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イアン・ジェフリー著『写真の読み方』②中平卓馬と森山大道 [読書・言葉備忘録]

hakahirahon.jpg<中平卓馬> 1968年に雑誌「プロヴォーク」共同創刊で彗星のごとく登場した。同人写真家は高梨豊、多木浩二、森山大道。(最終第3号には詩人・吉増剛造「写真のための挑戦断章」掲載)。彼らは余りにも説明的で同語反復的な現代の記録写真に我慢できずに、作られたものの代わりに雰囲気を探した。その雰囲気は黙示的だった。

 当時の彼は左翼系雑誌「現代の眼」編集者で、偉大な東松照明が日本の写真歴史をまとめる展覧会を組織するのを助けた。また中平は東松から写真を学び、彼のような表現効果を学び、明るい光が物の構造に食い込み、溶解し、物質世界の脆さを暗示する写真を撮った。(公衆電話の写真など。映画「フィルム・ノワール」とウィリアム・クラインの都市の写真からは派生している、と記されている)


 1968年~70年代の中平のように、世界の終わりを暗示するかの恐ろしい感覚を提示した者は他にいない。政治的状況から熱気が消えてしまうと同時に、彼は写真から離れ、アルコール中毒から記憶喪失した。

 東松は悪化する文化状況に困惑し、森山は騒乱の餌食になったアウトサイダーとしての自分を提示した。しかし中平の写真は全く個人的な放棄のヴィジョンである。写真は中平卓馬本の表紙。彼らの写真特徴「アレ・ブレ・ボケ」に従って撮ったもの。

 中平卓馬については2021年3月11日のブログで紹介済。ここでは、そこで記した経歴のみ記す。昭和13年(1938)、東京・原宿生まれ。東京外国語大学スペイン科卒。現代評論社を経て写真家になり、森山大道と共同事務所を開いた。彼の写真論は昭和46年(1971)「沖縄・松永事件」、昭和48年(1973)の映像論集『なぜ、植物図鑑か』、昭和52年(1977)〝なぜ篠山紀信か〟を論じた『決闘写真論』、そして彼の〝記憶喪失事件〟等が併せて論じられることが多い。 

 moriyama3_1.jpg<森山大道> 彼は商船学校入学を断念し、デザイン会社に就職後、東松らの「VIVO」の考えに魅せられて、「VIVO」の細江英公のアシスタント後に、逗子でフリーのカメラマンになった。北海道・三沢基地辺りで野良犬を撮った。地のレベル(犬の視線)の徘徊に、写真家としての共通点を見出した。

 また四日市ではトラックのタイヤを撮った。好きなビート作家、ジャック・ケルワック『路上』に影響されて日本中を旅した。この頃の彼は、己の写真は行き過ぎる時につけられた「擦傷」と言った。

 1968年、森山は寺山修司の実験演劇グループ(天井桟敷)と関係を持ち、森山と寺山は雑誌「スキャンダル」創刊(注:創刊へ走り出したが途中で頓挫。そんなワケで中平卓馬の季刊「プロヴォーク」は第2号から参加。なお寺山は中学生時代は青森大空襲と父の戦地戦病死で、母ハツと三沢市に転居。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家、栄作楼なる遊郭前の四坪の平屋で暮し始めた。寺山は後に短歌、俳句で頭角を現す)。

 彼らは「かつて現実を支えていた物質的言葉は力を失った」と宣言。東松が「言語の代わりにイメージが優先権を持つ」を信じ、眼の偏見や先入観をすり抜け、ファインダーを覗くこともない撮影もした。

moriyama7_1.jpg 1969年「プロヴォーク」2号に、森山は22枚のラブホテルでの出会いを発表。3号最終号で「青山通りユアーズ」のスーパーの棚を撮った写真を発表。青山通りはデモ騒乱警戒のパトカーの輝く光で照らされていた。著者は「東松は早くに写真は俳句であると気付いていたが、その教えを受けた森山のラブホテルでタバコを吸う女の写真はまさに俳句だ」と指摘していた。

 また著者は森山の「犬の記憶」で回想した、幼児期の色彩絵本と文章によって生まれた淡い期待を語っていて、それが感傷的な歌謡曲に通じるとも記す。

 森山と彼の同時代人は、写真で全てをコミュニケートする時代を予見したが、皮肉なことに、彼らの写真は以前より痛切に言葉を引き出そうとした。東松は1960年代に、森山に写真は俳句だと教えた。俳句は一見言葉数が少ないが、その可能性から様々な考えが生まれ、無数の言葉を生む。そんな森山の写真と言葉の結びつきの巧みさを知った「アサヒカメラ」編集長・丹野清和が彼に文章を書くことを奨めた。

 1971年『釧路 日本』で、森山は「写真は光の記憶」で、一種の考古学を作る堆積物であると記した。1975年『函館 日本』ではテネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』から『記憶という名の電車』なる言葉で「事実と事実でないものの間のどこかに、価値ある記憶が横たわっている」と記した。

 1980年「ボタン神奈川県 日本」。彼はボタンを撮ったが、彼に植物学知識はない。それでも『犬の記憶』で、蕪村俳句「牡丹切りて気のおとろひし夕べかな」を引用していた。与謝野蕪村は18世紀後半の大詩人で、そのリアリズムが注目されている。森山は前世紀の芭蕉よりずば抜けたリアリティで芭蕉より優秀だと考えた。また芭蕉も『路上』のケルワックも、そして自身も旅人となって彼らと共通項を有していったと思われると記す。

 少年時代の回想は、歌謡曲的な哀愁となる。芭蕉や蕪村が有する日本の美と詩歌の伝統の重要性を認識して、そこから外れなければ、さらに成功するだろうとも記していた。

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