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ヒトラー11:第二次世界大戦(イ) [政経お勉強]

jinsyusennsou_1.jpg 第ニ次世界大戦を振り返るのは、日本も当事国で、かつ親世代ゆえに辛い~。『ナチスの戦争』(リチャード・ベッセン著、中公新書)、『アードルフ・ヒトラー:独裁者の人生行路』(トマス・ザントキューラー著)を参考に、簡単に時系列で振り返ってみる。

 1939年9月1日、ヒトラーは軍服姿で国会に登場し「ポーランドと開戦」を告知。数週間で同国を征服(ポーランド軍犠牲者10万人、捕虜100万人)。ドイツの勝利を伺って同月17日にソ連が参戦してポーランド東半分を制圧(独ソが秘密裏で決めていて、両国でポーランドを分割。ドイツは西プロイセン、ポーランド西部を併合し、ポーランド人とユダヤ人を追放。ソ連領になった地域のドイツ系民族を代わりに移住させた。

 1940年4月、デンマークとノルウェーへ侵攻。デンマークは翌日降伏。ノルウェーは6月10日に降伏。5月にオランダを数日で制圧し、5月18日に中立国ベルギーが降伏。6月14日にパリ入都。22日にフランスが停戦調停。フランス北部と西部海岸をドイツが占領支配。ヒトラーの特別列車でのベルリン凱旋に、数十万人が大熱狂。

 1941年4月、ムッソリーニの苦戦に加勢してイタリア・ハンガリー軍と共にユーゴスラヴィアとギリシャへ侵攻。約2週間でユーゴスラヴィア降伏。月末にギリシャ降伏。それに先立つ1940年11月、ソ連の独ソ関係協議で、ソ連がスカンジナビアとバルカン半島への関心を表明したことで、ヒトラーは対ソ戦を決意。

 1941年6月22日、ドイツ側360万の兵士+3350両の走行車がスターリン率いるソ連軍を攻撃。共産主義者への憎悪から、戦時国際法を無視した〝絶滅戦争〟。降伏した約570万人のソ連兵に食事・宿舎も与えず330万人が死亡とか。だがソ連も頑張ってドイツ兵17万人余が戦死、62万人負傷、3万人行方不明。

 同年9月19日、ウクライナのキエフを占領し、モスクワ・クレムリンの塔が見える地まで攻め込んだ12月初旬、ドイツ軍の補給が絶えた。加えて-37度の極寒。赤軍反撃でドイツ軍が退却。だが前線後方でソ連軍領内のユダヤ人約200万人を虐殺。ドイツ軍が不利になるとパルチザン、レジスタンス活動が次第に活発化。数万人だったパルチザンが、この頃には約12万人へ増加。

 1941年、日本の真珠湾攻撃で、米国ルーズベルトが日本へ戦線布告(米国の日系人強制収容所へ12万人が送られ、その後に労働力不足の中西部都市に送り込まれた)。ドイツも米国へ宣戦布告。1942年、ドイツは南部部隊をカスピ海沿岸のソ連の石油油田を奪うべく攻撃させ、北部部隊を工業都市スターリングラードへ攻撃させた。二兎を追った欲張った作戦が失敗。1943年1月末にスターリングラードでドイツ軍降伏。また英米軍が北アフリカを占領。1943年5月、ドイツ・イタリア軍がチュニスで降伏。ムッソリーニ失脚~逮捕。

 1944年6月6日、連合軍がフランス・ノルマンディー上陸。22日、ソ連がドイツへの大規模攻撃「ツィタデレ作戦」。90万兵士+2700戦車VSソ連兵130万+3400両戦車の闘いでドイツ敗北。ゲッベルが老人・子供をも巻き込んだ「国民総力戦」を訴えるも、国民は大本営を信じるより、己がどう生き延びるかを考え出していた。ヒトラー式敬礼の拒否、さらには幾つかのヒトラー暗殺計画(失敗するが)も起ってきた。

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ヒトラー10:反ユダヤ主義と今 [政経お勉強]

IMG_4481_1.JPG ヒトラーの「反ユダヤ主義」とは? 『わが闘争』(上下)及び『続・わが闘争~生存権と領土問題』(写真)に、その主張が散在。『続・わが闘争』は「国家社会主義ドイツ労働者党」の中央出版局・書籍出版部のヨーゼフ・ベルクが1945年に米国将校に渡したもので、アメリカ国立公文書館のマイクロフィルムに収められた324頁の未編集原稿(草稿)集。(ヒトラー著、平野一郎訳)。

 先ず第五章の書き出しで、ヒトラーは己のスタンスを説明している。~私はドイツ国家主義者である。すなわち私はわが民族性を信奉する者である。私が考えること、行動することすべてが、この民族性の一部なのである。

 第三章「民族の価値と平和主義的民主主義」には、~それぞれの民族には、その民族にしかない特有の価値があり、それが民族の歴史的文化像で、そこに人種上の価値が反映されている。~ところがユダヤ人は、どのような形でも他民族に中に入り込んで行けるのだ。このインターナショナルな害毒と退廃の師は、その対象となった民族を徹底的に根絶やしにし、腐敗させるまで留まることを知らない。最後には、この狙われた民族の今までの統一のとられていた特定の人種的価値を失わせ、最終的に衰退させる。~典型的な資本主義的素質を持つユダヤ民族は、民族的文化的な価値が、資金や財力より高く評価される組織に対して激しい憎しみを持っている。

 第十七章「ユダヤ人との闘争」では、概ねこんな記述 ~(第一次世界大戦で)ドイツに対戦した一部の国は、ドイツ崩壊で直接利益を有する世界連合(英仏露など)だった。その巨大戦争プロパガンダを興したのが国際的世界ユダヤ人だった。ユダヤ人は、地球上の他民族が、独自の領土国家を建設し保持し生産力を有しているのに比して、彼らは空間的領土という境界に縛られぬ宗教共同体国家をもって、ユダヤ民族の保持と増加と将来を保証している。

 ~一般的に民族の生存闘争の基盤は土地にある。土地を耕し、その生産力が経済基盤になっている。しかしユダヤ民族は土地を有さぬゆえに、他民族の生存内の寄生虫的存在になる。すなわち彼らの生存闘争の最終目的は、生産的活動を行っている諸民族を奴隷とするところにある。まずは他民族国家の内部で権利平等を求め、次に優越的管理を求めて行く。その手口は剣の闘いではなく狡猾、狡知、擬態、策略、姦計などで、そうしてカネとプロパガンダの助けでゆっくりと支配者に成り上がって行く。

 ~その最終目標は脱国民化、他民族との交雑、民族的知識階級の根絶と人種混淆を導き、自分の民族所属者をもって、その知識階級の代わりを務めさせようとする。民族と結びついている当該民族独自の精神的指導層を破壊し、指導者をなくした人間たちの支配者にユダヤ人自身が昇る。ユダヤ人は民族の寄生中だから、彼らの勝利は、その犠牲民族の死滅、さらに自身の終焉に至る。

 ~古代世界の没落後1500年の間、ユダヤ人はずっと外来者で、その侵入が拒まれてきたが、フランス革命によってユダヤ人は市民的平等権を得た。諸民族の内部にあって政治的権力の足がかりを得た。19世紀の「利息思想」に立脚した金貸し資本の拡大によって、ユダヤ人にさらに諸民族の経済内で支配的位置を得て、株を経由して生産現場の大部分の所有に至り、株式取引所の支援を得て次第に公的な経済的生存の君主にだけではなく、最終的には政治的生存の支配者になって行った。(ヒトラーは第一次世界大戦中のロシア革命を、またナチ活動中のNY株式取引所に端を発した世界恐慌を体感しての考えと推測する)

 彼らは肉体労働者の階級を特別階級に仕立て上げ、国民的知識階級に対して闘わせる。それがマルクシズムのヴォルシェヴィズム革命の精神的父親となる。ユダヤ人はその武器を今や情け容赦なく冷酷に使用し、国民的知識階級を根絶しようとする。その最初の試みは革命形式で現れている。既にこの非人間的な迫害と殺戮によってロシアの上層階級およびロシアの国民的知識階級は殺され、余すところなく根絶された。そんなロシア革命でロシア民族は2800万~3000万人の死者を強いた。ユダヤ人は現在のところ、残った国家に同じ状態をもたらそうとしている。この闘いに一人で引き受けているのが国家社会主義ドイツ労働者党である。『わが闘争』にはユダヤ人とイギリス、イタリア、フランスなどの諸関係に言及し「日本とユダヤ人」の項目もある。

 現ユダヤ人の人口は約1460万人。その半分がイスラエルとアメリカに在住。アメリカのグローバリズム企業、GAFAM各社、金融系企業、メディア、情報通信、不動産などの大企業創業者にユダヤ系が多いらしい。昨今のトランプ大統領のイスラエル、中東問題、大統領選挙にもユダヤ人問題が微妙に絡んでいる。逆にEU離脱の英国に民族性のこだわりの強さが伺える。

 第二次世界大戦後の「自由・民主」意識が、今75年を経て薄れ、今ふたたび覇権主義、独裁主義、強権、自国ファースト主義の台頭、「わが国を再び偉大な国に~」のアピールはヒトラーもトランプも同じだろう。世界に再び物騒な気配が満ち始めている。過ちを繰り返さないよう。デッチ上げを見抜く力を育みつつ、心して注視して行かなければいけません。

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ヒトラー9:独裁の恐怖が始まった [政経お勉強]

jinsyusennsou_1.jpg 以下、リチャード・ベッセル著『ナチスの戦争』(大山晶訳・中公新書)を参考にする。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去で、ヒトラーは大統領制を廃止し、自らが総統となり「ワイマール共和国」が「ドイツ第三帝国」(俗称)になった。ヒトラーはまず経済対策で高速道路網(アウトバーン)整備、国民車(フルクスワーゲン)製造を展開した。

 それらナチス経済施策の目的は、あくまでも「侵略戦争が可能な再軍備と軍事組織」。1935年に徴兵制度を復活。1936年、大恐慌から立ち直って、ヴェルサイユ条約の制約解除に併せて非武装地帯ラインラント(ドイツ西部ライン川沿岸、フランスに隣接)に進駐して再武装開始。「4ヶ年計画(4年以内に戦闘可能へ~)の覚書。

 1936年、ベルリン・オリンピックが終わると、ゲーリング率いる空軍が迅速な成長を遂げ、海軍はフランスと同等規模になり、陸軍は260万人で1/3が自動車部隊と戦車部隊へ。同時にアーリア人種繁殖に産めや殖やせの政策、比して疾患子防止法(断種法)政策。アーリア人とユダヤ人との結婚・性交渉・生殖禁止。

 若者は少年向け「ヒトラー・ユーゲント」(昭和13年に30名程が来日。8月には伊豆大島へ1行28名が来島。併せて東京少年団も来島で、その中に後にル・コルビュジエ師事の建築課・吉阪隆正少年もいた。小生ブログより)。女子はドイツ女子同盟へ入会を強制。そして他の民は労働奉仕団、軍隊、労働者戦線(2,000万人)へ。

autobahn_1.jpg ヒトラーの戦争理念は「人民の保護と維持、そのためには既存領地内での自給自足は不可能ゆえに、新たな土地が必要~」で、まずはチェコスロヴァキアとオーストリア併合を目指した。

 1938年、ヒトラーが軍の総̪帥権、ゲーリングが経済政策のトップ、リッベントロップが外務大臣、ヒムラーが5万6千人の親衛隊隊長とバイエルン強制収容所、ドイツ全域の政治警察、プロイセン機密国家警察(ゲシュタポ)の各長官に収まった。

 同年、ドイツ・ユダヤ人30万人がドイツを脱出。ドイツ軍がオーストリア侵攻。ウィーンのユダヤ人の財産没収。この施策がドイツ全域で展開。翌年にチェコに侵攻して両国を併合。そしてポーランド侵攻で、英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦へ突入した。

 ヒトラーは政権掌握6周年の1939年1月の国会演説で以下を語った。「もしヨーロッパ内外で国際的に活躍するユダヤ人資本家が諸国を再び戦争に突入させることに成功しても、その結果起るのは世界のボルシェヴィキ(多数化)でもユダヤ人の勝利でもなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅だ」。ヒトラー、ナチスの戦争が人種闘争であることの明言だった。

 そrではヒトラーの「反ユダヤ人思想」とは? 気が滅入るテーマだが、ここは我慢して理解しておく必要がありそうです。次回にその辺をお勉強する。アウトバーン写真は、昭和13年刊『伸びゆく独逸』、国会図書館デジタルコレクションより。

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ヒトラー8:『青山栄次郎伝』最終回 [政経お勉強]

IMG_4489_1.JPG 1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まった。一般のドイツ人が戦果に関心を寄せる陰で、ナチスはユダヤ人を強制収容所へ送って大量虐殺。

 栄次郎夫妻はスイスからパリに移っていたが、1940年6月のドイツ軍パリ無血入都で、夫妻はポルトガル経由でアメリカに亡命した。ニューヨーク大学を拠点に講演活動。「ヒトラーとスターリン、二人のどちらも勝者にしてはいけない。戦後のヨーロッパは平和に総合されるべきだ」と訴えた。

 1941年12月7日、真珠湾攻撃。栄次郎は同年8月27日に母・光子の訃報を受け取った。1945年4月30日、ヒトラーがソ連軍包囲下のベルリンで自決。5月7日、ドイツ無条件乞降伏。

 ヒトラーの故郷オーストリア北部にソ連が進駐し、ヒトラーと血縁関係にある者は連行されたまま帰ってこず。光子を看取って「光子の財産を相続」するはずのオルガも、難民となって米国占領下のドイツ(西独)に遁れ、その後に米国に移住。光子の長男ハンス(光太郎)は、ロンスペルク城・土地・森林を相続して最後の城主になっていたが、最初の妻goebbels_1.jpgがユダヤ人商人の娘ゆえ、妻を守るためにナチスに迎合せざるを得ずで、チェコにおける親ナチス派とみなされて逮捕。城、家財、美術品、蔵書のすべてが持ち去られた。現在もチェコスロバキアに管理されているらしい。

 1945年、栄次郎はニューヨーク大教授になるも、翌年に6年暮らしたニューヨークを去った。欧州へ戻る大西洋航海中に、英国前首相チャーチルから電報を受け取った。パリで娘婿サンディス(保守党議員で戦後の政界で活躍)と会ってもらいたい旨の内容。

 1951年春、妻イダがジュネーブで他界。チャーチルの栄次郎「パン・ヨーロッパ」賛同は、ソ連の脅威から西ヨーロッパ結束を求めたものだったが、「パン・ヨーロッパ」の真の賛同者はド・ゴール中心のロンドンで活動していたフランス亡命政府の人達で、彼らによって運動が推進された。

 1950年、フランス外相シューマンが従来の確執を超えて石炭・鉄鋼生産の共同管理を呼びかけた「シャーマン宣言」。その2年後にさらに進化して「ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)」へ、さらに1958年の「EEC(欧州経済共同体)」、そして「EU」へ至る。

hatoyama_1.jpg 1950年10月、栄次郎が初来日し「第1回鹿島平和賞」を受賞。昭和天皇に謁見。鳩山一郎夫人にも会った。鳩山一郎は公職追放期間中に栄次郎著作を英文で読んで感銘。「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」をテーマにした翻訳『自由と人生』を1953年に出版。自身の政治理念を「友愛」にした。

 以上で林信吾『青山栄次郎伝』終章紹介を終わるが、ここまで辿ったら、気が進まないけれどもヒトラーの第二次世界大戦、ユダヤ人の虐殺についてもお勉強しなければいけないでしょう。

 写真はもう一度、林信吾『青山栄次郎伝』の表紙をアップ。写真中は当時のナチス宣伝相ゲッベルス、写真下は「友愛」の鳩山一郎(共に国会図書館デジタルコレクションより)

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ヒトラー7:栄次郎書に〝焚書〟指定 [政経お勉強]

hitler3_1.jpg 林信吾『青山栄次郎伝』に戻る。1929年10月、ウォール街に端を発した大恐慌が欧州を襲った。ドイツは政経不安定で、毎年のように解散・総選挙。1930年の総選挙でナチス107議席。社会民主党に次ぐ第2党へ。1032年の選挙で230議席。第1党へ。だがヒトラーの大統領選は30%で、ヒンデンブルク将軍50%に及ばず。

 これでは軍部を手中で出来ず。1933年1月、単独政権となってヒトラー首相就任。(挿絵は戦前のヒトラー賛歌の子供向け読み物=大木雄二著『ヒトラー』より。国会図書館デジタルコレクション)

 首相就任直後に国会議事堂放火事件(共産主義者を逮捕のデッチ上げ?)で「国家緊急令」を発令。(あの安倍元総理は「憲法改正」で執拗に「緊急事態条項」成立を目論んでいたっけなぁ)。集会・報道・言論の自由(今は学問の自由を侵されつつある)を停止し、共産主義を徹底的に叩き『パン・ヨーロッパ』運動の栄次郎著書も焚書とし、逆にヒトラー『わが闘争』が売れまくった。ベルリンはじめほとんどの大学町で非ドイツ的書物が焚火に投げ込まれた。●時代は遡るが、詩人ハイネは「本が燃やされるところでは、最後には人間も燃やされる」と予言的言葉を著わしていた。(トーマス・ザントキューラー著『アードルフ・ヒトラー独裁者の人生行路』より)

 3月5日の総選挙で288名が当選。ナチスの政権基盤強固で、立法権を議会からヒトラー委任「全権委任法」可決で〝独裁〟となる。ナチスの敬礼=ドイツの敬礼で、ヒトラー式敬礼を公務員に義務付けた。ヒトラーの単独政権になると、忠誠で働いてきた側近らに「出世欲・嫉妬」が渦巻いた。そして1934年6月30日「長いナイフの夜」の殺戮。これは突撃隊と同隊率いるレーム他への粛清。映画「HITLER'S  CIRCLE  OF  EVIL」第3部はヒムラー、ゲッベルス、ハイロリッヒらによる嫉妬・策略によって親衛隊が突撃隊100名余を射殺粛清する過程が息詰まる緊張感で描かれていた。

 ★追記:このブログを記した翌日、翌々日に87年前のヒトラーを例にした大学教授の発言がテレビニュースや新聞で報じられてギクッとした。それは2020年10月23日、日本学術会議が推薦した新会員候補6人が任命されなかった問題で、任命を拒否された学者らが日本外国特派員協会で記者会見。松宮孝明立命館大教授が「総理は国民を代表して自由に公務員を選定罷免できると宣言した。ナチスのヒトラーでさえ全権掌握のために新憲法を作ろうとしたが、総理は現行の憲法でやろうとしている。独裁者になろうとしているのか」と批判していた。ヒトラーの「全権委任法」は1933年3月23日に制定。4年期限だが1937年、1941年に更新された。

 さて、レームはヒトラーから渡された拳銃で自決を迫られ、拒否して射殺された。他に「ドイツ労働者党」創設者、前首相シュライヒャー将軍、バイエルン州元総監なども粛清。独裁恐怖が始まった。同年8月、ヒンデンブルク大統領死去で、ヒトラーは大統領制を廃止。自分が新元首となって「ワイマール共和国」が「ドイツ第三帝国」(俗称)になる。

 ヒトラーは米国ニューディール政策を真似て大規模公共工事を展開。その代表が高速道路網(アウトバーン)と国民車(フォルクスワーゲン)製造。1935年、徴兵制を復活。公共工事従事の若者100万人が軍隊へ。1938年にオーストリアを併合。

 オーストリア在住の栄次郎・イダは、ドイツ軍侵入と同時に同国のスイス公使館に逃げ込み、チェコスロバキア~ハンガリー・ブタペスト~ユーゴスラビア・ザグレス~イタリア領内を経てスイスへ入国。ナチスの宣伝担当者ゲッベルスは栄次郎を「公開裁判にかける」と発表も、栄次郎とイダはさらにアメリカへ逃げた。

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ヒトラー6:再び「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」 [政経お勉強]

kershaw_1.jpg 再び映画の戻って、ヒトラー出所から独裁まで、併せて側近らの動きを追ってみる。執行猶予で出所するレームに代わり、ヒトラーが逃亡2日後にランツベルク刑務所へ。死刑予測で落ち込むヒトラーだったが、公判前に俄かに奮い立つ。「この公判こそ、己を主張する好機ではないか~」

 彼は尋問に応えるより、自身を殉教者・救世主に見立てた政治論の大演説。法廷は拍手喝采。その裁判記録を各紙が掲載。それまで無名だったヒトラーが、右翼第一人者に躍り出た。

 バイエルン当局と司法機関も、彼への理解・同情で5年刑に結審。一揆失敗で落胆・混乱の仲間らも活気づいた。ケルン郊外の若い作家志望ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーの新聞掲載の裁判記録に心を揺さぶられた一人だった。

 ヒトラーは20名の警備員に付き添われ、秘書役ルドルフ・ヘスが密着。支持者らの頻繁な訪問。監獄はさながらナチ「シンクタンク」化し、ヒトラーは毎朝、他の囚人にも自身の思想を講義・討論。ナチのゼミナール場と化した。(イアン・カーショー著『ヒトラー権力の本質』より。写真上)

 野心家ではない唯一の党員ヘスは18ヶ月の懲役で、尊敬するヒトラーとの生活を喜んだ。ヘスは学生時代の師(ミュンヘン大の師ハウスホ-ファー)から学んだドイツ窮状再建の国家拡大論で彼を勇気づけ、ヒトラーこそ指導者・救世主なるべく人物だと持ち上げ、クーデター失敗ならば次は選挙だと誘った。

S.Snohimura_1.jpg ヘスはヒトラーに自身の生い立ち、ユダヤ人と共産主義者がいかに国を滅ぼしたか~の人種主義を書きまとめろと勧めた。実際はヘスとの共著になる『わが闘争』を書き上げた。(資本主義や共産主義の問題をユダヤ人に責任転嫁し、第一次大戦でドイツを罰した〝連合国〟を責めた諸思想ごちゃまぜの猛毒のような国家主義の内容)。

 一方、武闘派ゲーリングはモルヒネ依存症。レームは軍と闘える組織を目指した突撃隊(S.A)を補強。ヒトラーは突撃隊の激化する暴力行為によって保釈が取り消されるの恐れ、ナチ党・党首も辞めると表明。

 1924年12月、9ヶ月の懲役を経て出所。彼の法廷演説に感動したゲッベルスは、早くも演説で頭角を現し、教師の息子で若いハインリヒ・ヒムラーも政治活動に専念し、24歳で党の補佐役に育っていた。党名「国家社会主義ドイツ労働者党」に変更。

 だが、ドイツは経済復興で安定と明るさを取り戻していて、彼らの主張に反応しない。ゲッベルスはドイツ中を1年189回もの演説行脚をする。だが1924年の選挙結果はナチ党への投票率わずか3%だった。

 改めてナチ党は選挙に勝つべく組織固めを開始。ヘスが日々の決定事項と党の方針を作成。ゲッベルスとヒムラーはアーリア人の特性を有し、祖先まで調べ上げた黒制服・黒ブーツ・ドクロ紋章の親衛隊(S.S、写真下。昭和8年のアルス刊『ナチスの真相』安達堅造著、国会図書館デジタルコレクションより)を結成など巻き返しに集中した。

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ヒトラー5:栄次郎の失速、ヒトラーの躍進 [政経お勉強]

kakumeinokoro_1.jpg ヒトラーの野戦病院退所からクーデター失敗までを、林信吾『青山栄次郎伝』ではどう記されているか~

 1919年9月、ヒトラーは野戦病院退所後に、ミュンヘンで行われていた「ドイツ労働者党」の集会に参加。党主アントン・ドレクスラーが彼の弁舌に感心して入党を勧め、ヒトラー7番目の党員登録。栄次郎はこの頃のポスター「退役軍人は半額、ユダヤ人は入場禁止」の文言を覚えているとか。

 1920年2月、同党は「国家社会主義ドイツ労働者党」と改称し、ヒトラーが党首就任。25項の党要綱も設定で、第1項「わが党は全ドイツ人がドイツ主義のもとで結集することを求める」。第2項「わが党はヴェルサイユ条約の撤廃を要求」など。この要綱は「ポピュリズム(大衆迎合主義)+排他主義」の見本になりそうです。またこの時に、鉤十字マーク(寺院マーク卍とは逆回り)も制定とか。

 同時期に退役軍人レーム指揮下の突撃隊(S.A)誕生。当時の右翼左翼集会は互いに殴り込みが常態化でその対策。右手を突き出す「ハイル・ヒトラー」敬礼もこの頃から。

 1922~1923年、ドイツにインフレが襲う。世情の不安は、反乱を起こす好機になる。1923年11月、ヒトラー武装蜂起。ナチス党員16名が射殺され、100名余が負傷で失敗。ヒトラーは反逆罪。禁固刑5年も実際は8ヶ月半で出所。1927年まで公衆での演説禁止。

 ヒトラー出所後の共和国は、「新マルク発行+米国援助」でインフレから脱却で、平和と繁栄への途上。この時期に登場したのが栄次郎の「パン・ヨーロッパ」構想だった。1929年9月の国連総会終了後に、翌年総会の議題へなりそうな盛り上がり。

kagijyuji_1.jpg だが10月、米国ウォール街・証券取引所で突然の株価大暴落。その大恐慌が欧州も襲った。「パン・ヨーロッパ」運動は断ち切れ、逆にヒトラーが躍進する。1930年の総選挙でナチス107議席。1932年の選挙では608議席中230議席を獲得で、議会第1党に踊り出た。ヒトラーが各地へ飛行機で降り立ち、夜間の松明行列などの演出

 (選挙PR史上でも注目展開。この飛行機から降り立ち+演説の手法は、今もトランプに受け継がれているし、集団マスゲームなどは今も北朝鮮の得意技)

 1932年、ヒトラーは大統領選出馬前になってドイツ国籍を取得。だが第一次大戦の英雄ヒンデンブルク将軍の得票数50%に及ばない。1933年1月に首相就任。2月の国会議事堂放火事件。これを共産主義者の仕業にでっち上げて共産主義を追い詰める。3月、ヒトラーへの全権委任法の可決で、立法権を議会から名実ともにヒトラー独裁になる。

 こうなると、ヒトラー忠誠で働いて来た側近らに欲が出る。入閣人事を巡って嫉妬交じりの激しい闘争が展開する。「長いナイフの夜」と称された親衛隊(S.S)が突撃隊(S.A)200名余を粛清する残虐な事件も起こった。再びイアン・カーショー「ヒトラーはヒトラーによって説明できない」。ヒトラーは時代、社会変化、側近ら~さまざまな環境変化・要素が反応し合って成り立っているの意だろう。

 写真上はクーデター失敗の頃の若きヒトラーと突撃隊。写真下はナチの鉤十字マーク。(共に国会図書館デジタルコレクションより。戦前の日本発行のナチ関係書は、ヒトラー賞讃の紹介になっている)

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ヒトラー4:「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」第一部 [政経お勉強]

hitler's_1.jpg 次にNetflixより映画「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」(ヒトラーの悪の輪、共犯者たち)から、ヒトラーと側近らの動きを知っておこう。(独裁者がいれば、そこには必ず忖度、へつらい、忠誠の報いを求め、利用する人もいる。今の日本にも~)

 同映画は歴史家・作家・教授・博士8名のコメントに沿った映像で構成。同映画の第一部は、時間を遡って第一次世界大戦終盤から始まる。

 まずフランスで出撃待機中の国民的英雄操縦士ゲーリング(写真下)が登場。彼はドイツ撤退報に「皇帝が我々を裏切るはずはない」と信じ、敗戦は左翼政治家の裏切りと思い込む。航空機供与を拒否してドイツ本土へ強行帰還。だが戻ったドイツは政治面では法と秩序が崩壊、知識階級は極左と極右に分割。経済的には貧困と飢え。帰還した英雄操縦士には無関心で、彼は曲芸飛行で食い扶持を稼ぐ他にない。

geiringu_1.jpg 右翼で目立った存在はエッカート(劇作家、詩人、反ユダヤ人、裕福層に人脈)。彼はトゥーレ協会と手を組んで右翼思想を広める「ドイツ労働党」を設立。同協会にはアーリア人を弱体化させたのは劣った人種(ユダヤ人)と交わったのが原因で、劣った人種が国を支配してドイツが弱体化した~という説を信じていたそうな。

 1919年、ヴェルサイユ条約で約2600億マルクの賠償金が課せられたワイマール共和国には〝救世主〟が必要と思っていたエッカートは、野戦病院から帰還したヒトラーが聴衆を巻き込む演説姿に注目した。ヒトラーに魅了されたのは他にもいて、裕福な家の出のルドルフ・ヘスが1番弟子。教師の息子の18歳で人種主義崇拝のハインリヒ・ヒムラーもいた。

 エッカートはヒトラーの身なりを整え、マナーを教え、裕福な後援者を紹介し、彼の信念や理論の精査にも取り組んで彼を磨き込んで行った。まさに父子の関係~。ヒトラーが彼らの宣伝トップに収まると党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(頭文字からナチス。党名は一見左翼風も、労働者を共産主義から守ることを狙った意)へ。トゥーレ協会がアーリア人の起源を示すとした鉤十字をマークにした。

 条約でドイツ軍は軍規模縮小が求められていたが、戦争を愛する現役軍人レームは、秘密裏に義勇軍設立と兵器拡充をしていた。レームはその目的手段としてヒトラーに近づいた。1920年、エッカートとレームは、ナチス宣伝に新聞社を買収。エッカートが編集主任で、ヒトラーを〝救世主〟として売り込んだ。

 そこに曲乗りをしていたゲーリングが参加。かく体制が整うに従ってエッカートは側近の輪から外れていった。1922~1923年に超インフレがドイツを襲った。彼らにとって反乱を起こす絶好の好機到来。1923年11月に革命断行するも、16名が射殺されるなどで失敗。ヒトラーは禁固刑5年。ゲーリングは負傷してオーストリア亡命後にモルヒネ依存症へ。義勇軍を率いたレームも投獄。側近から外されて革命不参加だったエッカートは、彼らが獄中にいる間にアルコール依存症で死去。ヒトラーは獄中でルドルフ・ヘス(ミュンヘン大学政治経済専攻)に口述(ほぼ共著)させたのが『わが闘争』第1巻。ヒトラーは禁固5年も、翌年12月に釈放。その理由は後述。

 イアン・カーショー「ヒトラーのカリスマ的共同体は、まず彼に最も近い人々、ヒトラーに直接仕える〝従者〟によって構成され、彼らはその忠誠に対するヒトラーの報いを受けることで成り立つ(日本の戦国時代もそうだし、今の閣僚人事もそうと言えなくもない。ヒトラーが連立政権から独裁政権になるに従って、報いを得んとする〝従者〟らの嫉妬と闘いが過熱して、仲間内の悲惨な粛清事件も起り、ヒトラーのカリスマ性はさらに強くなって行く)」。またイアン・カーショーは「カリスマ支配」の脆弱性も指摘で、日本の長期一強総裁の崩壊(辞任)をも言い当てているようで実に面白い。

 写真は「HITLER'S CIRCLE OF EVIL」のタイトルバック。写真下はゲーリング。安達造著『ナチスの真相』(昭和8年アルス刊。国会図書館デジタルコレクションより)

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ヒトラー3:世界大恐慌が二人の運命を変えた [政経お勉強]

toiuotoko.jpg 第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺された1914年の『サラエボ事件」に端を発した。光子の長男、3男は徴兵も、次男・栄次郎は肺の疾患で徴兵を免れ、恋仲の大女優イダの別荘に籠った。

 一方のヒトラーは、友人との生活ながら2度の美大受験失敗で出奔し、低所得独身公営下宿所で〝フーテン暮し〟。1913年にミュンヘンへ向かうと、オーストリア官憲から徴兵回避の手配書が廻っていて検挙。オーストリアの徴兵試験で「栄養不足で不合格」。

 1914年8月1日、再びミュンヘンに戻る。群衆がオデオン広場に殺到してドイツ参戦に湧き上がっていた。その群衆に中に興奮したヒトラーがいた。即、ドイツ陸軍に志願。『わが闘争』の〝バイエルン連隊への入隊〟項に「~8月3日、わたしはバイエルン国王ルードヴィッヒ三世閣下に直訴し、バイエルン連隊に入隊する許しを求めた。翌日にわたしの請願の答えを受け取った」

 林信吾著には、無名青年の直訴に返答があるワケもなく、翌日に返答郵便が届くほど当時の郵便事情がよいワケもなく、同著はかく都合よく嘘の記述になっていると説明。

 ヒトラーは9週間の軍事訓練後にベルギー前戦へ。英仏ベルギ軍と一進一退の激戦から彼は〝兵士〟に変貌した。1914年11月に上等兵。その1ヶ月に第二級鉄十字章。伝令に抜擢。彼は戦闘合間に破壊された村を水彩スケッチ、また詩も書いている。1918年、連隊から感謝状。兵卒ばがら第一級鉄十字勲章を授章。だが下士官としての指導者素質なく最下級伍長止まり。毒ガス弾を浴びて野戦病院送り。

gunsyunonakanokare_1.jpg そこでヒトラーは、ベルギー大本営が米国に講和を申し込んだと聞く。軍隊が頑張っているのに何てことだ!皇室エリート左翼勢力の奴らめ~という憎悪から、彼は「政治家になると決意」したとか。1918年11月、ドイツ休戦協定調印でオーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーの各共和国が成立宣言。1919年1月パリ講和会議、ヴェルサイユ条約でドイツに莫大な賠償金が課せられた。イアン・カーショー「人生最初の30年間、ヒトラーは何者でもなかった」。この辺から彼は変貌する。

 同年4月、ミュンヘンの小劇場で出演中のイダと共にホテル滞在中だった栄次郎(リヒャルト)は、深夜3時に赤腕章の武装兵に逮捕され、その場で釈放された。これはミュンヘンで繰り広げられていた社会民主主義と共産主義の「内ゲバ殺し合い」に巻き込まれたもの。ドイツでは次第に共産主義への拒否反応が広がって行った。

 栄次郎は第一次大戦で疲弊した欧州の復興再生に「統合されたヨーロッパ=パン・ヨーロッパ」構想を提唱し、自ら設立の「パン・ヨーロッパ出版社」から『パン・ヨーロッパ~ヨーロッパの青年に捧ぐ~』を1923年に出版。この時、未だ29歳。出版初年度に10万部のベストセラー。1924年のチェコ語版を皮切りの諸外国での翻訳本が次々と出版。日本でも鹿島守之助が翻訳。1927年に国際連盟協会も出版。1927年にはフランス首相ブリアンが「パン・ヨーロッパ連盟」名誉総裁に就任。

 だが良い事は続かない。1929年の米国ウォール街の証券取引所に端を発した大恐慌が欧州にも及んで「パン・ヨーロッパ」運動どころではなくなった。逆にヒトラーはこれを好機到来とばかりに大躍進した。全体主義、民族主義、ファシズムというのは国難を利用して勢力を拡大する図式がありそうです。

 写真はハラルト・シュテファン著/滝田毅訳『ヒトラーという男』(講談社選書メチエ)。同書掲載「ミュンヘン・オデオン広場群衆の中のヒトラー」が、森川覚三著『ナチス独逸の解剖』(コロナ社1940年、国会図書館デジタルコレクション)にも載っていた。

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ヒトラー2:青山栄次郎とヒトラー [政経お勉強]

IMG_4489_1.JPG 林信吾著『青山栄次郎伝~EUの礎を築いた男』は、今まで読んできた木村毅、松本清張、シュミット村木眞寿美による〝光子本〟と違って、栄次郎(リヒャルト)とヒトラーの対比をテーマに書かれていた。

 2016年12月、日本記者クラブで講演された東京大学大学院教授・石田勇治による「ヒトラーとは何だったのか」(YouTube)では、いま世界各地で起っている<ポピュリズム(大衆迎合主義)+排他主義>が、ヒトラー時代を想起されると語り出し、麻生財務大臣の「あの手口を真似たら~」発言、ユダヤ人でアメリカ亡命のアインシュタインが相対性理論から原爆を示唆し、ドイツに原爆を落とすはずも日本に落とされたと語っていた。

 アインシュタインに限らずヒトラー独裁から他国への亡命者は多数。このブログでも「カンディンスキー及びバウハウス」について記した。カンディンスキーはヒトラー政権誕生で美術学校「バウハウス」閉鎖で、スイス経由でフランスに亡命。ナチ占領下のパリで亡くなった。だが多くのバウハウス教師陣はアメリカへ亡命し、シカゴ「バウハウス」からそのデザイン理論を世界に普及した。このブログのフォントも、バウハウスから生まれた「フーツラ系、ユニバース系」だろう。

 アメリカへの亡命者の中には、光子の次男・栄次郎(リヒャルト)夫妻もいた。ヒトラーもリヒャルト共にドイツ系オーストリア人で、ヒトラーは栄次郎の5歳上。リヒャルトの『パン・ヨーロッパ(ヨーロッパ合衆国構想。後のEU)』初版は1923年だが、彼の父=光子の夫ハインリッヒは、母国ボヘミア地方ロンスパルク城に戻ると外交官を辞めて城主&プラハ大の学生になり、その卒業論文が『ユダヤ人排斥主義の本質』だった。1896年頃と思われるが、いち早く人種論的反ユダヤ主義を批判していたそうな。

boumei_1.jpg 林信吾著には、同論文は「アーリア人種、ユダヤ人種は存在せず。言語や宗教を異にするグループが存在するだけで、ロシアで迫害されている東方ユダヤ人解決策としてユダヤ国家建設をパレスチナにするのは適切ではない」と主張していると紹介。

 さて栄次郎はそんな父を12歳で亡くしたが、ヒトラーは14歳で父を亡くした。ヒトラーの祖父は粉ひき職人で、父は靴職人から「オーストリア・ハンガリー帝国」の大蔵省守衛から官吏として臨時上級事務官まで昇進。58歳から恩給生活で、息子も自分と同じく〝堅気の職〟を頑なに勧めた。反抗・怠惰・生意気な息子ヒトラーは、それに抵抗してよく殴られていたとか。

 父没後のヒトラーは五つの学校、留年一回後に画家志望へ。1907年、18歳でウィーン造形美術学校一般絵画科の受験に失敗。この時に建築科を勧められて、2度目の受験も失敗。その試験中に母を癌で亡くした。かかりつけ医のユダヤ人博士は往診80回余も、その料金はきわめて良心的で、ヒトラーは「感謝を忘れない」と誓ったとか。

 当時のウィーン人口は約200万人で、14万人がユダヤ人。市内弁護士の約半数、開業医の75%がユダヤ人。多民族国家にあって裕福層にユダヤ人が多く、生活苦にあえぐ労働者階級の一部がユダヤ人に反感を抱いていたとか。光子の夫の博士論文『ユダヤ人排斥主義の本質』を書いたのも、そんな背景があってのことだろう。

 光子の次男リヒャルトはウィーン大へ入学後に、母の年齢に近い14歳年上の33歳で、リルケも絶賛の欧州3大女優イダ・ローラントと恋仲になった。二人が結婚の約束を交わしているのを光子が知ったのは第一次世界大戦勃発後のこと。栄次郎とヒトラーの人生は政治的に真逆ながら、時代の同じ情況に影響されつつ歩んで行く。写真はアインシュタイン(国会図書館デジタルより)とカンディンスキーの小生の下手な似顔絵。

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ヒトラー1:まずはじめに [政経お勉強]

wagatousou1_1.jpg 新宿区納戸町公園の「クーデンホーク光子 居住の地」史跡看板から、彼女の関連書を幾冊か読み、彼らが生きた「日清・日露戦争~第一次・第二次世界大戦」にも少し触れた。

 光子の夫ハインリッヒ・クーデンホーク・カレルギーの「オーストリア・ハンガリー帝国駐日大使」としての来日は明治25年末。即、青山光子と結婚。同地で長男次男を生んだ。次男・栄次郎(リヒャルト)が、後にEUの礎になる『パン・ヨーロッパ』運動を提唱した。

 一方、彼より5歳年上のヒトラーは、イン河畔ブラウナウ(現ドイツとオーストリアの国境の街)で「オーストリア・ハンガリー帝国」大蔵省の守衛から税関事務官へ昇進(1875年)後のアロイスと23歳下のクララの子として誕生。

 リヒャルトは第一次世界大戦で疲弊した欧州(米国より狭い地に28国家の諍い絶えぬ状況)を鑑みた復興再生に「パン・ヨーロッパ(欧州共同体構想)」を提唱した。その正反対に走ったのがヒトラーだった。皇帝のオランダ亡命後「ワイマール共和国」が、ヴェルサイユ条約で巨額賠償金を課せられ、植民地や産業や国籍をも失ったドイツ人等々を容認で、共和国に闘い挑んで「独裁国家」を築いた。

 最近(9月24日)のテレビ番組「アンネ・フランク生存者が語る「日記」のその後」を観た。余りの残虐さに途中で観るのを止めた。あたしは子供の頃に、姉本棚の『アンネの日記』を読んだことを思い出した。

 次に「Netflix」で映画『ヒトラー~最後の12日間~』(ヒトラー最後の個人女性秘書の証言を基にした独裁者の最後を描く)を観た。前述『アンネ~』には大量虐殺された遺体映像が多数挿入されていたが、後者は「ヒトラーと最後の側近ら」のパーソナリティーに焦点が当てられ、大量残虐とはちょっと結びつかぬ妙な違和感を覚えた。 

 戦争は死者をグロス(数字)で表わす場合が多いが、その数字・映像の裏にはかけがえのない個々人のパーソナリティーが詰まっている。死者をグロスでとらえる戦争など「絶対にしてはいけない」

 2013年、麻生副総理兼財務金融相は、自民党の憲法草案「緊急事態条項」について、都内ホテルでの講演で「あの手口を学んだらどうかね」と言ったそうな。(ワイマール憲法が誰にも気づかぬ間にナチス憲法に変わっていたように~の意。世界で最も民主的と言われたワイマール憲法の第48条第2項の緊急事態条項が〝絶対的な独裁に利用された=石田勇治講演より)

 菅内閣になっても副総裁兼財務大臣はそのままで、官邸は日銀、NHK、官僚、検察庁、マスコミに加え、今度はなんと!日本学術会議まで手を出したらしい。前内閣の「危ないなぁ」の危惧は何も変わっちゃいない。ここはやはりヒトラーの「手口」とやらをお勉強しておく必要もあるらしい。麻生さんもヒトラーに詳しいのだろう。かくして小生も遅まきながらヒトラーのお勉強です。ヒトラー関連書籍も映像作品多数。老いた頭で理解するのは難儀だが、まぁ、ゆっくりとお勉強して行きましょう。

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