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「見る写真論」から「撮る写真論」へ [読書・言葉備忘録]

showwindow3_1.jpg 『インスタグラムと現代視覚文化論』より甲斐義明(新潟大学準教授)『レフ・マノヴィッチとインスタグラム美学』を私流意訳(学者文は小難しく廻りくどいので)する。

 まずはメディア理論家マノヴィッチのインスタグラム論『ソフトウェアが指揮を執る』で、デジタル写真はフィルム写真を摸造する方向で発展し「フィルム写真~デジタル写真」へ文化的連続発展して、ソフトウェアが文化生産の仕組みを根本的に変えた~との指摘を紹介する。

 そしてデジカメ登場前の状況から振り返る。1960年代後半に「飛躍的技術的向上による一眼レフ」(ベスト・ポケット・コダックなど)の登場によって、19世紀末~20世紀初頭に、米国ファッション写真が瞬間写真を意味する「snapshot」傾向を生んだ。(小生さらに時代を遡れば、写真機の登場で絵画は細密写実からキュビズムはじめ、写真で云えば解像度を下げた=抽象化傾向を生んだ)。

 「スナップ写真」は1963年ころからNY近代美術館はじめの写真展、雑誌特集で認知され、一眼レフによる「スナップ写真の美学」が、ファッション写真の流行になった。そこにはストリート写真の伝統に加えてロックやドラッグカルチャーなど若者文化とつながる「カジュアルさ」も広告写真に効果的だったこともあって普及した。

 さらに職業写真師だけが可能だった写真撮影が「デジタルカメラ登場」と「Photoshopなどのソフトウェア開発普及」によって、デジカメは旧来メディアにない複数メディウム(描画、音声、動画が等価素材として扱える)によってMVなど映像制作を可能にした。

 複数のメディウムが混交する新たなメディウム(デジタル手段、媒体)によって作り出される状況=マタメディウム時代を迎えて、それは進化する生物種のように氾濫するに至る。

 そうした変遷に寄って、従来のプロ写真家に重要視されていた技術的価値は希薄になり、彼らの技術をベースにした「写真論」も意味を失いつつある。デジカメやソフトウェア設計者に思想はないも、デジカメ及び携帯カメラの多数ユーザーが美的関心を抱いてアップロードする「インスタグラム」には〝美的コミコミュニケーション〟とも云える特性が帯びた。

 そこには現代写真+現代グラフィックデザインが融合したデジタル技術に親しんだ若者世代により価値観反映があって、それを「インスタグラミズム」と呼ぶに値する特性を帯びた。デジカメ、ソフトウェア普及による「メディア・プラットフォーム」の誕生による写真は「ありふれたものは見つめるに真に値するという信念」があり、日常の美的体験、身近な者の美学が商業主義をも先導し始めた。

 これらを指摘したマノヴィッチのインスタグラム論は、従来主流だった観賞者側の「見る写真論」から「撮る写真論」へ変化し、今後は「撮る写真論」(写真生活)を練り上げて行くのが今後の課題のひとつになっている~で結ばれていた。小生補足すれはデジカメも2000万画素を超えた辺りから逆に、ウィリアム・クラインはじめによって「アレ・ブレ・ボケ」の反写真志向が生まれた。

 以上「スナップ写真」関連メモ。写真はあたし撮影。

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「鳥撮り」と「街スナップ撮り」 [スケッチ・美術系]

eigaomori_1.jpg 目下「街スナップ写真」で遊んでいる。なんだか「鳥撮り」と似ている部分がある。「鳥撮り」は概ね2タイプに分類できる。シャッターチャンスを求めて、ひたすら歩き廻るタイプ、撮影ポイントに陣取って仲間と談笑しつつ狙いの鳥が飛来するのを待ち構えるタイプ。

 あたしは前者で、とにかくよく歩き回った。それで得難いシャッターチャンスに巡り合ったこともあれば、チャンスを逸した場合もある。

 ★「街スナップ写真」の雄=森山大道は、ひたすら歩き回ってピッときた〝擦過〟の瞬間にシャッターを切って行く。時にはノーファインダーで「アレ・ブレ・ボケ」構わず「写りゃいいんだ」の主義。(写真左は新宿武蔵野館上映チラシ。緊急事態宣言下の5月29日、3万円のポケデジSX720HS購入後に観た。少しも森山大道の写真に迫っていないつまらん映画だった

 森山大道が好きが写真家ウィリアム・クラインの多くの写真には、写真家を正面から見つめる被写体は多い。対峙して撮っていることがわかる。

 一方の大御所★木村伊兵衛は、その場に馴染み、被写体もカメラマンがいることを忘れたころに、知らぬ間にシャッターを切るタイプ。木村伊兵衛の関連書から、彼のスナップ術をもう少し探ってみる。

 木村伊兵衛は「カメラ隠しの至芸」とか。彼のスナップ写真には「写されている対象と木村さんがいてカメラがない」そうだが、本人は「写す時にはkimuraihei_1.jpg自分もいない」。彼のスナップ写真を観ると、被写体に接近し、或は彼らの輪の中に入っているも、被写体は彼(カメラ)に視線を向けていない。

 彼はそうなるまで現場に融け込んでいる。そうして被写体の自然の姿、素顔が出た瞬間に、手練の早業でシャッターを切る。それには彼がカメラ機能に熟知していて出来ること。彼のカメラはライカで概ね30㍉か50㍉レンズ。シャッタースピード優先。撮った写真はノートリミングいっぱいに被写体が躍動している。また彼は出会い頭でも、カメラマンである存在感を消してサッと撮ってしまうらしい。

 それにはカメラ機能熟知の手馴れに加え、そのざっくばらんな巧みな話術(江東区下谷生まれの江戸っ子)も大きな功を発揮しているらしい。

 そんなことを想いつつ、ウォーキングしつつ「街スナップ」を愉しんでいる。

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夢二、荷風からストリートファッション写真まで [読書・言葉備忘録]

kafuyumejisyasin.jpg このカットは6年前にアップした竹久夢二、永井荷風のカメラ調べをした際のもの。夢二のカメラは大正4年(1915)に輸入されて写真ブームを興した「ベスト・ポケット・コダック(通称ベス単)」らしい。彼は11冊のアルバムに2614枚もの写真を遺したとか。その一部掲載の写真集を観たことがある。妻たまき~彦乃~そしてお葉さんのヌード写真。

 永井荷風は昭和11年(1936)10月に「ローライコード」(100円程で今の27万円?)を購ったが、室内や夜の撮影に塩梅悪く、翌年2月に「ローライフレックス」を参百拾円(今の80万円程)で購った。自家本に自ら撮った墨東風景に俳句を添えた頁があったと記憶している。荷風さんのこと、エッチな写真もたくさん撮っていたに違いない。その頃の『断腸亭日乗』には「帰宅後に写真現像」の記述が続いている。

 ロールフィルムによる小型カメラ誕生は、かく夢二・荷風さんにも「スナップ写真」を撮らせたが、小生の父も同じような写真機で、子供のあたしらをスナップしていた。

 〝近代写真の父〟で女性画家オキーフの夫、アルフレッド・スティーグリッツは、最初が三脚使用の8×10(エイトバイテン)、1892年に携帯用4×5(シノゴ)カメラを購入。妻エミリーとの新婚旅行で各国を巡った時の写真が初期代表作になっているそうな。1896年に「アマチュア写真協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」を合併した写真クラブを設立。1896年に「ギャラリー291」設立。

 1916年に女性画家オキーフと出逢う。妻エミリーが外出中の自宅でオキーフのヌード撮影。そこに帰宅した妻と騒動勃発。彼とオキーフは同棲を始めて、彼はオキーフの身体を愛でるように撮りまくった。室内私的スナップ写真で、絵画でもマチスはじめ室内を描く流れがあった。

 ウィリアム・エグルストンは1939年生まれ。カラー写真の開拓者で「日常的なものを、あたかも初めて見たような気分にさせる視点、色、構図」が特徴とか。彼のカメラは1933年からのLeicaⅢシリーズ。彼の写真は「New Color派」と呼ばれた。ソール・ライターはそれに比して写真集『Early Coler』を発表。この両人、共に写真に劣らず絵もたくさん描いた。

 彼らの後を継ぐ形でストリート系ファッション写真が興る。その「カジュアルさ」イメージで「スナップ写真&

広告」が流行った。そして間もなくフィルムではなくイメージセンサー(撮影素子)とPhotoshopなどのソフトウエアによるデジタルカメラへ移行。以上、学者先生らの写真論が小難しく廻りくどいので、自分流でまとめた。

  アッチでは今日「うんこ座りの女たち」の写真をアップした。

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