんの墓上の大樹(欅)の穴に出入りする番い」を撮ったことがある。

wakake2_1.jpg 何時だったか、テレビがワカケホンセイインコ集団の騒音・糞害を報じていた。我家の窓外(そうがい)に二羽のインコなら、その珍しさ・美しさで眼のお楽しみ。だが、人もそうだが「群れた集団」になれば警戒したくなる。〝大衆〟なる恐怖もある。

 「輪掛け有り=♂・輪掛け無し=♀」。さて、どこで営巣しているのだろうか。都会にもオナガ、ワカケホンセイインコが増えて、カラスが警戒して騒いでいる。

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応仁の乱(14)能について [日本史系]

kadensyo.jpg_1.jpg 小生、音楽会社の仕事をしていた頃に世阿弥『風姿花伝』を読んだ。プロモート計画書に「ここは〝秘すれば花〟」など記し、スタッフを煙に巻くなどしていた。以下、キーン著と竹本幹夫訳注『世阿弥』より自己流解釈で「能」のお勉強です。

 まずは~。大和(奈良)を本拠の山田猿楽の3男が「観阿弥」。田楽(=豊作祈願系。神様系=神楽)に先駆けた〝劇形式〟で演じた猿楽(江戸時代まで〝能〟は猿楽)が人気に。猿楽の最古記録は貞和5年〈1349)で観阿弥17歳。やがて猿楽4座中で観阿弥人気がトップ。京で勧進猿楽興業(寄附=観覧料=有料チャリティー公演)をしたのが22歳。

 鎌倉時代から田楽(神楽?)愛好の足利将軍家が観阿弥に注目したのが、義満が将軍になって6年後のこと。観阿弥42歳、嫡男「世阿弥」12歳。世阿弥は歌・連歌も堪能な美少年。義満寵愛で将軍の文化サロンに出入り。22歳の時、父52歳で没。後10年ほど彼の記録なしも、32歳頃に一座棟梁で将軍周辺の演能に名を連ね出す。応永6年(1400)、義満の御前で金春太夫(禅竹の父?)と共演。38歳で最初の能楽論『花伝』を執筆。

 ここで世阿弥の世襲問題。まずは金春流の若者・禅竹の才能を認め、流派は異なるも指導。彼(娘婿になる)に能楽論『六義』『捨玉得花』を書いた。世阿弥に子が出来ず、弟の子・元重を養嗣子(後の「音阿弥」)に能の秘伝を教え込む。その後に妻が男子(後の「元雅」)出産(よくあるお家騒動の例)。だが世阿弥は禅竹・音阿弥・元雅に分け隔てなく教えるも、次第に元雅の才に気付き『風姿花伝』を相伝。

noutirasi_1.jpg 応永15年(1408)、世阿弥の庇護者義満が急死。次の将軍義持の鑑賞眼鋭く、近江猿楽の名手犬王もいて、世阿弥は桟敷下で控えることもまま。応永20年(1413)、犬王道阿弥が没。田楽新座より寵児・増阿弥登場で、10年ほど彼の時代。世阿弥も発奮して今も演じられる名作を次々発表。

 応永29年(1422)、60歳の世阿弥は元雅に譲って出家。音阿弥・元雅の活躍で次第に観世座人気が不動に。だが正長4年(1432)に将軍家持没。次の義教の〝恐怖政治〟が始まる。義教は音阿弥びいきで、世阿弥の実の親子共演を嫌う。永享2年末、前途絶望で元能(次男)が出家。永享4年(1432)、元雅が巡業先で30歳没。その2年後に世阿弥74歳が罪状不明で佐渡へ配流。義教が「嘉吉の変」で暗殺される。子の義政は音阿弥の観世座を「将軍の猿学」とし、義政の禅文化趣味(=東山文化)における能の幽玄なる神秘性と奥深さを高評価。

 キーン氏はじめ外国人らが能を論じ解説するも、小生は恥かしながらが「能」を知らず。このお勉強で、少しは関心を持てたか。キーン著は最後に「義政の東山文化は。彼が山荘に移って没までの僅か7年間。だが彼の趣味は現在にも及んでいる。史上最悪の将軍は、すべての日本人へ永遠の遺産を遺した唯一最高の将軍だった」

 小生、よって千駄ヶ谷・国立能楽堂まで歩き訪ねた。写真下は入門編公演のチラシ。定例公演は予約開始同時に売り切れになる人気と窓口で説明された。(余談:国立競技場が完成に向かっていた。昨夜、桜田五輪相がまた失言で辞任。日本の現・為政者、危機状況なり

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応仁の乱(13)遊びにて波を描く [スケッチ・美術系]

ohnami2_1.jpg 前回、鈴木大拙の「日本人の芸術的才能の著しい特色の一つは、南宋の画家・馬遠に源を発した〝一角〟様式を採用して、日本画の〝減筆體〟伝統と結び付けた点である」を紹介した。そこで馬遠の絵「黄河逆流」を見たら、ちょっと固まってしまった。

 小生は、今まで北斎「神奈川沖浪裏」などに見る〝波の描き方〟は、いわゆる〝雪村浪〟(雪村周継)からと思っていたが、馬遠「黄河逆流」の波の描き方がモロそれで、その描き方は〝雪村浪〟以前からあったんだと認識させられた。

 馬遠の生没年は不詳も、南宋の宮廷画家らしく、それならば日本の鎌倉時代辺りの活躍だろう。足利義政時代の遣明船は「応仁の乱」前後に各2回ずつで、相当に大掛かりに中国書画の蒐集をしたらしい。また遣明船には雪舟も乗っていた。ゆえに当時の日本の画僧らが、馬遠の波の表現を知っていてもおかしくない。雪舟は中国で馬遠の絵を見たかもしれない。

 そう思って雪舟の絵を見れば、やはり「鎮田爆図」に同じような波あり。狩野正信の子・元信「四季花鳥図」の滝の波もそうだった。ならば室町時代後期~戦国時代の主に東国で活躍の画僧・雪村周継「波濤図」などの波の描き方はオリジナルではなく、馬遠から影響されたと容易に推測される。

 それが江戸初期の俵屋宗達「雲竜図屏風」、江戸中期の尾形光琳「波濤図屏風」、江戸後期の酒井抱一「波図屏風」、そして北斎の波へ引き継がれ~、と各人の〝波の表現〟例を挙げて系譜的に説明しても面白そうだが、素人が出しゃばることではなかろう。

 そこで昨年秋に、水彩で伊豆大島の大岩に打ち砕け散る大波を描いたが、その絵の上からボールペンで彼らが描いた波表現をややオーバーに描き足して遊んでみた。さて、これに「北斎ブルー」で着色してみましょうか~。

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応仁の乱(12)雪舟と水墨画 [日本史系]

sessyu1.jpg 東山文化の絵画について。キーン著には「足利将軍らは、文化面では公家階級に劣るも、こと中国の書画骨董は公家階級より精通し、より熱心だった」と記していた。

 義政及び前将軍らが蒐集した中国美術は大規模。義教・義政時代の将軍家所有の美術品管理役を務めたのは能阿弥、芸阿弥、千阿弥、調阿弥。能阿弥が編纂した『御物御画目録』には山水画74幅、花鳥画91幅、道釈人物画114幅で計279幅が記録。宋・元の名手30名らの名作中心で、二流作は売却とか。

 義政の鑑識眼も当代随一。これら絵は主に「応仁の乱」前の宝徳3年(1451)と寛正5年(1464)。「応仁の乱」後の文明8年(1476)と文明15年(1488)の遣明船で入手。寛正5年の船には朱子学者・桂庵玄樹、画僧・雪舟も乗っていた。

 水墨画は老子「五色は人の目をして盲ならしむ」(本来は贅沢に慣れる、様々な誘惑に乱される)、同時に墨一色で描かれた絵にすべての色彩が含まれる、という考えが反映。日本の絵師らも、そんな中国名画の模倣から次第に自分の水墨画を築いていった。

daruma.jpg_1.jpg 日本最初の水墨画は、主に画僧による宗教色濃い作品が主。代表的画僧は如拙(狩野派の源)。如拙弟子で将軍家の御用画家が天章周文。そして東山時代の最も有名な画僧は雪舟。雪舟は相国寺で禅修業と同時に周文に絵を習い、48歳で渡明。2年後に帰国だが戦乱の京都を避けて周防の大内氏、豊後の大友氏の2大名の庇護を受けて独自世界を構築した。

 義政は雪舟に東山山荘に絵を描くよう依頼も、彼は自分に代わって狩野正信(既にお抱え絵師になっていたのを知らず)を推薦。また同時代では一休禅師の肖像を描いた弟子の墨斎。義政の肖像を描いた土佐光信。蔭涼軒や高倉御所の絵を描いた御用絵師・小栗宗湛らがいた。

 ここでまた鈴木大拙に登場願おう。大拙は日本人の芸術的才能の著しい特色の一つは、南宋の画家・馬遠に源を発した「一角」様式の採用。これと日本画の「減筆體」と云う少ない描線、筆触で物の形を表わす伝統と結びつけたこと。それが禅の精神にも一致で「わび・さび」に通じた。

 その説明で前回紹介の藤原家隆「花をのみ待つらん人に~」の歌に加えて、藤原定家「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮」も挙げて、華美なものを超越した枯淡・幽寂の美を説明。即ち「一則多、多則一」(華厳経)、「空即是色、色即是空」(般若経)だと説明。

 カットは「新古画粋・第1編(雪舟)」(大正8年刊。国会図書館デジタルコレクションより)で、上は雪舟肖像画、下は77歳筆の「彗可断臂図」(えかだんぴず)。

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一瞬の先も読めぬぞ朝ぼらけ [東京スカイツリー]

45asahi3_1.jpg 今朝(4月5日)、東向きの窓が橙色に染まってい、飛び起きた。ベランダに出ると、朝陽がスカイツリー先端に昇っていた。朝陽は数分後に眩しい白へ変わって「アサッ~」となる。「暁から曙、朝明け」の束の間の光景。

 小生、東京スカイツリー建設中から、この橙色の朝陽とスカイツリーがクロスする写真を撮って来た。それは4月上旬と9月上旬の2回巡って来る。晴れの日も、曇天・雨天の日もある。

 それら写真に駄句も添えてきた。「ツバメ来てツリーとサンの逢瀬かな」(ちょうどツバメ初認時期です)。「華燭の日天聳(そそ)る塔に陽昇り」(誰の結婚式だったか)。太陽ではなく満月がツリー天辺の位置に重なる時もある。2013年2月25日で「春の月ツリーに刺して団子かな」。小生のパソコン・デスクトップ壁紙も橙色の空・朝陽・スカイツリーの写真です。

 さて、今朝の駄句、いやこりゃ~川柳だな。「一瞬の先読めぬ世ぞ朝ぼらけ」。テレビ、新聞、インターネット、書も断ちて、しばし悠久の朝のドラマにこころ洗われます。

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応仁の乱(11)茶の湯の「さび・さび」 [日本史系]

rikyu2_1.jpg キーン著の続き。「茶湯」なる語は奈良興福寺の経覚の日乗『経覚私要抄』(文明元年・1469)に初登場。茶道創出の功績は、義政の同朋衆・能阿弥によるところ大。能阿弥は中国絵画鑑定・絵師だが連歌、書、香も名手。

 千利休の高弟による『山上宗二記』に、能阿弥が義政に茶の湯への興味を抱かせとあるとか。~能阿弥は30年余も茶の湯に打込んできた奈良称名寺の村田珠光(じゅこう)について義政に話し、己が珠光から学んだ茶の湯の秘伝、茶道具知識を言上。よって義政は珠光を茶の師匠にした。一説には、この話は山本宗二が珠光流宣伝の創作で、実際は義政の茶の師匠は能阿弥で、彼こそが茶道の創設者に匹敵する~の指摘もあるとか。

 キーン著はまた、珠光が弟子で連歌師の古市澄胤(ちゅいん)に宛てた茶の湯心得の書簡に「和漢の境地を融合させる」「連歌の枯れ衰えて、冷えびえしているのがよい~は、茶の湯の行き着くところもそうあるべき」。茶の湯の日本的はものの説明に「冷えた・枯れた・痩せた」なる連歌評の語彙を使っていること。また「心の師とはなるがよい。しかし、心を師にはするな」(心を導こうと務めるのはよいが、心に従ってのみ進むのはよくない)などとしたためてあったと説明。小生、「心の師とは~」に思わず「反・陽明学じゃないか」と膝を打った。

 キーン著は、ゆえに「連歌と茶の湯は並行して発展してきた」と指摘。その類似性を①共に仲間の参加を必要とする。②殺伐とした世にあって、人間の密接な交わりの温かさ満ちる場。③どちらにも規則が多い。④直接・間接的に他芸術に影響を与えてきた(建築、陶芸など)。⑤後世に末永く続いて日本人のこころになった(連歌は姿を消したが、その第一句が俳句になった)。鈴木大拙は「南方録」に茶の目的は小規模ならが此世に清浄無垢の仏土を実現し。一時的の集り、少数の人ながら。茲に理想社会を作ることだという一説があると紹介している。

 キーン著の最終章は「晩年の義政」。彼は生涯を通じて禅仏教へ深い信仰を持った。少年期からの禅僧との交わり。禅の深淵探求はせずも、禅によって形に現れた建築、庭園、生け花、茶の湯を愛し、禅寺を庇護(禅宗は足利将軍家の宗旨)、そして自らも禅僧として出家した。

 一方、義政は20代前半から最期まで観音信仰を捨てず。阿弥陀仏に特別な敬意を払っていた。この乱世での自力は難しく、阿弥陀仏の慈悲(他力)にすがる他はなかったと指摘。法然、親鸞、一遍から義政の時代は蓮如で「念仏は救いを求めるのではなく、阿弥陀の慈悲への感謝」という教えの「浄土真宗」普及で本山本願寺を再興した。義政の浄土信仰は法然の流れを汲む宮廷階級趣味にも合った宗教儀式を行い、また蓮如の濁世にあって「諸法、諸宗全く誹謗すべからざること」の幅広い心を持ったと解説。

 カットの千利休像(国会図書館デジタルコレクション「肖像」明治24年刊より)には、藤原家隆の「花を見て(花をのみ)待らん人に(待つらむ人に)山里の雪間の草の春を見せばや」が書かれている。鈴木大拙は「見る人ならば、荒涼たる堆雪の下に春の芽ざしをも容易に認めよう」の意で、そこに茶の湯の「さび・さび」があると解説していた。

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応仁の乱(10)立花と茶の湯の誕生 [日本史系]

sendansyo2_1.jpg 義政の建物、庭の次は「立花」について。キーン著を要約。書院造りには、絵を飾る壁の空間基部の役目、かつ美術品設置の〝押板〟が設けられた。横幅が長いのは、三幅対の掛物(本来は仏画ゆえ本尊、左右に來持菩薩の脇絵)を横に並べるため。その前方に花瓶の花、香炉、燭台(カット参照)。この形が、後に美術品を飾る枠組みとして垂直の柱を設けた「床の間」になる。

 花瓶は昔から神仏に花を供えるためにあったが、義政の時代に花瓶の花の供え方が芸術一形式になって行く。当初は絵との調和を考慮しての立花(りっか)。文明8年(1476)に義政が参内の際に、立阿弥に牡丹を〝立てる〟よう命じた。その技術と風情が気に入った義政が、以後も彼に「立花」を命じ、立阿弥が〝華道家〟として名声を得た。

 その立花様式は、それより約10年前の寛正3年(1462)に池坊専慶が創案。専慶は七本の枝を仏教的解釈で説明。遊びの「連歌」が規範を得たと同じように、専慶もまた「立花」に規範を与えて気品と重要性を得た。キーン著の記述は概ねそこまで~。

sendensyo3_1.jpg ここは小生を「応仁の乱」へ誘ってくれた澤田ふじ子『花僧~池坊専応の生涯』(専慶は流祖、専応は理論確立)を読みたい。ちなみに現・池坊専永の妻が、先日の「貴乃花騒動」で話題の池坊保子。イヤだねぇ~。そのイメージ払拭にも是非読んでおきたい。また小生は鈴木大拙著『禅と日本文化』の「わび・さび」の説明が「華道」にも通じると納得させられた。

 次は「茶の湯」について。キーン著は、義政の保護育成と知られ、日本的なものとして最も発達普及したのが「茶の湯」と紹介。そこから茶の歴史が説明されるが、ここは鈴木大拙著を参考にする。

 茶の種を中国から持ち帰って、禅院の庭で栽培したのが栄西法師。茶に関する書『喫茶養成記』を、病身中の将軍源実朝に献上。茶の湯の作法を考えたのが半世紀後の大應国師。その後に大徳寺の一休和尚が、弟子の珠光に教え、彼が茶道として確立して創始者になった。珠光が義政に教え、後に紹鷗から千利休へ。利休が今日の茶の湯を確立した。

 キーン著に戻る。義政当初の時代は、派手で珍奇な「婆沙羅」趣味で、贅沢な茶会が行われていたが、次第に飾り気のない小さな部屋で、主人と数人の友人が茶を飲みつつ静かに語り合う形に変化。その場が上記説明の押板のある書院造りの部屋=茶室になった。そこで一種威厳のある振舞で茶を飲み、侘茶の茶礼が始まり、次第に様式化されて行った。技巧を隠した技巧の美。主人と客の対応も、敬意と親密さの両方を伝えるための型が生まれた。

 小生、子供時分に母の「古流」(華道)と「江戸千家」(茶道)の暮しがあった。その関連記述を改めて読むのも妙な感がするも、ここから核心に入るのでいったん区切る。写真のカットは『仙伝沙』(室町時代の立花3伝書をまとめた江戸初期刊の書。国会図書館デジタルコレクション)より。

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