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「私流雲図鑑」はじめに [雲のお勉強帖]

kumobook3_1.jpg 先日のスケッチで「雲」が上手く描けなかった。アニメが雲をとて上手に描いている。そこで映画館で初アニメ映画『天気の子』を観た。同アニメの〝雲監修〟をした荒木健太郎氏の著『雲を愛する技術』を買った。散歩中に古本屋で伊藤洋三著『雲の表情』(1974年刊)も入手。

 以上から雲は大別して「上層雲・中層雲・下層雲」で、雲形10種と知った。世界気象機関発行『国際雲図帳』で定義されているとか。<下層雲=層積雲(うね雲・曇り雲)層雲(霧雲)、積雲(わた雲、入道雲)、積乱雲(雷雲)>。<中層雲=高積雲(ひつじ雲・叢雲・まだら雲)。高層雲(朧雲)。乱層雲(雨雲・雪雲)>。<上層雲=巻雲(筋雲、羽根雲、しらす雲)。巻積雲(うろこ雲、いわし雲、さば雲)。巻層雲(うす雲)>。雲は「3層×雲形10種」。雲の把握は簡単と思ったが、そうは問屋が卸さなかった。

 「雲形」にはさらに毛状・鉤状・濃密・塔状・房状・層状・霧状・レンズ状・断片・扁平・並・雄大・ロール状・無毛・多毛の15種があるそうな。さらに「変種」として肋骨・もつれ・波状・放射状・蜂の巣状・二重・半透明・不透明・隙間の9種類。凡そ全100パターンほどあるとわかった。

 雲は予想に反して複雑な世界だった。加えて雲は刻々と変化する。複合もする。その多彩複雑な雲の文字表現、そして写真の曖昧さ。ここはボケ防止を兼ねて「私流図鑑」をもって、なんとか雲を理解してみようと思った。

 入手済2冊に加えて、新宿図書館で次の6冊を借りた。『「雲」のコレクターズ・ガイド』『「雲」の楽しみ方』(英国で2006年ベストセラー。両著共にギャヴィン・プレイター=ピニー)、『雲のかたち~立体的観察図鑑』(村井昭夫)、『雲百景』(村井昭夫・鵜山義晃)、『雲のすべてがわかる本』(武田康男)、『雲のコレクション』(古川武彦・岩槻秀明)。

 小生初の雲スケッチが「入道雲」ゆえ「下層雲」からお勉強を開始した。多くの雲本が「上層雲」からの説明だったが、ギャヴィン著だけが「下層雲」からの説明で気に入った。さて思い通りの「ブロク版・私流雲図鑑」ができますでしょうか。

 追記★ss-blogになって自分のブログにログインできないこと1ヵ月余。こりゃダメだぁと諦めて、エキサイトブログ「隠居お勉強帖」を開設して「雲お勉強帖」を最初からやり直した。

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『定家明月記私抄』(小生抄5)「新古今集」の切継 [鶉衣・方丈記他]

gotobain_1.jpg 元久2年(1205)、定家44歳。『新古今集』撰4年目。7月から和歌所で撰歌部類始め・切継(取捨)が、院の「毎日参スベシ」で開始。翌3月末、清書未完成ながら焦れた後鳥羽院が倉卒(そうそつ、突然)に『新古今集・竟宴(きょうえん、編纂が終わった祝宴)」を盛大に開催。定家は頑として出席せず。

 案の定、「切継」は11年余も続く。『新古今集』撰進命から15年後の健保4年(1216)に完。(その後も後鳥羽院は隠岐流刑地で『隠岐本古今集』を自撰)。著者は「ここまで突き詰められた抽象美形成の詞華集は、世界文学のなかでも唯一無二」と評す。

 一方、定家の生活面では、5月に南隣の家へ強盗。東隣では犬の喧嘩から刃傷沙汰。京都守護の誅殺事件。物騒な世情。翌・建永元年(1206)、和歌所筆頭の九条良経が38歳で急死。定家は自分が「歌学の家」を確立と決意。だがそれも後鳥羽院次第。

 後鳥羽院は遊戯三昧も、『新古今集』の約2千首を暗記しているほどで、歌会も主催。だが世は歌会に並行して「連歌の会」が活発化。和歌が頂点に達して袋小路に入って、和歌所の伝統主義を笑い飛ばす一種の文学革命の萌芽。歌が庶民へ下降志向したと記す。

 これは後白河天皇が浮浪芸人(傀儡、白拍子、遊女ら)を手許に招き入れて〝今様〟を愉しんだ『梁塵秘抄』撰者になったことから端を発す。本歌取りで想像力が衰えた真空地帯に「小唄・雑歌・俳諧・狂歌など」の生命力が浸食。文学発生源が宮廷から去り始めた。その意では「定家より鴨長命」へ。『新古今和歌集』が文字通り〝夢の浮端〟になって行ったと分析する。

 また著者は『明月記』を読んでいると、登場人物の外側で凄まじい勢いで時代が変わっているのも感じるとも記す。親幕派・九条家vs上皇派・近衛家、貴族vs下層の突き上げ、仏教台頭。厳しい弾圧で法然は土佐、行空は佐渡、幸西は阿波、親鸞は越後へ流刑。

 かく時代は変われど、定家は天皇のご機嫌をとらねば生きてはいけない。その後鳥羽院は『新古今集』切継に埒が明かず。また著者は『明月記』を読んでいると朝廷の礼式・典故、有職故実などの詳細記述に閉口すると記す。だが定家は、それら克明記録を持って次第に権威を発揮。承元2年(1208)47歳で左近衛権中将。だが若い貴族らに交じっての務めで、かれの性格はさらに狷介さを増した。

 後鳥羽院は貴族文化好きの3代将軍・源実朝との友好を深めるが、鎌倉実権は次第に母政子と北条義時に集中。後鳥羽院と鎌倉の摩擦が熱を帯びる。概ねここまでが定家48歳までの日記。以後、定家は後鳥羽院から勅勘を受ける。そして承久の乱、後鳥羽院の隠岐流刑へ。さて「続編」も読みましょうか。ひとまず終わりです。

 カットは後鳥羽院の小倉百人一首(国会図書館デジタル)。「人もを(愛)し人もうらめし あぢきなくよをおもふ故へに物おもふ身は」(人は人を愛し、恨めしく思うもの。思い通りにならぬ故に、つまらん世の中だと思うから、思い悩むのです)

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『定家明月記私抄』(小生抄4)高慢・偏屈な定家 [鶉衣・方丈記他]

tosinari_1.jpg 建仁元年(1201)40歳、秋に熊野御幸に同行。11月『新古今集』撰進の命。定家には〝新古今集風歌体〟を完成させた画期的な年。著者・堀田は当時の作「白砂の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」を挙げて、これぞ感覚浮遊の極点と評す。浮遊ながら金属的冷たさをも併せ持ち、今にも気化蒸発するかの洗練された完成度。フランス象徴派も遥かに及ばないと記す。

 だが著者は、定家に倦怠感ありと指摘。その理由は「古歌の本歌取りが、ある水準に達せば〝自動運動化〟するのも歌の達人の域。やむを得ないだろう」と分析。そうなれば逆に現実も見えてくる。自身の困窮と官位昇進の不満。その不平が通じたか、建仁2年に念願の左近衛中将へ。息子3人も叙爵。冷泉に新邸も建った。

 著者は翌・建仁3年の花見の逸話を紹介する。定家日記に「南殿(紫宸殿)ノ簀子ニ座シテ和歌一首ヲ講ズ。狂女等、謬歌ヲ擲(な)ゲ入ル~」。しかし家長日記を現代文で紹介すれば「気品ありげな女房たちも花見をしていて、われわれが和歌所の連中と認めて、あっちこっちから歌などを持ってきた」。定家は専門歌人ではない女房らを〝狂女〟とし、その歌を謬歌(びゅうか、下手な歌)を擲(な)入る」で、定家の人格が伺えると記していた。

 また上機嫌での車の帰路、仲間(鴨長明を含めて)らが篳篥(ひちりき)や横笛を吹くなど学の音を高らかに興じるも、定家だけが「フン、歌は遊びじゃねぇ」とばかりの堪え難き顔をしていたのではないかと想像し、ゆえに後に後鳥羽院が彼を「左右なき物(頑固者)」と記すことになる。

 同年末、後鳥羽院が父・俊成90歳の賀宴を和歌所で開催。同年は京で二条殿、京極殿などが放火され、貴族らへの殺人強盗も多発。そんな中での筆端に尽くし難き賀宴は「現実放棄の文学の祝祭」で、一つの文化文明がデカダンスに陥った所以だろうと分析。

 元久元年〈1204)43歳。クソ真面目な定家ならぬ日記記述があると著者は笑う。後鳥羽院が得王(院の男色相手)が自分の女房を犯したゆえに追放~の記述。それにしても後鳥羽院には何人の女がいたか。皇后1、后2、夫人3、嬪(天皇の寝所に持する女官)4、女御(中宮の次の位)、更衣(女後の次の位)、遊女、舞女、白拍子~と数え切れぬほどいて、さらに男色もあり。天皇の性行為は皇嗣を得る公事行為も、男色は趣味風俗だろうと面白がって記している。

 また「承久記」には、後鳥羽院の「いやしき身に御肩を並べ、御膝を組ましまして~」の卑猥な様が記されているとか。当時の貴族らの性は「平家没落で、それまでの文化基盤の一つだった女性の〝財産相続権〟が空洞化し、女が男を待つ恋愛や性が崩壊されてきた」ゆえと説明。

 7月、前将軍頼家が23歳で惨殺される。幕府体制も不安定で、政子と北条氏が奮闘中。11月、定家父・俊成91歳で没。定家の日記は漢文だが、父の「雪が食べたい」を叶え、父の悦ぶ言葉が和文(漢字仮名交じり文)になっていて、漢文の限界だろうと注目。

 カットは『小倉百人一首』(国会図書館デジタルより)の俊成の歌「世中よ道こそなけれ思日(ひ)入(る)山乃屋にも鹿そ鳴(く)那(な)る」。俊成が佐藤義清(西行)が出家したと聞いて詠んだ歌。世の中には逃れる道がない。山奥に逃げても鹿が悲し気に鳴いているよ。そう詠んだがドッコイ。堀田は西行は政僧・黒幕的人物と評していた。

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『定家明月記私抄』(小生抄3)後鳥羽院の歌人へ [鶉衣・方丈記他]

sadaie_1.jpg 文治2年、25歳。西行69歳の勧めで『二見浦百首』を詠む。著者・堀田は西行を「遁世後も後鳥羽法皇、崇徳天皇、入道信西、平清盛、源頼朝、藤原秀衡など権力中枢との交渉盛ん。出家というも政僧・黒幕・フィクサー部分濃厚人物」と記す。

 建久元年(1190)、定家29歳。従四位下。西行没。建久3年、31歳。後白河院没。鎌倉幕府開府。安徳天皇が退位せぬ間、三神器の宝剣なしで後鳥羽天皇が即位。

 建久4年、母「親忠女」没。定家は母39歳の子。母は元・藤原為隆の妻。後の画家・隆信を生んだ翌年に夫が出家。定家父の俊成は為隆の姉妹「為忠女」を妻に4人の子がいたも「親忠女」を迎えた。「為忠女」の前にも「顕良女」がいて妻妾同居。子は27名ほど。「群婚的多妻多夫」風習の名残りとか。

 父の和歌の師は、為隆・為忠女の父・為忠。そして定家は22歳で、父の歌の弟子の娘15歳と結婚。子を3人生んだ後に離別。その33歳の時に西園寺実宗女と結婚。西園寺家系になって「先妻哀れ」と著者。定家はその後、父の同じく27人を設ける。彼もまた妻妾多数か。常々病弱と言いつつ「まったく、よくやるよ」と著者は笑う。

 建久7年、35歳。父の家を離れて九条兼実(定家より13歳年長。摂生・関白。実弟は慈円。子女は内大臣良経、のち摂生の良経、のち後鳥羽天皇・中宮の任子)近くに家を構える。前途ありと思えるも、11月に兼実が関白罷免で九条家衰退。定家、生活苦続く。

 建久9年、37歳、仁和寺宮より「定家親子に50首和歌」詠進を求められて奮闘。著者はこの時の歌で『新古今集』に入る「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空」は『古今和歌集』の「風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君か心か」の本歌取りで、〝夢の浮橋〟は『源氏物語』最終帖題名と解説。同年、後鳥羽天皇は4歳の子を土御門天皇として院政へ。著者は「院政=責任回避体制」と解説。

 正治元年(1199)、38歳。源頼朝没。定家は禁色を聴(ゆる)された(位ある色織物が許された)姉妹らに何かと助けられる生活。荘園(播磨の吉富、越部。伊勢の小阿射賀。そして兼実より賜わった銚子の三崎)からの収入も、各地頭が力を持ち始めてままならず。

 正治2年、39歳。7月に妻の弟・西園寺公経からの手紙で、後鳥羽院が百首を募っている計画が伝えられる。父に賄賂の贈り方を教わりつつ大奮闘。この百首によって、定家は九条家歌人から、後鳥羽院直属の歌人・藤原定家となる。

 翌・建仁元年(1201)、40歳。後鳥羽院は相変わらず破廉恥遊戯も、和歌に熱中で「和歌所」設置を命じる。寄人11名。後に鴨長明らも加わって計14名。著者は蹴鞠・管弦・連句・賭弓・双六ら諸芸能の一つとしての和歌。その和歌所は「精神の遊戯空間」と分析。

 写真は国会図書館デジタルC『小倉百人一首』より定家の歌「来怒(ぬ)人をまつ不の浦の遊(ゆ)ふな紀(き)尓(に)屋(や)くもし保(ほ)の身も古(こ)が禮(れ)つゝ」

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島ロッジの煙突落下、三度! [週末大島暮し]

entoturakka_1.jpg 老体+島の車なし。島へ渡る機会が減少中。台風15号で伊豆大島に甚大被害。小生ボロロッジも、冬の西風をくらうと家がグラッと揺れる。離れた地ゆえに心配は絶えぬ。

 台風情報で気になるのが風向きです。「台風の眼」中心に風は時計逆回りの渦になる。台風が島の南に位置する時は南~東風。台風が島を抜けて東京湾に向かうと、今度は西風が島を襲う。

 詳細不明・不確かだが、今回は最初に島の北の海っぺりに被害。台風が通過後に南部・波浮近くの西側に大被害。そんな情報が少しだけ耳に入ってロッジ心配も、島は目下大変だろうゆえ、お隣に「お伺いメール」を控えていた。

 9月9日、近所の民宿ブログが、周辺被害写真をアップされていた。小雑木倒壊程度。翌日は長閑な野田浜風景。そして12日に野田浜から元町までの海沿い道「サンセットパームビーチ」沿いの被害を写真レポートして下さった。「和泉浜」の松の大木2本が折れて、道路際のトイレ舎を直撃。「浜の湯」のある長根浜公園の倒木写真など。

 翌13日、お隣さんから待望のメール。小生ロッジ被害はテレビアンテナと煙突落下。煙突から雨水が入らぬようにビニール布で応急処置をして下さった写真が添付。感謝深謝。小さな被害でホッ。煙突落下3度目です。

 友人が翌14日、自身のロッジ+小生ロッジを見に島へ行く。彼は10月頭の3日間に小生ロッジ使用予定とか。以前より「壁と煙突の隙間を埋める」と言っていたゆえに、落下煙突も取り付けてくれるかも~。

 大きな被害に遭われた方々に、心からお見舞い申し上げます。テレビが高校生らの熱心なボランティア活動を映していた。感動した。

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『定家明月記私抄』(小生抄2)天災・飢餓の明月 [鶉衣・方丈記他]

meigetuhisseki.jpg_1.jpg 治承4年(1180、福原遷都)定家19歳より『明月記』を書き出す。最初の2年は記事疎ら。70歳前後に書き直した部分あり。著者は、当時の日記は「儀礼事典」記録的要素ありで、手を加えたのだろうと推測。

 「2月14日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ開ク。(夜遅く寝所に入るも眠れず、再び梅を見る間に)忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方ト云々。太(はなは)ダ近シ。須臾(一瞬)ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク」 あっさりした記述だが、同火事で俊成一家も焼け出された。

 そして「9月15日。夜ニ入リ、明月蒼然。故郷寂トシテ馬車ノ声ヲ聞カズ」 故郷(福原遷都後の京都)が寂しいと記している。火災や遷都なる大事件にも無関心を装い、それより〝明月の美〟を記す定家。これすなわち二流貴族の定家を含めた朝廷官僚の態度。彼らの歴史認識欠如の表れ。これに比す鴨長明『方丈記』の正確な観察報告的記述を紹介する。

 定家の同日夜の記述「天中光ル物アリ。其ノ勢、鞠ノ程カ。其ノ色燃火ノ如シ~」(流星群でもあったか)に、著者は「B29焼夷弾爆弾」を想い、若き定家と同じく乱世(時代が一挙に落ちて行く)に生きることの共感を抱くとも記している。

 治承5年(養和元年)1月。20歳の定家は「三条前斎院ニ参ズ」。つまり後白河天皇の三女で、高倉上皇の姉。推定30歳の女流歌人・式子(のりこ)内親王に参じると記している。この二人の関係が、後に能謡曲『定家』(定家の蔦が内親王の墓に絡みつく。身動きとれぬ苦しみと、抱き絡められる官能の悦びを歌う)になる。

 同4月、養和大飢饉。その最中に定家『初学百首』を発表。その中の一首「天の原おもへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ」。京には死臭が満ちていたはずだが、彼が詠うのは相変わらずの月。著者は「これはもう現実放棄でも芸術至上主義でもなく、芸術至上そのもの。その〝冷と静〟は一級品の格を有した高踏歌。悲惨のなかで、彼の歌どもだけが錐のように突き立っているように見える」と書いている。

 文治元年(1185)、定家24歳。壇の浦の合戦、平家滅亡。殿上で何があったか、定家は少将源雅行(6歳下も位は上)を殴打して除籍。翌春に除籍を解かれるも、彼が我慢のできぬ性格を伺わせると記す。また同年春に藤原(九条)兼実が摂政へ。それについては、すでに記した。天皇に娘を嫁がせ、天皇外戚となって要職を独占の政治。

 著者は土御門(つちみかど)天皇11歳に、藤原頼実の娘・21歳麗子を嫁がせ、順徳天皇13歳に良経の娘18歳の立子を、小生調べで後鳥羽天皇の元服10歳に、藤原兼実の子・任子23歳が女御~中宮など、天皇の子を産み競べ合戦の呈を紹介。幼い天皇が、かくも性交に励むことができようかの疑問に「それは概ね乳母が性教育、よって乳母が天皇の子を産む例もままあり」と説明。そして定家の父・俊成の妻子、定家の妻子についても言及する。 写真は国会図書館デジタルコレクション「藤原定家卿書跡集」より。まさに晦渋なる漢文。

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堀田善衛『定家明月記私抄』を読む前に(1) [鶉衣・方丈記他]

meigetuki1_1.jpg 藤原定家については、7月のブログ「日本語」で山口誠司著『てんてん』、小池清治著『日本語はいかにつくられたか?』の第三章<日本語の「仮名遣い」の創始・藤原定家>を参考に紹介したばかり。

 改めて定家経歴概要。和歌の家・御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』撰を命じられ定家も参加。その後『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』なども撰。『方丈記』の鴨長明(7歳年長)とほぼ同世代。つまり戦乱・大火・地震・大飢餓・遷都・源平合戦などの激動期を生きたが「吾関せず」で和歌、文献書写に専念。生涯書写は仏典19種、記録類9種、『源氏物語』など物語や日記5種、歌関係30種。56年に及ぶ日記『明月記』を残し、歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与した。

 59歳で後鳥羽院の逆鱗に触れて閉門。宮廷保護なしも膨大書写資料をもって御子左家を興す。『定家仮名遣』を考案。「を・お」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の遣い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 当時は娘を天皇に嫁がせて天皇外戚で要職独占の「摂関政治」。清和天皇の子を産んだ女性25名。嵯峨天皇の子を産んだ女性25名で子が50名。後白河法皇は有名な春画絵巻『小柴垣草子』を作り、後鳥羽院の女性は数知れず。そんな時代に、定家はどう生きたか。

 上記を踏まえ、堀田善衛『定家明月記私抄』を読む。著者はまず青年期に同窓生らの戦死報が耳に満ちて覚悟が迫られる状況下で、『明月記』の「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」(関東武士による源氏追討の風聞が耳にうるさい程だが吾関せず)に愕然とする。

 召集されて死ぬ前にと古書屋を脅すように同3巻を入手。だが晦渋な漢文に四苦八苦。結局は今川文雄著『訓読明月記』(昭和54年刊、全6巻)はじめの研究書を頼りに、定家19~48歳までの日記を、昭和61年〈1986)53歳で刊。

 著者は定家35歳の <雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる> を微細に異なる白色の組み合わせ。音もなく始めも終わりもない音楽。静的な絵画美。動くともなく動き、宙に静止でもなく浮くでもない有明が全的に表出される希有な美が創造されていると記す。

 これほど高踏な域に達した文化は西洋にない。だが、それがどうだと言えば、そこに意味も思想も皆無で虚無が残る。それが何なのかを探って行きたいと記して、二流貴族の職業歌人の日記を読み始める。さて何回シリーズの小生抄になるか。

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マルイ本店屋上VS伊勢丹屋上 [雲のお勉強帖]

isetan1_1.jpg 過日、自宅7Fから東の空に「入道雲(雄大積雲)」が見えた。自宅前右側に14階建てビルあり。その陰の右奥に、上昇気流でさらに発達した「大積乱雲」がありそうだった。書を閉じ、家を出た。まず同建物の向こう「箱根山頂上」へ。

 期待を裏切られた。周囲の木々繁茂で、見えるのは頭上の空だけ。山を下り、さらに東先の巨大病院建物の向こうへ。そこは昔、初めて東京スカイツリーの工事中の姿を遠望した地点。ほどほどの雲は撮れたが、さらに右側の「大積乱雲」は見えなかった。

 以上から、改めて自分の雲観察地を定めておく必要を感じた。先日「マルイ本店・屋上庭園」で雲を観た。反対側の伊勢丹屋上も確認したい。今は暑いが、秋になったらデパ地下のお弁当を食べつつ「雲観察」が出来るかもしれない。

oioiteien_1.jpg 両屋上を比較した結果、狭いも庭が美しく開放感もあり、雲が撮り易いのは「マルイ本店・屋上庭園」と判定した。台風15号が北上中で、共に元気な積雲~入道雲が沸き上がる空が見えた。

 東京在住では、空が見えぬ環境にお住いの方も多かろう。我家からは東の空が見えるだけでも幸い(息子の家は西の空が見えるのみ)。これが「大島ロッジ」ならば、空を見上げてグルッと廻れば全方位の空が見える。

 「雲観察」は新たな愉しみだが「悪い・良い」両方あり。悪い点は、少しでも〝良さげな雲〟があれば読書中断。落ち着きがなくなること。良い点は、運動不足解消に歌舞伎町辺り一周ウォーキングが日常も「マルイ屋上庭園で雲観察」という新目的が生まれたこと。

 写真上が「新宿伊勢丹の屋上」。写真下が「マルイ本店屋上」。共に元気に発達途上の「積雲」があった。

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新カテゴリー「雲のお勉強帖」 [雲のお勉強帖]

kumoai_1.jpg 新宿紀伊国屋書店で堀田善衛『定家明月記私抄』を購うべく歩き向かった。空を見上げると〝ちょっといい感じの雲〟あり。「スマホで撮りましょ」。だが雲は、ビルの狭間から見える一部だけ。

 「そうだ、紀伊国屋へ行く前に、マルイ本店・屋上庭園へ行ってみよう」。そこは狭いも美しい英国庭園風で、天空が広がっていた。雲は動き続けていて、先ほどの〝いい感じの雲〟はすでに形を変えていたが、各方位の雲写真を撮った。

 自宅に戻って、先日購入の荒木健太郎著『雲を愛する技術』(光文社新書)をひもときつつ、撮った雲についてお勉強をしましょ。著者はアニメ映画『天気の子』の気象監修をした「雲研究者」(気象庁気象研究所研究官)。 

 同書では雲についてやさしく説明も、そこは「雲科学・気象科学」。お爺さんかつ科学苦手の小生は、読んでいると少々頭が痛くなってくる。そうか、これは〝読了〟して終わりの本ではなく「雲の百科事典」なのだ。自宅窓際に、撮った写真を見るパソコン脇に置いて、その都度に頁をひもとく本と了解した。

 見上げれば空。雲が浮かんでいる。あの雲の名前は、どういう性格なのだろう~が気になる。実は同書を読み、ネット調べをしても、ハッキリとしない場合が多々ある。例えば「積雲~雄大積雲~積乱雲」。雲は刻々と発達し衰退しつつ変化している。「親雲」から「遺伝雲」、「変異雲」にも変化する。

 わからないことは、知りたくなる。雲の写真を撮る。メモ帳を作る。それを記録して雲の知識を積み重ねたい。かくして、ブログに新カテゴリー「雲のお勉強帖」を設けた次第。

 ブログのキャパシティーは限度に近い。新ブログを立ち上げようかと思ったが、そこまでするほどでもなく、昔のつまらん記事を一つ削除して、新たな雲の記事を一つ追加する形で始めてみましょう。まずは、最近の雲がらみ記事を新カテゴリーへ移動し、「雲のお勉強帖」コーナー開設のご挨拶。

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堀田善衛『方丈記私記』(~10章私抄) [鶉衣・方丈記他]

kamosan.jpg 次に著者は「歌人・長明」について記すが、そこは省略して一気に最終章まで私流抄録する。著者は、鴨長明を「世を捨て、かつ60歳になってもトゲの残る人だった」と書き出す。これほどまでに「ウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふてくされ、嫌味」を大ぴらに書いた人は他にはいないのではなかろうか。出家しようが、山中に籠ろうが、おそろしく生臭いのである。それが彼の「私」ならば「無常とはいったい何であろう」と問う。

 世を捨てたからこそ仏道を、朝廷一家の閉鎖文化を、その現実遮断文化を、本歌取りの伝統憧憬を、伝統志向による文化範疇をものともせずに完全に突き抜けた〝私〟が成立したことゆえだろうと答えを見出している。

 「夫三界は只心ひとつなり」。それらへの長大息(長嘆息=私の全人間)で「一身をやどすに不足なしの庵」の形をとっていることも面白い。さらに云えば『方丈記』は「住居を考えることから発した人間論でもあり、堂々たる宣言であった」と記す。

 鴨長明は生涯に二つの世界「貴族・乞食」を知っていた。「深間(境界)の浮雲の人」であると記して、著者は再び彼の人生を振り返る。大火、辻風、遷都、飢餓、大地震、疫病、兵乱。民衆の塗炭を知っている。

 同時に42,300余の飢餓死者の現実を反映しない『千載和歌集』『新古今和歌集』などの高度な美的世界、皇室中心の貴族の閉鎖社会を知った上で、「住まずして誰がさとらむ」の閑居のなかで、彼は初めて「歴史」が見えてきて書いたのが『方丈記』ではないかと記す。

 それに比して、現実の言葉まで拒否し、歌によって歌を作れという二重拒否で成立したのが定家らの伝統憧憬の「本歌取り」。それはまた1945年の終戦当時の空襲と飢餓に満ちた世にも皇室ナントヤラも「本歌取り」の思想と同じではなかったか。それが我々文化の根本に根付いて閉鎖文化集団の土壌にもなっているのではないか。かくして「日本」は深い業の歴史と伝統に根付いている。

 そして鴨長明のもう一つの対極に立つのが、すさまじい思想弾圧に耐えて、人々の心のひだに入って行ったのは親鸞、法然、日蓮ではなかろうか。長明が逝った日野山の麓で生まれたのが親鸞。「長明かくれて親鸞出づ」と結んでいた。

 また一人、関心を寄せたくなる作家と出会いました。氏が次に書くのは「親鸞」と思いきや、氏は『定家明月記私抄』を著わしているらしい。カットは国会図書館デジタル「肖像」より。世を捨ててもトゲの残るしたたかな風貌なり。

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堀田善衛『方丈記私記』(4~5章私抄) [鶉衣・方丈記他]

hojyokinosyo.jpg_1.jpg 著者は20代後半「東京大空襲~終戦」の間に、『方丈記』を読み続けたと述懐する。鴨長明が「福原遷都」を、養和飢餓を体験報告したのは自分と同じ20代後半。時代は大きく隔たるも、青年期に戦争末期を生きた堀田の胸に『方丈記』が、いかに迫ったかは容易に想像できる。

 政治や天災からの絶望、社会転換が強いられた日本人民の、精神的・内面的な処し方、歴史感覚や歴史観には、それらから共通したものが流れているのではないかと推測する。『方丈記』が記す仁和寺(にんなじ)法印が、飢餓死42,300人の額に「阿字」と書いて弔ったこと、大地震の記述~。「悲惨の膨大量」は変じて「末期認識」へ至ると記した後で、著者はとんでもないことに気が付く。

 藤原定家の父・俊成はそんな波乱・悲惨に「我関せず」を貫いて『千載和歌集』の撰を続けた。朝廷一家の〝政治〟とはいったい何だったのか。それは「政治であって政治ではなし」。日本政治家の「責任もへったくれもない精神」は、この頃から形成されていたのではないかと記している。

 かく時代に長明はどう処したか。著者はまず藤原定家「初学百首」より「天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月の光なりけり」を紹介。定家20歳の作ならば1182年。42,300名が餓死した養和大飢饉の最中の作。そんな世間に我関せずで、ただただ秋の月光の美しさにうっとりしている。

 著者の胸は張り避けんばかり。朝廷一家の政治が、いかに「政治責任、結果責任に無縁」だったか。だが、その一方で人間が持ち得る最高の詩歌世界『千載和歌集』、やや時代を下がって『新古今和歌集』誕生は、そうした政治の無責任ゆえか。それが天皇制で、著者青春期の悲惨な戦争遂行者へと延々とつながっているのはないか。天皇と為政者の姿勢は『方丈記』の時代と同じく相変わらずの「吾事二非ズ」。

 政治に関与できぬ身分の長明は、身を動かして京の巷を足を使って観察し続ける他にない。著者が鎌倉の将軍へ会いに行ったのは、よく言われる宮仕えを求めてではなく、福原遷都視察と同じように、身を動かして現場を見るジャーナリスト的な政治関心・好奇心ゆえだろうと推測する。

 その推測根拠に『吾妻鏡』(鎌倉6代の将軍記)に記された鴨長明の、源頼朝・法華堂の柱に残した「草モ木モ靡(なびき)シ秋ノ霜消テ空(むなし)キ苔ヲ払フ山嵐」(草木も靡いた頼朝の権勢は、秋の霜のように融けて、残った苔に風が吹いてゆくよ)を紹介する。長明はこの歌を詠んだ後に、方丈の庵に籠って「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず~」と書き始めて散文の世界に入って行ったと記す。

 ゆえに彼の「無常感の実体」も、彼の異常なまでの政治への、歴史への関心からきたものではなかろうか。なんとも眼からウロコの指摘です。挿絵は明暦4年の山岡元隣『方丈記之抄』(国会図書館デジタルコレクション)より。

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堀田善衛『方丈記私記』(1~3章私抄) [鶉衣・方丈記他]

hottahojuo_1.jpg 第1章。読み始めて、すぐに著者へ好感を持った。節度・優しさ・誠意、そして鋭い指摘。まず27歳「東京大空襲」惨状体験を、他人事のように感じていた自分がいたと述懐する。

 小生1歳の記憶。夏子ちゃんちの縁の下から見上げた空襲の空が「あぁ、きれい」と飛び出した(姉は「あんたは埼玉疎開中で、そんな事はない」と云うが~)。堀田はそんな体験を語って『方丈記』安元3年「京都大火」紹介に入る。

 ~煙にむせびてたふれふし(倒れ伏し)、或は炎にまぐれてたちまちに死ぬ。(略)資財をとり出るに及ばず、七珍万宝さながら灰燼となりにき。(略)此たび、公卿の家十六焼たり。まして、其外はかずしらず。すべて都のうち三分の一に及べりとぞ。男女死ぬるも数千人、馬牛の類ひ辺際をしらづ。(小生筆写の明暦4年の『方丈記之抄』より)

 これら記述には、鴨長明の「なんでも見てやろうという野次馬(弥次馬)根性による精確な観察(ルポルタージュ)と、社会部ジャーナリスト的な眼がある」と指摘。小生は永井荷風の「偏奇館」炎上などを記す姿勢にも共通したものを感じる。著者はその突き放した眼の裏側に〝思想の萌芽〟ありと嗅ぎつける。

 次に引用テキストは日本古典文学大系版(西尾實校注)だと説明し、岩波文庫版(山田孝雄校訂)との違いを指摘。岩波文庫版では火元が「病人をやどせるかりや」で、西尾校注では「舞人を宿せる仮屋」になっていると記す。(巻末対談で五木寛之は~京都には東寺デラックスなる有名ストリップ劇場がある~などと言っている)。ちなみに小生の岩波文庫版は市古貞次校注で「舞人~」。小生筆写の山岡元隣『方丈記之抄』は「病人~」。

 さらに3年後の「京都大旋風」の長明記述は〝諸行無常〟よりワクワクした期待感があると読む。それも「心より先に足が動き、足に聞け」のルポライター的好奇心。さらに岩波文庫版「資財かずをつくしてそらにあがり」だが、西尾校注は「空にあり」。そこにはユーモラスで奇妙な絵が浮かんでくると記す。

 その感覚は、自身の東京大空襲直後の富岡八幡宮の体験に似ていると説明。焼け跡をひっくり返していた人々が、小豆色の自動車から降りてきた天皇に、土下座をして「陛下、私たちの努力が足りずに~」と謝っている。な・なんだ!それは逆ではないか。この逆転現象がまるでデカダンスの怪奇絵のよう。「空にあり」の奇妙さに通じると記す。それでいて人々の言動も真底のものと思う自身の心もあって、とても困惑したとも記す。

 大火、大地震、飢餓、辻風、戦乱、遷都を突き放して観る長明の記述には「政治の責任・人々の優情」ありで「政治であって政治ではない厄介な日本の政治」が描かれている。それが日本人の思想の根源=骨がらみくい込まれている。そこをえぐり出す作業が必要だろうと指摘していた。

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