SSブログ

④新橋の親柱を訪ねる。 [散歩日和]

sinbasioyabasira_2.jpg 丸の内線「銀座」下車で、三越から中央通りを新橋へ銀ぶら。高速道路下に新宿御苑隣接地に見たのと同じ親柱が、「銀座柳の碑」(西条八十作詞・中山晋平作曲の歌詞・譜面)と共に設置されていた。案内柱に以下のような説明あり。

 「これは、かつて汐留川に架けられていた親橋の親柱。汐留川は昭和38年(1963)の埋め立て工事でなくなりました。現存する新橋の親柱は、大正14年(1925)に長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です」

 新橋から下流にあった「蓬莱橋」跡辺りに、朝鮮使節団に幕府の威光を誇示すべく造られたという当時の「芝口御門」の様子が銅版で紹介されていた。そこから「旧新橋停車場」へ。

 建物裏側にまわるとプラットホーム、線路、0哩標識が再現されていた。停車場の「鉄道歴史展示室」で購った絵葉書通り。同停車場横が「パナソニック」で同社「汐留美術館」の告知に、4月10日から「クールベと海」展の予告ポスター。

 かつて、ここで「カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち」展を観たことを思い出した。小生、波を描く簡易習作をしたことがあるゆえ、ちょっと興味をそそられた。

 そこから電通ビルを回り込むと眼前に「浜離宮」。築地川の大手門(関東大震災復興で架け替え)があり、その先に汐留川の「中の御門橋」があった。

sibagutigomon_1.jpg 浜離宮からの帰路途中に「銀座に残された唯一の踏切信号機」(浜離宮前踏切)が残されていた。「昭和10年(1935)、築地市場の開場と同時に出来た貨物線の跡。昭和61年(1986)まで国鉄汐留貨物駅があって、築地市場とつながっていていた当時の踏切です」

 さらに新橋駅に向かって歩けば、昭和47年竣工の黒川紀章設計「中銀カプセルタワー」。老朽化、アスベスト、保存か・解体か~諸問題を抱えているらしいが、天辺が何故にトタン造りなのか不思議に思った。

 以上、新宿御苑隣接地で見た〝変な塔〟(結果は新橋、京橋の親柱だった)調べはこれにて終了。なぜこんなことに興味を持ったかと云えば、かつて自転platform_1.jpgsinbasiehagaki_1.jpg車に乗り始めた頃に「日本橋川」を下りつつ各橋を巡った(カテゴリー「日本橋川」全31回)ことがあってのことだろう。次は「パナソニック汐留美術館」で〝クールベと海展〟を観た際に、新橋から溜池までの汐留川を歩いてみようと思っています。

nice!(0)  コメント(0) 

③新宿御苑隣接の「汐留川・新橋の親柱」 [散歩日和]

jyukusinbasioya_1.jpg 新宿御苑隣接地の昔の「みちの博物館」(詳細不明)に「京橋の親柱」と並んで、もう一つ立派な親柱があった(写真左)。その写真をPC片隅にキープし「東京 親柱」で検索。すると「あった」ではないか。なんと「新橋の親柱」らしい。しかも「京橋・親柱」と同じく、これもモニュメントとして保存設置とか。

 まずは新橋を流れていた「汐留川」の予習から。「新橋」は昭和30年代まであった「汐留川」に架かっていた橋。汐留川は赤坂溜池~江戸城外濠・幸橋~浜離宮を結ぶ水路。江戸期の汐留川は幸橋御門~汐留橋で、架橋は土橋~難波橋(涙橋)~芝口橋~汐留橋(蓬莱橋)。

 当時の新橋は、江戸城見付門のひとつ「芝口御門(芝口橋)」で、朝鮮使節が同橋を渡る際に、幕府の力を誇示したく設けられたもの。当時の姿は〝蓬莱橋〟近くに史跡案内の銅版で紹介されているとか。同橋は享保9年(1724)正月に焼失した。ちょっとややこしい歴史がある。

 今の元「新橋」は、江戸後期の架橋で長さ18m、幅7.8m。「江戸名所図会」(斉藤kyoubasi-sinbasi2.jpg幸雄の編・文/長谷川雪旦の画)の「新橋・汐留橋」の絵で当時の様子がわかる。同図会の文章を読む。「<新橋>大通り筋、出雲町と芝口一丁目との間に係る。正徳元年辛卯朝鮮人来聘の前、宝永七年庚寅此所に新に御門を御造営あろて、芝口御門と唱へ、橋の名も芝口橋と更られしが、享保九年正月廿九日の火災で焼亡するの後は、復舊の町屋となさたれり。此川筋の東木挽町七丁目と芝口新町の間に架せしを汐留ばしといふ」

 その新橋は京橋と同じく格式誇る擬宝珠の装飾付き。だが汐留川は昭和30年代後半に東京オリンピックに備えた道路整備で埋め立てられ、その上に首都高速道路が走った。今、新橋にモニュメントとして遺された親橋は、旧新橋の南東側に移築されていたが、傾いていたことかsinbasisiodome_1.jpgら平成2年に解体補修され、銀座8丁目にあった「銀座の柳」歌碑と共に現在地に整備設置された。

 さて新橋と云えば「新橋ステーション」だろう。新橋ガード下から昭和通りへ曲がると、道路向こうに「汐留シティセンター」「パナソニック」「電通ビル」などの超高層ビル群を背に明治・大正期風の「旧新橋停車場」が、ちょっと異なる感じで眼に飛び込んでくる。 

 本来の新橋停車場は、関東大震災で焼失。平成8年(1996 )に遺構を基に復元。駅舎(鉄道歴史展示場)、プラットホーム、0哩標識(終点軌道)などが再現。最近なにかと話題の電通ビルの裏は「浜離宮」で、汐留川がここで東京湾に繋がっている。さぁ、こんな予備知識を得た新橋に行ってみましょうか。

nice!(0)  コメント(0) 

②京橋の「アール・デコ風親柱」 [散歩日和]

ginnza1cyoumekouban.jpg 銀座線「京橋」下車で地上へ。銀座中央通りに出て銀座方向を見る。前方に京橋川を埋め立てて出来た首都高速道路が横切っている。その下が「京橋」。銀座に向かって右側の高速道路下にまず「江戸歌舞伎発祥之碑」。~寛永元年に中村勘三郎が猿若中村座を設けたこの地を、歌舞伎発祥の地として記念する~の説明文。その奥に「京橋大根河岸・青物市場」の碑もあった。

 さて高速下を渡った先に「銀座1丁目交番」。その屋根が「アール・デコ風の親柱」を模した建物になっていた。その横に擬宝珠を模した石の親柱、京橋史跡看板。「2基(北側に1基あり)の石の親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時の擬宝珠の形で、佐々木支陰の筆による「きようはし」と、片や「京橋」と彫られた2基が橋両側に設置されている」と説明。

 石およびコンクリート造の親柱は「大正11年(1922)の橋拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時の、照明設備を備えた近代的意匠の親柱をモニュメントとして設置している」の説明。その史跡案内板に載せられた大正期の京橋写真に、そのアール・デコ風の親柱がしかと写っていた。その親柱現物は、橋の反対側に、銀座レンガ街のガス灯碑と並んで立っていて、まさに新宿御苑隣接地kyoubasioyahasira1.jpgkyodenga.jpgと同じ親柱だった。

 京橋と云えば、小生にとっては「山東京伝」。弊ブログでは彼の『江戸生艶気蒲焼』の全文筆写・絵も複写で「くずし字」お勉強をしている。また2011年秋には、下町自転車散歩中、回向院に「山東京伝(岩瀬醒)」墓があるのを知って。やや興奮気味に掃苔レポート。また浅草寺境内の「京伝机塚」も紹介済。

 今回の京橋・親柱調べで、サイトや書籍によっては山東京伝は京橋生まれとの紹介例ありで、それは間違い故に訂正しておきたい。山東京伝は、深川で質屋の息子として生まれた。安永2年(1773)、13歳の時に父が京橋銀座1丁目(新両替町辺り)に転居して家主になった。京伝はその京橋時代に浮世絵を学び、絵師・北尾政寅になった。

 天明2年(1782)、22歳。戯作『御存商売物』で戯作者・山東京伝と著名。「江戸城の紅葉山の東」で山東、「京橋の岩瀬伝蔵」から「京伝」。彼のデビューを後押ししたのが牛込の大田南畝だった。30歳で吉原・扇屋の新造お菊と結taisyokyobasi.jpg婚。31歳、「寛政の改革」で「手鎖50日の刑」。その後に馬琴が弟子入り。33歳、京橋の木戸際(アール・デコ風親柱設置の場所辺り)に借家して紙煙草入れの店「京屋」を開店。絵師・戯作者・デザイナー・宣伝マン・自身ブランド店経営~のマルチクリエーターの活躍。その後にお菊没。

 35歳。父が支配地内の医師の売家(銀座1丁目3番地4.京橋から銀座方向へ7、8軒先の伊勢伊ビル辺り)を買って移転。「京伝店」はさらに大繁盛。40歳、吉原玉屋の23歳「玉の井」を落籍して結婚。文化13年(1816)56歳で没。(参考は小池藤五郎著『山東京伝』)

 また歌川広重の旧居も京橋と日本橋の間~、ブリジストン美術館改め「アーティゾン美術館」の京橋側隣kyobasioyabasira3.jpg接辺りで、目下は建設工事中(新TODAビル計画)辺りに旧居が在ったらしい。近辺には古美術店多数。広重当時からそんな特色を有していたのかしら。また日本橋から呉服橋方面へ行った所に竹久夢二の「店」跡史跡がある。

 以上で新宿御苑隣接地にあった「親柱」調べは終了。だが同隣接地には、もうひとつ立派な親柱があった。さて、どうしましょう。

nice!(0)  コメント(0) 

①新宿御苑で「京橋の親柱」を見た。京橋川とは? [散歩日和]

kiyosubasi_1_1.jpg 緊急事態宣言下の過日、新宿御苑内を散策と思ったが、宣言下中ずっと閉園。だが閉園ゆえに入口前の駐輪場隣接の柵外際に〝奇妙な石塔〟あるのに気付いた。

 藪から覗けば「きようはし」の文字。最初は「きよすはし=清洲橋」と思ったが、ややして「京橋川の京橋親柱」と気付いた。それが、何故ここに?。その隣接地は昔「みちの博物館」(詳細不明、国土交通省?)跡地で、その展示物だったものが放置されたまま~と推測した。 

 そこで急きょ「京橋川」をお勉強。京橋といえば、江戸時代から日本橋~京橋~銀座~新橋のメインストリート。「江戸切絵図」を見ると、これも埋め立てられている江戸城外濠の鍛冶橋(八重洲2丁目辺り)近くから分流して八丁掘へ抜ける開削運河。京橋川+八丁掘川が計740mで、そのうち京橋川は600mほど。架かるのが比丘尼橋~中之橋~京橋~三年橋~白魚橋(各別称あり)。江戸時代はこの運河沿いに薪炭、竹、青物、白魚などの河岸があって物流拠点になっていたらしい。

 「比丘尼橋」は長さ約12.6m。広重描く「名所江戸百景」に「びくにはし雪中」と「京橋竹かし」がある。「びくにはし雪中」の「山くじら」は猪肉を食べさせる「尾張屋」で、右の「〇やき」は芋の丸焼き屋。橋を渡るのは「おでん」か「煮売り屋」さん。「京橋竹かし」は京橋の擬宝珠が描かれ、下流の竹河岸風景。さらに下流に中之橋、白魚橋を望む。 

kyobasiezu_1.jpg 「比丘尼橋」は北側(東京駅側)に比丘尼(有髪僧形の娼婦)宿があっての名。「中之橋」は明治になって「紺屋橋」。今は「紺屋橋児童公園」で名が残る。その辺りは江戸期は「大根河岸」で野菜の荷揚げ場。後に青物市場が立った。「京橋」を飛ばして次が「三年橋」。その北側が「炭町」で別名「炭屋橋」。薪炭は当時の生活必需燃料。次の「白魚橋」は白魚漁師が幕府献上の納入準備をした屋敷があっての名。

 そして「京橋」。日本橋から東海道で京都へ向かう際に渡る橋で「京橋」。格式ある橋ゆえに橋の欄干に「擬宝珠」付き。日本橋~京橋の間、つまり「擬宝珠の間に生まれた」が江戸っ子のなかの江戸っ子とか。架kyoubasiukiyoe_1.jpg橋は日本橋と同時期で慶長8年(1603)頃。長さ約26m、幅は約7.8m。

 明治8年(1875)に石造りアーチ橋に架け替えで、その際に江戸時代の名残りで擬宝珠の形の石の親柱が、詩人・佐々木支陰の筆による「京橋」「きようはし」が彫られて立った。

 大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた際に、照明設備を備えた「石及びコンクリート造り親柱」を設置。その1基が新宿御苑の隣接地に置かれているとわかった。では新宿から京橋へ、今も遺る擬宝珠型の石の親柱らしい。予習はこの辺で、さてアール・デコ風親柱を観に行きましょうか。この項の参考は杉浦康著『消えた大江戸の革と橋』他。②へ続く。

nice!(0)  コメント(0) 

散歩の眼の祖は、松尾芭蕉~永井荷風か [散歩日和]

kafu&yumeji.jpg あたしにとって街散歩と云えば永井荷風だった。大正4年(1915)に『日和下駄』(一名東京散策記)を発表。いで立ちは日和下駄と蝙蝠傘。

 彼は子供時分から市中散歩が好きだった。今で云う中学時代は麹町永田町から神田錦町の私立英語学校まで徒歩通学。充分に遠いが荷風少年は、遠廻りして散歩を愉しんだ。家が再び小石川旧宅に戻ると、両国の水練場へ通い出し、下町や大川筋の光景に一方ならぬ興を覚えた。

 昔ながら(江戸)の名所古蹟が日々破却される時勢にあって、表通り裏へまわると、昔の面影を残した暮しがあって、自身の感情に調和する感慨、無常悲哀の寂しい詩興感を覚えた。同じく散歩好きの植草甚一に言わせれば、それは「スクエア」に対する「ヒップ」の眼だと解説する。荷風が江戸戯作者の身に落とし、隠居然の身ゆえの眼が今も人を惹きつける。膨大な日記『断腸亭日乗』もまた、荷風散歩日記でもある。

 裏町に入ると、新時代に取り残されて昔ながらの渡世をしている老人がいて、そんな家の娘の行く末へ想いを馳せる。横町から娘らが清元をさらう江戸音曲の哀調が聞こえる。王道人世から外れた人々の暮らしへの共感で、彼はさらに固陋偏狭な気分に浸って行く。玉ノ井の裏路地で一句「蚊ばしらのくづるゝかたや路地の口」「色町や真昼しづかに猫の恋」 荷風の句には擦過する絵が浮かんでくる。

 同書にはそんな荷風の眼で淫祠、樹、江戸切絵図、寺、水、路地、閑地、坂、夕陽の各章にわけて東京散歩が書かれている。昭和11年の『断腸亭日乗』に「写真機を携え亀戸へ」の記述が続き、翌12年には「名塩君来りカメラ撮影の方法を教へられる」があり、以後「帰宅後写真現像」の記述が繰り返される。yosiwara.jpg それは『墨東奇譚』完成の頃で、私家本には自身撮影の玉の井風景写真に俳句を添えたりしている。

 俳句と云えば松尾芭蕉を忘れてはいけないだろう。全身冴えたアンテナ感知で発句の機を狙っていた。出羽の山中の宿で心のシャッター「蚤虱馬の尿する枕もと」「むざんやな甲の下のきりぎりす」。一茶も同じで美女と擦過して「振向ばはや美女過る柳哉」。西行も同じだ。囲炉裏の残り火に心のシャッター「なべてなき黒き焔の苦しみは夜の思ひの報なるべし」。その眼や心は、路上スナップの写真家と変わらない。

 下町と云えば、目下セクハラ問題多発の荒木経惟(アラーキー)の生家は三ノ輪の下駄屋だった。同地には2千名余の吉原遊女が投げ込まれた「総霊塔」(写真下)があり、荷風はそこに文学碑を設けた。荷風散歩にならって、あたしも浅草~山谷堀を遡って~吉原~三ノ輪~浄閑寺を訪ねたことがあった。

 巨編『荷風と東京』を著わした川本三郎には十余の「街歩き」本がある。散歩書は無数~。彼らの眼と心は写真家と変わらず。「路上スナップ」はなにも特別なことでもなんでもない。

 挿絵上は小生調べで、当時の荷風カメラは昭和8年発売開始の二眼レフ「ローラコード」で、竹久夢二が最初の妻たまき~彦乃~そしてお葉さんの多数ヌード写真を撮った写真機は「パール・コダック」かなと推測したもの。

nice!(0)  コメント(0) 

森山大道の言葉を自分流に~ [スケッチ・美術系]

color_1.jpg 本『森山大道の言葉』に、こんな文章が紹介されていた。「僕はもう、外が気になってしょうがない。たったいま地下鉄の運転手さんが見ている視覚だとか、西口ホームレスの人が見ている光だとか、そういうものが無数にあるというのに、なんで自分はこんなところで写真の話をしているのかなって。イライラするんですよね。ああ、あれも撮ってないやって」。

 ソール・ライターは、そんな気持ちをひと言で「まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている」。彼の方が上手だな。森山大道著『写真との対話、そして写真から/写真へ』から〝核の部分〟を自分流アレンジで記してみる。

写真機は対象を等価的に、つまり複写・大量複製を目的に誕生した光学機械だ。その写真機でタブロー(Tableau)を生もうとする行為はまた別の話で、現在の諸相(現実)を原点の複写機的に撮ることも大事なのではないかな。その場所に自分が「居て・見た」という「極私的な記念・記憶」として撮ってもいいと思う。

他人の写真・ポスターなどの画像を、見たまま・感じたままに撮れば、本来の情報とはまた別の新たな現実が重なって二重性を帯びてくる。(写真機が本来的に持つ複写性+アルファーで、単なる複写とは違った写真になる)

世の中は常に、イノセント(できごと)とアクシデント(事故)に満ち、混沌・矛盾・欺瞞・嘘・錯覚にも満ちている。しかも「行河のながれは絶えずして~」で流れていることこそに普遍性がある。そんな流れの一瞬にヌエ(真実のようなもの)を掴むかの瞬間があって、それに惹かれて飽きもせずにスナップ写真を撮り続けることになる。(それは近所の街角にもあるから、わざわざ地球の裏側まで行く必要もない)

today's_1.jpg私は歩行中に「ノーファインダー」で撮っている。眼で撮るというよりも、身体全体で感応しながら撮っている。(氏がデジカメでカラー写真を撮っている姿をYouTubeで見たが、モニター画面で確認しながら撮っていた。あたしのカメラは落下事故で撮影時にモニター表示不可で完全ノーファインダーだ。PC伝送後に画像を見ている)

そうして生理的・感覚的に撮ると、自分がそこに身を置き、その場の空気感を反映した写真になる。(そう難しく考えることもない。ただ瞬間を撮ることが愉しい。そうやって街を歩き回ることが健康にもすこぶる良い~それでいいじゃないか)

人間は一日中、無数の映像を知覚しているが、そのすべての像に対して焦点が合っているわけでもなく、視点が静止しているわけでもない。(私は子供時分から近眼で、老いては老眼。常に矯正視力(眼鏡や白内障手術)で見ているわけで、裸眼で見れば「アレ・ブレ・ボケ」が自然なこと。しかも今のご時世、著作権とかプライバシー侵害も煩く、ボケていればその心配もない)

僕が撮り歩いている時は、シャッターを押すことだけしか考えていないので、全身が敏感なレーダーのようになっている。そのアンテナにピンと反応した時に、素早くシャッターが切れるよう、僕はカメラのストラップを左手首に巻き付けて、左手を絞るように吸い付けて眼=手が直結する体制で素早く撮っている。(あたしはもう2度もカメラを落とし、目下は不具合のまま撮っている。また小生はプロ写真家でも若くもないので、理想はライター爺さんのように気張らずにぶらり・ぶらりとゆっくり歩きながら撮れたらいいなぁと思っている)

スナップ写真の一方の雄・荒木経惟(アラーキー)はスナップ写真風のモデル活用例が多く、喜寿を経た歳になってセクハラ問題大噴出。その評価も凋落中。ここでは言及対象としない。

 写真は森山大道デジカメ写真集『カラー』(高額写真集はとても購えないから図書館本です)。写真下はあたしの好きな新宿南口の撮影スポット。傘や衣服が乱れに乱れる悪天候時に撮ってみたいと思うのだが、そんな日は家を出る気にもなれず、未だ実現していない。

nice!(0)  コメント(0) 

「CANP」の二人の思い出 [スケッチ・美術系]

moriyamahon2.jpg 昭和51年(1976)の大森大道のイメージショップ「CAMP」初期メンバー8人のうちAは、20歳頃の友人だった。44年オリンピックで「東京はうるせぇ~」てんで二人で脱出し、伊豆・河津へ逃げた。

 貧乏青年の長逗留で金が尽きた。Aは親が伊豆諸島の赴任教師時代に「離島体験」あり。磯で食材確保、山で〝百合根〟を掘って食うことなどを教えてくれた。町の小さな温泉銭湯に入ると「混浴」だった。

 数年後にあたしは広告制作会社へ。未だ遊んでいた彼を同社に誘った。彼のデッサンは美術研究所の講師も舌を巻く腕で、同社先輩デザイナーらも感嘆の声で彼を迎えてくれた。2年後にあたしはPR会社へ転職し、彼は写真専門学校に入学した。

 数年後、彼は同校をトップ成績で卒業し「CAMP」に参加。カメラ雑誌に彼の「擬似強姦写真」が載った。よくわからぬがカメラで強姦云々~。その後、彼の噂は消えた。大森大道が『写真よさようなら』(アレ・ブレ・ボケの極致)からスランプで、クスリ漬けで痩せていた頃だろうか~、Aが突然に我家を訪ね来て「結婚するから保証人のサインをくれ」。

 当時のあたしは「ポプコン~世界歌謡祭からデビュー」のタレント群を擁した会社のライターで、「あたしの文章&田村仁(タムジン)写真」によるパンフ制作時期が続いた。因幡晃、佐々木幸男、世良公則&ツイスト、円広志、サンデー、大友裕子など~。当時のタムジンは超望遠レンズで粒子の粗い(アレ)写真が特徴だった。

 同社宣伝部が、新しい写真家を探していて、あたしはAを推薦した。彼はプレゼに妻の全裸を東松照明のように黒っぽく焼き込んだ写真を提出。担当者は新風を期待で「矢神純子」のジャケ写を依頼してくれた。彼が住む福生ハウスでの撮影。だが結果は狙い外れでボツ。彼との付き合いが途切れた。

 あたしは同社タレントが多く所属するレコード会社の仕事も請け負って、次第に忙しくなっていった。そんな折、タクシーに乗り込むと運転手がニヤリと振り向いて「〇〇ちゃんだろ」。Aだった。

 田村仁宅で、互いの自宅近くに出没する蛇、大島の黒ヘビ、大島ロッジの話で盛り上がったことがある。彼の息子も伊豆大島暮しとかだった。島滞在の某年某日~「今、港に着いたがジープを貸してくれ」とタムジン。あたしが島で乗っていたのはジムニーで、ジープ所有の某を紹介。以後、彼は某宅に通って多数アーティスト、歌手の撮影を重ねていると聞く。

 もうひとりの「CAMP」メンバーBとは、彼が恐いおニイさん方を撮った写真で「木村伊兵衛賞」受賞後に逢ったと記憶する。彼は受賞したって食えるワケじゃない。写真誌の掲載料はいくらで~など苦しい生活を語った。そんな折に、某企業から同社PR資料バインダーに収める池袋の各事業素のペラ資料の制作を依頼された。Bにギャラを提示しアルバイト撮影を依頼。最初は気持ちよく撮影していたが、突然「お前は俺の名声を利用している」と言い出し、腰を抜かすほど驚いた。彼ともお付き合いはそこで終わった。

 大森大道は彼について「二人とも救いようもないエゴイストであることも似ているが、もしア・プリオリな写真家はどちらかときかれれば、ぼくはためらわずに彼を指すだろう」と記していた。Bは昨年2月、肺がんで74歳で亡くなったらしい。

 そんなことを思い出せば、PR会社時代に某女子社員が、有名記者らが世界取材で撮った写真を預かって売る仕事が大繁盛で、あたしも写真整理を手伝ったことがある。彼女はその後独立して大きな写真エージェントの女社長になった。小生、長年フリーゆえ、多数カメラマンと組み、また有名写真家の撮影現場も拝見してきたが、それらは省略。そ・そう云えばゴールデン街のおミッチャンも写真家だったし、「汀」の渚ようこ&大森大道の絡みもある~とキリがない。

 追記:ソール・ライターは無名・無口・無欲を貫き通したが、「You Yube」で拝見する大森大道、荒木経惟らは隠棲してもいい歳だろうに「なんとまぁ、おしゃべりなことよ」と思った。

nice!(0)  コメント(0) 

「アレ・ブレ・ボケ」の写真家たち [散歩日和]

nakahirahon_1.jpg 街歩きをしつつカメラで〝ブレ・ボケ〟写真を撮って遊んでいたら、ソール・ライターとは別に、日本でも一時期にそんなムーブメントがあったことを知った。中平卓馬、多木浩二、高梨豊が写真同人誌「プロヴォーク」を創刊(3号で終刊)で、2号から森山大道が参加。その趣旨が「アレ・ブレ・ボケ」だったそうな。

 ★シンパサイザーとして吉岡剛造も参加。あたしはミニコミで吉岡剛造三×諏訪優に、下町散歩をしつつの対談をしていただいたことがある。★森山大道と中平卓馬は寺山修司を介して付き合うようになる。中平は雑誌「現代の眼」連載の寺山修二の初長編小説『あゝ荒野』の担当編集者だった。

 写真は古き良きリアリズム(土門拳など)の客観的に記録する写真の王道があるも、そんな〝確かな世界〟を捨ててみてはどうか~。むしろ「ブレたりボケたり」する方が、通常の人間の眼の生理を反映しているのではないか~と考えたとか。

 撮影者が街を彷徨しつつ擦れ違う世界を被写体として記憶(擦過:さっか)する際の、写真に刻まれるブレ・ボケの痕跡に、撮影者の手や身体の動きの流動的記録、すなわち撮影者の生々しい行為をも記録することになるのでは~。そう彼らは考えたらしい。

 中平卓馬は昭和13年(1938)、東京・原宿生まれ。東京外国語大学スペイン科卒。現代評論社・編集部を経て写真家になり、森山大道と共同事務所を開いた。彼の写真論は昭和46年(1971)「沖縄・松永事件」、昭和48年(1973)の映像論集『なぜ、植物図鑑か』、昭和52年(1977)〝なぜ篠山紀信か〟を論じた『決闘写真論』、そして彼の〝記憶喪失事件〟などが併せて論じられることが多いらしい。

 さて「プロヴォーク」を経た森山大道は、昭和51年(1976)、新宿にイメージショップ「CANP」を開設した。その流れから、新婚旅行の「ハメ撮り?」まで撮った「私写真」で一世を風靡した荒木経惟(目下セクハラ問題沸騰中)らが出て、そこから一連の「少女写真家」たちが「私」の主観的表現で台頭とか。

 あたしは写真家ではなく、単なる隠居街歩きの趣味写真の域。写真家らの世界に突っ込んで行く気もないが、またえらく饒舌・小難しい写真論は敬遠だ。だが実は「CANP」初期メンバー8人のうち、2人との付き合いがあった。

 昔のことはすでに「アレ・ブレ・ボケ」で、思い出すのもままならぬが、メンバーのなかの某1は、10代後半からの友人で、某2は有名写真賞を受賞後にちょっとだけ付き合ったことがあった。話が長くなったので話の続きは次回へ。写真は河出書房新社、平成21年(2009)刊『中平卓馬』。

nice!(0)  コメント(0) 

時代遅れの「Slow Chutter」 [散歩日和]

sumahobakari_1.jpg 過日、新宿西口を歩いていたら、ヨドバシカメラ一帯のほぼ全員が、立ちスマ中の異様な光景に出逢った。電車の中での多数スマホ光景は珍しくないが、この光景にはちょっと驚いた。

 皆、スマホで何をしているのだろうか? 小生のスマホは、ほぼ「時計・歩数計」化している。時に写真も撮りメールも電話もし地図も見るが、それはちょっと〝事件ですよ〟の時かな。

 SNSにも興味がない。最近は音声中心の「Clubhouse」や「Podcas」が話題らしく、ちょっと無理して「jazz」を選択してみたが、やはり歩きスマホで音楽は聴きたくなかった。

 小生にとってスマホは〝宝の持ち腐れ〟で、完全に「時代遅れ」と言わざるを得ない。♪~マイクが来たら微笑んで 十八番を一つ歌うだけ~ 時代遅れの男になりたい~。あたしはカラオケもしないから歌『時代遅れ』より、さらに時代遅れになっているらしい。

sumaho1_1.jpg 目下、一眼レフにNDフィルター装着レンズで、街のブレ・スナップ写真に嵌っているが、その延長でiPhoneのカメラ機能をもっと使い込んで、時代に追いついてみようと、少し頑張ってみた。

 撮った後で画面を上にスワイプして「長時間露光」するやり方は覚えたので、今度は「Slow  Shutter Cam」アプリを取り込んで、イヤホンまたは本体のボリュームボタンでシャッターを切る。

 未だ設定・操作要領を完全に覚えていないが、試みたらこんな二重露出っぽいブレ写真が撮れて「時代遅れのSlow  Chutter」相成候。

 このアプリを使い込めば、カメラ機能だけは〝時代遅れから脱着〟と思ったが、結論はやはり機能・機敏さ・バッテリー面など「一眼レフには叶わないだろうなぁ」だった。だがこのアプリは、長時間露出を極力抑えた設定で「スマホ操作中」を装って、イヤホンでシャッターを切る~は、なんだか「隠し撮り」向きのような気がしないでもない。

 よし「これで緊急事態宣言下の代議士らの風俗店通い、官僚らの接待現場などの〝隠し撮り〟に挑戦してみよう」と思った。

nice!(0)  コメント(0) 

離群性~ [読書・言葉備忘録]

rigun_1.jpg 金子光晴や武林夢想庵の本を読んでいたら「離群性」なる言葉に出逢った。机上の旺文社国語辞典・漢字辞典には見当たらず、「広辞苑」に「離群:仲間をはなれること」とあった。

 生涯フリーランサーだった小生も、文字通り「離群性」人生だったらしい。詳しくは書かねど小・中学時代に疎外感を覚える事件あり。渋谷の高校に入学すれば、有名不良中から来たってんで、上級生らに地下部室で袋叩きの歓迎を受けた。高2からは学校より社会人の山岳会活動が主で、修学旅行費が山行費に化けた。

 大学は、親の勧めで理工学部へ。白衣を着て試験管を振りながら「俺は何をやっているんだろう」とキャンパスに通うのを止めた。アルバイトを経て街の美術研究所へ。アル中絵描き先生が、深夜に酒に酔った独白テープを聴く講義の他は、まぁ独学せい~みたいな感じで、勝手に4年間在籍した。

 広告制作会社に応募。「カンディンスキーを読んでいました」が気に入られたかで採用され、グラフィック・デザイナーで社会人になった。ラッシュアワー電車を嫌って、初任給でドロップハンドル購入で自転車通勤。ときに電車に乗れば、乗り換えの新宿西口地下はフォーク集会で、彼らを掻き分けて地上へ出ればフーテンがシンナーを吸っていた。

 2年後にPR会社に転職。2年目に某企業に出向。両社狭間を経て計2年で退社し、以後は生涯フリー。所属会社も所属組織も所属同好会もなしで隠居に相成候。

 「あぁ、離群性か」と呟いてみた。喜寿を迎えた金子光晴は「過ぎし日のこと、すべてはむなしかりき」と記していた。

nice!(0)  コメント(0) 

街のスナップ写真とウォーキング [散歩日和]

ndseries1_1.jpg 目下、別サイトでウォーキングしつつ撮った長露光スナップ(ブレ)写真を1日おきにアップしている。ウォーキングは、さて「どこへ歩きましょうか」の〝ちょい目標〟が欲しいが、最近はその〝ちょい目標〟もマンネリ、定まらぬ。

 そこで今は目的地定めず「28㎜+ND16(減光フィルター)」と「18~200㎜+ND8」で、長露光=ブレたスナップ写真を愉しみつつ歩き出している。調子がいいと、新宿界隈8千歩ほどで10枚ほどシャッターが切れたりする。

 そもそもブログは「文章+口絵写真」セットと思っているから、今までは「風景・動植物・建物・雲・自分の絵」だったりしたが〝人物が対象〟になることもある。だが人が写り込むと、やれ「肖像権侵害・個人情報」などややこしく、そんな時の常套手段が「モザイク処理」になる。でもモザイクより「ブレ写真」の方が断然面白いと気が付いた。

 最初はポケデジのレンズ前に「レイバンのサングラス」で覆っていたが(iPhonにも「Slow Shutter Com」なるアプリがあり、スマホに装着するNDフィルターもあるらしい)、今は〝ちゃんと〟1眼レフの広角レンズにNDフィルター装着でブレ写真を撮り出している。「1/10秒・ISO100・Fは成行き」から、次第に試行錯誤~。

 被写体はブレても背景はジャスピンがいい、逆に被写体を流し撮りでピンを合せて背景をブラすのもいい、ISO感度上げF(絞り)も上げて被写体深度を深くしてファインダー覗かかずにシャッターを切ってみる。カメラをしっかりホールドする。いや手ブレもワザのうち~と試みている。

 こんな遊びはプロカメラマンはやらんから〝隠居趣味ならではの愉しみ〟なのだろう(プロの世界でも「アレとブレとボケ」を信条とする派もいるそうな。あぁ、そう言えば森山大道のイメージショップ「CAMP」参加のカメラマン二人を知っていた。一人は20歳の頃の友人で、一人は後に大きな賞を受賞した)。だが、歩けば撮れるってぇもんじゃない〝妙〟もある。新宿界隈8千歩ウォークで10枚ほどシャッターを切る日もあれば、1万歩も歩けど1度もシャッターを切れぬ日もある。多分こちらの眼・気持ちの問題。アンテナがシャープじゃないと撮る機会も発見できない。

 先日はボツにした車のブレ写真を観ていて「よし、これを狙ってみよう」。車の形骸が溶けて「色構成の抽象画」のような写真が撮れた。題して「街に出でアブストラクト朧かな」で2点をアップした。

 街歩く女装オジサンの後姿を撮って「温暖化街も泳ぐや熱帯魚♂」。緊急事態宣言ながら夜の歌舞伎町の熱気を撮って「為政者へ信頼失せて午後8時」。商店街の風に揺れる日章旗を撮って「行く春のスカスカと舞ふ軽き国」。流れる車の合間に見た動かぬカップルを撮って「ねぇ、私達いつまでここに居るの?」。ファインダー観ずに擦れ違いに撮った「ねぇ、おんぶ、甘えたくなる春疾風」。ファッションを決めて歩く女子の後姿を撮って「春一番街は颯爽ランウェイ」など。そんなウォーキング+ブレ写真は「こちら」にアップ。

nice!(0)  コメント(0) 

金子光晴⑧エロじじい晩年と名著 [読書・言葉備忘録]

kanekozensyu_1.jpg 昭和21年(1946)光晴51歳、三代子46歳、息子22歳。山中湖畔から焼失を免れた吉祥寺の我家に戻る。息子、早大に入学。「コスモス」創刊に同人参加。彼の反戦・反権力を貫いた詩、著作に評価高まるも稿料は僅か。モンココ化粧品本舗は営業不振で収入途絶えた。今や小説家・三代子の収入頼り。

 昭和23年(1948)53歳。詩人志望の大川内令子25歳と深間になる。彼女との関係はその後30年余続く。三代子はリューマチで半臥状態で、光晴は旺盛な執筆活動。昭和26年56歳。翻訳『ランボオ詩集』『アラゴン詩集』刊。その翌年に詩集『人間の悲劇』発表。ママゼル本舗(染髪)の宣伝部に籍を置く。令子との結婚承諾を得るべく彼女の実父に会いに佐賀県へ。併せて九州一円で講演。

 昭和28年(1953)58歳。マダム・ジュジュ化粧本舗の顧問になる。息子のパリ留学に両親が揃っていることが条件で令子と無断離婚し、三代子との籍に戻す。詩集『人間の悲劇』が第5回読売文学賞を受賞。翌年、息子、パリ留学。令子の籍を戻す。昭和32年(1957)62歳。自伝『詩人』刊。

 三代子は中国青年将校との交情を描いた『新宿に雨降る』を発表。彼と令子との婚姻届けを知って、昭和34年『去年の雪』で憤懣を吐露。不自由な身体ながら三代子が光晴を殴りかかり、その後に光晴は三代子を抱く、60歳を越えても愛憎と愛欲の旺盛なこと。

 昭和40年(1965)70歳。詩集『IL』と『絶望の精神史』を刊。『IL』は翌年に歴程賞を受賞。翌々年72歳。『定本金子光晴全詩集』はじめ出版多数。新宿紀伊国屋書店で『若葉のうた』サイン会。昭和44年(1969)74歳。軽い脳震塞で入院。テレビ「人に歴史あり」に出演。昭和46年(1971)76歳。三代子とのアジア・欧州放浪記『どくろ杯』から続く三部作を執筆。この頃に美大中退の18歳木村まさ子と交際。80歳直前にも人妻と交際。晩年の「エロじじい」大奮闘。その人気について、本人は「反戦・反権力で過激右翼に狙われていたから〝エロじじい〟浸透で丁度いいんだよ」と言っていたとか。

 昭和47年(1972)77歳。前年刊の『風流尸解記』が芸術選奨文部大臣賞を受賞。昭和49年(1974)79歳。7月から半年間、雑誌『面白半分』編集長。光晴は死の2週間前に令子(愛称うさぎ)とデート。二人の関係は昭和23年から28年間も続いた。光晴はその顛末を『姫鬼』に書き、桜井慈人も『恋兎 令子と金子光晴』に書く。令子の内股に「みつ」と彫り、自身の肩に「れいこ」と彫った。

 昭和50年(1975)80歳。自宅で苦しみなく急性心不全で永眠。その2年後に森三代子も死去。まぁ、夫妻共にあっぱれな性遍歴と、反戦・反権力を貫いた詩人だった。小生に性遍歴は見習うことは出来ぬも、反戦・反権力は見習えそうです。近くの図書館に『金子光晴全集』が開架であり、少しづつ読んで行きたく思っています。(完)

 参考資料:金子光晴『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』『絶望の精神史』『金子光晴全集・第十二巻』。竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、森乾『父・金子光晴 夜の果てへの旅』、『相棒 金子光晴・森三代子自選エッセイ集』、ちくま日本文庫『金子光晴』、山本夏彦『夢想庵物語』、群ようこ『あなたみたいな明治の女』、山崎洋子『熱月』など。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。