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2016年1月~2017年12月 [表示以前の月別表示]

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2014年1月~15年12月 [表示以前の月別表示]

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2013年12月~2011年12月 [表示以前の月別表示]

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鬼王神社~新宿コロナを救い給え [散歩日和]

kioujinjya1_1.jpg 「軍艦マンション」の道路反対側に「稲荷鬼王神社」あり。永井荷風『日和下駄』に「淫祠」項あり。「淫祠」注解に「神道で認められていない神を祀った社や祠」とあり、本文に「淫祠は大抵その縁起と、またその効験のあまりに荒唐無稽なことから、何となく滑稽の趣を伴わすものである」「理屈にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しいところに、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のするところがある」と記し、同神社を「湿瘡(しつ)のお礼に豆腐をあげる」と記していた。

 今は湿瘡ならぬ、歌舞伎町のコロナ感染が収束せず。それを笑うか「ホストクラブ」と思しき大型宣伝カーが走り、都知事選の小さな宣伝カーが走り回っている。さて「稲荷鬼王神社」について。説明は諸々あるも、ここは「新宿観光振興会」サイトを参考にする。

kioumizubati3_1.jpg ~承応2年(1653)に戸塚の諏訪神社境内の「福瑳稲荷」を勧請。天保3年(1832)の当地百姓が熊野から勧請の「鬼王権現」を合祀して「稲荷鬼王神社」。江戸時代から豆腐を備えれば、湿疹・腫物に特効ありとか~の説明。

 「由比正雪の乱」から「承応の変」。その翌年が承応2年。武断政治と浪人らの不満が渦巻いた時代に、諏訪神社から「福瑳稲荷」を勧請。同稲荷の詳細がわからない。諏訪神社は我が家辺りも氏子地域内。「鬼王神社」辺りも地域を広げていたのだろうか。

 「天保3年に百姓が熊野より〝鬼王権現〟を勧請」もよくわからない。天保年間は伊勢参り、熊野参りが盛んも百姓が勧請できるものなのだろうか。平将門の幼名「鬼王丸」がらみ説もある。まぁ、よくわからないのが淫祠・小祠なのだろう。

kieiezukio.jpg 写真中が門前の「邪鬼頭上の水鉢」。これは新宿区指定文化財。教育員会の看板説明は~ 文政年間の頃の制作。うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式。水鉢左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる〝伝説〟を記した石碑があって~この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜、刀で切りつけた。その御家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている」。鬼王権現が勧請された翌年のことらしい。

 写真下は「江戸切絵図」。「花園神社」の右上に「稲荷鬼王社」。隣に別当「大乗院」。職安通りは昔「大久保新田通り」。その先に「長光寺」(島崎藤村の三人の子らが葬られた)がある。現・大久保通りには今もある「全龍寺」があり、その手前の「鬼王社」も気になる。各寺院に新宿コロナ感染が収束しますようにお祈りしたくなってきた。

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新宿から『海行かば』 [散歩日和]

umiyukaba3_1.jpg 新宿「職安通り」(歌舞伎町裏)に通称「軍艦マンション」あり。1970年竣工。昔はホステスさんが多数入居も、今は「シェアハウス+soho」で若い方々が入居とか。

 過日、「軍艦~」と流れる雲を見て、何気なく「雲行かば~」と呟いた後で、その歌をよく知らないことに気が付いた。奈良時代の大伴家持(万葉集の編纂者)の歌。それを千年余も後の昭和12年(1937)に信時潔作曲で代表的軍歌になった。

 「海行かば水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば草生(む)し屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ~」(天皇のお側で死ねるなら海で死ぬも、野で死ぬも後悔しません)

 「天皇陛下バンザイ」と死んで行く帝国思想・戦意高揚に利用されたらしい。「YouTube」で同曲歌唱を聴いたが、やはりよくは知らぬ歌だった。では「何故に曲題を知っていたか」。きっと多くの戦争映画によってかなぁと思った。

daibutu2_1.jpg 大伴家持の歌は、東大寺大仏がらみ。政治中枢にいた藤原4兄弟が「天然痘」で相次いで死んだ。荒廃する世に、聖武天皇が救いを仏教に求め、東大寺大仏建立を思い立った。だが大仏に塗る金不足。そこに「奥州で金発見」の報。天皇は古より近衛兵的な存在なれど、今は地方(富山)に飛ばされていた?越後守・大伴家持に改めて天皇への忠誠を求めた。それに感激した大伴が作った長編詩の一節が「海行かば~」。

 そう知れば、おぉ、その450年後の西行晩年の陸奥への旅も、東大寺大仏がらみだったじゃないかと思った。興福寺・東大寺の衆徒が反平氏で蜂起し、平軍勢が火を放って両寺焼失(治承4年・1180)。その再興を後白河法皇~重源上人~そして69歳西行が大仏塗金の金寄進を陸奥へ依頼すべく旅立った。平泉からの砂金勧請は1回分(砂金450両)が京へ届くも、義経平泉入りによって頼朝に阻まれた。

 目下、新宿はコロナ収束ならず増加中。歌舞伎町近くに在住する身にはサバイバル的日々です。そんな中で「軍艦マンション」~「海行かば」~奈良時代の「疱瘡流行」~大伴家持~東大寺大仏~西行へ想いを馳せたひと時でした。

 写真上は「軍艦マンションと雲」。写真下は「小倉百人一首(菱川師宣画)」の中納言家持(国会図書館デジタルコレクションより)と小生画の西行似顔絵。昨日の東京都コロナ感染者55人。

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波乱万丈もう一人~物集高量を掃苔 [散歩日和]

mozukenohaka_1.jpg 雑司ヶ谷墓地の島村抱月掃苔途中で「あれっ」と思って撮ったのが「物集家之墓」。あの物集高量氏(1879~1985)のお墓だろうか。墓石裏に「高量 昭和六十年十月二十五日 百六才」と刻まれていた。間違いない。確か百歳前後に雑誌やテレビに多数露出。書物の山に囲まれた白髪の百歳翁の写真も有名な国文学者。

 弊ブログ1月の「気になる方々の書斎」で、「話の特集」元編集長・矢崎泰久氏(現86歳)を紹介した。~妻子から離れて都心マンションで一人暮らし。『介護ポストセブン』に昨年まで「一人暮らし。ああ、快適なり」連載。氏の父の義兄が物集高量氏。自身の新婚生活が物集氏と同居で、新聞記者で外泊続きの間に、新妻が88歳・物集翁に手籠めにされたと告白していた(ホントかいなぁ~)。物集氏がそうならば矢崎氏も「好色のすすめ」「エロティズム礼賛」などを書いている~と記したばかり。

 物集氏の父・高見氏は文献百科事典『群青索引』(3巻)と『廣文庫』(索引の原文収録全20巻)を編纂。氏の長男・高量氏は左足不自由で、いじめ対策で仲間を集めて回覧雑誌発行で小説を書き始めた。稚児趣味の少年グループ同士の乱闘事件で補導される。

 以来、心中未遂を起こすなどして小説を書き続け、1906年の朝日新聞第1回懸賞小説で賞金50円(今の1千万円)。賞金は父の編纂事業に使われた。文献を実際に買っての原文収録ゆえ、金は幾らあっても足らない。懸賞小説が縁で大阪朝日新聞に入社で夏目漱石など担当も1年で退社。

 出版社を設立して失敗。馬賊らと交際。1908年に見合い結婚。「かわらけ」で齟齬が生じて妻に逃げられた。スリに弟子入りも足が不自由で断られて博打・女遊び・稚児遊び。1912年に博文社入社。物集家の侍女・八重と結婚。博打狂いは相変わらずで借金膨大。

 1912年(明治45年・大正元年)頃ながら「かわらけ」「侍女」なる言葉に驚いた。1915年、父が倒れ、父の編纂事業に協力し前述の全23巻を刊。花札賭博で留置場へ。1939年、多額借金で差し押さえ。1950年の多摩川遊泳客休憩場の経営失敗。妻の弟・矢崎寧之(泰久の父)の板橋の家に転居。泰久の新婚妻を手籠めにしたのがこの頃だろう。

 1974年に名著普及会が前述23巻を復刊で、生活保護打ち切り。1979年に『百歳は折り返し点』刊。3年後に『百三歳。本日も晴天なり』刊。再晩年は老人施設に入って死ぬ前日まで介護婦の尻を触って怒られていたとか。106歳で没。都内最長命で都知事が弔辞を読んだ。初期写真家ボナールに続いて、大変な人生を歩まれた物集氏の紹介でした。

 以上「ウィキペディア」他を参考だが、それは『百歳は~』の巻末年譜を参考と思われる。『百三歳~』も探したが都中央図書館の他になし。渋谷区本町図書館に『百三歳~』と『百歳の青年二人、大いに語る』が貸出可。なお高量氏の妹・物集和子(藤浪和子)は名著『東京掃苔録』を刊。これは四谷図書館(館内閲覧)にあり。コロナ収束後にあちこちの図書館へ行ってみようと思っています。

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ナダール②地下~気球~海中写真 [スケッチ・美術系]

nadar2_1.jpg ナダールは「肖像写真」で成功すると、新たな挑戦がしたくなった。彼が最初に気球に乗ったのが37歳(1857)で、翌年に俯瞰撮影に成功。シャッターを切ると同時に急降下し、宿屋へ走って現像したらしい。

 パリっ子が気球撮影に喝采すれば、また新たな撮影がしたくなる。41歳(1861)から、暗闇の世界「パリの地下墓地・下水道」撮影に成功。地下世界を白日の下に晒し、またパリっ子は拍手喝采。ナダールは「地下世界」はほどほどで、気球の魅力にドップリと嵌って行った。

 13名乗員の大型気球で3時間飛行後に不時着。2週間後には9名乗員「巨人号」でパリ~ベルギー~オランダ~海上で方向転換~ドイツへ。計15時間、大損傷ながら無事着陸。47歳(1867)、凱旋門中心の8枚綴りパリ俯瞰写真を完成。

 50歳(1870)、普仏戦争では仲間らと気球上空からパリ城壁外の敵軍を偵察。さらに気球郵便事業へ。これら事業で資金を使い果たしたナダールは再び肖像写真へ戻ったが、今度は多くの著名人の〝死の表情〟も撮り始めた。

 53歳(1873)、パリ郊外の別荘生活が多くなって、一人息子ポールが家業を継いだ。1874年、彼のスタジオで第1回印象派展が開催。この頃になるとコダック社フィルムでスナップ写真が可能になって、息子ポールは新聞の対談記事にスナップ写真を撮った。彼は「写真協会」を設立。コダック社の商品販売、さらに1891年に写真専門誌「パリ・写真家」を創刊。

fashionhot_1.jpg 息子の活躍、事業拡大に嫉妬したか、次第に親子の確執が生まれ、ナダール74歳(1894)、スタジオを息子に譲って、自身は南仏の居を構えた。

 息子ポールは肖像写真からファッション写真家として第一人者へ。(小生が図書館の蔵書検索から求めた「ナダール写真集 ベル・エポック」を借り見れば、写真左のような見開きのファッション写真満載の息子ポールの写真集だった)

 一方のナダールは未だ老えず。「マルセイユ港」で「海中写真」に挑戦し始めた。小説家~風刺画家~肖像写真家~地下世界の撮影~気球による俯瞰撮影~気球郵便事業~海中写真。飽くなき好奇心と新たな挑戦を続けたナダールは90歳(1910)で亡くなった。

 海の向こう米国では、12歳(1935)のソール・ライターが母からカメラをもらって撮影開始。その4年後(1939)にファッション写真家ポールが亡くなった。以上から「ソール・ライターはナダールの直系子孫」には多少無理があって、むしろライターはナダールの息子ポールの直系と言った方が相応しいか。以上、伝説的初期写真家ナダールの紹介でした。

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ナダール①小説~風刺画~肖像写真家へ [スケッチ・美術系]

nadar1_1.jpg ソール・ライターが尊敬した画家ボナールについて「ライターとボナールも濃密複数愛者」を4月にアップした。ライター写真集の解説には「印象派の第1回展覧会会場は、伝説的写真家ナダールのアトリエ。その意では、ライターは彼の直系子孫である」と記した文章もあり。

 印象派をお勉強すれば、その第1回会場の写真を見ているはず。小生も見ているが、それが迂闊にも写真家ナダールのスタジオで、彼の愉快人生を知らずにいた。以下書(『ナダール 私は写真家である』(筑摩叢書)、小倉孝誠著『写真家ナダール~空から地下まで十九世紀パリを活写した鬼才』。写真左)から、彼の愉快人生を紹介したい。

 ナダール名は通称。1920年生まれ(江戸は文政3年で南畝71歳、北斎60歳、広重23歳、定信62歳)。実家はリヨンで印刷業で成功。父はパリに出て印刷出版を展開も事業失敗でリヨンに戻った。この時ナダール17歳(1847)。彼はパリに戻って新聞・雑誌に記事や小説を発表しつつ「カルチェ・ラタン」で約10年間のボヘミアン生活。当時の仲間ボードレールは、常に彼の成功に嫉妬とか。ボヘミアン生態を描いた風俗小説も発表した。

 雑文・小説家のナダールは、ナポレオン3世による第2帝政が始まると、ポーランド義勇軍に参加(28歳)。だが逮捕されてフランス国境に返還。厳しい現場を見たナダールは新たな表現手段「風刺画家」へ転身した。『滑稽新聞』などに連載。風刺画と鋭い批評文で人気を博すが、成功に安住しない彼は写真技術の発達で「写真家」へ転身した(30代半ば。1850年代)。

 まずは「肖像写真」で成功し、1854年にスタジオ開設。それまでの多彩な交際から著名人が続々とスタジオに集まり、後世の人々が(私たちが)見る多くの肖像写真を残した。ボードレール、『三銃士』のデュマ、空想科学小説のヴェルヌ、小説『居酒屋』『女優ナナ』のエミール・ゾラ。ショパンの恋人ジョルジュ・サンド。画家のドラクロワ、ミレー、クールベ、マネ。作曲家のロッシーニ、ベルリオーズ、ヴェルディ等々を撮影。

 「肖像写真家」で成功(従業員50名余)したナダールは、1860年にカピュシーヌ大通りにスタジオを移転。そこが後の印象派第1回展覧会・会場になる。雑文・小説家~風刺画家~肖像写真家への転身ことごとくに成功した彼は、また新たな挑戦を始めた。(長くなったので区切る。次回へ)

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渡辺淳一『女優』⑤須磨子著『牡丹刷毛』 [大久保・戸山ヶ原伝説]

hamlet_1.jpg 松井須磨子著『牡丹刷毛』(大正3年刊)に、島村抱月「序に代へて」あり。女優・須磨子の素晴らしさを記していた。その一部概要を紹介する。

 ~俳優には、言ふまでもなく声が、肉体の釣合が、顔の造作が、記憶もよくなくてはいけない。表情が強く、練習が積まれてゐなくてはいけない。逆に気の散る人、遅疑する人は俳優になれない。眼前の路を一直線に前進する人でなくてはいけない。例えば、舞台に立って科白を言ふ間に他の事を思ふと、科白の中の思想感情が中絶する。言葉を胴忘れしたり、動作に間隙を生じたりするのはその為である。舞台に穴が明き、演技の緊張感が欠ける。

 之れを救う唯一の道は、其の与へられた思想感情を純一なまゝに捧げ持つて、崩さず、惑わずに進行する工夫である。それは情熱の力、信念の力、同化の力によってゐる。俳優といふ肉体芸術家の霊魂が有する描写力、表現力、創造熱の永続。女優としての須磨子女史が有する最大の強味はこれだと思ふ。otiyo_1.jpg

 さらに須磨子の劇団内での不評についても、こう分析していた。~俳優ならではの特性を有する事で、直情径行の癖がつき、理性を忘れて感情に走ると目せられ、世渡りが下手になる。傍から浅はかな、無反省な我がままものゝやうに誹られる。殊に女性としての須磨子女史が世間の一部から孤立してゐる最大の理由がこゝにある。

 抱月が「ラブだぁ~」と叫んでいても、彼女の魅力・欠点を冷静に見抜いているのがわかる。また『人形の家』ノラの稽古で、差し伸ばす腕が真っ直ぐになるまで如何に長い練習をしたかなどにも言及。演技に興味ある方は「国会図書館デジタルコレクション」松井須磨子『牡丹刷毛』をどうぞ。同書には須磨子の17章随筆が収録で、読んでいると須磨子の息遣い、肌の温もりも伝わってくるようです。

 一方、島村抱月著でお勧めは本人著『人生と芸術』(大正8年刊)。雑司ヶ谷墓地の墓石に刻まれた「在るがまゝの現実に即して全的存在の意義を髣髴す 観照の世界也 味に徹したる人生也 此の心境を芸術と云ふ」が同書冒頭に記されている。

 写真上は『牡丹刷毛』より『ハムレット』オフヰリアの真っ直ぐに伸びた腕。写真下は『嘲笑』お千代役。「~つまり男からありがたれゝばこその妾ですものね。もっともそれも若い内だけの事ですから。私はなるべく若い内に死んで了ひたいと思ってゐるんですよ」。

 新宿図書館、通常利用は7月1日だってさ。川村花菱『松井須磨子~芸術座盛衰記』、吉田精一『島村抱月〈人及び文学者として)』も読んでみたく思っていますが、ひとまず終わる。

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渡辺淳一『女優』④改めて抱月年譜 [大久保・戸山ヶ原伝説]

ningyounoie_1.jpg 抱月7周忌の大正14年刊『抱月随筆集』(国会図書館デジタルコレクション)より「島村抱月略年譜」を改めて紹介。

 明治4年:正月10日、島根県邦賀郡久佐村で佐々山一平の長男として生まれる。/明治24年:6月、邦賀郡の裁判所検事・島村文耕氏の養子になる。その前年に上京。10月、旧東京専門学校入学。/明治27年:7月同校卒業。「早稲田文学」の記者になる。(小生注:旧東京専門学校は明治35年に早稲田大学。「早稲田文学」は明治24年に坪内逍遥が創刊)

 明治28年:6月、島村瀧蔵次女いち子と結婚。/明治31年:読売新聞三面主筆となる。9月に旧東京専門学校講師になる。/明治35年:3月、東京専門学校海外留学生として英独に派せられる。/明治38年9月、帰朝。早大文学部講師。傍ら「東京日々新聞」の日曜文壇を主宰。(小生注:帝大卒の夏目漱石の英国留学は明治33年~明治36年1月帰国)。

watajyuyo2_1.jpg 明治39年:1月再興の「早稲田文学」主幹。『囚はれたる文学』『沙翁の墓に訪づるの記』『ルイ王家の跡』等名論文名文を簇出(そうしゅつ)す。/明治42年:文芸協会演芸部内の演劇研究科指導講師となる。早大にあっては既に文学部教務主任。大正元年:精神的、肉体的危機に立つ。(小生注:須磨子に夢中。明治45年・大正元年に市子夫人にデート中を抑えられる。抱月「ラブは命だ。死にたい」)

 大正2年:文芸協会幹事を辞し、芸術座を起す。早大英文科教務主任及教授を辞し、改めて講師となる。由来芸術座の事業に没頭。書斎裡の沈思瞑想の生活から急転して喧騒忍苦の巷の生活に入る、(小生注:横寺町の芸術倶楽部建設の資金稼ぎに国内巡業から海外公演。泥まみれの奮闘。木造2階建て「芸術倶楽部劇場」完成。そこで須磨子と〝愛の巣〟を構える)

 大正7年:11月5日午前2時、芸術倶楽部の一室でスペイン風邪で淋しく永眠。7日、青山斎場で葬儀執行。8月、雑司ヶ谷墓地埋葬。

 上記『抱月随筆集』に相馬御風が「島村抱月先生の七周忌~跋にかへて」が寄稿されている。~華やかな粧ひをした多くの女の人達の賑やかな通夜を振り返って「おもふこと多きに過ぎて御柩にむかへどわれおもふことなし」「通夜の人のにぎはふ中にまじらひて我は何をおもふとすらむ」「此のわれの夢見ごゝちのさめはてゝまことに泣くはいつにかもあらむ」と詠んでいた。

 また先生は「結局一個のさびしい先駆者」だった。先生の美意識は多方面に向かうも、自然の風物に心を寄せること少なく、道楽も少なかった。先生の心や眼は常に人間に、自己に、人の生活相に注がれていて、そこに先生の淋しさがあった。その意では長谷川二葉亭も同じく淋しい死を迎えた~と記していた。(小生注・『浮雲』の二葉亭四迷は朝日新聞特派員でロシア赴任中に肺炎に罹って、帰国船のベンガル湾で客死)。写真は抱月著『人形の家』表紙、渡辺淳一『女優』表紙。

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渡辺淳一『女優』③島村抱月墓を掃苔 [大久保・戸山ヶ原伝説]

hougetuhaka_1.jpg 小生、早稲田通り沿いに在住歴あり。その近くの明治通りあたりが昔の「諏訪町65=島村抱月旧居」だった。過日、その明治通りを「学習院下」まで歩いて都電に乗った。二つ目「雑司ヶ谷駅」下車で、眼前が雑司ヶ谷墓地。「1種16号2側」の抱月お墓を掃苔した。遺族が管理困難で2004年に島根県のお寺に遺骨を移して今は墓石だけ。

 さて渡辺淳一『女優』概要の続き。~トルストイ『復活』に劇中歌『カチューシャの唄』で大人気公演。余裕を得た抱月は、牛込横寺町で劇場作りに着手。大正4年、足らぬ資金稼ぎに国内巡業から台湾、朝鮮、満州、ウラジオストックと海外公演。帰国同時に木造二階建て「芸術倶楽部劇場」が完成した。

 舞台と1・2階客席で250名収容。他に稽古場、事務所、カフェー、そして須磨子の部屋と抱月の書斎。大正5年正月、抱月はついに家を出て、ここに〝愛の巣〟を構えた。同年は10公演。新作9本の大充実。

kacyusya_1.jpg 大正6年、須磨子のわがまま、座員不満は相変わらず。沢田正二郎が脱退して「新国劇」を組織。秋公演はトルストイ『生きる屍』。挿入歌は『さすらひの唄』(作曲・中山晋平)。同年も全国公演から満州公演へ。

 大正7年秋、須磨子は新派の女形と競演。他流試合で自信を得て、次は歌舞伎座との合同公演は舞台は「明治座」。市川猿之助、市川寿美藏と競演。スペイン風邪の世界的流行で、須磨子は舞台稽古中に38度の高熱。

 看護する抱月にスペイン風邪が移り、須磨子は恢復して舞台稽古を続行。だが抱月の熱は下がらず。渡辺淳一は「抱月を入院させる手もあったが、入院させれば市子夫人が病院に駆けつけてくるだろうで、自身が看護する道を選んだのでは~」と記していた。明治座初日を明日に控えた稽古楽屋に「抱月、危篤」報。人力車で芸術倶楽部に走り戻るも、すでに抱月の顔は白い布で覆われていた。(余談だが、この時期に神近市子は入獄中)

 大騒ぎの芸術座。続々と関係者が終結。葬儀委員長が坪内逍遥に。葬儀準備の最中、須磨子は初日の劇場入り。その前に郵便局へ寄り、抱月名義の郵便通帳を自分の名義に書き換えた。芸術倶楽部で通夜と葬儀。青山斎場で告別式。芸術座は須磨子座主となって遺産相続。だが抱月亡き後の芸術座の運営が、須磨子に無理は自明。彼女は頑張れば頑張るほどに孤独と虚しさが増した。

 疲弊した須磨子が仏壇の抱月写真を見つめる。抱月が「こっちにおいで~」と呼んでいる。「わたしも先生のところへ~」。逢引きを重ねた戸山ヶ原の春霞に手をとりあって歩いている幻想~。須磨子は遺書を認め、晴着に女優髷、抱月にもらった指輪と時計をはめて、舞台裏の物置で自死。酔芙蓉著『新比翼塚』には、その日は抱月忌日(5日)で、雑司ヶ谷墓地へ詣でた夜と記されていた。32歳没。

geijyutukurabu_1.jpg 写真は雑司ヶ谷の島村抱月お墓。写真中松井須磨子著『牡丹刷毛』(大正3年刊。国会図書館デジタルコレクション)より「カチューシャ」姿の須磨子。写真下は横寺町の芸術倶楽部(史跡看板より)

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渡辺淳一『女優』②物語概要 [大久保・戸山ヶ原伝説]

tuboutitei_1.jpg コロナ緊急事態宣言解除(5月26日)で、図書館再開のはずだが、新宿図書館の通常利用は7月1日から。全蔵書を消毒でもしているのかしら~、うむ、給付金など超多忙区役所へ図書館員動員~と妙に勘ぐってしまった。

 かくして国会図書館サイトへ。幾冊もの当時の松井須磨子、島村抱月関連書がヒット。著作権消滅で閲覧自由。もう少し両人に迫ってみたいので、渡辺淳一『女優』①で抱月旧宅、須磨子の「大久保」検証をしたので、上記小説から〝愛のスキャンダル〟概要をまとめておくことにした。

 須磨子は長野県出身。離婚歴ありの24歳。次の夫は高等女学校教師。彼の勧めもあって坪内逍遥「演劇研究所」生徒募集に応募。色白で大柄な容姿。隆鼻手術済。気性激しく負けん気強くわがまま。合格後は演劇熱中で家事放棄。夫が逃げ出して再び離婚。

 明治43年、最初の試演会『ハムレット』でオフィリア役。体当たり演技の輝きで、帝劇から同演目オファー。小林正子から芸名・松井須磨子へ。帝劇そして大阪公演も大成功。次の演目は抱月翻訳・演出でイプセン『人形の家』。この時、抱月40歳、須磨子25歳。

suifuyoucyo_1.jpg 島村抱月は明治35年より英国・ドイツの3年半留学を経て早稲田英文科教授。知的・ナイーブ・無口のインテリ。学費援助の方の縁戚・島村市子と結婚。仲しっくりせずも4男3女を設け、夜はお盛ん~。

 『人形の家』で須磨子は大スター。文芸協会も有名に。併せて運営も大劇場(興業)志向になって「芸術性より大衆性重視」で、仲間内に亀裂が出来た。須磨子は男心を操る天性を有し、性もおおらか。稽古で胸がはだけても平気。抱月も彼女に夢中で、前回紹介の不倫デートを市子夫人が襲う大騒動へ発展。

 二人の仲は公然。坪内逍遥と早大総長が、二人の仲を冷やそうと画策するも逆に燃えた。逍遥が須磨子に退会勧告。抱月は大久保の須磨子宅に通い詰める。総長は逍遥と抱月の会談を設けて解決を図るが、抱月擁護派が新劇団創設に盛り上がる。逍遥も劇団運営に嫌気がさして研究所4年で解散。抱月らは「芸術座」創設。初期メンバーも各々「無名会」「舞台協会」「近代劇協会」などを設立。

geijutukurabuato_1.jpg 「芸術座」設立で、須磨子のわがままが強くなった。それに怒った座員らがボイコット騒動を起こしても、翌日の須磨子はあっけらかんと稽古再開で〝元の木阿弥〟。幕が上がれば須磨子人気で連日満員。地方公演は生活が乱れる。座員脱退騒ぎがあっても『サロメ』の幕が上がれば超満員。大正3年、抱月・須磨子は劇団内では四面楚歌も、トルストイ『復活』と挿入歌『カチューシャの唄』で人気爆発、全国公演から東京凱旋。巷に同曲が満ちた。以上が長編の約半分。

 小生、中学生の頃に「新劇」を幾度か観た。姉が行けなくなって譲られたチケット。その後、テレビドラマで役者が泣いたり・怒鳴ったりの演技に生理的拒絶反応。芝居も映画も好きになれず。中年の演歌仕事で、歌手らが公演「二部」で演じる芝居稽古・本番取材が多い時期もあったが、仕事でなければ〝舞台〟を観たいとも思わず。好きな役者・芸人・歌手なし。

 写真上は余丁町の坪内逍遥旧居の史跡看板より演劇研究所。写真中は酔芙蓉著『松井須磨子:新比翼塚』(大正8年刊。国会図書館デジタルコレクションより)の口絵。写真下は横寺町9・10・11番地の「芸術倶楽部跡」(島村抱月終焉の地)の史跡看板。

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渡辺淳一『女優』①島村抱月旧居と大久保 [大久保・戸山ヶ原伝説]

simamurahogetu.jpg 同小説は島村抱月と松井須磨子の物語。最初の盛り上がりは明治45年7月末(翌月から大正元年)。抱月の市子夫人が夫と須磨子の不倫デートを突き止める場面。抱月が府下戸塚諏訪町の宅を出ると、市子は中山晋平(書生で住込み中。後の作曲家)に、夫が行くと言った九段の天野博士宅へ向かわせ、自身は女学生の娘を連れて須磨子を見張りに行く。

 須磨子宅は「大久保駅」の東へ2本目の路地の奥。見張っていると須磨子が駅で切符を買う。市子すかさず「同じのを2枚~」で買ったのが「高田馬場」までの切符。須磨子が〝次の駅・高田馬場〟で下車。そこに夫がいた。二人は駅から200m先の天理教会横を右に曲がって雑木林(山手線外側の戸山ヶ原)へ。そこで二人を捕まえた。

 須磨子「死んでお詫びをします」と戸山ヶ原に走り、抱月は自宅で妻に咎めらsumako.jpgれ、酒を飲んで「ラブは命だ。死にたい」と戸山ヶ原へ。翌日になると小説は何故か須磨子の住所が余丁町19番地外山豆腐店方の離れになっていて、もうグチャグチャです。余丁町の坂には坪内逍遥邸(二人が通う文芸協会・演劇研究所を併設)、坂を下った左に永井荷風邸(断腸亭)。共に両者旧居の史跡看板あり。荷風が慶應義塾『三田文学』創刊で、逍遥が『早稲田文学』の総師。

 さて、ここからが難問解決です。まず「諏訪の抱月宅」探しから。『我が町の詩・下戸塚』に「戸山新道の西に水道道路があり、そのあたりに島村抱月は新築2階建てに住んでいた。住所は諏訪町65。だが「戸山新道も水道道路も諏訪町65」もわからない。

 諏訪町~大久保駅~早稲田駅~戸山ヶ原~余丁町。なんだ!我家を取り囲んだ愛のスキャンダルじゃないか。わからないではやり過ごせない。諏訪町は現・高田馬場1丁目。大正時代の「東京市及び隣接郡部地籍図」をも調べるもわからず。

suwacyo65bann_1.jpg ネット調べで、明治通り風景を写して「島村抱月旧居遠景」としたサイトを発見。芳賀善次郎『新宿の散歩道』の戸塚地区地図にも明治通り沿いに「抱月旧居跡」の記入を発見。文章は「戸塚2丁目交差点から明治通りを南に行く。明治通りの池袋~新田裏の開通は昭和6年。コクヨ城西営業所の所が抱月の旧宅跡である。彼は41歳の時に薬王寺町から当地に建てた新築新居に移って来た」とあった。

 当時の地図を見れば現・諏訪通りも明治通りも細い路地に過ぎず。その一画に建っていたのだろう。抱月宅は明治通りの現・諏訪通りと早稲田通りの真ん中辺りらしいとわかった。

 次に「大久保駅」の次の「高田馬場」で下車も~おかしい。「大久保駅」の次は「東中野(柏木駅)」だろう。「新大久保駅」ならば次が「高田馬場」。しかし新大久保駅は大正3年開業で、小説の明治45年7月末には開業していない。

 ここまでが小説の約1/3までの検証? 以上2日にわたってのお調べ遊びでした。写真は国会図書館デジタルの「近代日本人の肖像」より。

 ★7月4日に、島村抱月「諏訪町65番地」判明を当時の地図入りで記しています。

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牛込氏7)『大胡系牛込氏の研究』を読む [牛込シリーズ]

usigomesi_1.jpg 著者は牛込博康氏。まず『牛込氏と牛込城』によって、自分の祖先が徳川家旗本の牛込氏ではなく、江戸幕府初期に足立の庄屋として分家した牛込氏であることがはっきりしたと記している。足立の牛込氏末裔と思われる著者が、江戸時代初期までの大胡系牛込氏の歴史を探ったのが同著。以下、小生注を()で加えつつのお勉強で、簡単要約してみます。

 大胡氏初代は大胡太郎重俊。鎮守府将軍(陸奥に置かれた軍政の長官)藤原秀郷(俵藤太)の5代渕名大夫「兼光」の長男(足利大夫成行)の3男。(藤原秀郷は平将門追討で源氏・平家と並ぶ関東支配の武家諸氏の祖になった。父は平安前期~中期の貴族)。渕名大夫「兼光」は上野国佐位郡渕名(伊勢崎市)の郡司。足立大夫「成行」は足立の郡司になった藤原成行。(ちなみに「西行」も俵藤太から9代目の武家生まれ。秀郷流奥州藤原氏と遠縁で、陸奥への2度の旅も納得です)

 さて、大胡太郎重俊から5代目あたりまでが大胡城主だろうか。「元弘の乱」(鎌倉時代末期の幕府VS後醍醐天皇の闘いで隠岐流刑の天皇が、隠岐を脱出して新田義貞勢を加えての討幕戦に勝って京都凱旋)で鎌倉幕府に仕えていた大胡牛込氏の所領は新田貞義の手に渡った。

 この時代は勝ったり負けたりの乱戦続き。生き残った大胡一部は、後の戦いで所領を奪取し、また大胡別流は足立、磯子、銚子など各地にも散った。この辺の詳細は省略。では大胡系牛込氏はいつ牛込に移住したか。大田道灌が「田島の森の赤城神社」を番町(牛込御門内)に遷座したのが寛正1年(1460)ゆえに、それ以前に大胡系牛込氏が「赤城神社」を勧請していたことになる。

 一方、暦応3年(1340)に鎌倉公方・足利義詮の意によって「江戸近江権守」が牛込郷を預かっていた。南北朝内乱が関東にも飛び火で、応永23年(1416)の上杉禅秀が足利持氏・上杉憲基に反旗の乱。「牛込江戸氏」は上杉方の太田氏指揮下に入り、後の太田康資が北条氏康への反旗で失敗。牛込江戸氏も大胡系牛込氏の背後に潜んだらしい。(江戸氏関連書も多数。お勉強テーマは無限です)

ryukeiusigome.jpg かくして江戸憲重氏は、隣地の大胡重方と姻戚関係を深めて、文安6年(1446・宝徳元年)に江戸氏所領の桜田、牛込領を牛込氏に譲渡して身を隠した。早大「下戸塚遺跡調査」で「安倍球場跡地で多数建物跡を発見」は、牛込流江戸氏の屋敷跡と推測されているらしい。

 天文24年(1555。弘治元年)、大胡系牛込氏・重行の子の勝行(大胡平五郎)が北条氏から宮内少輔の官位をもらったのを機に大胡から牛込へ改姓。大田道灌が移した「赤城神社」を現在地に遷座。その後、勝行から勝重へ相続。勝重が徳川家旗本になった際に幕府から与えられたのが小日向・龍慶橋の屋敷。(嘉永2年・1849年の江戸切絵図を見ていたら、牛込濠の牛込御門の先、飯田橋の船河原橋を渡って神田川を遡った最初の橋=龍慶橋の右に「牛込常次郎」屋敷があった)。

 またこの頃に、二人の兄弟(大胡氏の子・房光=島根牛込氏、江戸氏の子・平四郎=栗原牛込氏)が足立の大庄屋として分家されたらしい。同著の概要はこんな内容だろうか。小生、東京生まれながら関東武士の歴史に疎く、またの機会にお勉強したく思っています。

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牛込氏6)『牛込氏と牛込城』を読む [牛込シリーズ]

 ~としたいも、新宿区図書館の本は未だ読めず。11日に新たに予約か、通常利用開始の7月1日まで待たないといけないらしい。「コロナ自粛解除ステップ2」も、新規感染者34人で「東京アラート」発令。歌舞伎町はじめ〝夜の街〟を擁する新宿区ゆえ無理もない。

 コロナ感染と関係ありやはわからぬが、ここ1週間でふらふらと歩いていて倒れる女性、座り込み標識柱にしがみついている女性、ハイヒール姿で左右に揺れつつ歩く女性~を続けて見た。

 さて、続きものブログアップ中ゆえ、ブログ機能上「このタイトル+この文」を仮アップで、同書読了後に(6)を「再・編集機能」で書き直せ(差し替えせ)ばシリーズが続く体裁になる。

 読む本が切れたので、自粛前と同じ賑わいに戻った新宿・紀伊国屋書店で、渡辺淳一著『女優』(戸板康二『松井須磨子』は書店にも図書館にもなし)を購った。松井須磨子の小説。読み始めて未だ100頁だが島村抱月と松井須磨子が初めて二人で飯を食うシーン後に~ 抱月の家は諏訪町で、須磨子の家は大久保とあった。坪内逍遥の小劇場付き研究所も近くの余丁町坂上で、坂を下ると荷風旧居。抱月と須磨子のドラマはこれから神楽坂へ移って行くだろう。散歩圏内で展開する大正ロマン、愛のスキャンダル、新劇史~。

 ★上記をこのまま残したまま、7月2日に<『牛込氏と牛込城』を読む>を追記です。

usigomejyo_1.jpg さて『牛込氏と牛込城』(新宿区郷土研究会刊)は、他館では貸出可もあるが、中央図書館では館内閲覧のみ。20頁の小冊子ゆえコピーして自宅で読ませていただいた。今まで『新宿の散歩道』(芳賀善次郎著・昭和48年刊)を主参考にさせていただいたが、同冊子には芳賀氏が「新宿区郷土研究会」元会長で、同会の創立十周年記念号とあった。

 「はじめに」に~元会長は同会にとって「牛込と牛込氏」テーマは避けて通れぬと強調された。元会長の資料と考証を中心に同会全員(13名)が研究を続けてきたが元会長が急逝され、故人の遺志を継承しての発行と説明されていた。

 小生ブログが記した概要に大間違いはなさそうだが、不明部分などが丁寧に説明されていた。まずは「江戸氏と牛込氏の関係について」。江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代の武蔵在地の武士団・武蔵7党の1つ。秩父党の重継の代から鎌倉幕府の家人を務め、江戸を領として江戸氏を名乗った。

 牛込本家所蔵『牛込文書』21通の内①~⑦が江戸氏関係のもの。牛込を領地にしていた江戸氏と大胡氏の間に姻戚関係が出来て、江戸氏の牛込所有地を大胡氏が継承したと説明されていた。この辺はすでに紹介の新宿歴史博物館研究員・矢島希彦氏による『牛込流江戸氏と牛込氏』にも詳しく、また両家の姻戚関係は今回借りた『大胡系牛込氏の研究』にも詳細説明されていた。

 次の主テーマは「牛込城について」。昭和61年の1年間、会員全員で調査した結果が報告されていた。小生が芳賀著から推測して現地図に乱暴に赤線で囲った「牛込城」概域を、同誌より詳細・訂正すると、善国寺裏辺りに「大手門」。神楽坂商店街の向う側まで「曲輪地」が広がっていた。西側の曲輪地は現「愛日小学校」辺りまで広がっていて、牛込濠辺りは現・東京理科大や旧日仏学院など濠沿いの平地から少し坂を上った台地からが城域と図解で説明されていた。

 また牛込氏のその後は、牛込勝重が家康にお目見えを許され1,100石取りの旗本になった。屋敷は小日向牛天神下に与えられた。牛込城址地は江戸城に近い地で重視され、譜代家臣の屋敷地、寺社地になった。3代重悉は長崎奉行。第13代重行は維新時に将軍に従って遠州浜松へ。その後は田町へ。詳細はぜひ同誌をお読み下さい。

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牛込氏5)牛込城の地「光照寺」 [牛込シリーズ]

kosyoji_1.jpg 「牛込城」があった地「光照寺」へ。もう少し寄り道する。「江戸切絵図」を見ると「毘沙門天・善國寺」先の両側が「肴町」(現・神楽坂5丁目)。牛込城の城下町だった名残りの町名。そして毘沙門天の向い側の奥に「行元寺(ぎょうがんじ)」(今は「寺内公園」)があった。

 芳賀著では「行元寺」も牛込氏建立では~と推測していた。その地は「肴町・兵庫町」の人の菩提寺で、昔の赤城神社の別当寺。早稲田駅近く「宗参寺」を建立するまでは牛込氏の菩提寺でもあったのでは~と推測していた。小田原城の落城時に北条氏直の「北の方」が「行元寺」へ逃亡して来たのも、北条氏と牛込氏の関係が深かったことを物語っていると記す。

 また江戸時代になると「赤城神社」と同じく「行元寺」辺りは岡場所のひとつ「山猫=寺社境内に出没する娼婦」発祥地になる。『牛込区史』に「こっそりとして山猫は人を喰い」なる川柳が紹介とか。(★『牛込区史』も読みたいが新宿区図書館の通常利用は7月1日から。6月1日から「ステップ2」なのに、何でそんなに遅いのだろうか?)

kiriezuhoi_1.jpg さて本題「牛込城址」へ。「江戸名所図会・牛込城址」の説明は短文。「藁店(地蔵坂)の上の方が其旧地なりと云伝ふ。天文の頃、牛込宮内少輔勝行(牛込勝行)、此に住たりし城塁の址なりといへり」。「光照寺」訪問時はコロナで閉門中。「グーグルマップ3D」で侵入した。

 本堂前に「牛込城址」の史跡看板あり。~照光寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。塀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推測される。説明文は続く~

 牛込氏は、赤城山の麓上野國(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。「光照寺」は増上寺の末寺で、正保2年(1645)に神田から移転してきた。光照寺には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」(新宿西口「常円寺」にある彼の狂歌碑は紹介済)などがある。

kosyojiura_1.jpg 牛込城について芳賀著には、~詳細不明だが口碑によれば、今も地名に残る牛込濠際の「市谷船河原町」~副都心線「牛込神楽坂駅」南の「南藏院」~大久保通り~神楽坂で囲まれた地域としている。いわゆる城郭ではなく牛込氏の居館中心の中世の城で、江戸城の出城の呈。大手門は神楽坂、裏門は南藏院に通じる十字路辺り。居館は「光照寺境内の本堂跡辺り」と推定。詳細不明は家康に遠慮して城を取り壊し、史料も遺さなかったためだろうと記していた。

 また光照寺の向いに最近まで「日本出版クラブ」があったが、その地は明和2年(1764)に幕府命で天文方・佐々木文次郎(大田南畝と同じ御徒勝の頭)が建てた「新暦調御用屋敷(天文台)」跡だった。昔の同地眺望の良さが伺える。牛込氏、さぞご満悦で江戸を眼下に見渡していたと想像できる。

 「光照寺」に隣接する地が江戸時代は「牛込仲御徒町」(現・中町)で、弊ブログでお馴染みの大田南畝(蜀山人)が1749年に生まれている。小生は彼の『江戸生艶気蒲焼』原文筆写までしているも、迂闊にも彼がこんな狂歌を残していたとは知らなかった。「こどもらよ笑はば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」。坂道がぬかるんでいたか、はたまた酔っていたかで藁店(地蔵坂)で転んだ姿を子供らに見られてとまどいの心を詠ったのだろう。

 写真上は閉門中の「光照寺」。写真中は「牛込氏(0)」でアップの「江戸切絵図」で示した「牛込城」地域。写真下が「光照寺」裏側から撮ったもの。図書館が再開したら『大胡系牛込氏の研究』と『牛込氏と牛込城』を読んで紹介したく思っています。

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