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光子⑭「パン・ヨーロッパの母」になる [牛込シリーズ]

EU_1_1.jpg 「パン・ヨーロッパ」運動の名誉総裁にノーベル平和賞のフランス首相をつとめたアルスチイド・ブリアンが就任し、昭和4年(1929)に国際連盟に提案。ジュネーブ本部に「パン・アメリカン」の旗がはためいた。翌年には英国チャーチルも「ヨーロッパ合衆国」を発表。

 だが良い事は続かない。NY証券取引所に端を発した世界大恐慌。ドイツではヒトラー台頭で第三次ドイツ出現。第二次世界大戦への不穏な動き。イタリアでもムッソリーニが出て来た。日本では昭和6年(1931)に満州事変。順風宇だった「パン・ヨーロッパ」運動は、荒波に消えた。

hitler_1.jpg 昭和14年(1939)、第二次世界大戦が勃発。ヒトラーがオ-ストリア併合、チェコ略取、ポーランドへ侵攻。フランスが対独宣戦布告も即、占領された。光子は元駐独大使・大嶋中将配慮でメードリングの村荘へ。次女オルガに付き添われて隠棲。また大嶋陸軍中将の庇護でリヒャルト夫妻はスイス~アメリカへ亡命。

 光子は昭和16年(1941)8月の日本軍真珠湾奇襲の4ヵ月前に、2度目の卒中発作で亡くなった。ハインリッヒは後に自著『美の国』で、母について「ミツは自分に課された運命を最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである」と記しているそうな。

 こう記す木村毅は、かつてウィーン滞留経験を有す外交官、武官、学者、音楽家などによる「ウィーン会」が、光子の面影を永遠にとどめておこうと執筆者に著者を推された。大戦中なれどイタリア経由でウィーンへと計画中に、真珠湾攻撃で計画断念したと告白している。

 アメリカに渡ったリヒャルトはNY大教授になって、カーネギー平和財団で「戦後ヨーロッパ連合研究ゼミナール」を担当。チャーチル、ルーズベルト、トルーマン各大統領意見の紆余曲折を経て、戦後1948年にベルギー、オランダ、」ルクセンブルグの関税同盟で「EU史」がスタート。1951年、同棲37年の女優イダが死去。1967年にFC(ヨーロッパ共同体)から1990年に仏独がEMU(経済通貨組合)。そして1993年にEUが誕生。EU史は改めて勉強するとして、リヒャルトは71歳の時に来日し「鹿島平和賞」を受賞。

 第二次世界大戦終了(1945)から75年を経た今、2度に及ぶ世界大戦の反省を忘れらしき米国は「自国ファースト」の大統領が出現し、英国でもEU離脱。日本でも大空襲~原爆投下から「こんな恐ろしい兵器が開発された今、二度と戦争などしてはならぬ」の「平和憲法」が生まれたが、今は「自国を守る軍隊なくして何が国家だ」と「軍備拡充・憲法改悪」を叫ぶ輩が蠢き出している。

 戦争の歴史を避けてきた小生だが、かつて事務所があった市ヶ谷・佐内坂近くの納戸町公園で「クーデンホーク光子・居住地」の碑に出会ったことで「日清・日露戦争」を、そして「欧州の第一次・第二次世界大戦」をお勉強することになった。

 コロナ外出自粛&熱中症を避けた冷房装置部屋での読書三昧だったが、これにて一区切り。気候もやっと秋めいてきた。読書で萎えた身体をウォーキングで復活させましょう。写真はEU旗とヒトラー。

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光子⑬ 第一次世界大戦中の子らと~ [牛込シリーズ]

mitsukoura_1.jpg 光子の次男リヒャルトは、徴兵を免れた第一次世界大戦中ずっとイダと深間の暮し。詩人リルケが、イダについて「素質の瑞々しさ、身振り、着想、演技の盛り上がり方は絶えず新しく生まれ出で、澄み切って、泉のように清らかな水を湧き出している」と絶賛しているそうな。リヒャルトは自分への財産分与分で、イダのために劇場を買おうとし、光子怒って母子関係が完全に切れた。

 1917年(大正6年)は、ロシア革命(写真下はレーニン。『レーニンの生涯と事業』昭和2年刊。国会図書館デジタルコレクションより)とアメリカ参戦の年。同年にリヒャルトはウィーン大の博士号授与式。イダ参列も光子は出席せず。リヒャルトは舞台興業がなくなったイダと、父の妹(叔母)提供の田舎の古城で戦禍を逃れた暮し3年余。

 光子も戦禍を逃れ、3人の娘と共にボヘミアの山荘暮し。ここで光子は古城暮しで学んだ農業経験から開墾~馬鈴薯作りで大収穫。男装して前線守備兵へ馬鈴薯を届けに行ったとか(シュミット村木著は、それも作り話だと記している)。ロンスペルク城を相続した長男ヨハネス(ハンス)もまた光子の意にそぐわぬ嫁を迎えて母子断絶。

 1918年11月、ドイツ系オーストリアとチェコスロバキア、ハンガリーが各共和国成立宣言。どん底まで疲弊した欧州に一条の光となったのが、未だ30歳前の若きリヒャルトの『パン・ヨーロッパ(Pan Eureope)=ヨーロッパ合衆国、ヨーロッパ共同体)構想だった。

lenin_1.jpg 欧州は米国の2/3の広さながら28国家あり。各国で言語も通貨も違う。各国が自衛軍備を備え、国境に要塞も設けている。比して米国は48州あるも言語も通貨も同じで、関税や交通障害もない。

 第一次世界大戦で疲弊した欧州復活もそうあるべきではないか~という提案。その大運動のリーダーに若きリヒャルトが躍り出た。月刊『パン・ヨーロッパ』も発行。一方日本でも岡倉天心が「アジアは一つ」と叫んでいた。(パン・ヨーロッパの形が出来るのは第二次世界多選後になる)

 光子は、息子の「パン・ヨーロッパ」運動を知った1925年に軽い卒中に倒れた。以後は次女オルガが母を支える暮し。息子の著書『パン・ヨーロッパ』が永富守之助(鹿島守之助)によって日本語訳本が出版されてことも知った。

 <『パン・ヨーロッパ』著者の母=日本人のミツコ>もクローズアップされ、母と次男の10年余の別離も溶けて母子対面が実現。写真はシュミット村木眞寿美『ミツコと七人の子供達』裏表紙のミツコ。同著には7人の子らの第二次世界大戦も経たそれぞれの人生も紹介されている。7人のうち3人が博士号。2人有名作家になっている。

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光子⑫ 第一次世界大戦(B) [牛込シリーズ]

hikousen1_1.jpg 光子と第一次世界大戦②は1915から終戦までをまとめる。まずは1915年。ドイツ軍が西部戦線で史上初の毒ガス使用。ドイツ潜水艦「Uボート」が英国大型客船を撃沈。イタリアがオーストリア、トルコ、ドイツに宣戦布告。ブルガリアがドイツ、オーストリアと秘密同盟。セルビア軍がギリシャへ退避。

 大戦3年目の1916年。2=12月「フランス・ヴェルダンの戦い」では両軍死傷者70万人。フランス軍前線にドイツの砲弾が雨霰。ユトランド沖(北海)で英独主力艦隊の最初で最後の大海戦。ドイツ27隻(11隻損傷)、英国37先(14隻損傷)。

 東部戦線ではロシアが大攻勢。1週間でオーストリア軍20万人を捕虜。フランス北部では英軍は隊列崩さぬ進軍で、退避壕からのドイツ兵機関銃で1日5万7470人死傷。ルーマニアがオーストリアに宣戦布告も、反撃されて首都ブカレスト陥落。ロシアでは祈祷師ラスプーチンが暗殺される。国内もストライキ頻発。

bakudantouka_1.jpg 1917年、ドイツが無制限潜水艇作戦再開。Uボートがアメリカ商船3隻を撃沈してアメリカも参戦。「マタ・ハリ」がドイツのスパイとしてフランスで処刑。1月、ロシアで飢え・反戦・専制政治妥当の5万人デモ。3月にはデモ・ストライキの「三月革命」。オーストリアでも秘密講和交渉(失敗)。ドイツ軍ゴータ爆撃機でロンドン空爆。開戦当初はツェッペリン〈気球船)で爆撃も、イギリスが高性能の対空砲、戦闘機改良に対して誕生したのがゴーダ爆撃機。

 フランスも軍内部の反乱。各国、大戦の疲弊で吹き出した。イギリス軍がフランダース地方のドイツ前線の地下に張り巡らせた坑道に仕込んだ500トン地雷を爆発。1万人余のドイツ兵が亡くなり7千人が捕虜。

 ロシアでは「レーニンとトロッキー」登場で連合国を離脱。ロシア革命時には「サマセット・モーム(小説家)」が英国諜報員として工作活動を行っていたとか。

 同年にリヒャルドはウィーン大卒業で、博士号授与式にイダ出席も、光子は拒否。イダの舞台も無く、二人はアルプス連山の麓メーレン地方の古城で隠棲。光子は長男次男が戦場で、4男は高校寄宿舎。3人の娘と静かなストッカウの村荘へ避難。光子は古城時代bakuha_1.jpgの農業管理の知識を生かして開墾~馬鈴薯作り。大収穫で前線兵士へ男装して届けたとか。

 1918年、大戦は収束へ動き出す。年頭に米国大統領が「平和のための14ヶ条」。中央同盟軍でもドイツ離れで、オーストリア軍では6~9月の脱走兵40万人。ロシアは離脱も、アメリカ軍が西部前線に140万を集結。アメリカ軍の死傷者32万人(戦死者11万6千人)。イタリア戦線でアメリカ赤十字の救急車運転手「アーネスト・ヘミングウェイ(18歳)」が負傷とか。アメリが軍による「スペイン風邪」が世界中に蔓延(全世界の推定死者2700万人)。

Uboat1_1.jpg ロシアでは元皇帝一家(ニコライ夫妻と子ら11名)が処刑さる。ブルガリア、トルコが休戦。オーストリア、ドイツも休戦を模索。4年3ヶ月の大戦の軍関係の死者推定900万人。民間人を含めると1600万人とか。1918年11月、ドイツ休戦協定調印、ドイツ系オーストリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー各共和国成立宣言。

 1919年1月、パリ講和会議開始~ヴェルサイユ講和条約調印。戦後処理の不満がくすぶったか1939年9月にはヒトラーのポーランド侵攻で、再び第二次世界大戦へ。

 写真は『大戦争写真帖』(大正4年刊)国会図書館デジタルコレクションより。

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光子⑪ 第一次世界大戦(A) [牛込シリーズ]

eidokusen1_1.jpg 光子さんにはいろんな事を勉強させられる。日清・日露大戦に続き、今度は無知の第一次世界大戦です。参考は木村靖二著『第一次世界大戦』と飯倉章著『第一次世界大戦史』。

 まず発端はサラエボ事件(ボスニアの首都サラエボ訪問中のオーストリア皇帝の皇太子フェルディナイト大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者に暗殺された)。暗殺者グループがセルビアの情報機関の支援を得ていたことが判明。

 上記大公夫妻と懇意のドイツ皇帝カイザーが、オーストリアは「ドイツの全面支援を当てにしてよい」の〝白紙小切手〟(セルビア背後のロシアが出て来た場合はドイツも動くの意。なんだか日米の関係に似ていなくもない)。セルビアもロシアの「白紙小切手」を得て、バチカン半島で第一次世界大戦が始まった。

 当初は当時国間の戦いで留まる筈だったが、ロシア総動員令でドイツ・フランス共に総動員令で戦線布告。ドイツ軍がルクセンブルグ(ベルギー・フランス・ドイツに囲まれた公国)に侵略。イギリスもフランス支援で参戦決定。

 かくして「ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリア=中央同盟国」VS「ロシア・フランス・ベルギー・モンテネグロ・イタリア・ルーマニア・ポルトガル・ギリシャ・アメリカ・日本も参加の連合国」という全欧州を巻き込んだ大戦に拡大。光子の長男・次男は徴兵され、次男リヒャルトは病患ありで不徴兵でイダの許を離れず二人は結婚へ。光子、次男を勘当する。

tintao2_1.jpg 日本は、日英同盟の関係上で、ドイツ租借地の中国山東半島・靑島のドイツ海軍基地VS香港英国海軍に加担。山東半島のドイツ軍4,600人に日本軍6万人が総攻撃。

 バチカン半島ではオスマン帝国(トルコ)軍がコーカサス地方のロシア領に侵攻。ロシアがイギリスに救援を求めて逆転。英仏艦隊はガリポリ半島(トルコのエーゲ海へ伸びた半島)のトルコ軍を攻撃。

 西部戦線(ベルギーからスイス国境)では、ドイツがベルギーを攻略。フランスはドイツ領にされたロレーヌ地方奪還を試みるも敗北。両軍死者それぞれ20万人。ベルギー南西部ではイギリス大陸派遣軍とドイツ軍が戦闘。ドイツは英仏軍を撃退し、パリ近郊まで迫る。

 一方、東部戦線はロシアがセルビア支援を後回しにして、ドイツ領の東プロイセンのドイツ軍を攻め、オーストリア~リトアニア~ベルリンへ進軍。オーストリア軍はドイツの援軍を得て反撃に転じた。ドイツ・オーストリア軍はロシア領ポーランド~ワルシャワへ進撃。

 1914年6月のサラエボ事件から同年12月までの戦闘で死傷者フランス軍26万5千人、ドイツ軍14万5千人とか。行方不明者も多大で、その大半が捕虜とか。狭い欧州全土に戦火拡大で、さらに激しい展開になる。

 写真上は英軍・独軍の歩兵激戦。写真下は日本軍の青島攻城軍の入城。(大正4年刊『大戦争写真帖』より。国会図書館デジタルコレクション)

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光子⑩ 夫亡き後~ [牛込シリーズ]

IMG_3590_1.JPG ハインリッヒは自著『意思の世界』執筆中の明治37年(1904)に日露戦争勃発を知った。「オーストリア・ハンガリー帝国」はロシアと反目しているが、力不足で威伏状態。同じ小国・日本が超大国ロシアに宣戦布告し、誰もが日本惨敗を思って同情していたらしいが、ハインリッヒだけは日本勝利を予言。光子は壁に貼った地図に、勝利地をピン止めし、その都度、貴族仲間や領民らがお祝いを言いに訪ねてきたとか。

 そして明治38年(1905)の旅順陥落に、ハインリッヒは旧知の柿崎博士に慶祝書簡を送った。「日本がまた功名を遂げた。欧州も米国も驚くのみ、だが安心してはいけない。この無謀な戦争は、やがて廻り廻って自分に襲ってくる~」と警告。(忠告通り後、日本は太平洋戦争で無残な結果になる)

 翌・明治39年5月、ハインリッヒは執筆前の散歩途中で胸の痛みを覚えて47歳で急逝(シュミット村木著は他殺、自殺説に言及)。ややして庭に煙が上がった。「私が死んだら、その日に焼却せよ」の遺言通り従僕が彼の40冊余の日記を焼却していた。

 それまでの母を次男リヒャルトは自伝で「母は日本人形に似ていた。忍従と諦め、強い自己抑制。母は絵を描き、和歌を詠っていた」。南川三治著『クーデンホーク光子』は写真集で、光子が庭でスケッチをしている姿、また10数冊のスケッチブックの絵を多数紹介。なかなか達者な作品です。

 夫の死で、光子は一変した。遺書はロンスペルグ領地を長男ヨハンへ。他の全財産と子供らの後見を光子に託していた。これに家族親戚は異を表して告訴。だが光子は目覚めた雌獅子の如く立ち上がり、鉄の意思・魂で法廷論争で勝つ。そして夫の専制的管理者の姿勢も見習ったそうな。

 光子は子らを南チロルで教育を受けさせるも、子らが田舎じみるを嫌ってウィーンのオーストリア最高の学校テレジャヌス・アカデミーヘ入れ、自身もボヘミアからウィーンへ移住。末娘イーダは吉沢・元大使への書簡に「母は社交界ウィーンで優雅に美しく装い、快活で機智に富み、魅力的な花形としてサロンの中心だった」と認めているとか。松本清張の記述のはかなり違う。「母は乗馬、泳ぎ、テニス~あらゆるスポーツもこなし、劇場やオペラに足しげく通った」。光子36歳~40代前半の時期だろう。

 次男リヒャルトによれば、母の社交界の花形振りは、古城で読み耽っていた英文恋愛小説ゆえだろう」と記し、木村毅は、少女時代に「紅葉館」で働いていた素養があってのことだろうと記している。

 大正2年(1913)、次男リヒャルトはウィーンの大学へ。専攻は哲学と世界史。ウィーンは世紀末の文化爛熟期で、光子は当時人気絶頂の新女優イダ・ロ-ランの芝居に長男次男を連れていった。リヒャルトがイダに夢中になり、イダも彼に熱を上げた。彼は未だ大学1年生、イダは母・光子に近い歳。二人の大恋愛が始まった頃、第一次世界大戦が始まった。

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光子⑨ 松本清張の光子 [牛込シリーズ]

saraebojiken_1.jpg 松本清張『暗い血の旋舞』は、光子のロンスペルク城の暮しを、次男リヒャルト『回想録』『美の国』からこう紹介していた。

 ~兄弟は庭園を囲む壁の中で外界と遮断したように暮した。庭園、屋根裏、中庭、台所、地下室、礼拝堂。二階の城内劇場、食堂、図書館(父の書斎)、有名哲学者らの多くの胸像~。

 小生が古城暮しに触れるのは、堀田善衛『ミシェル城館の人』以来。クーデンホーク家は代々の「伯=小部族長」のドイツ系貴族。食事は燕尾服の貴族趣味。だが彼らがロンスペルク城で暮らし始めた時期は、チェコ人の民族運動が次第に激しくなっていた。

 松本清張は若き日に木村毅『小説研究十六講』によって小説家を志し、大家になって木村毅が著わした『クーデンホーク光子伝』に挑戦し、師とは違う角度で描こうとした。クーデンホーク家と同じボヘミアのホテック家(反カトリック)を描き、さらに光子家に出入りしていた駐墺大使館の武官(山下陸軍少佐)の神出鬼没の眼を通して民族独立運動、ドイツ民族党、反ユダヤ主義のキリスト教社会主義の三つ巴のなかで光子を描こうとしたらしい。

16saiseicyo.jpg ホテック家は第一次世界大戦の引き金=サラエボ事件(オーストラリア皇帝の皇太子フェルディナイト大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者に暗殺された)のゾフィー実家がボヘミアの大地主ホテック家。第一次世界大戦の発端となったゾフィーのホテック家と、光子次男リヒャルトによる「パン・ヨーロッパ」運動をも対比しつつ大スケールで描こうと試みる。

 光子はロンスペルク城暮し12年(夫死後2年を含む)後に、自身もウィーンに移住したが、その裏に城周囲のチェコ民族運動の活発化があっての移住だろうと推測し、通説「光子はウィーン社交界の花」も、日本人で未亡人の光子がウィーン社交界の花になれようはずもないと考える。

 さらには光子は江戸時代がつくった女性像「執念・忍耐」を体現していた。芝・紅葉館で働いたのも行儀見習いではなく、父・喜八がそこに集う名士らとの〝良縁〟を求めてのこと。その証拠に喜八は光子結婚に「商売発展の多大な金銭」を受けている。江戸時代に吉原に身売りされた女は、実家の敷居を跨がない風習も光子に生きていたのではないかと記す。

seicyo2touhei.jpg 帰国したハインリッヒが外交官を辞めて領地管理をするようになったのも、ドイツ人に対するチェコ人農奴への警戒感があってのこと。ゆえに専制的態度で臨むことによって領主維持ができると考えた。光子にもそのように教育した。光子が夫の死後に性質一変して、領民や子らにも専制的に接し出したのもその影響があってのことだろうと記す。

 同書はそんな意欲的視点で臨んだ「取材ノートに過ぎず」とでも言っていいのかも知れない。清張はその後に完全版を書く積りだったろうが、それを果たせず5年後に亡くなった(伊豆大島墜落「もく星号」書は三度も書き直している)

 それでも同書最後は、プラハ道端でビスケット売りのボヘミア女に、己の母の姿をダブらすシーンで終わっている。不甲斐ない父。母は小倉や下関で露天商や餅屋で生活を支えた。読み書きも出来ぬ母だが、粘り強い強靭性と意地があった。清張はボヘミア女の露天商の女と己の母、さらには青山光子をダブらせたところで同書を締め括っていた。

 写真は国会図書館デジタルコレクション『大戦争写真帖』(大正4年刊)より。キャプションは「サラエヴオの凶変に全欧禍乱の導火線となりし墺皇儲殿下とその家庭~」とある。画は作家以前の松本清張。小学校卒後の給仕時代、徴兵時の松本清張。少年要寝ん・青年時の清張は未だ下唇は出ていずハンサムボーイだった。

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光子⑧ 日露戦争 [牛込シリーズ]

kikutikutie_1.jpg 明治35年(1902)の日英同盟が日露開戦の弾みになった。英国は領土拡張から輸出拡大期になって、東シナ海の自由運航・自由貿易が最重要でロシア南下に懸念。同時に英国は日本が軍需産業の最大顧客。日清戦争(14年前)の6万トンが、英国軍艦購入13.8万トンで計25万トン。戦艦6隻、重巡6隻、軽巡3隻の艦艇全94隻。日清戦争時の海軍力32位から一気に第5位(ロシアはその5倍)。陸軍も7個師団から13個師団(ロシアは75個師団)。

 桁違いの大国ロシアを敵国に定め、国家予算4割強の軍事費。国民は増税に泣き耐えた。海軍司令部が陸軍参謀本部と対等に昇格。連合艦隊司令長官に東郷平八郎。御前会議5回を経て明治37年(1904)に開戦決定。

 このとき「万朝報」の開戦同調に異を唱えて境利彦・幸徳秋水が退社声明。内村鑑三も論壇から退く宣言。それを読んだ荒畑寒村少年が感激していた。堺・幸徳が『平民社(平民新聞)』を創刊。この辺は既に勉強済。https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2012-06-25

 2月8日、旅順港奇襲攻撃。仁川港のオトリ役「千代田」が湾外に誘い出したロシア巡洋艦、砲艦を撃沈で日露戦争の初勝利。次に旅順湾閉塞作戦。三度試みて17隻を沈めるも航路塞げず。

nipponkaisen_1.jpg 陸戦は第1軍が鴨緑江を渡って九連城を攻略。第2軍は南山戦で苦戦。機関銃砲を浴びて4300名が死傷。横から攻め、艦砲援護も得て被害甚大なるもロシア軍退却。与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」。大本営(為政者、軍人)は死者の個々人を無視して数字(グロス)で捉える怖さ恐ろしさよ。

 旅順港では名著『海軍戦術論』のマカロフ指令長官の旗艦が、前夜に仕掛けた機雷をひっかけて爆沈。マカロフ中将の死に、日本では提灯行列で追悼とか。兵士の̪死はグロスで処理し、英雄のみ美化する変な風潮が蔓延っていた。

 陸軍は南満州の要塞・遼陽でロシア22万5千人と対峙(日本軍13万5千人)。日本軍は脚気(森鴎外の怠慢)と弾丸不足。退却するロシア軍も追撃も出来ず。旅順は日清戦争時が1日で陥落も、今回は203高地で死傷者6万人の犠牲を重ね、5カ月を要した。高地頂上から旅順港を見下ろせば、山越え弾が当たった旅順艦隊が全滅。遼陽戦は奉天まで退いて厳冬期休戦を経たロシアが耐寒装備コサック騎兵で攻撃開始。苦戦を重ねて辛勝す。

 一方、バルチック艦隊がバルト海を出航していた。英国が行く先々で石炭の補給妨害などの嫌がらせ。艦隊がウラジオストックへ向かうには宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡か? 日本艦隊(40数隻)は波の荒い朝鮮海峡で砲撃訓練を積み、火薬や信管も改良して準備万端。信濃丸が五島列島付近でバルチック艦隊を発見。対馬ルートと判明し「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」も敵艦隊の先方をUターンし、最初の30分で攻勢。夜襲も成功してロシア艦隊38隻のうち25隻撃沈、7隻捕獲の大勝利。

 明治38年8月10日、ポーツマス講和。小国が清国の次に超大国ロシアをも破って列強国入り。9月5日に日露戦争終結。大将らが伯爵になり、高級軍人計131人が爵位。半藤一利は「日露戦争は勝ち過ぎた。事実を隠蔽して美談や神話ばかりが膨らみ、戦勝気分に浮かれて軍部の慢心が始まった」。「富国強兵」に耐えてきた国民も目標を失った。36年後に太平洋戦争~。

 写真は『日清日露戦争物語~附・アジアの盟主日本』(菊池寛他、昭和12年刊)の口絵(国会図書館デジタルコレクションより)

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光子⑦ 日清戦争 [牛込シリーズ]

nissinsensouryojyun_1.jpg クーデンホーク家のドラマは日清・日露戦争時代になる。小生、学校で習ったかも覚えていないので、一度は復習する必要がありそう。

 幕末は「尊王攘夷」。尊王(天皇)・攘夷(外国勢力の撃退)から明治維新へ。軍人勅語、教育勅語~そして明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」発布。開国して国の形が整うと、世界・諸国が見えて來る。

 朝鮮半島の危ういこと。朝鮮の大銀行が「露清銀行」。それを象徴してロシアが不凍港を求めて南下し、朝鮮を保護指令する宗主国=清国がいる。露清大国に英国も絡み、朝鮮は大国と密約・暴露されつつ揺れ続けている。(その姿は今の韓国も同じ。日本はバンドワゴン=米国頼りだ)

 そのうちに挑戦内乱。政府は清国に援軍を要請。清国軍が半島に入ってくれば、権力均衡維持に日本も軍隊派遣。清国の朝鮮駐在・袁世凱が突如帰国で、実力者を失って狼狽する朝鮮の隙を狙って、日本は王宮内に隠棲の大院君(明治15年に逮捕)を担ぎ出して親日派政府を組織。これが日清開戦の契機になった。

nissinsensounisikie_1.jpg 清国はソウル南の成歓に陣を張った。戦闘1時間半で清軍潰走。その数日前に仁川の西・豊島沖でも、清国増援兵輸送の護衛軍艦を日本艦隊が撃沈・敗走させた。清軍の増援軍1万余が南下して平城を占拠すると日本軍が包囲。それだけで清兵は戦意を失って日本軍は平城入り。日本海軍は黄海で清国・北洋艦隊と4時間ほどの戦いで3艦撃沈ほか大損害を与えて旅順1日で陥落。

 半藤一利は「司馬さんは『坂の上の雲』の日清戦争の章を<勝利の最大因は、その頃の中国人は国家のために死ぬという観念を持っていなかった」と締めくくっている」を紹介。明治27年(1894)の日清講和条約で日本は遼東半島と台湾澎湖島を手に入れ、日本の国家予算4倍もの賠償金を手に入れ、戦費のほとんどを補った。

 再び半藤一利「勝海舟はこの戦いは大間違い。支那5億の民衆は日本にとって最大のお客様なのに~」の言葉を紹介。(これまた現代に通用)

 日清講和から1年後、明治28年の三国干渉(ロシア主導でフランス、ドイツ)で、日本は遼東半島全面放棄。だが3年もせぬ間にドイツが膠州湾(青島)を、フランスが広洲湾を、ロシアが旅順・大連を含む遼東半島を租借。満州も事実上占拠した。

 以後の日本はロシアが仮想敵国になる。超大国相手ゆえ、軍備充実に国家予算4割強を充てた。この項の参考は中公『日本の歴史』22巻、文春新書『徹底検証 日清・日露戦争』(座談会構成)。次に「日露戦争」もお勉強する。写真上は明治27~28年刊『日清戦争写真石版』より、写真下は明治27年刊の『日清軍艦開戦之図』より。共に国会図書館デジタルコレクション。 

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光子⑥夫の帰国、光子の初渡欧 [牛込シリーズ]

IMG_3588_1.JPG ハインリッヒが「オーストリア・ハンガリー代理公使」として駐日中に遺した仕事は外交面でなしも、「日本初オペラ」と「仏教各派融合」が果たしたそうな。オペラは、彼がアマチュア同好者を集め、日清戦争への赤十字寄付を目的に明治27年(1894)11月に東京音楽学校奏楽堂で「ファウスト」の第1幕・書斎の場を上演。上演中に「旅順要塞陥落」報に、舞台中断で観客総立ち『君が代』が唄われたとか。また公使館は仏教各派高僧を招いて懇談の場の提供していたらしい。

 ハインリッヒが明治28年3月に光子との正式結婚と長男・次男の戸籍を正しく改めた翌年春に、一家は神戸出航のオーストリア「ギゼラ号」で旅立った。光子21歳。不安で胸が潰されそう。一方の夫は次男誕生の同時期に、祖国の父逝去の報に接し、家長の責任に奮い立っていたらしい。

 なお光子は、渡欧前に皇后陛下(後の昭憲皇太后)に拝謁。「ヨーロッパに行っても決して祖国の名誉を忘れぬよう~」のお言葉と、彫刻入り象牙の扇を賜った。

 旅は二人の幼児、乳母と保母、侍僕の計7名。香港~シンガポール~セイロン~インド~アラビア~エジプト。ここから子供と乳母らは一路ロンスペルタ城ヘ。夫妻はエジプト~パレスチナ~イタリアを回って明治28年(1896)にオーストリアのチロル州インスブルックで初めて夫の祖国の地を踏み、ここからバエルン~ボヘミア(現チェコ)のロンスペルクへ。村人総出の出迎え。沿道にはオーストリアと日章旗がはためていた。この旅行記はシュミット村木眞寿美『クーデンホーク光子の手記』に詳しい。

 ロンスペルク城の荒廃酷く、当初は迎賓翼(左右の建物)に住み、修理・内装が施された後に本館に移り住む。来客絶えず。ハインリッヒは子を両国文化の子ではなく、ヨーロッパ人として教育。乳母らを日本に帰し、母子らに日本語の会話も禁じた。

 ハインリッヒは領地管理者の不正を見つけたことで、外交官を諦めて領主(地方の王:農業経営)の道を選び、併せて大学で哲学博士の試験に挑戦。学位論文は『ユダヤ人排斥主義の本質』。オーストリアはドイツとロシアの橋渡し役をすべきと主張。家庭では領主仕事と学問は、光子に立ち入り拒否の絶対専制主義。

 光子も育児の他はドイツ語、英語、フランス語。歴史やヨーロッパ風の立ち振舞いを学ぶなど独自の勉強。夫婦それぞれの世界を尊重、かつ立ち入らぬ生活。それでいて晩餐は夫は燕尾服、光子は夜会服。夜は小作りで長男次男に続く男児2人、女子3人を産んだ。

 そんなロンスペルク城の暮しが軌道にのった明治39年(1906)、ハインリッヒ47歳で急死。この時、光子32歳。夫の遺書に妻光子を包括相続人と指定しており、親族反対に光子は自ら法廷に立ちドイツ語で論戦。判事を納得させる熱弁で家長を引き継いだとか。

 夫妻が日本を離れる前年、明治27年に日清戦争。樋口一葉『たけくらべ』発表。明治33年(1900)にパリ万博。ハインリッヒ没の2年後の明治37年(1904)に日露戦争勃発。欧州にも第1次世界大戦のイヤな空気がひたひたと広がりつつあった。

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光子⑤ ハインリッヒ駐在時の日本とウィーン [牛込シリーズ]

mitsouko2_1.jpg 松本清張の「当時の外人のほとんどがそうだったように日本の骨董収集に凝っていて~」からフェノロサを思い出した。彼の来日が明治11年(1878)。その古美術蒐集・研究に尽力したのが岡倉覚三(天心。似顔絵)。

 当時の日本は廃仏稀釈で日本美術は瀕死状態。世は文明開化で西洋かぶれ。お雇い外国人の月給が数百円に比し、狩野芳崖など有名日本画家らは1円にも困る生活。古美術・浮世絵は古道具屋に満ち、外国人らは古美術蒐集に熱中。だがフェノロサの『美術真説』によって逆に洋画排斥、日本美術の保護育成が盛り上がった。それを反映して東京美術学校の初代校長は岡倉天心、副校長がフェノロサ。

 林忠正が二束三文で古道具屋で仕入れた浮世絵を、パリで売りまくって巨万の富を得た。ゴッホが最初に買った浮世絵は3フラン。瞬く間にパリ市民の1ヶ月生活費相当300フランに高騰の「ジャポニスムブーム」加熱。

 一方ウィーンでは明治6年に「第5回万博大博覧会」開催。この時の日本出品作は工芸品中心。高評価で完売するもブームには至らず。特筆すべきは随行員70名のうち20名が残って、欧州の諸技術を学んで帰国。津田仙の花粉交配技術が日本の果実栽培に革命をもたらせたとか。またドイツを追われてウィーン大学教授になったシュタイン̪氏に、伊藤博文はじめ多くの日本人が学んで明治憲法制定の基礎になった。明治天皇お気に入りの侍従も1年間はシュタイン門下生。

 ウィーンのジャポニスムは、上記から工芸品中心だったが、明治30年(1897)頃の世紀末ウィーン(文化爛熟期)を迎えてアカデミックな芸術団体を嫌った人々が「ウィーン分離派」を形成。35歳のグスタフ・クリムトが同派会長に就き、明治33年(1900)に分離派会館で「ジャポニスム展」を開催。クリムトは博物館の日本工芸品などの影響から金箔多用に平面的官能的絵画を発表し出した。

tensinmaru.jpg ハインリッヒの日本滞在(明治25年~29年)は、まさに本国でジャポニスムの時。松本清張『暗い血の旋舞』は、ウィーンのヒーツィング墓地で、光子の墓探しから始まるが、光子の墓を探し出すまえに、分離派のオットー・ワグナー、グスタフ・クリムトの墓を見つけている。

 ちなみにクリムトの弟子、エゴン・シーレはウィーン美術学校入学だが、ヒットラーは同校入試に2度失敗。シーレと妻エディットが「スペイン風邪」で死去の数年後に、ヒットラーは独裁者への道を歩み出していた。

 松本清張は「ゲラン香水〝ミツコ〟は、グーデンホーク光子とは無関係だろう。1909年にパリ刊のクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』のヒロイン名Mitsoukoからで、当時の欧州では日本女性=光子が浸透していた」と説明していた。

 写真上は我家のトイレ窓棚に長年放置の「Mitsouko」。写真下は岡倉天心の似顔絵を、今朝覚えたばかりの「楕円トリミング」でアップ。

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光子④ 光子のとハインリッヒのプロフィール [牛込シリーズ]

kanbansyasin_1.jpg 光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父は明治20年になっても「ちょん髷頭」の旧弊な男。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた。光子は当時の女児教育=奉公で躾修業。美人ゆえ芝の和風一流料亭「紅葉屋」(鹿鳴館と双璧の社交場)へ。茶の湯、生け花、和歌、三弦、琴、絵画など各師匠より習いつつの仕事。実家に戻ったのが16歳で、以後は家事手伝い。

 NHK特集「ミツコ 二つの世紀末」5話の「第1回/麻布・青山・ウィーン・ボヘミア」で吉永小百合が、光子の曾孫ソフィアを青山通りで迎え「光子の家系はこの辺一帯を持っていた大地主で~」。ウムム、それは家康の家臣・郡上藩青山家だろう。

 光子の父・青山喜八は町人。リヒャルト自伝によれば喜八は、幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。身もち悪く放蕩ゆえに、妹婿に本家を継がせ、彼は分家されたとか。

 時代は「たね油から石油」へ移る時代。油に見切りをつけて骨董屋2店を経営。上記テレビ番組では吉永小百合がソフィを三軒茶屋「正蓮寺」の「青山喜八之墓」へ案内。喜八の妻つねは、支店の妾を統括する御寮さん(次々と女に手をつけた勝海舟の年上女房・お民さんみたい)。子らは「母はそんな祖母の気質を継いでいる~」。

 次は夫ハインリッヒ。ウィーンで安政6年(1859)生まれ。光子より15歳年上。父は外交官伯爵、母も貴族マリー(旧姓カレルギ―)36歳で他界。曾祖父=初代クーデンホーク伯爵夫人は稀代の名媛で、その美しさ知性をゲーテも讃えたとか。

 ハインリッヒは12歳からウィーンのイエズス会神学校寄宿舎へ。卒業後にウィーンで青年少尉として服役。20歳の時に、フランス人音楽留学生マリーと恋愛~妊娠。彼は結婚を望むも父は猛反対。マリーが平民のため、息子が学業半ばのため、妻と同じフランス人で名も同じゆえ~と反対理由は諸説あり。

 父の城に呼び戻されて外出禁止。そんな某日、同城の花壇にマリーと女友達二人のピストル自殺遺体あり。彼はさらに祖父の山中別荘に送られ、ロシアとルーマニアの国境近くの大学で法律の勉強。(彼が亡くなる直前にマリーの子が3歳で夭死を知る)。

tukijikyokai.jpg 大学卒業後は、故郷を逃げるように外交官としてアテネ、リオデジャネイロ、コンスタンチノーブル、ブエノスアイレスへ。トルコ語、アラビア語、ヘブライ語などを習得(計18ヶ国習得の語学天才)。仏教的厭世思想=ショーペンハウエル著作を耽読する彼は、明治25年2月末に来日し、3月16日に光子と結婚。その早業に狩猟的好色と思われがちだが、次男自伝に「父はジェントルマンで、家政婦が入室でも立ち上がって迎える人」とか。光子に夢中の程が想像できる。

 「内縁・私生児」の戸籍を、正く「正式結婚・我が子」に改めると同時に、光子をカトリックに改宗させるべく築地教会内聖ヨセフ学校へ通わせた。英語とドイツ語の勉強から、同教会で洗礼から挙式。木村著には当時を知る老人の言「純白のウェディングドレスの光子さんが、空色の文官正装の六尺豊かな伯爵の腕にぶら下がるようにして聖堂から出て来た光景を覚えている」を紹介。

 写真上は史跡看板の「渡欧前の光子」。光子関連書には挙式写真が不可欠だが小生は転載不可。そこで4年前の「築地居留地・自転車散歩」の際に撮った「築地教会」です。

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光子③ 関連書著者らのドラマ [牛込シリーズ]

mituko2hon_1.jpg ここで「クーデンホーフ光子」関連書の著者についてのメモしておこう。まずは鹿島建設の鹿島守之助。氏は鹿島組の長女と結婚するまでは本名・永富守之助で外交官。ドイツ駐留中に「パン・アメリカン連合」の指導者リヒャルト・クーデンホーク=カレルギー(光子の次男=栄次郎)に会い、彼の「パン・ヨーロッパ」構想に共感し、親交を深めた。

 昭和2年(1927)、リヒャルトの『パン・ヨーロッパ』を翻訳・出版。以後、鹿島研究所出版から『クーデンホーフ=カレルギー伯爵全集(全9巻)を1970年から刊行をはじめ、光子の娘『母の思い出』(光子を看取ったオルガ著)、『結婚と孤独』はじめの(イーダ・ゲレス著作)、リヒャルドの来日後に執筆『美の国』なども出版。

 リヒャルドは鹿島に「汎アジア」も進言。鹿島は外務省を退所して「汎アジア=大東亜共栄圏」を主張で政治家を目指すも落選。「大政翼賛会調査局長」に就任。「汎アジア=大東亜協栄圏」構想は正しも軍部の暴走で道が逸れた~と語っているとか。戦後公職法追放が解除されて参議院に当選。8期務めて1971年に政界引退。鹿島建設は日本第1号原子炉、霞が関ビル、サンシャイン60、青函トンネルなど多数~。木村毅は「クーデンホーフのヨーロッパ共同体思想は、岡倉天心が日露戦争の直前に〝アジアは一つ〟と言った意と相通じると説明している。

seisyomaru5.jpg 次はすでに紹介の木村毅(き)。若き松本清張に小説家への志を与えたのが氏の『小説研究十六講』(大正14年=1925)。その木村毅が昭和45年(1971)に『クーデンホーフ光子伝』を鹿島出版会から刊。これは同年に鹿島映画が劇映画「超高層のあけぼの」全国公開ヒットになり、文部省グランプリも受賞。鹿島氏が次作に常々から構想の鹿島平和賞受賞「クーデンホーフ伯の親子」の映画化を計画。映画化に先立ってNHK放映決定で、NHK会長よりオリジナル作家として木村毅氏を推薦。木村氏はすでに『海外に活躍した明治の女性』の中で「EECの祖母~クーデンホーク・カレルギー伯爵夫人光子」なる1章を発表済での推挙。かくして昭和46年(1971)に『クーデンホーフ光子伝』を刊行。

 (※1973年のNHK「ドキュメンタリードラマ 国境のない伝記~クーデンホーク家の人びと」の原作になった。また昭和62年・1987のNHK特番「ミツコ~二つの世紀末~」(吉永小百合主演の5話放映)は、木村勉原作ではなく、松本清張の欧州取材に同行したNHKプロデューサー吉田直哉の制作で、シナリオ集も刊行されている)

 そして木村毅『小説研究十六講』によって小説家を志した松本清張は、上京すると真っ先に木村氏を訪問して挨拶。後に大家となった清張が死去5年前に執筆したのが『暗い血の旋舞』(昭和62・1987年刊)。木村氏から学んだことの集大成として臨んだ意欲作と思われるが出来栄えは~(小生感想:満点に至らずです)。(「松本清張全集」64に収録されています)

 4人目に挙げたいのがミュンヘン在住で、長年にわたって光子の取材を続けているシュミット木村眞寿美。東京都出身で早大大学院卒後にストックホルム大へ留学。1968年にドイツ・ミュンヘンへ移住、ドイツの医師と結ばれて子供を設けてドイツ国籍を取得。主婦業の傍らレポーター、通訳、翻訳、執筆。光子当時は「オーストリア・ハンガリー」だったが、その後はクーデンホークのロンシペリク城はチョコ共和国へ。著者は廃れたロンシペリク城の復興なども運動中とか。チェコに没収されている光子直筆手記を翻訳。

 光子に取り組んだ著者それぞれにも人生ドラマありで、かつ著者によって光子の捉え方もそれぞれ違って、初めて光子を知ろうとする者はいささか戸惑います。

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光子②)納戸町26番地の洋館 [牛込シリーズ]

kimurakihon.jpg 木村毅『クーデンホーフ光子伝』(写真左)には、都公文書館保存の戸籍簿が紹介されている。光子(みつ)戸籍は「牛込区牛込納戸町廿六番地」。戸主は青山喜八。光子の長男・次男の出生届は「明治廿八年三月十六日願済廃家、平民青山みつ廃家ノ上私生児」として光太郎・明治廿六年九月十五日生まれ、栄次郎・明治廿七年十一月十六日生まれ」。

 ハインリッヒは帰国を控えて「光子=内縁、子供ら=私生児」を改めるべく提出した一連の書類(都公文書館)も紹介。婚姻届け、実子認知請求届、さらに「内外人結婚ノ儀伺案」と同許可証、青山喜八から「みつ」を嫁に出したという確認証など。木村毅の取材力に脱帽です。

 また「みつ」生家と夫妻居住地が同番地なのは、当時の同番地は広く、両家はご近所ゆえに同番地だと知った。また次男リヒャルトが来日後に記した『美の国』には、父=ハインリッヒが青山喜八に多額の金銭的援助をして結婚承諾を得たことも紹介されているとか。

 そして彼ら新婚宅=市ヶ谷加賀町の洋館借家(現・納戸町公園の地)については、著者が昭和30年頃に都立大の諸教授らとの座談会で、クーデンホーク家の話題が出た際に、都立大総長・柴田雄次博士が「彼らが住んでいた洋館の家主は私の父。ですから私も子供心に伯爵の堂々とした姿を今も覚えています」と発言したと紹介。

 柴田博士の父・承桂は、明治3年に海外留学令でドイツ・ベルリン大学で有機化学、衛生学を修めて明治7年に帰朝。その後は司薬局長で功績大。明治19年に二重橋設計の建築家・松ヶ崎万長にドイツ風の家を新築を依頼。だが歳を経るに従って日本趣味へ。邸内に住み易い和風家屋を建て、洋館を借家にしたとか。

mitukoyasiki_1.jpg さらに昭和41年、次男リヒャルトが初来日して鹿島平和賞を受賞した際の祝賀会で、柴田博士(都立大総長)が「この写真があなたの生まれた家です」と古写真をみせていたとも記していた。

 以上から「青山家と二人が暮した洋館が同番地で、洋館についての謎も解けた。現在の納戸町公園は狭いが、明治44年の地図を見ると確かに納戸町26番地はもっと広く、明治25年頃にはさらに広かったのかも知れない。ちなみに大正5年の地形図を見ると(写真下)、納戸町26番地に、なにやら大きな屋敷図が描かれていて、これが洋館かな~と推測した。

 現・第三中学の角に、昔の「都立第四中学校」の記念碑あり。~同校は明治34年に飯田町から移転し「天下の四中」になるも大空襲で焼失。その校風・伝統は現・都立戸山高等学校(都立名門進学校)に受け継がれているとあった。クーデンホーフ邸も大空襲で焼失したと思われる。

ttatemonotanbo_1.jpg ついでに記せば、現第三中前の道は、江戸狂歌「大田南畝」の徒歩組時代の旧居がある牛込中町から続く道で、第三中を経て柳町方面へ歩けば、すぐ右に繭玉風の芸人宅、ドイツ山荘風の家(大正8年建造の元耳鼻咽喉科医宅)、裏千家東京茶道会館の粋な日本邸宅、空を見上げれば大日本印刷のガラス張り超高層ビル、また同道より防衛省寄り1本隣道には柳田国男旧宅地もあり。建物巡りから江戸~明治~大正~現代が覗けるなかなか面白い界隈です(続く)。

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光子① 牛込納戸町 [牛込シリーズ]

nandocyokoen_1.jpg 牛込地区のネット巡りで「クーデンホーフ光子」に出会った。彼女夫妻の居住跡が、小生がかつて事務所を構えていた「佐内坂」近くで驚いた。普段は市ヶ谷~佐内坂を上ったり下ったりも、時に反対側へ歩く時もあり。防衛庁(自衛隊)裏の壁沿いに歩けば「JICAビル」に突き当たり、同ビルに沿って右へ左へ回り込めば、自衛隊と大日本印刷の間の道を真っ直ぐ行って外苑東通りを突っ切れば女子医大へ。そこまで歩けば自宅も遠くない。

 「JICAビル」に突き当たって右折したまま真っ直ぐ「中根坂」を下れば、左に「牛込三中」(当時は第四中学)で反対側が「納戸町公園」(写真)。そこが「クーデンホーフ光子居住の地」。史跡看板に、こう書かれている。

sanaizaka_1.jpg 「この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子(青山みつ1874~1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。光子は明治7年(1874)骨董商・油商を営んでいた青山喜八と妻つねの3女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーク・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。渡欧までの間、光子と共にこの地で暮した次男リヒャルト(栄次郎1894~1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」よ呼ばれている。平成25年3月 新宿区」

 二人の出会いは諸説。1973年のNHK番組「国境のない伝記~クーデンホーク家の人びと」では、光子を吉永小百合が演じていた。「骨董」看板の店の帳簿に座った光子の前で、小僧が歩道に張った氷を砕いていた。そこに馬から下りた青年伯爵が、店前で氷の破片を踏んで転倒。光子がかいがいしく介抱して、二人の物語が始まっていた。

 シュミット村木眞寿美著『クーデンホーフ光子の手記』には、~凍った道で落馬した青年貴族に駈け寄り介抱した美しい少女」の逸話が本当ならば、光子は得々と自分の手記にも書いたろうが、その記述はない。それは後で作られた逸話なのでは~と記していた。

 松本清張『暗い血の旋舞』には、光子の出自、伯爵との出会いが概ねこう記されていた。~光子の生家は牛込納戸町。実家は青山で骨董を商い油屋も兼業。伯爵は当時の外人のほとんどがそうだったように日本の骨董収集に凝っていて、光子の家にもしばし出入り。ある冬の日、光子の家の前で伯爵の馬が氷の破片に脚を取られて落馬。それを光子がかいがいしく介抱した。

 時代は明治なのに住所も出会いも曖昧です。その辺から探ってみることにした。(続く)

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