SSブログ

光子⑥夫の帰国、光子の初渡欧 [牛込シリーズ]

IMG_3588_1.JPG ハインリッヒが「オーストリア・ハンガリー代理公使」として駐日中に遺した仕事は外交面でなしも、「日本初オペラ」と「仏教各派融合」が果たしたそうな。オペラは、彼がアマチュア同好者を集め、日清戦争への赤十字寄付を目的に明治27年(1894)11月に東京音楽学校奏楽堂で「ファウスト」の第1幕・書斎の場を上演。上演中に「旅順要塞陥落」報に、舞台中断で観客総立ち『君が代』が唄われたとか。また公使館は仏教各派高僧を招いて懇談の場の提供していたらしい。

 ハインリッヒが明治28年3月に光子との正式結婚と長男・次男の戸籍を正しく改めた翌年春に、一家は神戸出航のオーストリア「ギゼラ号」で旅立った。光子21歳。不安で胸が潰されそう。一方の夫は次男誕生の同時期に、祖国の父逝去の報に接し、家長の責任に奮い立っていたらしい。

 なお光子は、渡欧前に皇后陛下(後の昭憲皇太后)に拝謁。「ヨーロッパに行っても決して祖国の名誉を忘れぬよう~」のお言葉と、彫刻入り象牙の扇を賜った。

 旅は二人の幼児、乳母と保母、侍僕の計7名。香港~シンガポール~セイロン~インド~アラビア~エジプト。ここから子供と乳母らは一路ロンスペルタ城ヘ。夫妻はエジプト~パレスチナ~イタリアを回って明治28年(1896)にオーストリアのチロル州インスブルックで初めて夫の祖国の地を踏み、ここからバエルン~ボヘミア(現チェコ)のロンスペルクへ。村人総出の出迎え。沿道にはオーストリアと日章旗がはためていた。この旅行記はシュミット村木眞寿美『クーデンホーク光子の手記』に詳しい。

 ロンスペルク城の荒廃酷く、当初は迎賓翼(左右の建物)に住み、修理・内装が施された後に本館に移り住む。来客絶えず。ハインリッヒは子を両国文化の子ではなく、ヨーロッパ人として教育。乳母らを日本に帰し、母子らに日本語の会話も禁じた。

 ハインリッヒは領地管理者の不正を見つけたことで、外交官を諦めて領主(地方の王:農業経営)の道を選び、併せて大学で哲学博士の試験に挑戦。学位論文は『ユダヤ人排斥主義の本質』。オーストリアはドイツとロシアの橋渡し役をすべきと主張。家庭では領主仕事と学問は、光子に立ち入り拒否の絶対専制主義。

 光子も育児の他はドイツ語、英語、フランス語。歴史やヨーロッパ風の立ち振舞いを学ぶなど独自の勉強。夫婦それぞれの世界を尊重、かつ立ち入らぬ生活。それでいて晩餐は夫は燕尾服、光子は夜会服。夜は小作りで長男次男に続く男児2人、女子3人を産んだ。

 そんなロンスペルク城の暮しが軌道にのった明治39年(1906)、ハインリッヒ47歳で急死。この時、光子32歳。夫の遺書に妻光子を包括相続人と指定しており、親族反対に光子は自ら法廷に立ちドイツ語で論戦。判事を納得させる熱弁で家長を引き継いだとか。

 夫妻が日本を離れる前年、明治27年に日清戦争。樋口一葉『たけくらべ』発表。明治33年(1900)にパリ万博。ハインリッヒ没の2年後の明治37年(1904)に日露戦争勃発。欧州にも第1次世界大戦のイヤな空気がひたひたと広がりつつあった。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。