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現代視覚文化論①『デジタル写真の現在』 [読書・言葉備忘録]

sikakubunkaron_1.jpg 今になって抱いた「デジタル写真への関心」から、図書館で『インスタグラムと現代視覚文化論』を手に取った。小難しい論文各章より、まずは前川修(神戸大大学院教授)『デジタル写真の現在~三つの層から考える』を自分流意訳でまとめてみた。

 カメラ付き携帯の登場は2001年で、普及は2004年。カメラは独立した存在から、デバイスに取り込まれて一機能となり、携帯やPCにアップロードされた写真が一気に氾濫した。

 デジタル技術の発達が異なる産業間を融合。つまり新しい産業へ収斂=デジタル・コンバージョンされて、複数ジャンルのメディアが同一スクリーン上で共有され、写真は明確な境界を失い、そのデータは流動性を帯びた。また簡易撮影の動画に比し、写真は「静止画」と呼ばれるようになった。

 「明るく鮮やかに」がデバイスの売り。その画像は簡単に「拡大・縮小・回転・トリミング」などが可能で、誰もがシェアできるようになった(アップロードされた画像は、自分のPCに簡単に取り込み、簡単に再編集できる)。システムのシークエンス(手順)操作をもって、安易に「もうひとつ」の写真に変化されるのが前提の場に晒され、写真は受容様態、生産流通システムの場に晒された。デジタル写真は、このフロー性(流動性)が特性となり、指の操作性も帯び、撮影データも自働記録されてビッグデータの一片にもなった。

 Flick(オンラインの写真共有サービス)やフォトブログのユーザーたちは「いわゆる日常的な」「ありふれた」(従来の写真家が関わってきた特別なもの以外の)ものを撮影し、それら撮られた写真は即公開され、他のユーザーに共有される。この「共同的」経験が写真をアップする動機にもなっている。元々私的な写真が、逆説的に共有写真になる宿命を担った。

 写真は、かつての事象を捉えた従来型(従来のプロ写真家)から、いまは撮影・送信・受信されるリアルタイム経験となり、その現在共有感が写真の新たな「核」になった。従来の紙焼きという写真作品価値は減少して、代わって「視覚的コミュニケーション意義」が重大化。これを「視覚的雑談」「視覚的発語」、さらには「バズル」という可能性も帯びた。

 またインデックス(検索エンジンが保存するデータ)機能も重視され、タグ付けも肝心で、検索に引っかからなければ忘却される。一方、インデックスにプールされた写真群は、検索の粗さもあってすこぶる散漫性を帯びる。(例えば自分のブログ記事や写真が、想像もせぬ検索でヒットしたりする)

 これらは概ねプログラムやソフトウェアの層、インデックス内で流れている層、ネットワークを通した写真行為層(市民フォトジャーナリズム論、ツーリズム論など)の三層に分類して論じられるが、それぞれに問題も抱えている。プログラムやソフトウェアはビッグデータとして利用され、アップロード写真は万人に共有されることから摩擦も生じている。

 以上私流意訳でなく正しく読みたい方は同書をどうぞ。気分次第で他の各章も意訳まとめをして行きたく思っています。

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花園神社の紅テント「ビニールの城」 [散歩日和]

akatent9_1.jpg 過日、花園神社の脇を通ったら唐組の紅テントが設営されていた。「ビニールの城」は唐十郎作。主人公モモはビニ本のヌードモデル。アングラ演劇の最高傑作だそうな。コロナ過のテントはちょっと怖いが、無事終わって下北公演に移るらしい。

 観たい映画もあったが、これはコロナ閉館で諦めたが、ややして上映に変わった。足が向いたが、途中でやはり「自粛、今回は見送ろう」と決めた。

 演劇はOKで、映画は閉館。筋通らぬ対策に翻弄される人々。オリンピックも「やめることすらできなっている状況」(山口香JOC理事)で、「異常事態宣言下でも開催」(コーツIOC副会長)とダメ押し。アメリカ下院議長は「北京冬季五輪はボイコットを」。コロナが五輪のホンネをあぶり出した。オリンピックは所詮「金と政治ファースト」ってことらしい。

 コロナワクチン接種1回目の予約(6月6日、ファイザー製)がやっと取れた。

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ブログ二股の弁 [ブログ&アクセス関連]

 この「ss-blog」は、1日平均訪問が300ほどで、PVはその約3倍ペース。目下の累計PVは313万です。最新記事よりも過去の記事へのアクセスが多く、概ね「Google」経由で訪問されているようです。

 「so-net」が「ss-blog」にドメイン変更の際に、ずっとログイン出来ない時期があった。「雲」の勉強をブログ上で勉強中だったが、諦めて「excite blog」開設で、「雲」の勉強を続けた。だが新しく解説の同ブログの訪問数は1日数軒で、まあ、誰も見ていないのも同じで〝秘密ブログ〟か〝私的勉強ノート〟っぽかった。

 だがここ最近、そんな状況が変化した。同ブログの特徴・要領を得たことで、1日の訪問数が弱50ほどで、「イイネ」が30ほどになった。(「イイネ」を非表示選択する方法が広がっているらしい。イイことです)

 そこでは相互「イイネ」が〝仲間意識〟風のネットワークで繋がる感じがあった。かくして北海道から九州まで「イイネ」のフォロー相手を得て、旅行ままならぬ身には、居ながらにして全国の様子を知り、また多彩な趣味を覗くことが出来て誠に愉しい。その意でも40~30ほどの「イイネ=フォロー」が丁度いい感じ。

 同時に二つのブログの棲み分けも出来てきた。「ss-blog」は文章中心の、ちょっと大きめテーマでシリーズものが中心で、「excite blog」は写真中心で、文章は出来るだけ数行にしている。

 だが、その「excite blog」では、こちらのブログを「外部ブログ」として表示できるも、「ss-blog」に「excite blog」の表示が出来ない、ケラレてしまう。相性が悪いのかしら。

 ~と云うことで、こちらの更新がない場合は、概ね向うで遊んでいます~と云うお知らせでした。

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本居宣長④晩年 [読書・言葉備忘録]

morinaga.jpg 明和8年(1771)、宣長の神道説の方向が固まったと言われる『直霊(なおびのみまた)』成立。それはインドの仏教、中国の儒教と同じように、わが国には「天照大御神のうけ給ひたもち給ひ伝へ給ふ道なり」なる皇祖神の道。言うまでもなく『古事記』『日本書紀』の世界。特に道を立てゝ、道を説くこともなかったところに、我が国の古道があったと言う。

 あらゆる自然現象、人事現象は神の所為だが、今の世は「漢籍のクセ」がはびこり、漢土外国のものの考えで律している。これを祓い清め、すがすがしい御国心を回復すべしとするのが我が志だとした日本中心思想、尊王論を確立。

 また同年に『てにをは紐鏡』を完成。「てにをは」の係り結びの呼応法、活用法などを分類・図示。すでに漢字音の研究所で「呉音・漢音・唐音」の三音について考察した『漢字三音考』『漢字呉音弁』を、さらに鎌倉時代以来入れ替わっていたオとヲのア行、ワ行を訂正した『字音仮名用格(じおんかなづかい)』をまとめていて、これまた古典研究の国語学を成した。

 明和9年(1772)、年号が安永と改まった43歳の春、宣長は吉野旅行を門人5名とした。この頃の門人45名ほど。神道に突っ込みながらも歌学・詠歌を捨てず、またそれら講義も止めなかった。宣長は神道と歌の共通項に「物のあはれ」を見ていた。両面で門人はさらに20名増え、晩年には40余国487名に膨らんで行く。

tenioha_1.jpg 宣長の43歳から天明8年(1788)59歳までの17年間は、書斎に籠っての神典研究の『古事記伝』執筆に明け暮れた。世は田沼時代。江戸では武士、商人一帯で「狂歌」熱中。

 当時の宣長の暮し。安永2年(1773)44歳で次女誕生、その2年後に西隣の家を購入。47歳で三女誕生ん。次男が養子に出て、長女が嫁ぎ、49歳で長男の子(孫)が生まれた。天明3年(1782)53歳春、家屋に二階を増築し、その4畳半の茶室風書斎(鈴屋)竣工。天明7~8年ころには門人140名余。いよいよ学者としての名声が高まってきた。

 寛政元年(1789)60歳から享和元年(1801)72歳の没年までの13年間が、学問の円熟期。その学問の啓蒙書、実用書多数で普及・宣伝期にもなる。約40年間書き継いだ『本居宣長随筆』は14巻13冊。

 寛政2年(1790)61歳の時に描かせた自画像に、次の歌を書き添えた。「しき島のやまとごゝろを人とはゞ朝日ににほゝふ山ざくら花」(しき島:やまとにかかる枕詞。匂う:色に染まる。山桜花:優美で柔軟な美しさ、心。染井吉野は江戸時代後)

 寛政10年(1893)69歳、『古事記伝』最終巻完で、30余年かけた『古事記』の厳密注釈の大著完成。写真題字は紀州侯徳川治宝に賜った。藩御針医格で十人扶持から奥医師へ昇格。尾張藩は儒学による政治が行き詰まったとして、今後は古学に則った政治を行うべきと宣長を名古屋に招いた。また京都の公家らとも次第に交渉活発化。学問が政治に呑み込まれて行った。

sikisimano_1.jpg 享和元年(1801)72歳、京都で講義するために70日滞在。公家の間に古学浸透。全国に膨れ上がった門人統制に「鈴屋社」が運営。その後に活躍する多数門人を輩出。

 寛政3年、長男健亭こと春庭が失明。寛政12年(1800)に『遺言書』作成。自身の葬式を菩提所・樹敬寺で、墓所を山室妙楽寺の山)にすることなど詳細に指示・注文。享和元年(1801)9月。風邪から肺炎悪化で29日(太陽暦11月5日)に72歳で没。

 以上、簡単に足跡を辿ったが、後に小林秀雄『本居宣長』関連書や、『古事記』などを読む際の予習でした。資料画像は全て国会図書館データコレクションより。コロナ感染の非常事態宣言再びで、ホームスティはいつまで続きましょうか。

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本居宣長③町医者になり、文芸から神道へ。 [読書・言葉備忘録]

norinagazou_1.jpg 宣長は松坂に帰ると「町医者」(内科医)になり、生涯の生業になった。開業当初は医者業を頑張って年間70両。次第に医者と学問の両輪で、寛政期には40~50両。学問塾の門人収入(謝礼・中元・歳暮など)、自家調整薬「胎毒丸」「あめぐすり」などで補った。

 宝暦8年(1758)、京都遊学記念的な『古今撰』(「万葉集」などから秀歌を選び出し分類した詞華集)、歌論集『俳蘆小船』を完成。宝暦13年(1763)に『石上私淑子言(いそのかみささねごと)』三巻三冊で〝物のあわれ〟の説を軸にした歌論を唱えた。また同年には『紫文要領』(「源氏物語」要旨)も著わした(後の寛政8年67歳『源氏物語玉の小栞』から『玉の小櫛』として改稿)。宝暦14年、『梅桜草の庵の花すまひ』成立。これは口語が交って、後の『古今集遠鏡』の先駆になる。宣長の歌論は定家『古今和歌集』が最高手本で、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三大集を尊重すべきという主張。

 当時の宣長の私生活は、宝暦10年に「みか」を娶ったが数ヶ月で離縁。学問漬けの夫とソリが合わなかったか。同12年、宣長33歳、同じ景山門人の娘「たみ22歳」と結婚。たみは終生の伴侶となって男3人、女4人を設けた。

 彼は松坂で「嶺松院歌会」の主宰者になり、自宅で『源氏物語』講義を開始。この塾での諸講義は生涯を通じ(40年間)規則正しく続行。講義=自身の勉強。『源氏物語』は1ヵ月8、9回。他に『伊勢物語』『土佐日記』『枕草子』『百人一首改観抄』『万葉集』を開講。

kamosyouzou_1.jpg 宣長はまた、京都遊学から戻った頃に、江戸からの人に賀茂真淵『冠辞考』(万葉集の枕詞326語の精密な解釈書)を見せられ、読むほどに共鳴。古代語への関心を深めた。宝暦13年(1763)、伊勢参りに来た賀茂真淵と松坂で対面する機会を経て、翌14年(明和元年1764)35歳、賀茂真淵に入門。『日本書紀』『古事記』研究に入って、文芸一辺倒から神道への関心を深めた。

 この頃、宝暦13年に長男が、明和4年(1767)に次男が誕生。長妹はんは婚期を逸し、30歳で剃髪して終生宣長と同居。母かつは善光寺で剃髪し、明和5年に64歳で亡くなった。

 明和元年、宣長はいよいよ『古事記伝』に着手。「歌学者ハ、以テ神典ヲ学バザルベカラザルナリ。神学者ハ、以テ歌学ヲ学バザルベカラザルナリ」。明和6年(1769)10月、賀茂真淵が73歳で死去。

 画像は若い頃の本居宣長と賀茂真淵。以上、ここに紹介の諸書籍が読めるわけもなく、宣長の足跡を辿ったに過ぎない。後で小林秀雄『本居宣長』を読む時の予習になれば~です。

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本居宣長②京都遊学時代 [読書・言葉備忘録]

sadaie_1.jpg 小生、勉強嫌いで無教養。「勉強好き」宣長の経歴を辿るだけで辛いが、ボケ防止で引き続き「京都遊学時代」へ読み進む。宣長は宝暦2年(1752)、23歳で京都遊学。まず母方の親戚宅に落ち着いて「景山門」に入った。

 堀景山は藤原惺窩(儒教シリーズで紹介済)の高弟・堀杏庵の子孫。宣長は景山門の塾に2年7ヶ月間寄宿。宝暦3年からは医学を学ぶために掘元厚に入門。病理・生理の基礎医学知識を学ぶも、師は翌4年に死去。続いて法橋武川幸順(30歳)に入門。武川家は代々小児科で、同家に寄宿。ちなみに当時の医学レベルは安永3年(1774)刊の『解体新書』以前で押して知るべし。

 宣長は景山塾で、まずは医学を学ぶために漢学から勉強。景山は朱子学者ながら徂徠学にも関心深く、その影響を宣長も受けた。彼は漢詩と和歌を同列視で捉え、勧善懲悪の文芸観は避けた。さらに師・景山は国文学に造詣が深く「契沖」を尊敬。宣長はその影響も受けて『伊勢物語』『万葉集』などから〝物のあわれ〟を学ぶ。

 ※契沖:真言宗の僧で古典学者=国学者。定家の仮名遣いを「万葉集」「日本書紀」「古事記」「源氏物語」解釈を正した『和字正濫抄(契沖仮名遣)」を著わした。keicyusorai_1.jpg ※荻生徂徠:朱子学、仁斎学を批判し、古代言語を重視する「古文辞学」を標榜。柳沢(綱吉側近)に抜擢されるも、綱吉死去と吉保失脚で茅場町に住み(宝井其角宅近く)、私塾を開く。吉宗の信任を得て助言者になる。有名なのは赤穂浪士「切腹論」。彼の考えから「経世論」が誕生。

 次に宣長の歌について。京都で宝暦2年(1752)に冷泉為付門下の森河の門人になるも、4年後には二条流・有賀長川に師事。松坂に戻った後も指導を受け続けた。京都遊学の初・中期は漢詩文尊重で、末期は和歌尊重へ。「漢詩も和歌も等しく性情の道だが、物に感じる深さは、漢詩より和歌が勝る」と記した。遊学中に詠んだ歌は約1500首とか。定家『古今和歌集』を絶対視した。

 また景山は雅人で、門人を花見、月見、詩会によく誘ったそうで「味噌の味噌臭きは上味噌に非ず、学者の学者臭きは真の学者に非ず」とする通人心得をもって酒、煙草、能、芝居、花見、当然ながら茶屋遊びなども愉しんだらしい。宣長の京都遊学は5年8ヶ月。宝暦7年(1757)に松坂に帰郷。母は宣長の飲酒を大変心配したそうな。

 写真はまずは『古今和歌集』藤原定家(堀田善衛『定家明月記私抄』で紹介済)。次の二人画像は左が契沖、右が荻生徂徠(共に国家図書館データコレクションより)

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本居宣長①少年・青年時代

motoorihon1_1.jpg 今まで幾度か本居宣長(もとおりのりなが)が弊ブログに登場。例えば、小林秀雄と城福勇著『本居宣長』を手にしたが投げ出したと告白(2019‐08‐06)。小池著『日本語はいかにつくられたか』の「日本語の音韻の発見・本居宣長」の章を紹介(2019‐06-24)。儒教シリーズ中、本居宣長の「わが国の国土と国民の支配は天照大神~天皇~東照大権~将軍~大名という委任論」を紹介(2018‐11‐24)。~と云う事で、ステイホーム中に再挑戦で城福勇『本居宣長』を読み出した。

 徳川吉宗の時代、享保15年(1730)、伊勢松坂生まれ。弊ブログでお馴染み「大田南畝」より19歳年長。そんなに昔の人ではない。松平定信「寛政の改革」で危険察知の南畝は、狂歌仲間から離れて学問吟味へ挑戦したが、宣長はすでに57歳だった。

 これで時代アタリが掴めて、次は松坂。若い時分で幾度か仕事で「ヤマハ合歓の郷」や「伊勢神宮」へ行ったことがあるから概ねの地理感はある。さて父は定利、母は後妻かつ。先祖は武士だが詳細省略。松坂は伊勢街道の主要宿駅で商業都市(商人の町)。富商三井家発祥地。江戸店持ちの大商人多数で、江戸大伝馬町木綿問屋(松坂商人の出店=通称伊勢店)あり。宣長が属する小津家もその有力構成員。彼ら大商人らは上方に近いことで公家的(貴族的)雅の趣も有していた。

 宣長誕生の翌年には歌人団体「嶺松院歌会」も創設。この会員10名中4人が宣長の親戚。宣長の義兄・宗五郎(定治)は、後妻かつに宣長が生まれたことで小津家相続を辞して江戸に下った。富を得るも経営悪化し、立て直しに向かった父が江戸で病死。宗五郎が松坂に戻って小津家を相続すると、かつは子を連れて本宅から別宅に移った。宣長もその家で育った。寛延元年(1748)19歳で山田妙見町(伊勢神宮外宮の鳥居前の地域)の紙商・今井田家の養子へ。だが商人向きではなく翌年に離縁。

 宗五郎は小津家を相続するも、再び江戸へ出て40歳で死去。宣長が江戸へ出て後始末。帰路に富士山に登って帰郷。宝暦元年(1751)22歳で家督を相続したが、宣長が商人向きでないことから、母の裁量で財産4百両を隠居家に預け、利息(年40両)で暮すことになる。母は彼を京都で学問させて医者にする計画だった。

 宣長は母の教育方針で8歳から習字を、12歳から書道・謡曲を、17歳から射術を、19歳から茶の湯を、20歳から寺で『易経』『詩経』『書経』『礼記』素読を、17、18歳から和歌・俳諧も勉強。菩提寺への関心から仏教を、さらに伊勢神宮に近い場所柄で神道関係も勉強。

 今井田家養子中に『源氏物語覚書』を、22歳で『かなづかひ』を編む。以上が宣長の出自・少年・青年期。勉強経歴ばかりで面白くなく、前回挫折もこの辺りにあったか。次は京都遊学時代へ。

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