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①山鹿素行と祖心尼の関係 [牛込シリーズ]

yamagasokouzou_1.jpg 東西線「早稲田」駅近く「宗参寺」に「牛込氏」の墓あり。そこから「牛込氏」をお勉強したが、同寺に「山鹿素行」の墓もあって驚いた。その驚きは、昨年の金乗院(目白不動)墓地で「丸橋忠弥」の墓を見たのに似ていた

 かかぁが「おまいさんは〝丸橋忠也〟も知らないのかえ」と呆れつつ、由比正雪の噺をしてくれた。今回も「山鹿素行」の話を持ち出せば、かかぁは三波春夫『元禄名槍譜俵星玄蕃』の長科白を唸り出しかねない。~時は元禄15年12月14日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流の陣太鼓。しかも一打ち二打ち三流れ。おもわずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え「おぉ、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ~」

 小生、かかぁが唄い出す前に慌てて「山鹿素行」のお勉強に相成候。参考書は人物叢書の掘勇雄著『山鹿素行』。『日本の名著 山鹿素行』(中央公論)。忠臣蔵の山鹿素行の墓が、なぜ早稲田に~と思いつつ読み出した。

 時は元和8年(1622)8月、素行は会津若松で生誕。父・貞以(さだもち)の主君は関一政(秀吉配下の蒲生氏郷与力大名。戦功で白河城5万石)。父は関家の亀山~白河~川中島~多良(岐阜)への転封に従いつつ、その途中で祖父を失い父が報録200石を継ぐ。さらに亀山~黒坂(鳥取)へ。ここで事情不明も「同輩を撲殺して」会津へ奔り、会津時代の馴染・町野幸乃を頼った。

yamagasokou_1.jpg 町野幸乃は貞以を自分と同じく蒲生秀行に仕えしめんとするも、幸乃も秀行もその途中で死去し、蒲生家仕官ならず。加えて蒲生家は嫡子なく領地没収。町野幸乃の嫡男・幸和と貞以は江戸(神田)で浪人生活に入った。素行が生まれたのは、会津の町野家に奇遇の時で、彼は6歳まで町野家屋敷内で育ったが、ここで驚いたのは町野幸和の妻が後の「祖心尼」だったこと。

 最近の弊ブログお馴染みの「祖心尼」。牛込天神町「斎松寺」の祖心尼~。春日局亡き後の大奥の長・祖心尼~。彼女の娘が産んだ「お振」が家光側室になり「千代姫」を産み、千代姫が尾張藩2代徳川光友に嫁いだ。祖心尼は家光からの拝領の寺領地一部4万6千坪を光友に譲って尾張藩下屋敷=戸山荘が誕生。さらには斎松寺一画に由比正雪が住んでいたの説もあり~の祖心尼です。

 祖心尼35歳の時に生まれた素行は、6歳まで同屋敷で育ち、両家の江戸浪人時代も一緒に暮らしたか。祖心尼が素行坊やに勉強を熱心に教えて才能を開花させたと思われる。6歳~8歳で「四書・五経・七書・詩文」を読み覚え、9歳で林羅山に入門。この入門も、祖心尼が遠縁の春日局の子・秋葉丹後守勝正から手をまわして実現させたとか。

 町田幸和は浪人5年後の寛永9年(1632)に5千石で家光に仕え、左近殿新組与力廿騎で仕官。貞以は剃髪して町医者へ。貞以の長男(正妻の子で素行より18歳上)が与力になった。素行は神童の誉れ日々高く、11歳で2百石で抱えたい藩主も現れるも、父はより有利な条件を求めて応じず。素行、15歳で「四書」を講釈。儒学者として歩み出した。21歳で修学終了し、一人立ちの学者として社会に乗り出した。(続く)写真は国会図書館デジタルコレクション『配所残筆』(大正2年刊)の口絵より。

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「コロナ後の世界」から~ [読書・言葉備忘録]

coronagonosekai_1.jpg 新型コロナウィルスの感染拡大と死、人種差別、大洪水、政府の無能さ~。そんな情報ばかりに日々接して気が滅入った。気分転換に新宿紀伊国屋の「新書コーナー」を覗いた。『コロナ後の世界』(文春新書)を購った。惹句は~現代最高峰の知性6人への緊急インタビュー。興味を持った2人の主張をまとめてみた。

 まずはスコット・ギャロウェイ教授『新型コロナで強力になったGAFA』。例の通り勝手解釈~ コロナ・パンデミックで他企業困窮の最中に、巨額キャッシュを溜め込んでいたGAFAは、次々にIT企業を買収して株価最高値を更新している。

 GAFAの「ネットワーク」独占はさらに進み、その支配から新たな企業が市場開拓する余地がなく、またイノベーションも起き難い状況になった。世界の支配的メディア企業=フェイスブック、グーグルのビジネスは、より多くの広告収入を得るべく、記事や投稿が「よりつながること」を追求する。(カルフォルニア大ダイアモンド教授は「コロナウイルスには脳がないから意図もない。彼らの目的はただ一つ〝増殖すること〟」と記していて、GAFAと妙に一致する。両論を結び付ければ「GAFA=コロナウィルス」になるから不気味だ)

 ギャロウェイ教授は、こう続ける。「つながる=増殖」を促すミッションの最大要素が「怒り」。対立と激怒を煽る投稿が、より多くのクリックを生む(金儲けになる)。その結果、ネットワークは「ヘイト、フェイク、怒り、対立」が満ち易い。その結果、SNS使用の10代の子らに「鬱」が増加中。S.ジョブズはじめテック企業幹部は、自分の子らにはデバイスをつかわせていないとか。

 フェイスブックには思想・脳がない。「我々はメディアではなく、プラットフォームに過ぎない」と社会的責任を回避している。「ネットワーク」を独占しながら、彼らは国の在り方、国際社会に責任を持たない。そうしたGAFAの負の側面もある。彼らには選挙で落選することもないのだから~と警告する。

 次にスティーブン・ピンカー教授『認知バイアスが感染症対策を遅らせた』。氏は「ネットワーク」に限らず、ジャーナリズムの「ネガティブな認知バイアス」のリスクを指摘する。マスコミも平和なニュースや客観的データよりも最悪のことを選んで報道する「=ネガティブなバイアス」と云う〝バグ〟を有していると指摘。(日本でも〝事件〟が起きると嬉々とした表情に一変する女性キャスターがいる)

 報道もネガティブな情況や数字中心の報道が多い。さらに「ネットやツイッター」には、自分が見たい情報しか見えなくなりがちで(=フィルターバブル=利用者に合せた情報が作為的に表示される)、自分がバイアスに囚われているのを忘れ、違う意見の人こそ偏見に囚われている~と思い込む仕組みに嵌りがち~だと指摘。

 ここでスウェーデンの環境活動家グレタさんに言及する。気候変動の問題を「善対悪」の枠組みに嵌めること、邪悪な企業を打ち負かすという構図も危険だと指摘(日本にも、その手法が得意な知事がいる)する。「8年半経たぬうちに二酸化炭素の許容排出量を超えてしまう」と叫ぶが、気候問題は8年半では解決できないだろう。非難すると同時に新たな新エネルギー開発への展望も語って欲しかったと言う。

 「ネガティブなバイアス=バグ」を除去すれば、18世紀中期の平均寿命29歳が、今は71.4歳に伸びている。世界総生産も2百年でほぼ100倍になり、人類は天然痘やペストの危機も切り抜けて来た、インフラも政治形態も改善され、今は小さなデジタル末端で世界の知識を持ち歩けるようにもなった。次世代原子炉はモジュラー式で小型化され、冷却システムも改善されて安全性を増している。それらにも眼を向けるべく、そのためにはまず「落ち着け」と忠告したいと記していた。

 長期レンジ、客観的データを見れば、原発やAIより懸念すべきが「核兵器廃絶」で、格差より「不公平是正」を、コロナ感染もモニタリング態勢の強化、検査体制の確立、防護服やワクチン開発が大テーマであることも見えて來るだろうと説いていた。コロナ自粛中の読書にお勧めの新書紹介でした。

 また「コロナ、人種差別、大洪水被害、為政者の無能~」情報洪水の中に、小生ファイルには異常気候に関するクリッピングも増え続けている。それはいずれまたの機会に~。

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矢来町⑤酒井忠勝とは~ [牛込シリーズ]

rekisisakaihon_1.jpg 新宿歴史博物館発行『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』、『矢来町遺跡Ⅲ』の「小浜藩酒井家について」、そして赤木駿介の小説『春潮記』を参考にする。

 酒井家は徳川宗家の始祖から出た松平氏の別流で一、二を争う家柄。徳川将軍家に仕えた譜代の家系。左衛門尉酒井と雅楽頭(うたのかみ)酒井の二流に別れ、雅楽頭酒井はさらに忠勝の父・忠利のときに分家したので三家になった。左衛門尉酒井から家康四天王の筆頭、酒井左衛門尉忠次(家康の主な戦いに全参戦。徳川家・家老)が出ている。雅楽頭酒井からは重忠・忠利が出て、重忠の子・忠世(家康に仕えた後に秀忠の筆頭年寄。嫡孫の忠清が家督を継いだ)が活躍。一方の備後守忠利の子が酒井忠勝(幼名・与七郎)。忠勝の本家筋が15歳上の従兄弟・雅楽頭忠世。(小説家の説明はわかり易い)

 酒井忠勝は23歳で讃岐守になり、28歳で下総国3千石へ。妻は見弥。三河国長沢城主松平親能の娘。五人の女児を産んだ後に六人目に待望の男児・隼人を産んだ。元和6年、将軍秀忠の推挙で世子17歳の竹千代の補佐役見習いで西の丸に勤仕。元和9年、将軍秀忠が竹千代(20歳)に将軍職を竹千代=家光に譲り、忠勝は正式に家光補佐役になった。当時の老中は酒井忠世、酒井忠勝、内藤忠重、稲葉正勝。秀忠付きから土井利勝、永井尚政、青山幸成が年寄衆に加わった。

 寛永11年、家光が30万7千人の大行列で上洛中に、忠勝に若狭・小浜藩転封の命。越前敦賀と関東一部と入洛の便に近江高島郡も合せて11万3,500石へ。

 慶安4年、家光が48歳の生涯を終え、世子・竹千代(11歳)が4代将軍家綱へ。その宣下直前に嫌な事件が幾つか続いた。その一つが「由比正雪の乱」。江戸で丸岡忠弥が捕まり、駿府で正雪らが捕まって正雪は自刃。もう一つが刈谷城主・松平能登守定政の老中批判。さらに浪人首謀の「承応事件」。江戸中に増えた困窮浪人問題が一気に噴出した。

 忠勝はこれら事件に対処し、さらに家光没3日後に大奥の女房3,700余人に暇を出す大奥人員整理を断行後に、甥の忠清29歳はじめ青年老中らに座を譲って大老職を返上。小浜藩主も忠直に譲って万治3年(1660)に剃髪して「空印」と号し、寛文2年(1662・76歳)で矢来屋敷で没した。

 なお酒井家は14代忠禄が、明治の廃藩置県で小浜藩知事。16代当主・酒井忠道が明治17年に伯爵(大正9年に没)。酒井伯爵邸の名園とは酒井忠道時代の庭なのだろう。以上で矢来町お勉強を終わる。梅雨が明けて~、今後の矢来町散歩が楽しみです。

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矢来町④幻の酒井伯爵邸の庭園 [牛込シリーズ]

sakaiteinoniwa_1.jpg 牛込矢来屋敷の新しい庭と亭が、小堀遠州によって3年余を要して完成したのは寛永21年(1644・忠勝57歳)の時らしい。

 ~と云うことは、明治43年発行『名園五十種』(近藤正一編。博文館)で紹介の酒井伯爵邸の庭園は、明治維新で矢来屋敷が接収された後の、2万坪の酒井伯爵邸の庭(現・みずほ銀行社宅=矢来ハイツ)と推定される。よって「ひたるが池」の言及もない。明治末期から戦前までの短い間に存在した幻の名園レポート。それを以下、抜粋紹介です。

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で、梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。彌生の朝に風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。

 唯見る門内は一面の花で、僅にその破風作りの母屋の屋妻が雲と曖靆(たなび)く桜の梢に見ゆる所は~(中略)美いと云ふよりも、上品といふべき構(しつら)ひである。(中略)~応接所を出て壮麗な入側に誘かれて書院に出づると、茲に面せるが即ち庭園である。遉(さすが)に旧高十幾万石を領せられた大諸侯の園地だ。地域の廣澗(ひろ)いことは云ふまでもなく(中略)~如何にも心地の好い庭である。陽気な・・・晴々とした庭である。庭といふものが樹木鬱蒼、深山幽谷の様を写すものとのみ考へて居る人には是非この庭を見せて遣りたく思うた。

 庭は天鷲絨毯(びろうどせん)を̪敷いた如うな奇麗な芝生の廣庭で、所所に小高い丘があつて、丘の上には松や紅葉やその他の常盤木が位置よく配置され~(中略)この美い植込の彼方は一面の梅林で、見渡す限り幾百株とも知らぬ古梅が植わつて居る。(中略)~芝生の間につけられた小径を右手に進めば、刈り込んだ檜を「く」の目形に二列に植ゑて奥殿の庭との境を画せられて居るに、それを斯く構(しつら)はれたのは非常に面白い趣向で~(中略)~若し眼を上げて西南の空を見遣れば、参天の老杉と榎の大樹が霞の彼方に立ちて、一入(ひとしほ)庭の深からしむるに、此れに続く当家の菩提寺なる長安寺の木立が小山の如く聳え、後庭の桜が雲のやうにむらむらとその裾を立籠めて居る所は、この庭園の為には絶好の背景を作つて居る~。

 同誌には庭園写真1点が掲載で、粗いままアップします。きっとこの名園は戦災で跡形もなくなって日本興業銀行社宅になったのだろう。明治末期から戦前までの幻の名園の記録でした。『名園五十種』は123頁~に紹介。全文お読みになりたい方は国会図書館デジタルコレクションをどうぞ。次は酒井忠勝についてを記して矢来町シリーズを終わります。

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矢来町③小浜藩江戸屋敷の変遷 [牛込シリーズ]

sakaisimoyasiki.jpg 史跡碑には「寛永5年(1628)、徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした~と記されているが、嘉永4年(1851)の切絵図(上)の南東部は「柳沢摂津守」で、安政4年〈1857)の幕末絵図では同地が「御上屋敷」になっていて、ちょっと混乱する。

 新宿歴史博物館刊の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』でお勉強。酒井忠勝が同地拝領したのは川越藩主時代。その後で小浜藩主になった。酒井家上屋敷は寛永12年(1635)の父・酒井忠利と子・忠勝時代は二の丸内。忠勝の子・忠朝は和田倉門内。安政4年に下屋敷隣接の「柳沢民部少輔光昭の上屋敷(5,427坪)」(靑枠)を拝領し、矢来屋敷は小浜藩の下屋敷であり上屋敷になったらしい。

yaraicyokuiki.jpg また中屋敷は、元和8年(1622)に父・忠利が浜町に約1万坪を拝領して、通称「海手屋敷」。安政5年には下屋敷近くの牛込揚場裏へ。小浜藩の上・中・下屋敷が一カ所にまとまったらしい。長い歴史の中で変化し続けた酒井家屋敷だが、変わらずは藩主一族の住居「中ノ丸・奥方」(家光の御成りは140回余もあったらしい)、北側中央の「ひたるが池」、代々小浜藩主の菩提寺「長安寺」。そして数や位置は変われど家臣らの家中屋敷、長屋、矢場、馬場など。

 4万3,500坪は、現「矢来町」のほぼ全域。小生が住む集合住宅地7Fから眼下に望む「尾張藩下屋敷(戸山荘)」の1/4ほどか。同下屋敷も矢来屋敷の左斜め上「済松寺」も家光がらみ。近くに松井須磨子墓の「多門院」があり、左角横には「儒学者・林大学頭屋敷(今は墓地のみ)」(共に緑枠)、右角上に「赤城神社」。右下一帯は家康以前は「牛込城」一帯だった。

 矢来屋敷は明治維新時にほとんどが明治政府に接収され、酒井伯爵家は矢来町1~11番地の約5万坪を有し、2万坪に本邸を建てて住んでいたが、戦後は本邸跡に日本興業銀行(今は総合されて)~みずほ銀行社宅「矢来ハイツ」になっている。庭園の茶室は、現在は杉並区柏の宮公園に「林立亭」として移築されているらしい。

 残りの3万坪(約850戸)は賃貸していたが、これも大正時代に売却。この際に住民と価格面で相当にもめたそうな(ネット検索すると、そんなことまでヒットする)写真下は明治40年の矢来町地図。

 次に名園の誉れある酒井家庭園を紹介した明治43年の『名園五十種』を読んでみる。

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矢来町②鏑木清方旧居跡 [牛込シリーズ]

yaraikoen_1.jpg 「矢来公園」の「小浜藩邸跡・杉田玄白生誕地」史跡柱を見た後に公園周りを歩くと、令和2年設置の真新しい「鏑木清方旧居跡」史跡説明板あり。こう記されていた。

 ~日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯(説明板の右奥)である。

 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野年方へ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃貸し、のちに購入して、懇意の建築家・吉田五十八へ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾亭」と称した。

 代表作となる「築地明石町」(昭和2年)のほか「三遊亭圓朝像」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。ない、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。

kiyokatahon1_1.jpg 補足すると、鏑木清方は「條野採菊」の三男。父は幕末~明治の作家・ジャーナリストで、明治5年に仲間と「東京日々新聞」を創刊。同新聞社には福地櫻痴、岸田吟香、岡本綺堂などが入社。また「やまと新聞」も創刊し、圓朝の人情噺速記に月岡芳年の挿絵などで人気。明治20年に同社近く(木挽町)に歌舞伎座竣工。そんな明治の下町暮らし、文人や芸人との交流、思い出が綴られたのが昭和36年刊『こしかたの記』、昭和42年刊『続こしかたの記』。清方の挿絵デビューも「やまと新聞」挿絵だった。

 『続こしかたの記』には「夜蕾亭雑記」と題した五編が収録。その書き出しは「矢来町三丁目は、もと酒井邸の構内で、住居のあたりも字を山里と呼んで、隣家の庭には幾抱へもある銀杏の老樹が聳え立つた。久宗元台湾銀行理事から譲り受けたこの家も明治中期の建築と見えて、畳を敷けば二十四畳になる洋間の応接間は先ず学者か医者を連想する~」

 「道はやがて小高く。その右側北下りの崖上にたつのがわが家である。~二階からは護国寺のうしろに筑波山が見え、西の高い小窓からは富士山を眺めることもできた。その筑波の見える画室で〝築地明石町〟を描いた」。赤城神社については「その時分は江戸初期の特色ある黒塗の柱、極彩色にした花鳥の彫物のある欄間などに、参詣の都度懐古に耽ったものである」。

 同著には、他に当時の神楽坂の町や店、文人らとの交流、関東大震災の体験などが記されている。また江戸の暮しが漂う下町(京橋、湯島)暮しの思い出や、父・條野採菊に興味を持ったが、次は「小浜藩矢来屋敷」のお勉強に移る。

 メモ:10日の東京都コロナ感染者、最多の243名。新宿区64名。新宿の定額給付金支給は14%で23区最低。九州豪雨の死者63名・不明16名。住宅被害1.3万棟。

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矢来町①小浜藩邸と杉田玄白 [牛込シリーズ]

yaraiobama_1.jpg 「矢来町」と云えば、あたしの場合は「古今亭志ん朝」だ。志ん朝が矢来町のどの辺に住んでいたかは知らないが、自分が老いて病院や養老院暮らしになった時の愉しみに、随分も前から『志ん朝CD全集』を備えている。某日のウォーキングで早稲田通り「牛込天神」から、矢来の文字に誘われて「矢来公園」へ出た。

 そこに「小浜藩邸跡」史跡柱があって、その横に「杉田玄白生誕地」とも刻まれていた。杉田玄白については、2年間のブログ「司馬江漢シリーズ」で『蘭学事始』(83歳の玄白著)を読み、似顔絵付きでアップ済。菊池寛の同題を「青空文庫」で読み、不満足ゆえ中公クラシックス刊『蘭学事始ほか』を読んだが、この矢来公園=小浜藩邸生まれとは知らなかった。

 「小浜藩邸跡」の史跡柱下の石板に、こう刻まれていた。~若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから矢来町の名が付けられました。もと屋敷内には、小堀遠州作による庭園があり、蘭学者の杉田玄白先生もこの屋敷に産まれました。

m_kaitaisinsyo_1.jpggenpaku5.jpg 改めて杉田玄白の転居歴を調べてみた。享保18年(1732)に同屋敷で生まれ、父が小浜詰になって7~12歳が小浜藩暮し。再び父が江戸勤めで矢来屋敷へ。ここで漢学と、芝の西玄哲家へ通って医学修業。

 20歳で小浜藩医として上屋敷(昌平橋内)へ。5年後に日本橋で開業。父の死で家督・侍医を継いだ37歳で新大橋の中屋敷(浜町)へ。43歳で中屋敷を出て浜町で開業。この頃にオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を藩に買ってもらって、蘭学仲間と翻訳した『解体新書』を刊。確か『蘭学事始』に、翻訳の苦労が詳細に書かれていたと記憶する。同書の「解体図」模写は平賀源内が江戸に連れて来た「秋田蘭画」を学んだ小野田直武。田中優子(現・法政大総長)は『江戸の恋』で源内と直武はゲイ仲だった~と記していた。

 さて、例の通り芳賀善次郎著『新宿の散歩道』の「矢来屋敷」説明。~寛永16年(1639)の江戸城本丸の火災で家光がこの下屋敷に避難した。まわりに竹矢来をつくり昼夜警固。酒井忠勝は以後、垣や塀を設けず竹矢来にした。また矢来町71番地あたり一帯は、明治末期までひょうたん形の深くよどんだ池があり、これを「日下が池」とか「日足が池」と書いて「ひたるが池」と読ませていた。長さ約108m、幅36m、面積800坪。(中略)こにに長さ12.6mの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられた。

 矢来公園の周りを歩くと、真新しい史跡説明板「鏑木清方旧居跡」があった。かくして次第に、この小さな「矢来公園」の明治、江戸へ惹かれて行った。

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新宿の徳川以前の牛込氏、コロナ感染者急増 [牛込シリーズ]

usigome3si_1.jpg 宿題<牛込氏7『大胡系牛込氏の研究』を読む>を、今朝やっと6月5日のブログ欄にアップです。同冊子や『牛込氏と牛込城』などは新宿の地元史として欠かせないも、共に図書館の隅で眠っているようでした。

 そんなこたぁ~好事家や閑隠居の趣味域で、今の新宿在住者にとってはコロナ感染者急増への警戒・慄き・用心が最大関心事。図書館も異常な過敏さ・警戒態勢での通常利用を再開です。この辺は歌舞伎町裏で〝夜のお勤めの両性の方々〟のお店、お住まいも多い地域ゆえ無理もありません。

 でも生活するにはスーパー、コンビニが欠かせず、さらには通院もある。近所の大病院には「新宿区新型コロナ検査スポット」もあり。同スポットに入って行く方とも擦れ違います。かくしてコロナ菌の感染から免れているのは奇跡・偶然のようなもの。

 収束するまで生き延びられましたら「ウイズコロナの達人」になるかも。皆さま、特に〝お酒と密〟にお気を付け下さいませ。また異常気象のせいだろう多発する「かつてない大雨~洪水被害」をお見舞い申し上げます。

 追記:牛込勝重が徳川家旗本になり、幕府から小日向・龍慶橋の屋敷を与えられたそうな。そこで嘉永2年(1849)の「江戸切絵図」を見ていたら、同橋際に「牛込常次郎」屋敷を発見した。小生、酒を呑みつつ誰かさんとおしゃべりするより、そんな発見が小躍りするほどうれしい。

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島村抱月「諏訪町65」判明 [大久保・戸山ヶ原伝説]

suwa65hakoko.jpg 6月7日ブログで、島村抱月の自宅「諏訪町65」がわからず難儀したと記した。新宿区図書館が7月1日より通常利用再開で、同日に「中央図書館」入館。数分で同番地が確認できた。

 地域史料コーナーで最初に眼に入ったのが「明治44年高田村・戸塚村全図」(人文社)。抱月が薬王寺から「戸塚村諏訪65」の新居に移ったのが明治44年、41歳の時。まさに当時の地図です。

 諏訪神社からちょっと右上「大字諏訪」の「大」の字の横に「65番地」(靑丸)があった。当時から今も変わらずは「諏訪神社」と「亮朝院」だけか。その線上の1/4程の位置。後に「65番地」辺りに「明治通り」が開通(池袋~新田裏の開通は昭和6年)した。

 抱月は「諏訪65番地」から「高田馬場駅」まで歩き、松井須磨子は「大久保駅」(新大久保駅開通は明治45年7月)から電車で高田馬場へ。二人は手をつなぐようにして線路向こうの「戸山ヶ原」へ向かう途中で、市子夫人に捉まった。

 数日を要してもわからぬことが、図書館へ行けば数分で解決。改めて「図書館っていいなぁ」です。貧乏隠居の小生に「マンションを売って大島ロッジで暮せばいいじゃん」と勧める方もいる。ポストには不動産屋の「高価買取り」チラシが日々投げ込まれるも、新宿区に図書館7館もあるってことが「新宿暮し」がやめられぬ最大理由です。

 昨日「国立国際医療センター病院」に設けられた「新宿区新型コロナ検査スポット」に入って行く幾人もの姿を初めて観た。昨日の都内新規感染者124人。拡大の兆し、間違いないだろう。

 抱月は大正4年(1915・45歳)、牛込横寺町に新築の芸術倶楽部に「須磨子との愛の巣」を構えつつ、全国公演の暮らし。文字通り〝密〟の中で暮して、48歳で「スペイン風邪」で亡くなった。

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物々しく「新宿図書館」通常利用再開 [暮らしの手帖]

 昨日やっと「新宿区図書館」が通常利用になった。とは云え1時間毎に「消毒・換気」30分間の休館。最寄りの「中央図書館」へ行ったが、入口には待ち人数よりガードマンやスタッフ大勢が構えて、いやはや大仰かつ物々しいこと。近所の「特定感染症指定医療機関」(全国4カ所の一つ)の「国立国際医療研究センター病院」より過敏厳戒体制で、この異常さは一体何なのだろうと思ってしまった。

 閉館続きの当初は、新宿の10万円給付配布率が全国最低レベル(今も音沙汰なし)ゆえに、図書館職員も区役所に駆り出されたか、いやまさかとは思うが蔵書全てを消毒でもしているのかしらと思ったもの。

usigomejyo_1.jpg 新宿は「東京アラート」解除後も、相変わらず〝夜の街〟の感染者増だが、上記の国立医療センター病院はじめ「かかりつけ医」、スーパー、コンビニ、ファミレスなど各病院・店舗・諸施設がとうに通常営業ながら、図書館だけが、やっと7月1日に通常利用再開で、かくピリピリの厳戒態勢。そこから今回は図書館からコロナ感染者が多数出たのかしら~(東京都は感染者が出た店名・施設名・事業者名を公開していない)と思ってしまった。

 さて、昨日図書館で『牛込氏と牛込城』(新宿区郷土研究会刊・20頁の小冊子)が館内閲覧なのでコピーさせていただき、同じく小冊子の『大胡系牛込氏の研究』(牛込博康著)、『島村抱月~人及び文学者として』(川副国基著)、『こしかたの記』『続こしかたの記』(共に鏑木清方著)を借りた。再び〝読書の通常生活〟復活です。「新宿区図書館」ありがとうございます~です。

 宿題だった6月3日のブログ『牛込氏と牛込城』を読むを、やっと追記した。★今、ニュース速報で東京の感染者100人突破。比して為政者らは「コロナここにあらず」で連夜の会食漬け。過敏、勝手、無関心、無策、国と都の責任なすり合い、厚生省ピント外れ、専門委員会~皆それぞれがそれぞれの方向で動いて収拾つかぬ日本になっている。まずは東京から沈んで行くのかなぁ~。

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