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青山二郎⑧晩年 [読書・言葉備忘録]

bianca2_1.jpg 再び時系列に戻る。青山二郎の妻は、伊東市に疎開時は宇野千代が記す〝恵子さん〟は、年譜の「服部愛子」のことらしい。二人は昭和19年(1944)に正式入籍し、昭和23年47歳で離婚(青山は恵子の姪・和子と添遂げる)。『梅原龍三郎』や『富岡鉄斎』を発表。翌年にレコード2千枚を売って伊藤の家を出て、五反田の坂本睦子のアパートに仮住まい(睦子は大岡昇平『花影』モデル。文壇の高名作家に抱かれ、以後は同作家を慕う文士らが次々と競うように彼女を抱いたとか。当時の文士はろくでもねぇ)。

 昭和25年、『眼の引越』『眼の筍生活』発表。青山の執筆に、小林秀雄が付きっ切りで面倒をみたとか。昭和26年、青山学院のメンバーが秦秀雄(骨董界)の「梅茶屋」(代々木の割烹旅館)入り浸って連日の議論。広間に青山・小林は座って〝高級漫才〟。周囲に数十人が取り囲ん囲んだとか。『上州の賭場』『博徒風景』を発表。

bianca1_1.jpg 同年、父・八郎右衛門死去。昭和28年に兄・民吉死去。そして昭和35年に父の遺した「二の橋」の土地に高速道路が通ることで何億もの金を得る。同年、福留和子と結婚。毎年暮れから2月まで志賀高原ホテルで青山専用部屋で過ごす。この頃からカメラと雪上自転車に凝る。そして夏の2ヶ月間は広島暮し。志賀高原では越後高田の骨董屋・遊心堂で遊び、広島ではヨットや水泳で遊ぶ、夜は呑み屋「梟」が青山学院の広島分校になる。青山はとにかくどこで暮そうと〝群れ〟を作りたがる(小生嫌いなタイプ)。

 昭和39年(1964)、オリンピックの年に渋谷区神宮前のマンション「ビラ・ビアンカ」の設計段階で、6階2部屋(2350万+850万円)を購入。ベランダに植木屋を入れるなど自分流に改良。昭和45年に川奈に別荘完成。昭和51年、志賀高原から帰京後に牛込清和病院に入院し、翌年に自宅で永眠。77歳だった。墓地は谷中の玉林寺。

 田野勲著『青山二郎』は最後にこうまとめていた。「青山は生涯を余技と考えていた。本の装幀、絵を描く、骨董売買、文章を書く、写真を撮る~すべてが余技と考えていた」。当然ながら仲間を集めての議論=青山学院も余技。それが実現できたのは子供時分から母から毎月500円(当時の小学校教師初任給が50円)の小遣いをもらい、父と兄死去後に高速道路でン億円を手にしたことで成り立った人生。働く必要もない(職業なし)極楽トンボ。その意でも自由な立場で物事への発信が出来た、と記していた。

 加えて学校生活経験なしゆえか、とにかく群れたがった。核心の「生涯を余技と考えたこと」は、特別の事ではなかろう。人の世は無常、仮の世、仮の宿~。何を今さら~と思ってしまった。彼が骨董を見るように、彼の中年後の顔写真を先入観なく見れば〝好き〟なタイプではなかった。

 そんなワケで白洲正子が『いまなぜ青山二郎なのか』を読んでも〝なぜ〟かわからずらず仕舞い。古本屋で青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』を入手したが、その文章は魅了されるほどでもなし。小林秀雄がなぜ彼に惹かれたか。これは『小林秀雄』を読んでみなければわからない。目下は小林秀雄全集の2冊を図書館で借りて来たが、とりあえず、この辺で「青山二郎」を終わる。

 写真は築57年になった「ビラ・ビアンカ」。場所柄だろう、アパレル系事務所が多数入居らしくこの日も、若い女性らが衣装をいっぱい持ってマンションの中に消えて行った。

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青山二郎⑦骨董弄り [読書・言葉備忘録]

IMG_8190_1.JPG 白洲正子は「青山二郎は骨董を弄る人だった」と記している。特に偽物や新しい焼き物は、自分で味付けすることを愉しんでいたと。ガス台に魚の網をのせて燻す。紅茶液の鍋を煮立たせておいて、その中にジュッと入れてヒビ割れさせる。やすりで削る、爪で金彩の唐草文を適度に剥がす。そんなことを何か月も繰り返して、その味付けを愉しみ自慢した。

 道具を弄って、自分の生理まで解かし込んで行く。高価骨董が中原中也の痰壺になり、今日出海の灰皿になったりするのも、使い込んだ味になるのを愉しんでのとこと推測される。

 茶人ならば茶を点てるのが日常だが、そうでない彼は、そうでもして使い込んだ味を出したかった。「骨董を抱く」なる言葉も、そんな意を含んで骨董は実際に手に入れ、使い込まなければ意味がないと考えたらしい。

 私事だが、小生の母は「江戸千家」のおっ師匠さんで、家には稽古茶碗は幾らもあった。若い時分からの茶道ゆえ、安物稽古茶碗と云えども使い込まれたいい味を持っていたのかもしれない。

 また「別冊太陽」に、彼が器に疵をつけるために使っている「紙やすり」が写っていて、思わず笑ってしまった。と云うのも、あたしは貧乏で骨董趣味もないが、安物文鎮集めによって5、6個の文鎮が机に転がっている。入手当初は、まず塗料を剥がしたり磨きをかけたりして自分好みにするが、その時の「紙やすり」が、彼の写真とまったく同じ絵柄だった。小生が骨董で理解できるのは、その程度~。

 次に400余点も手掛けたという彼の装幀(写真は「別冊太陽」の装幀紹介頁)について。それら装幀を眺めていると、植草甚一を想った。6年前に「世田谷文学館」で「植草甚一スクラップ・ブック展」を観た。氏のコラージュ作品や、絵葉書やマッチ箱の上にガッシュで遊び絵、彩色を施した作品群展示があった。青山二郎も空き箱や文庫本の上に線をひき、色をさし、描き文字を入れて遊んでいた。植草甚一の彩色を施した手紙も有名で、あたしもそんな手紙を1通いただいたことがあったと思い出した。同じ「机上遊び」をしていた。

 青山二郎は自著、友人らの著作表紙。『アンドレ・ジイド全集』、創元社、実業之日本社、宇野千代設立の「スタイル社」、雑誌では「創元」「文学界」「日本映画」なども手掛けていた。概ね骨董陶磁器に通じる渋い色遣い、筆による描き文字、小刀で彫った模様版木使用などが特徴。このシリーズ長くなったので、次回に彼の晩年をザッと辿って終わりにしたい。

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青山二郎⑥青山学院の「揉み揉まれ」 [読書・言葉備忘録]

sirasumasako.jpg 青山学院の教育法は、酒席での「(議論)揉み合い」。青山は骨董の真贋を見分ける要領(生半可な先入観・固定観念なく、無私無欲の肉眼観賞で感じる・見るが肝心)で、文学者らの「人間の真贋」を見抜き、相手を泣かすほど、蛇が蛙を呑み込むほどにコテンパンに打ちのめすそうな(それでも一カ所は逃げ場を残しておくのが規則だったとか)。

 靑山の最後の弟子・白洲正子の場合。彼女が差し出した原稿に、青山は朱を入れるどころか目の前でズタズタに引き裂き「説明は不必要で冗漫。形容詞が多過ぎる」。さらには「ここがあんたの一番いいたいところだろ」とそれも不用とした。「自分が言いたいことを我慢すれば、読者は我慢した分だけわかってくれる。そこが読者の愉しみなのだから」。白洲は「へどを吐く」ほどにやっつけられながら、それでも通ったそうな。

 小林秀雄の場合。小林は3年間の骨董修業を通じて「やっと文学がわかるようになった」と述懐したそうな。骨董には人間の愛着や欲念の歴史が積もっていて、一種の魔力を秘め持つようになる。それは実際に骨董を手に入れなければ無きに等しい日用品。自分の物にして使い込み愉しむようになって、初めて良さがわかる。茶道とは器を観賞し、実際に使って、その器の美しさを知る道。そうして過去を現在に甦させる=歴史の魂に触れる。つまり過去の文化遺産を現代に甦らせてこそ伝統になる。

sirasunaka.jpg 小林はかくして「言葉」をもって過去の文化遺産(伝統)を現代に甦らせるべく『徒然草』(兼好法師)を書いた。「徒然なるまま」に書きつつも「眼が冴えて、物が見え過ぎ、物が解り過ぎて」〝怪しうこそ物狂ほしけれ〟に至る心が解るとした。

 美しい花を見る。例えばそれが「菫」と解ると同時に、眼は閉じて頭(言葉)で見るようになってしまう。言葉が邪魔をする。小林は骨董の修行を通して、言葉が邪魔をするスキを与えず、初めて「見えて来る」ようになったと自己分析をする。物が解りだして、彼は『無常という事』『平家物語』『西行』などの過去の遺産を次々に現代に甦らせた。

 青山もその眼で『利休』を書き、『梅原龍三郎』『富岡鉄斎』を書いた。かくして〝青山学院〟の小林秀雄を筆頭に河上徹太郎、中原中也、中村光夫、大岡昇平、白洲正子らに「青山が私を築いた」と言わしめ、また彼らが実際に活躍する姿を見て、我も我もと弟子入り絶えず~とか。

 加えて青山は仲間作家の装幀も手掛けた。これがめっぽう魅力的でインパクトもあった。小生は青山学院の作家らを読んだことがないゆえ、以上の記述を読んでも、納得し難いのが実情。まぁいずれは読む時が来るかもです。

 だがそんな子弟関係に亀裂も走る。小林秀雄は昭和28年(1953)に欧米旅行から帰国すると、有名なセリフ「過去はもう沢山だ」を吐き、青山二郎と決別した。理由は諸々だが、その中のひとつが、青山学院の青年らを吉原に連れ行きて「男」にするも、全員が淋病に罹ったことも恨んでいたとか。写真は白洲正子著『いまなぜ青山二郎か』の扉とグラビア。

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青山二郎⑤青山学院と分校、分室 [読書・言葉備忘録]

kawazoinagaya_1.jpg 青山二郎は昭和5年(1930)に同人誌『作品』創刊にも参加。河上徹太郎、永井龍男とも知り合った。青山はその頃に武原はんと再婚。「一の橋」の父親の四軒長屋で新生活を開始。その長屋の隣に永井達男が〝青山学院〟に入学すべく、母親と共に引っ越して来た。そこは川っぷちの古い4軒長屋(2階1間・階下2間)。

 かくして青山・永井の長屋に小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平ら文学青年が連日集って〝青山学院〟スタート。青山宅には、京橋の一流骨董店に飾られていた高価品が転がっていて、浜田庄司の瀬戸物は唾をやたらにする中原中也の痰壺になっていた。

 昭和6年に小林の論文集で処女出版『文芸評論』装幀を青山が担当(すでに自作『陶経』などの装幀を手掛けていた彼は、生涯に400余点の装幀を手掛けることになるが、青山の装幀に関しては後述)。同年、晩翠軒・井上恒一に頼まれて朝鮮に行き、当時はゴロゴロしていた季朝陶磁を蒐集。翌年1月に「朝鮮工芸品展覧会」開催で、季朝陶磁期のブームになる。

IMG_8185_1.JPG 昭和7年、武原はんと別居~離婚して一人暮らしになった青山は、①で紹介の「四谷花園アパート」に移り、そこが第2の〝青山学院〟になる。同部屋にも季朝の棚、船箪笥、衣装ダンス、壺類、中国の皿、九谷の皿や陶片が所狭し。滝井孝作が「織部の逸品が入ったとか。拝見しに来た」と言う。それは今日出男が灰皿にしていたものだったとか。

 四谷花園アパート時代の青山学院の〝〈議論の)揉み揉まれ〟は、銀座・出雲橋の小料理屋「はせ川」。芝浦の安待合「小竹」、新橋の縄のれん「よしの屋」、浅草馬道の待合「老松」にも延長して「分校・分室」になったとか。

 四谷花園アパート時代は昭和8~17年(1933~1942)。昭和17年、41歳。伊東市竹の台の2階から海が見える2軒続きの借家に疎開して7年間滞在した。借家ながら青山らしい独自の雰囲気に改良。1軒に家族が住み、1軒1階に約2千枚のレコード、酒盃50個。2階8畳間の書斎にキリスト教書が約5百冊とか。

 この伊東分校にも小林秀雄、河上徹太郎らが通い、伊東在住の宇野千代、尾崎士郎、出版関係者の疎開組の佐々木茂策(文藝春秋社・社主)、石原龍一(求龍堂)らが集った。その名は「みぎわら・くらぶ」。この頃に青山が入手した「古染付むぎわら手向付」からの命名。主に古美術を楽しむ会。

 この時期に小林は『モオツアルト』を、青山は『千利休伝ノート』『梅原龍三郎』を執筆。ここで彼は「茶道は器に対する愛」と主張。小林は青山から骨董を教わり、青山は小林から文章表現を教わった。

 宇野千代『青山二郎の話』によれば、その頃の同居人は某酒場から引き抜いてきた「恵子さん」。彼女は「前から好きだった男のところで一晩泊まって来た」と青山に報告する馬鹿正直な女性だが、水か空気のように目立たない存在だったとか。

 昭和35年、麻布・二の橋に高速道路が出来て、青山は何億円もの大金を手にすることになる。写真は「東京都オープンデータカタログ」より首都高速が出来る前の一の橋辺り。川っペリに当時の長屋風情が残っている。

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青山二郎④骨董から文学へ [読書・言葉備忘録]

hasecyuhide_1.jpg 青山二郎は骨董修業中の大正13年(1924・23歳)、小林秀雄に出会って人生が変わった。柳宗悦の甥・石丸重治が小林の同級生で、石丸は同人誌『山繭』創刊に小林と青山の参加を勧め、青山に文学の扉が開いた。このとき青山23歳、石丸と小林は22歳。

 小林秀雄は同年に小説『一つの脳髄』(私小説)を、翌年2月に『ポンキンの笑い』(後に『女とポンキン』に改題)を発表。この時期に中原中也と出会った小林は、中原の恋人・長谷川泰子と同棲して三角関係。当然ながらこじれて、彼は昭和3年(1928)に奈良へ失踪。翌年春に帰京して『様々な意匠』で『改造』懸賞論文に応募して二席入選。批評家として文壇デビュー。(長谷川泰子は広島市の家出娘で、東京他で放浪し、関東大震災後に京都はマキノ・プロダクションの大部屋女優へ。16歳の中也と20歳の泰子は同棲生活を開始していた)

 青山にも事件が起きた。浜田庄司の展覧会で会った野村八重を見そめて、大正15年(昭和元年・1928)に結婚。だが八重は1年後に肺結核で死去。青山は昭和3年に11編(文学系世と民芸系)作品(雑文)を発表。文学系の『書翰往来』は、小林が「小説を書け、もっと身を入れろ」の叱咤に「俺の先生面をするな」の交換書簡。『新婚旅行』は八重の健康を気づかって妹帯同の新婚旅行記。青山は工芸家と連日議論で、妻と妹は買物。その中で俥で擦れ違った志賀直哉の眼に衝撃。『短い記憶』は身ごもった妻が亡くなるまでの経緯。

 一方の民芸系作では、柳宗悦との決別を漂わせていた。柳の民芸運動は「名工の形(上手物)」ではなく、民衆の生活用品(下手物=雑器の美=用が美を生む)を推奨。一方の青山は季朝の陶磁器など「百万中の一つ」の工芸に魅せられる志向で、「民芸」とは対極の観賞眼。青山は柳の民芸運動と決別して、自分の道を歩み出そうとする内容。

 ここで『別冊太陽』の白洲正子記『「ととや」の話』から青山の骨董世界を覗いてみる。~骨董は自分ひとりの所有にしたく、博物館に入ることは骨董趣味の死を意味する。季朝の名品「ととや」(島津家伝来)を小森松庵なる茶人が持っていた。広田熙に赤紙が来て、彼は死ぬ前に「ととや」を拝みたい。無事に帰還できた暁に「ぜひ譲って欲しい」と懇願。無事に帰国した広田と松庵の間で「譲ってくれ・譲らぬ」問答。カッとした松庵は「そんなに欲しいのか」と叫ぶや「ととや」を庭石に投げつけた。広田は破片を拾い集めて修復し、松庵に返し、改めて譲って貰った。その「ととや」が青山二郎の手に渡り、今は埼玉辺りにあるという話。骨董に興味もく、手も出ない小生にとっては、骨董は〝異常な貪欲で浅ましき世界〟にみえてくる。

 写真は「ウィキペディア」より左から小林秀雄、長谷川泰子、中原中也。次は〝青山学院〟について。

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青山二郎③麻布中を中退し骨董修業

IMG_8182_1.JPG 青山二郎は小学生時代はクラスで1番か2番。大正4年(1915)に麻布中学に入学。兄・民吉と共にアマチュア美術団体に絵を出品。中川一政の画塾に通って油絵を習う。また自宅「一の橋」の角にあった映画館へ連日通った。

 学校より映画の世界に魅了されてか、成績悪化で不登校気味。母きんが二郎を抱きながら「よしよし、そんなに嫌なら行かなくてもいいよ」で麻布中を中退。12歳まで母に抱かれて寝て、10代後半から毎月500円の小遣い(大正時代の小学教師初任給は50円)をもらって吉原通いや骨董買い。金がなくなると母を厠まで追いかけて小遣いをせびったとか。彼は生涯「無学」コンプレックスを抱くことになる。

 ここまで記せば、何だが金子光晴が浮かんでくる。光晴は貰いっ子で、16歳の義母に〝おもちゃ〟のように可愛がられ、10歳頃から近所の子らと〝桃色遊戯〟。牛込・津久井小学校時代に小林清親から絵を習い、中学時代に父の春画コレクションに魅入り、中3で本格初体験。14歳頃から義母と相姦。その罪意識を薄めるべく悪所通い。早大入学も、田舎の学生ばかりと馬鹿にして退学。上野美大に入るも、荒んだ生活で身体を壊している。青山二郎は光晴より6歳下だが、ここまでは煮た者同士。だが光晴は徹底して離群性を貫くが、青山二郎は無性に群れたがった。

Soetsu.jpg 二郎の兄・民吉は、東大入学で美学専攻の秀才。「他人が馬鹿に見えて」次第に奇人化して行く。二郎は16歳の時に京橋「繭山龍泉堂」(大正9年より現・京橋2丁目で開業)で疵物の宋陶磁器水盤を購入。当時の番頭・不孤斎(広田松繁。その後に「壺中居」創立)に「天才的な審美眼を持っている」と言わしめた。翌年に民吉のコネで東大心理学教室で開かれた東大教授・助教授、実業家らで構成された「陶磁器研究会」、同母胎の「彩壺会」に参加。

 21歳。青山自宅近くに越して来た柳宗悦と親交。うるさいほど訪ね、彼の蒐集品を褒め称え、それを譲られたりする。28歳で「彩壺会」で「朝鮮工芸概論」を講演。25歳(大正15年・1926・昭和元年)に柳宗悦の「日本民芸美術館設立趣意書」に名を連ね、蒐集品選択責任者の一人になる。26歳で横河民輔の中国陶磁コレクションの図録編纂。30歳で『陶経』(限定50部)、『甌香譜(おうこうふ)』(現在東京博物館蔵)を出版。陶磁器・骨董界の押しも押されぬ存在に昇り詰めた。中学を中退後、学ぶことは骨董世界のみで、全霊で突き詰めて行ったのだろう。

 写真は「別冊太陽」の『青山二郎の眼』表紙。下は柳宗悦「ウィキペディア」よリ。

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青山二郎②クーデンホーク光子と青山二郎 [読書・言葉備忘録]

IMG_8181_1.JPG 昨年秋に「クーデンホーフ光子」シリーズをアップした。その時に、~光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父・青山喜八は幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。明治20年になっても「ちょうん髷頭」の旧弊な男で。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた、と記した。

 さて田野勲著『青山二郎』を読むと、光子の父・喜八は靑山二郎の祖父の兄弟で、光子は二郎の母きんの2歳上の従姉妹だと記されていた。青山二郎は、父・八郎右衛門と母・きんの次男として明治34年(1901)に生まれた。長男・民吉は5歳上。靑山家は信州上田の出身で、米を中心に商っていて、その後に江戸で仲買をしていたらしい、と記されていた。女系家族ゆえ先祖は母方系。九州佐賀と信州上田のどちらが正しいのだろうか。

 青山家代々の墓は、三軒茶屋の正蓮寺。墓碑に二郎の母きん(昭和8年没)、父の八郎右衛門(昭和26年没)の名はない。同墓隣接で「青山喜八」の墓はある。青山八郎右衛門は婿養子で、本名は茅根清十郎。茨城県久慈郡出身。慶應義塾大学2期生で、結婚前は銀行員。曾祖父が一人娘きんの金遣いの荒さから、銀行員で締まり屋の八郎右衛門を養子に迎えた。

 八郎右衛門は家の脇を蛇行する古川を、防災のために真っ直ぐに改造・護岸して、それによって余った土地を安く払い下げでもらって広大な土地を手にした。現・麻布十番を走る高速道路「一の橋ジャンクション」辺り一帯が青山家の土地になって、その敷地面積約1万坪。彼はその広大地で貸家業を始めて莫大な収入を得た。当時の『時事新報』の資産家名簿に名が載る大金持ち大地主。彼は単なる締まり屋ではなく優れた企業家でもあった。

aoyamamituko.jpg だが理解に苦しむのは、長じた二郎が眼前に父が現れると「ハウス」と犬に命令するように立ち去らせ、長男・民吉も「下がれ」と追っ払ったとか。富豪ながら彼は居住するのは万年床の四畳半。一体、何があったのだろうか。その辺の謎が、とても気になる。

 次郎の母きんは、光子の母つねより2歳下の従姉妹。きんはどんな女性だったのか。きんは一人っ子で甘やかされ育って天真爛漫、我儘、放縦、金遣いも荒かった。長男・民吉は太った大柄だったが、小柄華奢な二郎を溺愛して二郎が12歳になっても彼を抱いて寝ていたとか。

 別冊太陽『靑山二郎の眼』で、森孝一は『「好き」に尽きた人生』で、こう説明していた。青山家は七代続いた女系家族。光子も二人姉妹で、光子の母つね(津弥)も四人姉妹。麻布一の橋の青山家には曾祖父、曾祖母姉妹、母きん、父八郎右衛門、民吉と二郎が住んでいた。祖父は木場に、祖母は大森に住んでいて、青山家の采配は曾祖父が振るっていた(この辺もよくわからない)。青山家には強精剤「おっとせい丸」の看板があるも、これは八郎右衛門には関係なく、恐らく幕末頃の靑山家の珍商売の一つだったのでは~、と記されていた。

 謎の多い青山家ストーリー。後に〝青山学院〟とまで呼ばれるほど多くの文人らから崇拝された文芸サロンの主、青山二郎の少年期についてを探ってみる。

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青山二郎①『四谷花園アパート』 [読書・言葉備忘録]

IMG_6700_1.JPG 図書館で以前から気になるも、手にしなかった村上譲著『四谷花園アパート』を読んだ。昭和のはじめ頃に、現「花園東公園」辺りに三棟続きの大きなアパートがあって、そこで活発な文壇交流があったそうな。場所は靖国通り、富久町西交差点際の現トヨタ販売店の角に小さな「新宿区地域文化財〝花園アパート跡〟碑がある。その奥が「花園東公園」。

 史跡にこう記されていえう。「装幀家・美術評論家青山二郎が昭和8年~17年頃までの約8年間を過ごしたアパートの跡。同じ頃に評論家小林秀雄や詩人中原中也も居住した。青山の部屋には他に三好達治、大岡昇平、河上徹太郎、永井達男らも集い、通称「青山学院」と呼ばれた文芸サロンとなっていた」(小生、これら人物に興味抱かずで、読む気にならなかったらしい)

 一号棟と二号棟が東西に並び、コの字型廊下でつながり、三号棟は廊下の東側に独立して建っていた。十銭入れるとガスが使え、管理事務所や食堂があり、男女別の共同湯があって当時の文化アパート。この文章から、さぞモダンなアパートと思うが、hanazono5_1.jpg今日出海がこう記している。「女給の住む木造の薄汚いアパート。見るからに見すぼらしく、入ると便所の臭気が建物中に漂い、セメント廊下に下駄の音が響き、部屋の外に炭俵を置かれ、廊下は炭の粉末で白い足袋が忽ち汚れてしまう。そんなアパートだが、青山の部屋へ入ると様相は一変。十畳と六畳で、広い部屋が応接間で革張り肘掛椅子やソファーが並べられ、蓄音機にバッハ全集やモーツァルトのレコード。朝鮮の壺(高価骨董)や小机等々が足の踏み場もhanazono6_1.jpgないほどに転がっているが、彼なりに整頓されている。彼は大抵この部屋にいて、そこに昼間から人が訪ねて来るのである」

 同アパート二号棟は三階建てで、そこに中原中也が新婚所帯を構えた。青山の隣にピアニストで河上徹太郎と親友で吉田健一の親戚の伊集院清二が、かつて高見順の妻で銀座「エスオアノル」の女給・石田愛子と同棲していた。愛子が伊集院を抛り出すと、以前の同棲相手の若者と暮し始め、また別の男になり、最後は上海に渡った。

 次に坂本睦子が来て、青山と結婚することになる服部愛子も引っ越して来た。青山はとりもった小林秀雄と森喜代美も新婚当初は同アパートにいて、中也と同棲し、小林秀雄とも一緒に住んだ長谷川hanazonosiseki_1.jpg泰子もからむ。彼ら住民に加えて青山が通う銀座や新宿の酒場仲間らも遊びに来て「四谷花園アパート」はますます賑わう。

 この〝青山学院〟メンバーは新宿「ムーラン・ルージュ」にも通った。そこに菊池寛、志賀直哉、谷川徹三、高見順、田村泰次郎、丹羽文雄、広津和郎、石川達三~がいる。新三越裏のカフェー横丁で呑む文士らもいる。萩原朔太郎も夜の新宿でうろついでいた。

 小生には、馴染ない作家ばかりだが、実は同地はあたしの社会人最初の広告制作会社があり、フリーになった小生のスタッフが増す度に事務所を転々とした場所なんだ。

 同書には最近の弊ブログで紹介のクーデンホーク光子の父と、青山二郎の祖母が兄弟だったとあり、また金子光晴が海外放浪から帰国した住んだ安旅館「竹田屋」は同アパート近く太宗寺横で、森三千代が住んだのが二丁目の中華料理屋「楷喜亭」二階アパートだと記されていた。光晴の「竹田屋」には山之口獏や正岡容や国木田独歩の息子・虎雄が訪ねてくる。

 その頃に草野心平が屋台の焼き鳥屋「いわき」を角筈でやっていた。花園町十三番地のバラック小屋に田中英光と山崎敬子が住んでいて、英光が敬子を刺して四谷警察所に逮捕された。本郷・菊富士ホテルを出て西大久保の自宅と執筆場所の新宿ホテルを往復していた広津和郎が、手をつけた21歳下の女に付きまとわれていて、武蔵野館通りの喫茶店で雑誌『人民文庫』会合中の高見順、田宮虎彦、田村泰次郎らが警官に踏み込まれて手錠の数珠つなぎで淀橋警察署まで連行されて行った。

 まぁ、そんなこんなの新宿文壇事件が紹介されていて、それは以前に面白く読んだ近藤富枝『本郷菊富士ホテル』の新宿版だと気が付いた。馴染ない作家・評論家らに加えて構成・視点も塩梅悪く夢中にさせるほどの内容ではなかった。 

 それにしても馴染ある地で、またウォーキング圏内ゆえに、それらの誰かにいずれは興味を持ったら、また読むなり調べ知ろうと思っています。写真は上から本、花園東公園、トヨタ角 そこに設置の史跡案内。

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新宿花園神社に「もく星号」の痕跡 [散歩日和]

miharayamanikkouki.jpg 花園神社の末社「威徳稲荷大明神」の巨大木製男根を調べていたら、なんと花園神社に「もく星号」痕跡の奉納額があるのを知った。

 松本清張『運命の「もく星号」』(昭和35年)、『風の息』(昭和49年)、『一九五二年日航機「撃沈」事件』(平成4年)について、また辻潤の息子・辻まことによる三原山に散乱の宝石収拾記『墓標の墓』、西木正明『夢幻の山脈』などを紹介してきた小生には、ぜひその奉納額を観たく駈けつけたが、それを眼にすることが出来なかった。

 まず同奉納額を知った最初は『新宿文化絵図』(新宿区の編・発行)の町田忍「新宿探検コラム」だった。以下、同記事と紹介サイトの幾つかを併せて要約してみる。

 花園神社のゴールデン街に抜ける裏参道に面した社殿軒下に、数枚の寄進された額が架けられていて、そのなかでひときわ大きい幅2m×高さ70㎝のほ奉納額がある。題字に「神徳感謝」と「同栄信用金庫飛行機貯金旅行會献木記念」。神社と飛行機の絵の間に東京~大阪~福岡の運航地名。そして奉賛者名、昭和27年4月吉日の日付。

 その名簿から3機の機構記がチャーターされたことがわかる(定員36名)。1晩機が4月7日午前8時発で22名と3名の世話人。2番機が4月4日午後4時発26名+4名。3番機が4月5日午前8自発28名+3名。

 『花園神社三百五十年誌』には、こう説明されていた。~昭和27年4月9日、日本航空「もく星号」が三原山に墜落、漫談家の大辻司郎ら乗客全員の37名が死亡した大惨事があった。旅行に先立って、安全祈願の祈祷を当神社で受けた。命拾いしたということで、当社に記念の額が奉納された。

mokuseigou2_1.jpg ちなみに東京~大阪間は料金6千円(現在の10万円程)。同信用金庫は後に他2信用銀行と合併し、今は「さわやか信用金庫」。墜落(清張は撃沈された)の「もく星号」にはダイヤ売買の美女・小原院陽子が乗っていた。彼女が持っていた宝石類は、軍接収ダイヤがGHQへ渡り、それが闇ルートで流れたものと推測される。

 清張の3作目では彼女の写真、自宅内スケッチも掲載。一方、辻まことは乗鞍でスキー(彼は山スキーの指導員)合宿後に日航機事故を知り、彼女の家に駆けつけた。当時、共に彼女の家で酒と音楽で盛り上がっていた仲間の一人・西常雄が既に来ていて、二人は三原山に散乱した宝石類を収集しに旅立った。彼らは金鉱探しもしていたキャリアがあってメンソレータムの空かん一杯程を拾った。最後に岩に食い込んで取り出せないルビーらしきを、彼女の墓標として遺して山を降りた。その経緯を「墓標の石」に書いていた。

 そんないわくの「奉納額」。「花園神社」さん、その奉納額はどこに行ってしまったのでしょうか。追記:後日、改めて花園神社へ行った際に本殿前の「宝物殿」軒下に架かっていたのに気が付いた。写真を差し替えた。

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秘すれば花。「花園神社」の巨大麻羅 [散歩日和]

hanazonomara_1.jpg 先日、別サイトで新宿職安通り~大久保コリアンタウンを結ぶ入り角の石像に背中合わせでメール打つ女性がいて、「メール打つ背中合わせの男根像」として写真アップした。その像は済州島の石爺(トルハリバン)で帽子が亀頭の子宝を授かる像、つまり男根像だった。

 そんな事が契機で、なんと近所でお馴染みの「花園神社」境内の末社「威徳稲荷大明神」に、それは立派な木製男根が祀られているのを知ってしまった。

 同神社へは自宅~三丁目伊勢丹の徒歩途中にあって、氏子ではないも、まぁ馴染の神社。しかし境内の、ちょっとミニチュアっぽい小さな鳥居の連なりをくぐり参拝しようとは思わなかった。

 大田南畝(別人作の説もある)の『甲驛神話』(内藤新宿で野暮と粋な男が遊ぶ戯作)全文を筆写+挿絵複写で「くずし字」勉強もし、遊女投げ込みの成覚寺のご住職から説明も受け、三田村鳶肴『岡場所遊郭考』の内藤新宿の歴史を読み、野村敏雄『新宿っ子夜話』などdankon6_1.jpg多少は「花園神社」の歴史にも触れて来たが「威徳稲荷大明神」のことは知らなかったぁ~です。

 かくして初めて鳥居をくぐって参拝。神額掲げた梁の上に、その赤黒く艶々とした巨大男根(麻羅)がチン座していて、腰が抜けるほど驚いた。社の土台塚にもコンクリート製らしき可愛い男根も屹立していた。

 なんでも同大明神は昭和3年4月頃に建立らしいが、資料焼失で詳細不明(~が神社の説明なれど、なんだか怪しい)。同神社周辺にはいかにも関係ありそうな芭蕉句碑が二つ。『花園神社三百五十年誌』によれば~芭蕉が尾張名古屋に住んでいた時に、花園稲荷神社の別当三光院と非常に親しくしていて書簡を交わす仲。その書簡を通じてこの句が三光院送られ、それを碑にしたのだろう~と説明されていた。

 本当かしら。一つの句碑は「春なれや名のなき山の朝かすみ」(1698年の「泊船集」。「野さらし紀行」には~春なれや名のなき山の薄霞)。もう一つの句碑は「蓬莱にきかはや伊勢の初たより」(芭蕉が江戸を立って上方で亡くなる元禄7年元旦の句)。神社説明は時代的にズレているし、むろん威徳稲荷とも関係ない。

 また祠前の「神狐一体」は嘉永6年(1853)と説明されているが、これもまた威徳稲荷とどうつながっているのかわからない、同神社に関係しているのは「威徳稲荷社殿建設奉納者芳名」の大石碑で、これは平成4年(1992)5月建立とある。

inari5_1.jpg ちなみに野村敏雄著『新宿裏町三代記』には「雷電神社」合祀経緯が詳細紹介されている。『花園神社三百五十年誌』には末社に関しては、享和3年(1803)の火事でほぼすべてが焼失。それまでの末社は八社(第六天・毘沙門天・疱瘡神・天満宮・金毘羅大権現・三峰大権現・牛頭天王・千葉稲荷)。それらは合祀されてり、別殿に合祀。

 また明治10年(1877)の大火でも神社全焼。この時に末社の須賀神社、秋葉神社、北野神社も焼失と記されているだけで、また新宿遊郭内に稲荷神を祀った「三社稲荷神社」が平成17年(2005)に「威徳稲荷大明神」に合祀された~の記述をみる程度。また同稲荷は初午(毎年2月)に祭礼が行なわれているそうな。つまり、なにがなんだかわからず仕舞いでした。

 ともあれ中世以前の生殖に関わる民族神=性器形を神体・奉納物とする信仰は、明治5年から始まった淫祀邪教を戒める法令施行にとって、猥褻だとみなす道徳観が一般的になって、表向きには生活の中から排除されていったらしい。だがそれは国家権力がその浸透に邪魔だと弾圧(キリスト教、邪宗門、廃仏稀釈などなど)したもの。

 今日の歪み・捻じれきった日本にとって、この原初・原始・土俗・原点的な神像を祀ることは、日本を振り返るに貴重なご神体のような気もする。多産・豊穣・子孫繁栄・良縁・夫婦円満・幸せの和合・精力増強・恋愛成就・安産のお願いに、皆さんも新宿へお買物・お食事ついでに、ぜひ「花園神社」の末社「威徳稲荷大明神」の鳥居をくぐってみることをお勧めです。

 小生は無学かつ宗教や神には疎いし、性器形神体に特別な興味を持ってもいるわけでもなく、この辺で終わりたい。その範囲内で間違い記述に気付き次第、その都度訂正して行きます。最後にもうひとつ、「花園神社」で是非拝見したかった奉納額がなかったんです。次にソレを記してみる。

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「クールベと海」展、観る前に~ [スケッチ・美術系]

courber_1.jpg 数年前に波の絵の簡易練習(写真下)をしたことがある。その時は「ウィンズロー・ホーマー」(米国画家)に注目したが、「新橋・親柱」確認の際に「パナソニック汐留美術館」4/10~「クールベと海」展の告知を見た。よし、その鑑賞後に「汐留川」を溜池まで遡ってみようと思った。

 ~と、愉しみにしていたが、ネットで山梨美術館「クールベと海」展の大学教授・美術ライターのYouTube「ギャラリートーク」2本を観てしまった。これ、巡回展覧会のデメリット。それで何だか食傷気味になってしまった。

 19世紀前半まで絵画は「海・女性裸体」は畏怖・神秘・宗教的な存在だった。それが科学的知識の普及で神話・神秘性から解放されてリアリスムの流れが生まれた。併せて鉄道インフラ拡充でイギリス南部やフランス・ノルマンディー辺りが海のリゾート化で、パリ裕福層の避暑地になった。ノルマンディー・ドーベルは「パリの21区」「海辺のパリ」と称された。

 ギュスターヴ・クールベは1819年(文政2年。この時、葛飾北斎59歳。歌川広重22歳)、フランスはスイス国境近くの山村で生まれ。18歳で工業専門学校の寄宿舎へ。息が詰まって、町の小さな家に下宿(ヴィクトル・ユーゴー生家)。21歳、パリのソルボンヌ大学法学部入学も、親の反対を押し切って画家を目指し画塾に通って、ルーブル美術館で巨匠らの作品を模写。

namisyusaku_1.jpg 画壇は従来からの擬古典主義がほころび出した頃でジェリコー、ドラクロワ、アングル、ルソー、ミレーなど。クールベはお気に入りのパレットナイフを使って憑かれたように描き続けた。「絶望した男」から「石割り人夫」へ。彼のアトリエに屯うボードレールも描いた。22歳で初めて海を見た。

 1854年、35歳。南仏モンペリエ滞在。1855年、36歳。パリ万博に大作「画家のアトリエ」「オルナンの埋葬」が落選で、博覧会場近くに小屋を建て入場料1フランの、美術史上初の個展を開催。この時に「レアリスム宣言」。1866年、47歳で世界で最も猥褻な「世界の起源」(女性陰部)を描く。レアリストの面目躍如。神話的女体ではなく、肉感的に熟れ崩れ気味の女体「水浴びする女たち」など多数の裸体画を制作。彼の女性裸体画のほとんどは野蛮さと魔力の双方が指摘される)。

 そして1865~1869年頃にノルマンディーのトゥルーヴィル、ドーヴィル、エトリタなどに毎年出掛けて、盛んに「海・波」(生涯に100余点の海を)を描いた。1870年、51歳。パリ・コミューンに参加して逮捕。1873年にスイスに亡命。その4年後に58歳で没。

 マリー・ルィーゼ・カシュニッツ著『ギュスターヴ・クールベ ある画家の生涯』(鈴木芳子訳)も読んだ。だが最も猥褻な問題作『世界の起源』には相当にぼかし暗示した数行(トルコの王子のために描かれた秘密裡にしか見せられない女性の下半身に~)があるのみだった。(2018年9月のニュースサイトで、パリ発で同作モデルが判明!で盛り上がっていた)。

 ちなみにクールベが『世界の起源』を描いたのは1866年。北斎はその50年余まえから春画(艶本)を描き、バレ句を添えるなど〝遊び心〟に満ちていたし、また北斎の「波」も素晴らしい。

 世阿弥が能の神髄を「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と『風姿花伝』に記したが、それは形式芸能のことで、リアリスト宣言のクールベから『世界の起源』を隠しては意味ないように思った。~そう云えば、近所の「花園神社」境内「威徳稲荷」に、木製巨大男根像が「秘する」ように祀られているのを1週間程前に初めて知って、ちょっと衝撃を受けた。次にそれを記す。 

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