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光子②)納戸町26番地の洋館 [牛込シリーズ]

kimurakihon.jpg 木村毅『クーデンホーフ光子伝』(写真左)には、都公文書館保存の戸籍簿が紹介されている。光子(みつ)戸籍は「牛込区牛込納戸町廿六番地」。戸主は青山喜八。光子の長男・次男の出生届は「明治廿八年三月十六日願済廃家、平民青山みつ廃家ノ上私生児」として光太郎・明治廿六年九月十五日生まれ、栄次郎・明治廿七年十一月十六日生まれ」。

 ハインリッヒは帰国を控えて「光子=内縁、子供ら=私生児」を改めるべく提出した一連の書類(都公文書館)も紹介。婚姻届け、実子認知請求届、さらに「内外人結婚ノ儀伺案」と同許可証、青山喜八から「みつ」を嫁に出したという確認証など。木村毅の取材力に脱帽です。

 また「みつ」生家と夫妻居住地が同番地なのは、当時の同番地は広く、両家はご近所ゆえに同番地だと知った。また次男リヒャルトが来日後に記した『美の国』には、父=ハインリッヒが青山喜八に多額の金銭的援助をして結婚承諾を得たことも紹介されているとか。

 そして彼ら新婚宅=市ヶ谷加賀町の洋館借家(現・納戸町公園の地)については、著者が昭和30年頃に都立大の諸教授らとの座談会で、クーデンホーク家の話題が出た際に、都立大総長・柴田雄次博士が「彼らが住んでいた洋館の家主は私の父。ですから私も子供心に伯爵の堂々とした姿を今も覚えています」と発言したと紹介。

 柴田博士の父・承桂は、明治3年に海外留学令でドイツ・ベルリン大学で有機化学、衛生学を修めて明治7年に帰朝。その後は司薬局長で功績大。明治19年に二重橋設計の建築家・松ヶ崎万長にドイツ風の家を新築を依頼。だが歳を経るに従って日本趣味へ。邸内に住み易い和風家屋を建て、洋館を借家にしたとか。

mitukoyasiki_1.jpg さらに昭和41年、次男リヒャルトが初来日して鹿島平和賞を受賞した際の祝賀会で、柴田博士(都立大総長)が「この写真があなたの生まれた家です」と古写真をみせていたとも記していた。

 以上から「青山家と二人が暮した洋館が同番地で、洋館についての謎も解けた。現在の納戸町公園は狭いが、明治44年の地図を見ると確かに納戸町26番地はもっと広く、明治25年頃にはさらに広かったのかも知れない。ちなみに大正5年の地形図を見ると(写真下)、納戸町26番地に、なにやら大きな屋敷図が描かれていて、これが洋館かな~と推測した。

 現・第三中学の角に、昔の「都立第四中学校」の記念碑あり。~同校は明治34年に飯田町から移転し「天下の四中」になるも大空襲で焼失。その校風・伝統は現・都立戸山高等学校(都立名門進学校)に受け継がれているとあった。クーデンホーフ邸も大空襲で焼失したと思われる。

ttatemonotanbo_1.jpg ついでに記せば、現第三中前の道は、江戸狂歌「大田南畝」の徒歩組時代の旧居がある牛込中町から続く道で、第三中を経て柳町方面へ歩けば、すぐ右に繭玉風の芸人宅、ドイツ山荘風の家(大正8年建造の元耳鼻咽喉科医宅)、裏千家東京茶道会館の粋な日本邸宅、空を見上げれば大日本印刷のガラス張り超高層ビル、また同道より防衛省寄り1本隣道には柳田国男旧宅地もあり。建物巡りから江戸~明治~大正~現代が覗けるなかなか面白い界隈です(続く)。

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