SSブログ

鏡花⑤終の棲家=麹町の鏡花宅 [牛込シリーズ]

bunnjinnup_1.jpg 鏡花の終の棲家「麹町区下6番町11番地」宅について。場所は地図(左)を参照。現「日テレ通り」の現日テレ更地の角「番町文人通り」を右折。現「ベルテ六番町」の大きな建物の石垣に「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡」史跡がある。その広大な屋敷(昔の有島邸)を右折して地図(d)及び写真の〇印が「泉鏡花旧居跡」史跡案内板がある。

 ちなみに有島武郎は大蔵官僚・有島武の長男で白樺派同人。代表作は『一房の葡萄』。ハーバード大に籍を置いた秀才の美男貴公子。北海道に農園を有し、欧米歴訪後に大学教授。31歳で結婚し、38歳で三人の子を設けるも妻が病死。世の女性が彼を放っておくワケもなく与謝野晶子、神近市子、望月百合子らが接近とか。だが「婦人公論」の記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で情死(大正12年・1923)。

arisimatakeo_1.jpg 鏡花の6番町転居が明治43年(1910)だから、鏡花が夏に縁台を出して涼んでいた頃は、有島家の縁台には武郎、実弟の有島生馬、末弟の里見弴も反対側の縁台で涼んで互いに談笑していたらしい。有島生馬は藤島武二に師事後にイタリアへ。明治43年の帰国後にセザンヌを紹介。後に西村伊作の「文化学院」創立時の講師になっている。里見弴は小説家で明大文芸科教授。菊池寛賞などを受賞。そして武太郎の長男が二枚目スター・森雅之。

 さて泉鏡花宅について、各氏が記した紹介文を拾い集めてみる。勝本清一郎は「道一つへだてた有島宅はまさに邸であったが、鏡花の家は軒がかたむきかかった二階長屋の右半分であった。門はなく、道路からいきなり格子戸で、ただ、すゞ夫人が格子戸をよくみがいていたから、下町風の小ざっぱりした感じはあった。夏になると鏡花はこの格子戸の前に縁台を置き、浴衣がけで団扇を持って涼んでいた」

 里見弴は「昨日まで稽古三味線の音が耐えない長唄の女師匠の住んでいた階上階下六間ほどの粗末な借家に、あの名だたる大家がと驚かれもした。書斎は二階の八畳間。机の左に榎の自然木の火鉢。違い棚には常に紅葉全集と紅葉の写真が飾られて、鏡花は毎朝必ず恭々しく拝礼していた~」

kyoukatuino_1_1.jpg 泉明月は「三米巾の静かな道路沿いのしもた家造りの二階家。門がなく玄関は木の格子戸造り。道路から家の中をのぞくと、人がいるかいないか、家の中の様子がうっすら透けてわかる。周辺では珍しい造りで浅草、神楽坂、また金沢の鏡花の郷里・下新町にみられるような粋な造り。酒屋・伊勢安の借家で、昭和14年当時、45円の家賃。日当たりのよい南側が壁でお隣の家。広さは1階2階含めて大体35坪。1階は2畳の玄関、4畳半の茶の間には長火鉢と煙草盆。鏡花は潔癖家だから長火鉢の鉄びんの口、煙草の口にはすず夫人手製の千代紙を丸めたサックがかかぶさっていた。その天井には大小のトウモロコシがぶら下がっていて、雷さま除けのおまじまい。そして8畳の座敷、6畳の裁縫などする家事室。庭は2坪ほどだが鏡花の好きなうの花、koujimatikyoukatei_1.jpg山吹、あじさい、山茶花が植えられていた。庭の中央に能楽堂のようなおしゃれな雀のお宿があり、朝夕に餌をやると数百羽も集まってきた。夏には数匹のひき蛙も這い出てきた。2階の物干し台にも一杯の草花の鉢が並べられ、読書の合間合間に飽かずに眺めていた~」

 寺本定芳は「夏になると先生は、六番町のお宅の前、有島家の黒板塀との間に、涼み台が出される。煙草盆、蚊とり線香、団扇など涼み台には約束の小道具がずらりと並ぶ。先生の涼み台が往来に出ると里見家もここに一台の涼み台を出しで四方山雑談を交わしていた~。執筆の机は、祖母形見の経机。原稿は二つ折にして、間に手製の罫紙を挟んで毛筆で仮名つき原稿だった~」

 鏡花関連書には、鏡花宅写真が幾点も紹介されている。次は鏡花の潔癖症について~。コロナ感染対策の参考になるかも~。

nice!(0)  コメント(0) 

泉鏡花④麹町時代(イ) [牛込シリーズ]

 2泊3日の「検査入院」が〝こじれて〟15日間の入院生活になった。(コロナ無関係。入院にはPCR検査の陰性が必須条件) 退院後も即、日常生活には戻れず20日振りのPC起動です。この件については、いずれ記すことになろうが、まずは泉鏡花の続きです。

asahirennsai_1.jpg 泉鏡花、明治38年(1905)32歳。祖母(87歳)が死去。尾崎紅葉旧居近くの「円福寺」を菩提寺として雑司ヶ谷霊園に埋葬。弟の豊春は筆名「泉斜汀」で小説発表。札幌「北海道タイムス社」勤務で自立した。

 明治38年、鏡花は健康を害して約3年半、伊豆田越村(現・逗子市5丁目9番38号)で療養生活・小説『春昼』には、鏡花とすゞが散歩をした当時の逗子の風景が伺えるそうな。

 明治40年(1907)34歳。『婦系図』の新聞連載を開始。明治41年、すゞが大病(良質腫瘍切除?)手術。同年8月、妹の多賀が嫁ぎ先の富山で死去(32歳)、二人の子の赤痢看病で罹患とか。文学は自然主義(理論的指導者は島村抱月「早稲田文学」が牙城)の最盛期になるも鏡花奮闘す。

koujimatibunjin_1.jpg 明治41年35歳。牛込から麹町土手3丁目に移転。家賃30円。崖下の家(市ヶ谷~四谷間の濠寄り。同地域には後に内田多聞らも在住で、昭和13年に五番町に改称。現・番町会館辺りか~。写真下)。

 明治42年、鏡花は朝日新聞入社の夏目漱石を訪ね。60回分の小説連載を依頼。朝日新聞は漱石『それから』~鏡花『白鷺』~永井荷風『冷笑』~漱石『門』と続いた(漱石・鏡花の写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 明治43年37歳。麹町区下6番地(現・千代田区6番地5番)に転居、ここが終の棲家になった。その旧居については次回として、まずはどんな時代だったかを探ってみたい。

 明治43年3月に『遠野物語』発表の柳田国男は鏡花を評価し、鏡花もまた『遠野物語』を「奇譚・妖怪の一つ一つに想像力を刺激される」と評価。鏡花は『夜叉ヶ池』『天守物語』など戯曲形式作を発表。明治44年に小説19編を発表。

utidadote3cyoume_1.jpg 次に永井荷風。『花火』にこう記している。~明治44年慶応義塾に通勤する頃、」わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車(大逆事件の)が五六臺引続いて日比谷の裁裁判所の方へ走って行くのを見た。(略)わたしは世の文学者と共に何も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に耐へられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。

 同年11月、荷風は「三田文学」に無名の谷崎潤一郎作品に対する評論を発表。谷崎は同書を持つ手が可笑しい程にブルブル震えるのを如何ともすることが出来なかった程に感激する。その谷崎は泉鏡花を「独特の世界に遊んだ作家」と記し、「日本には浪漫派の作家が少ないので、鏡花がひとり懸け離れて見える。その異色ある境地=鏡花世界に住するも陰鬱・病的・ひねくれていない。日本的な明るさ、華やかさ、優美さ、天真爛漫さがある。我が国土の生え抜きのもの世界だ」。

 明治44年秋頃から鏡花作の舞台が活発化。『婦系図』『南地心中』『天守物語』『戯曲日本橋』など演劇(新派、歌舞伎、能)とも係わりが深くなる。写真中は明治時代に文人らが多く住んだ「麹町文人旧居図」。次回は鏡花の終の棲家「麹町区下6番地11番地」宅についての詳細を記してみる。

nice!(0)  コメント(0) 

泉鏡花③『蛇くひ』 [牛込シリーズ]

IMG_5630_1.JPG 泉鏡花25歳(明治31年作)の『蛇くひ』を、大正14年9月発行『鏡花全集巻三』(平成6年復刻版。写真)で読んでみる。行間たっぷりととって総ルビ。旧仮名、旧漢字の教科書でもあります。以下、数行を紹介する。無学小生が読めぬ漢字だけ(ルビ)する。

 ~渠等(かれら)は己を拒みた者の店前に集り、或は戸口に立竝び、御繁盛の旦那吝にして食を與へず、飢ゑて食ふものゝ何なるかを見よ、と叫びて、袂を探ぐればう畝々と這出づる蛇(くちなは)を掴みて、引断(ひきちぎ)りては舌鼓して咀嚼し、畳とも言はず、敷居ともいはず、吐出しては舐(ねぶ)る態は、ちらと見るだに嘔吐を催し、心弱き婦女子は後三日の食を廃して、病を得ざるは寡(すく)なきなり~

 榎の祠から数十の蛇を捉え、釜茹でする描写もある。よくもまぁ、そんな事を好んで書くなぁと驚いた。また『高野聖』でも蛇・蛇~の描写が続いて、次は樹の枝からぽたり・ぽたりと落ちてくる三寸ばかりの山海鼠(9㎝のヤマヒル)に襲われる描写が続く。鳥肌ざわざわさせつつ読み進めば、今度は婦人が衣紋の乱れた乳の端もほの見ゆる膨らかな胸を反らして沐浴する妖艶なシーン、その婦人が背後から抱くように坊さんの法衣をすっぽりと脱がし、張り付いたヒルを捕り、さらさらと水をかけ洗うシーンになったりする。

 いやはや、あたしはこんな小説は初めて読んだ。それで鏡花は「黴菌恐怖症・超潔癖症」というから魂消た。本当は蛇や蛭や黴菌が好きなんじゃないかとさえ思ってしまう。そう云えば~と小生も思い出す。O島へ行くと、会う度に必ず恐々と蛇の話をする人がいた。恐くイヤなら話さなければいいのに~。すまないが、お付き合いを遠慮させてもらったが、今思えば彼は〝0島の泉鏡花〟と云えなくもない。鏡花ファンのご婦人方は、そんな蛇や蛭や化け物噺に「キャー・キャー」と恐がりながら、鏡花文学に魅了されているのかしら。

 蛇の話なら小生体験もある。20代の山男時代のこと。ザイルワークの沢登り最後にブッシュを漕いで稜線に出るのだが、そのブッシュ漕ぎで草の根元を掴んだら、蛇がとぐろを巻いていた。40代のヘラ鮒釣りで、水辺の釣り座用意にゴミの紙を除いたらそこに蛇がいた。

 O島ロッジは自然の中。庭の手入れ最中、木の根が腐った跡の穴からムムゥ~と生臭さが立ち昇って、本能で後ずさりすれば、穴からヌネヌネと大きな蛇が這い出した。O島には〝飛び蛇〟もいる。青大将の黒化した黒蛇で、これが枝から枝へ跳ねる。M原山の土産屋にはマムシ入り焼酎が売っていた。島の友人にはマムシを食う奴もいる。生活道路に蛇の死骸があってイヤだなぁと思っていたら、キジが銜えて飛び去る光景もみた。芭蕉句「蛇くふときけば恐ろし雉の声」

 雉の声より怖い体験もした。風呂場から裸になった女房の悲鳴。すっ飛んで行くと浴室に赤斑模様の小さな蛇がいた。棒で打ち殺し、死骸をシャベルですくって藪へ捨てた。

 新宿にも蛇は出る。近所の団地を通り抜けようとしたら、子供らが小さな蛇で遊んでいた。気味悪く子らを避け通ったら、少年Aが面白がって蛇を持って迫ってきた。イヤがる人にイヤなことを迫れば、逆上して君を叩き潰す暴挙に出兼ねないと怒鳴りつつ説教した。あぁ、そんな泉鏡花の小説よ~と思った。次は鏡花の麹町時代へ。

nice!(0)  コメント(0) 

泉鏡花②牛込南榎町から神楽坂へ [牛込シリーズ]

kyoukaenoki1_1.jpg 泉鏡花は尾崎紅葉の玄関番の修行を終えると、博文館主人・小石川戸崎町の大橋乙羽(18歳で母を失い、19歳で上京。硯友社同人で博文館主・大橋佐平の長女婿へ。紅葉が媒酌人)へ移った。紅葉は内弟子卒の祝いに西洋料理・明進軒(当時の牛込唯一の洋食店)で馳走。鏡花、初めてナイフ・ホークの持ち方を教わる。

 博文館の百科全集の編纂に携わるなどしつつ、同社発行の「太陽」「文芸倶楽部」「少年世界」など雑誌ジャーナリズムに触れながら、自身も「文芸倶楽部」に『夜行巡査』などを発表。一葉宅から戻った乙羽夫人が「お夏さんが褒めていましたよ」。当時絶頂期のminamienoki2_1.jpg樋口一葉からのお褒めに大喜び。

 『外科室』『活人形』『鐘声夜半録』『貧民倶楽部』『愛と婚姻』『琵琶伝』などを発表後の明治29年(1896)23歳、小石川大塚町57番地の家を借り、祖母と弟豊春を迎えて一家を成す。当地は広大な陸軍省用地(弾薬倉庫)の隣(現・茗渓会館辺り。跡見学園中高隣=昭和5年に跡見学園が同官有地=大塚町56番地を購入。区立窪町小学校の春日通り反対側)。『日本の作家 泉鏡花』には祖母きて77歳、豊春16歳と共に縁側で寛ぐ写真が掲載。当時の鏡花評は「奇異怪僻不自然の観念小説・深刻小説」。

 明治32年(1899)26歳。神楽坂の蔦永楽の抱え芸者・伊藤すゞ(亡き母と同名の17歳・桃太郎)と恋情も、紅葉これを許さず。能登輪島で芸妓の妹・多賀も自宅に引き取る、なお紅葉の愛人は神楽坂芸者・小ゑん。紅葉晩年の交情相手は芸者・小糸だった。

IMG_5633_1.JPG 秋27歳、牛込南榎町23番地(写真上)へ転居。同地は牛込天神から南へ坂を上り切った辺りの左「矢来公園」を経て、そこから2本目の路地を右に曲がった先のアパート一画。新宿区登録史跡「泉鏡花旧居跡」(写真中)が設置されている。新宿歴史博物館サイト「泉鏡花旧居跡」の写真は平成7年で、写っているのは二階建て一軒家。地名通り大榎が鬱蒼、野草蓬々の荒み切った2階家で、上下3,4間の家。2階の6畳が書斎で、下の6畳が舎弟斜汀の居間。現在は新築アパート風建物の角に史跡看板あり。文章・写真も平成7年地とは微妙に変わっている。

 なお「矢来公園」辺りは鏑木清方旧居碑があるも、二人の交流が鏑木が矢来公園に移転(大正15年)以前の明治34年(1901)頃からで、安田銀行頭取などの実業家・安田善次郎(松廼舎)宅で紹介されてから。南榎町在住時の作品は『高野聖』『葛飾砂子』(後に谷崎潤一郎脚色で映画化)など。

 明治35年(1902)29歳、胃病を癒すために逗子田越村桜山の一軒家で約1ヶ月を過ごしている。台所仕事に服部てる子がいたも、すゞが週2で通っていたとか。すゞと人目を忍ぶ「幽居」でもあったらしい。

izumihakusyu_1.jpg 翌30歳、南榎町から牛込神楽坂2丁目22番地(写真下)の新築2階家へ移転。いわゆる「物理学校裏」で、ここには「泉鏡花・北原白秋旧居地」の史跡看板が建っている。同年10月30日に紅葉が36歳で逝去後に、すゞと正式結婚した。鏡花の同借家に在住は明治39年7月までで、その2年後に北原白秋が翌年10月に本郷動坂へ転居するまでの約1年間ここに住んでいた。白秋は千駄ヶ谷に転居したのは、本郷動坂からだろうか。千駄ヶ谷では隣人の人妻と密通で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監へ送られた。その辺の事情とその後の波乱人生については、弊ブログ「千駄ヶ谷物語23~26」で紹介済。

 次は麹町へ移った泉鏡花を紹介してみる。

nice!(0)  コメント(0) 

泉鏡花①旧居巡りの前に~ [牛込シリーズ]

IMG_5623_1.JPG 泉鏡花の旧居巡り前に、鏡花プロフィールをお勉強。参考は笠原伸夫『評伝泉鏡花』(白地社)、日本の作家『泉鏡花』(小学館)、『作家の自伝 泉鏡花』(日本図書センター)、『日本文学全集:尾崎紅葉・泉鏡花』(中公公論)など。関心抱かぬ作家ゆえ、俄かに『高野聖』と短編の幾編かを読んだのみで、その文学に言及の知識はなく、彼の旧居巡りから彼の世界を探ってみます。

 明治6年(1873)金沢生まれ。本名・鏡太郎。父は彫金師・清次(象嵌師。尾崎紅葉の父は彫金師)。父29歳・母17歳で結婚。母・鈴は加賀藩の葛野流大鼓師で江戸詰め田中豊喜(万三郎、猪之助)の長女。江戸は下谷生まれ。鈴の兄は養子に出された松本金太郎で、宝生流シテ方として知られた能学師。母一家は明治元年の能楽師の国元帰還令で金沢に戻った。

 鏡太郎は、母が江戸から持ち帰った草双紙の絵を見るのが大好き。9歳の時に母28歳が次女の産縟熱(天然痘説もあり)で死去。鏡花は「五つぐらいの時だと思う。母の柔らかな乳房を指で摘みつまみして居たように覚えている~」。若い母の死に無常、異性=母への思慕を抱えて育ったらしい。以後は祖母「きて」が養育。

 父は母より8歳上のサクと再婚も、子らが馴染まず離縁。だが鏡太郎には次々と美しい女性が現れた。近所の湯浅しげ、又従姉の目細てる。11歳で米国人経営の北陸英和学校に入学すればミス・ポートルにも愛された。鏡花にとって異性=亡き母・年上女性の図式が出来た。

kyouka2satu_1.jpg 16歳、紅葉『二人比丘尼色懺悔』に感動し、小説家志望で上京。知人友人の下宿を転々とする放浪生活1年余。下層裏長屋体験を経て、18歳で牛込横寺町の尾崎紅葉(新婚早々24歳)の門下生・玄関番として修業開始。

 「実に此門に参らん事、積年の望みなりければ、其儘心なく容易(たやす)くは入りかねて~。長らく躊躇したのちに衣服の襟を繕ひつゝ、門の内を二三十歩、又格子戸を潜りあり、静に開けて立向ひ、慮外(ぶしつけ)ながら御免下さいましと申し~ 明治二十四年十月九日午前八時三十分」

 「お前も小説に見込まれたな。都合が出来たら世話をしてやってもよい」に翌日再び先生宅へ。「夜具を持ってはいまいな」で同日夕方に小さな机と本箱をもって玄関へ。共に父は居職で、早くに母を亡くした境遇。鏡花は修業中に金沢大火で実家類焼、父死去などで帰郷時期もあるも寄食生活は22歳まで。(写真の評伝本表紙絵は『続風流線』の鰭崎英朋の句絵。

nice!(0)  コメント(0) 

芸術倶楽部跡から尾崎紅葉旧居へ [牛込シリーズ]

geijyutukurabuato2_1.jpg 夏のウォーキングで、迷い辿り着けなかった神楽坂・横寺町の芸術座倶楽部跡と尾崎紅葉旧居を新自転車で巡った。

 早稲田通りを「神楽坂駅」まで走り、その先の左が「赤城神社」で、その斜め右側の「朝日坂」へ入る。坂を上り切った辺りのアパート風家屋が並ぶ壁の電柱横に「芸術座倶楽部跡地」の史跡看板あり(写真上・中)。

 「島村抱月・松井須磨子物語」は記したゆえ、ここでは場所の確認だけ。ドイツ留学後の抱月は「早稲田文学」復刊で自然主義文学の旗手の一人だったが、同倶楽部内でスペイン風邪で亡くなった。須磨子も後追い自殺した。

 同地よりさらに朝日坂を進めば右に「円福寺」。そgeijutukurabuato_1_1.jpgの先の左側に「尾崎紅葉旧居跡」(写真下)。以前に歩き訪ねたことがあるも、夏のウォーキングでは迷い訪ねられず仕舞い。自転車散歩のなんと簡単なこと。

 中央公論社「日本の文学:尾崎紅葉/泉鏡花」年譜より、簡単に尾崎紅葉プロフィールを追ってみる。明治元年(1868)芝中門町生まれ。本名・徳太郎。父は象牙彫りの名職人。母は漢方医の娘・庸(よう)。紅葉4歳の時に母が早逝。母の実家。芝神明町の荒木家で育つ。

 11歳、東京府第二中学へ。小学時代の山田美妙と再会。2年で退学。漢学を学ぶ。14歳、三田英学校入学。15歳、東京大学予備門へ。「文交会」に参加し漢詩文を発表。17歳、山田美妙や石橋思案らと「硯友社」結成。筆写回覧雑誌「我楽多文庫」発行。母の実家・荒木家と共に麹町飯田町へ転居。「硯友社」に川上眉山、巌谷小波らが参加。

ozakikouyoutaku_1.jpg 明治21年、20歳。『我楽多文庫』公売。江見水蔭らも加わって同人80名余。帝国大学法科入学。翌21歳『二人比丘尼懺悔』が出世作になり、読売新聞社に入社。

 明治23年、22歳。牛込北町41番地に移る。実はここ大田南畝の生誕地で、南畝の子孫で画家の大田南洋(南岳)が住んでいた後に紅葉が住み、紅葉が出たあとに江見水蔭が入居(これは小生の説)。

 紅葉は試験で落第したことで大学を退き文筆に専念。掘紫山と本郷森川町に住み、23歳で再び牛込北町へ戻る。そこから牛込横寺町47(写真左)に転じて永住する。以後、作品を次々に発表。明治30年(1897)、読売新聞に『金色夜叉』連載。明治36年(1903)35歳、胃癌で畢命。墓地は青山墓地。戒名は彩文院紅葉日崇居士。

konjikiyasya.jpg 三島由紀夫は~「巧妙練達な文章。奇思湧くが如く。警語頗る多し。客観描写の洗練と日本的なリゴリスム(厳格主義)を伴った人事物象風景の実存感・正確度を要求する態度は、その後の近代文学をがんじがらめにした。紅葉を読む時は、まず一種観念的なたのしみ方から入って行くことが必要~と記していた。文学的には浪漫主義、擬古典主義。島村抱月らの〝自然主義〟ブームと対峙。

 尾崎紅葉旧宅跡を訊ねたら、同宅玄関の間で書生暮し後に活躍した泉鏡花の旧居巡りもしたくなった。(続く) 写真左はかつて歴史的仮名遣い勉強中に古本市で買った「金色夜叉」の挿絵。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。