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東松・中平・森山・荒木にチラつく寺山修司(1) [読書・言葉備忘録]

IMG_0786_1.JPG 東松照明、中平卓馬、森山大道、荒木経惟の影に、寺山修司の影がチラつく。

 イアン・ジェフリー著『写真の読み方』に、中平は東松に写真を学んだ、東松の写真は17文字の結合から隠喩を醸し出す俳句が理解の鍵、東松は森山大道に「写真は俳句だ。俳句同様無限の選択の技術だ」と教えたと記していた。

 その辺の出典元はわからぬが、大森大道は『犬の記憶』で、蕪村の「牡丹切りて気のおとろひし夕べかな」を引用。YouTubeでも「自分は蕪村に近く、荒木経惟は芭蕉だ」とも語っていた。その俳句論はどこから来たのだろうか。四人の影にチラつく寺山修司を、時系列で探ってみた。

 まず1964年(昭和39年)、26歳の中平卓馬は「現代の眼」編集員として、29歳の寺山修司に小説を依頼。寺山はコラージュ手法による実験的小説『あゝ、荒野』構想を提案。中平も登場人物の一人を演じたりして新宿の街を徘徊。同誌は2年間に亘って連載。単行本刊後に仏訳・独訳版も出版された。(寺山は後に、中平は若いが論争のライバル、好敵手だったと記している)

 また同年に中平は東松照明34歳の構成・文のグラビア頁「I am a king」連載も開始。これは東松が若手写真家らを起用したグラビア8頁企画。1回目は東松、2回目に森山大道、3回目に東松、4回目に立木義浩、5回目に東松、最終回の6回目には内藤正敏、横須賀功光、深瀬昌久、そして中平卓馬が柚木明の名で写真を掲載。

 これを機に中平は、編集者から写真家へ転身を決意する。中平の同級生・内田吉彦(後にフェリス女学院大学名誉教授)は「中平が父に寺山、東松らの勧めもあって写真家を志すに至った経緯を説明する場に立ち合い、また彼の結婚披露パーティーに寺山、東松も招いて自身が司会役を務めた」と記していた。

IMG_0785_1.JPG 1961年(昭和36年)、土方巽中心の「六人のアヴァンギャルドの会」に寺山修司と東松照明が参加。このとき寺山は26歳。東松は31歳で「VIVO」解散年だった。東松は1965ℬ年(昭和40年)に「写真100年、日本人による写真表現の歴史」展にあたって、中平と多木浩二に編集委員を担ってもらった。

 1966年(昭和41年)、「アサヒグラフ」で寺山修司の連載エッセーに中平と森山大道が交互に写真を発表。その二人が渋谷に共同事務所を開設。また同年に寺山は俳句誌の連載に、森山に写真を依頼している。

 1967年(昭和41年)、寺山は「カメラ毎日」に若手写真家に積極的対話(ダイアローグ)を促すべく「カメラによって〝何を燃やす〟」題して森山大道、立木義浩、中平卓馬、沢渡塑へのメッセージを順に記した。それに応えるように翌1968年(昭和43年)、中平30歳が多木浩二、高梨豊らと写真同人誌『プロヴォーク』創刊。「アレ・ブレ・ボケ」を特徴とした。   

 中平と同年生まれの森山大道は、東松らの「VIVO」に惹かれて上京後、同メンバーの細江英公のアシスタントになり、その頃に森山は東松から「写真は俳句だ。俳句は言葉数が少ないが、その可能性から様々な考えが生まれ、無数の言葉を生む」と教えられたか~。

 森山は「無村には芭蕉よりもずば抜けたリアリティーがある」の認識に加えて、ビート作家ケルワック『路上』にも習って、自身を旅人、かつ野良犬の眼をもって旅先で写真を撮り始めた。イアン・ジェフリーは森山の写真に、少年時代を回想する歌謡曲的な哀愁があり、芭蕉や蕪村が有する日本の美と詩歌の伝統の重要性を認識し、そこから外れなければ、さらに成功するだろうとも記した。

 森山大道は寺山修司と雑誌「スキャンダル」創刊を画策するも、森山は中平の「プロヴォーグ」2号から参加した。イアン・ジェフリーは同2号の森山の22枚のラブホテルのスナップ写真を「それはまさに俳句だ」と評した。

 かく寺山修司が東松照明、中平卓馬、森山大道らと密接に交流していたことがわかった。寺山の活動方針はダイヤローグ(対話・問答)で、かく多方面に人脈とダイヤローグを拡大。そして寺山が、彼らに自身の短歌や俳句を熱く語っていたと想像される。(続く)


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