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古本漁り~雲お勉強から西行へ [暮らしの手帖]

kumosubete2_1.jpg 老化とのせめぎ合い頭脳編・肉体編に続き、今回は老いの日常編です。

 夏にクルージングと称した古本漁りをした。その際に求めた本の中から堀田善衛『方丈記私記』と荒木健太郎『雲を愛する技術』に嵌った。

 堀田善衛はそこから『定家明月記私抄』『同続篇』へ。さらに著者が同書合間に「ドガ」「モンテーニュ」も執筆と知って、読まずばなるまいと膨大両著へも挑戦した。

 荒木健太郎書から、結局は雲関係8冊集めての「私流雲図鑑」(下層雲・中層雲・上層雲のお勉強を経て、まとめの雲全絵図=写真上)までを「exblog」で完結した。

 そして秋。神田古本市では小生のアンテナが鈍かったか、各店を入念に巡るも1冊の購入もなし。その後の早大内古本市で、再度ドガに挑戦と英国女性作家著の『黒の画家ドガ』、村松友視著『由比正雪』(以前調べたことがあるので)、そして目崎徳衛『西行』を入手。ここで『西行さん』に嵌った。

 目崎著は従来諸説の分析のようで読み難く、ならばと図書館で嵐山光三郎『西行と清盛』、瀬戸内寂聴『白道』、三田誠広『阿修羅の西行』、久保田淳『山家集』を借りた。

saigyohon_1.jpg 嵐山小説は、途中から劇画のケンシロウみたいになったので読むのを止めた。三田書はフィクション色濃厚で読まず。結局は寂聴書と目崎書を交互に読みつつ、本棚から『新古今和歌集』を引っ張り出し、新たに『西行全歌集』を購った。

 雲のお勉強後なので、西行法師の雲の歌を選び(とは云え、西行さんは禁断の恋人=月ばかりを詠んでいるので、広義解釈で〝空〟の歌として)、自分で撮った空系写真を添え、西行法師の概歴まとめをこれも「exblog」で遊んでいる。

 そして昨日のこと。『西行全歌集』を購いに新宿へ行った際に「ピカデリー」で「i~新聞記者ドキュメント~」上映中を知ったので、小雨の中を同映画を観に行った。これは映画「新聞記者」を観て「内調=内閣情報調査室」調べ(ブログ8回続き)で遊ばせてもらった恩義があるので同映画も観ないと~と思った次第。以上、隠居の日常レポートでした。

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老化とのせめぎ合い(肉体編) [暮らしの手帖]

nozokizaka_1.jpg 前回の頭脳編に続き、今回は肉体編。子供時分から近眼で、すでに両眼共に白内障手術済。ケツから管挿入の大腸ポリープ除去三度。絵画展鑑賞後に足裏シビレで、国立病院診断は脊柱狭窄症。病院治療に埒が明かずで自主ストレッチなどで克服? 目下は月10万歩ウォーキング続行中。

 だが先日のこと。昔住んでいたマンション近く「のぞき坂」(写真)で幾度か足が止まった。「ひぃヒィ~」泣きつつ必死に昇った。日々歩いているのに、こんな坂に足が進まぬ!に大ショック。

 自転車乗りを止めて大腿筋が衰えたか。ヨレヨレ姿をマスコミに晒していた石原慎太郎氏が、先日のテレビで力強く素早いスクワットをしている姿が披露されていた。

 「老いたら鍛えずば衰える」。そう気付いた昨日、新宿紀伊国屋へ『西行全歌集』を求めて歩いたついでに、「マルイ本店屋上」まで階段で昇った。二度ほど休もうと思ったが、歯を食いしばって屋上へ。自宅7階までも階段で昇った。

 息切れ青い顔の小生に老妻が言った。「おまいさん、そこの〝東新宿駅〟の中をエスカレーター使わずに階段を昇り降りしたらいいよ」。海抜31.6mから最下ホームまで35.4m。同駅の副都心線~大江戸線を全階段で歩けば太ももがパンパンになった。復路の長い階段を駆け足で昇り切ったら「ロッキー」のスタローンみたいに両手を挙げてガッツポーズをとりたくなった。愛用した20㌅自転車を某に譲ったので、机下収納の14㌅自転車を引っ張り出し、大腿筋を鍛え直しましょうかとも考えています。

 東京五輪決定の際は「それまで生きているだろうか」と思ったが、まぁ、元気です。こんな爺さんのブログなど、若い方は見てはいけません。若いうちは仕事全開が良く、ブログなんぞは暇な老人のお・あ・そ・び。

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老化とのせめぎ合い(頭脳編) [暮らしの手帖]

 歳をとる=耄碌。ここ最近「ボケと身体の衰え」について考えることあり。先日、車免許更新で「認知機能検査」を受けた。主なテストは、4コマ絵入りシート4枚を見せられて、次に関係ないテスト。「さて先ほどの絵入りシートに何が描かれていたでしょうか」と来たもんだ。次に再びヒントが出されて、あの絵を思い出して下さい。他に幾つかのテストがあって85点。「記憶力・判断力に問題ありません」の通知書を下さった。これを持参して運転実習だが、それはまだ申し込んでいない。

 次にブログについて。「ss-blog」にドメイン変更で、自分のブログにログインできないこと1ヵ月余。こりゃ~ダメだと思って、検討の結果「エキサイトブログ」を選んで開設した。11年も親しんできた「so-net」で当たり前のように思っていた諸機能が、他社ブログでは様々に違っていた。

 老いた頭をフル回転させての新機能への挑戦。今までと大きく違ったブログ機能に「画像処理・リンク機能」あり。「so-net」では、まず写真サイズを小さくしてから投稿。画面上のサイズ変更は対角線のカーソル移動で自由自在だった。

 一方の「exblog」は写真フル容量で自動縮小。また小生は写真左、写真横に文字組が好きだが、この際の写真サイズ変更がえらく大変だった。「HTML編集」の英文中数字を、電卓を使って縦横同比率数字を計算して、打ち込み直さなければならない。計算苦手の小生が、ブログ投稿に電卓片手に相成候。これはきっとボケ防止に絶大効果ありだな。

 次に大きな違いのもう一つ。「exblogのリッチリング」機能が凄かった。他社ブログでも「リンクしたい記事」があれば~、ちなみにこのブログの「吉阪隆正と大島」記事をリンクしてみれば、頁一杯の横枠内に同記事の写真・タイトル・冒頭文が上手なレイアウトで表示された。その見事な機能に感動すら覚えた。ただ残念ながら新ブログは日が浅く未だ閲覧者なし。

 「exblog」の「外部リンク」にも、こちらのブログをリンクできたが、逆に当ブログの「読んでいるリンク」に「exblog」の小生ブログをアップせんと幾度も試みたがはねられた。それでも新ブログに記事10回ほど投稿後に「隠居お勉強帖検索で、やっとGoogleに上がった。ちょっと覗いて下さいませ。

 次回は「老化とのせめぎ合い(肉体編)」です。

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堀田善衛『ゴヤ』と『ミシェル城館の人』 [鶉衣・方丈記他]

bordeaux_1.jpg 堀田善衛『方丈記私記』は53歳の作。『ゴヤ』(全4巻)刊が59歳。『定家明月記私抄・続編』刊が70歳。最後に歴史舞台を宗教戦争が激しいフランスに移して『ミシェル城館の人』全3巻が76歳。堀田善衛はその4年後に80歳で亡くなった。

 『方丈記私記』と『定家明月記私抄』を読んだ手前、スペインの『ゴヤ』、フランスの『ミシェル・ド・モンテーニュ』も眼を通すべきか。まず『ゴヤ スペイン光と影』を読む。歴史書のような同書半ばあたりで、やっとゴヤが顔を出した。

 スペイン辛苦の歴史は、第二次世界大戦前の「スペイン内戦」で米軍義勇兵で戦死した「ジャック白井」紹介の川成洋『ジャック白井と国際旅団』、石垣綾子『スペインに死す』を読んでいるので多少は知っていた。堀田善衛のゴヤ取材は「ジャック石井」戦死の1936年(昭和11年)末から29年後の1965(昭和40年)頃からとか。

 ゴヤ(1746~1828)の画家成功の最初は1771年(江戸は田沼意次老中の江戸文化が花咲いた頃)で、イタリア修行後に故郷の聖堂丸天上の絵を、名の通った画歌の画料60%ほどで受けてからだった。27歳で宮廷画家の妹ぺパと結婚。40年間に20回も妊娠させ、ペパ没後も40歳下の女性に子を生ませたらしい。堀田はゴヤの性欲を「ヴィクトル・ユーゴーは初夜で20回射精」と比較させていた。

 乱暴者、ガムシャラ、粗野、種牛のようなゴヤ。妻の兄の尽力とアカデミー独裁者へのお世辞で34歳でアカデミー会員へ。かくゴヤは動き出すも、主題はスペインや欧州史のようで、小生は2巻まで手が伸びなかった。

 ゴヤは晩年に自由主義弾圧を避けて「ボルドウ」へ亡命して82歳で亡くなった。堀田はその225年前まで「ボルドウ」の城館で暮らし、宗教戦争を生き抜きつつ『エセー(随想録)』を書いたモンテーニュの人生を『ミシェル城館の人』で書いた。これは頑張って3巻まで読んだが、途中で投げ出した。

 『方丈記』や『定家明月記』は面白かったが、何故にゴヤ、モンテーニュだったのだろう。鴨長明や藤原定家の周辺にも書くべき人物はいただろうにと思った。富山~東京~上海~アジア・欧州暮らし~蓼科と逗子の生活。多国語を理解し世界中で生活。だがサルトル没でフランスへの愛情も薄れたとか。

 晩年随筆(遺書)題名は『天下大風』(良寛の言葉)だが、彼は亡くなる前に庭の草木すべての本数を記録して「天下大風、天下騒然」と記していた。定家の「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」を別の言葉で呟いたような気もする。晩年の定家も、庭の草木と明月を慈しんでいた。晩年に記した「ゴヤ」「モンテーニュ」は傑作の評があるも、小生が読むには〝無理〟があった。

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堀田善衛『定家明月記抄・続編』(小生抄3) [鶉衣・方丈記他]

hota3nin_1.jpg 貞応2年、定家は書写の日々。息子・為家25歳でやっと「千首和歌」を遂げる。高倉院没。12歳の御堀河天皇へ。摂政は近衛家実だが、実権は西園寺公経(定家妻の弟で、関東申次役)。

 元仁元年(1224)、定家63歳。11月より一家総がかりで『源氏物語』54帖の書写開始。京都は相変わらず悪疫流行、盗賊群盗で荒廃極まる。北条政子没。(前年に北条義時も没)

 嘉禄2年、為家28歳で公卿・参議。孫5歳も叙爵。定家65歳にして、またも召使女性に子を生ませた。かく場合の子は、概ね寺へ預けられて女児は尼、男児は僧の道を歩むそうな。定家は後鳥羽院側近らとは逆に九条、西園寺の隆盛にあやかって大順調。京極邸も新築した。

 寛喜2年(1230)67歳。京都は再び飢餓。彗星爆発。群盗跋扈。翌3年、天皇の行幸も飢餓者が道に溢れて通行ままならず。定家はそんな世間に「吾ガ事二非ズ」で、庭木と月を愛でつつ書写の日々。『天台止観』『伊勢物語』『大和物語』等を書写。

 翌・貞永元年(1232)71歳。権中納言。同年の『明月記』記入は2日のみだが、同年に九条道家から『新勅撰和歌集』撰集を下命。集まる歌は後鳥羽院時代に比して精彩なし。天皇に序文・目録を見せるだけの定家独撰だが、その直後に御堀河天皇逝去。

 同年に鎌倉幕府「御成敗式目51ヶ条」制定。著者は以下3点に注目。①承久の乱の罪状は父子各々別。②第34条に「姦通=罪科」。京の〝色文化〟に終止符。③官職は幕府に申請。これで平安文化終焉。公卿らは妻を離別して、関東の女を迎え始めたと指摘。

 天福元年(1233)定家72歳。10月に出家。文暦元年(1234)定家73歳。『新勅撰和歌集』を道家に持参。道家は後鳥羽、順徳、土御門の三院の百首を切り捨て、関東勢の詠歌に差し替えた。著者は「政治が文化をもぎ取った」と記す。翌年、定家74歳。『明月記』は12月で書き止まった。

 4年後の延応元年(1239)2月、後鳥羽院が隠岐で没(60歳)。定家はその2年後、仁治2年(1241)80歳で没。これにて「続編」の小生抄おわり。

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堀田善衛『定家明月記私抄・続編』(小生抄2) [鶉衣・方丈記他]

sadaietuika_2_1.jpg 承久2年(1220)、定家59歳。2月、順徳天皇の内裏歌会で定家が詠んだ歌。「道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆の煙くらべに」(ぬ=打消しではなく完了・並列)。野原の柳は下萌えした。私の胸の嘆きと煙くらべ(想いの強さを競い合っているようだ)。特別な歌でもないが、これに後鳥羽院が激怒した。勅命で勘当(閉門)。歌人として公的会合に一切出席ならぬ処罰。

 著者は、7年前の定家邸の柳2本が、後鳥羽院に持ち去られた事件の定家の怒りを含んだ歌と解釈されての激怒と記している。また同歌の本歌は、菅原道真「道のべの朽ち木の柳春来ればあはれ昔としのばれぞする」と「夕されば野にも山にも立つ煙嘆きよりこそ燃えまさりけれ」。

 菅原道真は醍醐天皇の右大臣ながら、誣告(ブコク、虚偽告訴)によって大宰府に左遷されて同地で没。これは天皇の判断ミスが明白で、この話題は宮廷で「禁忌」のこと。さらに後に後鳥羽院が隠岐で記した『御口伝』にある和歌の考え~宮廷文化の君臣間を和する=和歌という考えと、定家の和歌に対する考えの相違に起因したと指摘する。

 ネット小説?鈴木了馬氏の『たれもや通ふ萩の下道』では、芭蕉解釈として「柳下に鍛す=刀鍛冶=3種の神器の刀剣なしで即位した後鳥羽院の嘆き」。また「刀剣=草薙剣=野火の草を払う草薙剣をもたぬ後鳥羽院の嘆き」と解釈して怒ったと書かれていた。

 また小生ブログ「応仁の乱」では、足利義政の東山山荘の造営にあたって、しばしば寺院、公家の庭から樹木や庭石を掠奪したと記していて、これも興味深いが~。ともあれ定家は冷泉自邸の閑居謹慎。これが幸いしたか、定家は宮廷無関係で「歌論」を家芸・家学の歌道として独立化した。

 そして著者は、こう続ける。承久3年の『顕註蜜勘』『後撰集』『拾遺集』などの注釈を主にした歌論を書いて門外不出の秘伝書とした。さらに一家総出で『源氏物語、伊勢物語、大和物語、土佐日記』などを書写。家芸・家学の教科書化を拡充。和歌を天皇から離れた家学(歌学)として独立させたと解説する。

 ここでは「承久の乱」を省略(いずれお勉強)するが、承久4年(貞応元年)1222年に定家61歳。11歳の御堀川天皇(高倉天皇)へ。定家は隠居し、息子・為家が娶ったのが関東豪族・宇都宮頼綱の娘(北条時政の孫)で、鎌倉(北条)政権との絆を強固にした。

 定家は「紅旗征戒吾ガ事二非ズ」と記すも、生涯フリーの小生からみれば「定家=どっぷり・したたかな官僚的忖度人生」に思えてくる。

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堀田善衛『定家明月記私抄・続編』(小生抄1) [鶉衣・方丈記他]

hotayosie2_1.jpg 『続編』を読む。承元5年・建暦元年(1211)、定家50歳。土御門天皇(16歳)が譲位を強いられ、後鳥羽院寵愛の第3皇子・14歳の順徳天皇が即位。すでに宮中に女院10名ほど。宮廷の実権は藤原兼子(けんし)が握る。

 定家の姉が荘園二つを兼子へ遺譲約束(贈収賄)し、定家は念願の公家へ。同年末の日記に、定家が4年前に女児を生ませた「靑女(従女)病む」の記述あり。家で働く女性に手をつけるのは勝海舟と同じ。同年、鴨長明は鎌倉で源実朝と会い、翌年に『方丈記』完。

 建暦2年。有馬で湯治。脚気・咳病・膀胱結石(堀田善衛が後に記す『ミシェル城館の人』のミシェル・モンテーニュも44歳からの結石痛の記述多し)。建保元年(1213)52歳。鳥羽院勅命で定家邸の柳2本を持ち去られる事件あり。京都はすでに公家勢力失墜で、公家下僕や悪僧らが群盗化して殺伐とした状態。

 定家は「天下の悪事、間断なし」と記す。一方の鎌倉も血腥い権力争いと大地震。定家は実朝に和歌を教えているが、実朝の歌は「うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」(うばたま=黒・闇・夜の枕詞。八重雲=不透明層積雲か)。あっちもこっちも真っ暗闇じゃござんせんか~と詠っている。

 建保2年(1214)、定家は大納言・中納言に次ぐ参議就任。同4年、55歳で治部卿。自選全歌集『拾遺愚草』成る。侍従職を辞した後で「定池仮名遣い」と呼ばれる冊子で「お・を」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けを著わす。同年、鴨長明没。

sadaiezoku_2_1.jpg 実朝に嫡子生まれずで、上皇の子を鎌倉に迎えようとした矢先の建保7年(承久元年)、実朝暗殺される。鎌倉は北条政子(頼朝正室。夫死後は尼将軍)と義時結束で上皇に反発し「承久の乱」へ向かう。(先日にテレビで「承久の乱」新解釈を放映。それも参考にした)

 カットは堀田善衛。富山県高岡の廻船問屋(北前船、蒸気船も所有した老舗)の息子。中学時代に金沢の教会司祭宅で生活。慶応義塾仏文科へ(英語に加え仏語、独語習得か)。昭和17年召集も胸部疾患。27歳で東京大空襲。国際文化振興会の上海資料室に赴任。29歳帰国。34歳芥川賞。「べ平連」活動。38歳頃より作家会議や取材で諸外国へ。海外生活10年余。平成4年『堀田善衛・全16巻』刊。6年後に定家と同じ80歳で逝去。」昨年が生誕100年。

 それを記念した『堀田善衛を読む』(集英社新書を昨年秋に刊)。執筆陣は池澤夏樹、吉岡忍、鹿島繁、大高保二郎、宮崎駿。1918年(大正7年)生まれの堀田の影響を受けた方々は彼の息子世代(1940年代生まれ)とわかる。かく小生もその世代。

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ss-blogにドメイン変更後やっとログイン [ブログ&アクセス関連]

 11年間も親しんで来たブログ(so-net)が、10月1日にドメイン変更。「ss-blog」になった自分のブログにログイン出来ぬまま約1ヵ月余。まぁ、考えられる様々な方法を試みたが無駄だった。

 いい機会ゆえ、改めて「ブログについて」考えてみた。そもそもは「大島暮し」と「鳥撮り」で始めたブログだった。完全隠居の後は次第に〝隠居お勉強帖(メモ)〟志向になった。お勉強ゆえ本を読む。江戸文学も読みたく「くずし字」お勉強で筆写をすれば、筆に馴染んで水彩画にも手を染めた。

 そして今、1ヵ月余もブログから離れれば、老妻との会話・お出掛けも増えた。これも良きかな。「ブログ遊びもたっぷり楽しませていただいたし、この辺でブログを卒業しようかしら」と思った。

 そう記せば、老妻が横から「お前さんのブログは、貧乏隠居の閑潰し、ボケ防止じゃないか。お続けよ」と笑った。そこでログイン出来ぬ「ss-blog」を諦めて、エキサイトブログで「隠居お勉強帖」を開設した。中断された「私流雲図鑑」を最初から成り直した。連日7回(7日)ほど投稿した段階で、何があったか、「so-net」から「ss-blog」に変わった自分のブログに、ひょっとログイン出来たじゃありませんか。

 無料ブログの容量もそろそろ一杯です。今後は写真多めになるだろう「雲図鑑」はエキサイトブログでそのまま続けて、従来通りのブログ(ss-blogに変更された)を続けましょうか。有料コースで容量無制限もよし。いや別編(yama's noteⅡ)を立ち上げるもよし!かなと思案中です。

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