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東松・中平・森山・荒木にチラつく寺山修司(2) [読書・言葉備忘録]

IMG_0797_1.JPG 中平卓馬の初期写真は、撮影者の意図に関係なく過剰記録するカメラの再現機能に抗って、または被写体と対峙する写真家の存在をなしとする従来写真に抗って、「アレ・ブレ・ボケ」をもって撮影者の行為をも記憶せんとするダイナミックな二重記録で、撮っている写真家の生をも記憶しようとした。それを支援して高梨豊は「気配をも撮る」と記し、多木浩二は「まずたしかさの世界をすてて」と論評した。

 ここには彼を編集者から写真家への道を誘った東松照明、寺山修司批判があったらしい。まず東松の「事大主義」批判。入念な構図と洗練されたテクニック、組み写真、社会的メッセージなどへの否定。これは東松の任命による「写真100年 日本人による写真表現の歴史」編集委員になって、写真の「記録性」や「アート性」が強調されたことへの疑問が浮上してのことだろう。

 一方の寺山修司は1967年に「天井桟敷:青森県のせむし男」を旗揚げ公演。幻想・虚構世界の劇場化で、彼らと方向性は大きく違えた。中平・森山にとって、寺山の論理・主義はうっとうしく、次第に距離をとり始めた。

 かくして打ち出された中平の「プロヴォーク」における衝撃的「アレ・ブレ・ボケ」の発表だが、そんな彼の前に、いささかショックは商業写真が出回った。なんと「ディスカー・ジャパン」ポスターが意図的に手ブレを用いた広告写真を全国展開。それが契機でもなく、寺山、東松への反発から行き着いた「アレ・ブレ・ボケ」。

 中平はその後、沖縄の「松永事件」(デモで巡査部長が死亡。その時の写真から松永青年が逮捕。だが現場にいた人の証言で彼は巡査部長を助けていたで無罪判決。中平はその支援活動で沖縄滞在から南の島々のドキュメンタリーを撮り、月刊誌『近代建築』表紙1年間担当を経て、それまでの写真を全面否定する根本的な方向展開を宣言することになる。写真はマスメディアの操作で容易に含意を孕んだ素材として利用される可能性がある。比して複数で成立する構造的写真=図鑑の方向へ誘われ~。 含蓄・内包を意するコノテーション(connotaion)から、事物を示すだけのデノテーション(denotation)への志向。

 かくして中平35歳は、1973年(昭和48)に『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』を発表。今度はあらゆる人間の投影を払拭・排除した記録写真「植物図鑑のような写真」を提唱し始めた。彼はそれまでの自作のネガ、プリントを焼却した。併せて森山大道も1972年に『写真よさようなら』を発表。

 寺山修司は、彼らの方向転換・放棄について「彼は撮ることの犯罪性」に気が付いた。「<私>離れ志向」に転向した。だが中平の私を消す方向には無理があろう。写真の受け手の中には記憶の残余があって、それを手がかりに写真を見る限り、写真は鑑賞者の私的イメージの中に封じこめられてしまう。故に、それは鑑賞者の意識に潜在する問題だろうち評した。

 中平の極限にまで向かった探求は、1977 年に睡眠薬とアルコール中毒による記憶喪失と言語障害へ陥った。寺山修司は論敵を失って、自身が写真家になるべく荒木経惟に弟子入りした。寺山の写真集『写真家・寺山修司』に、その時のことを荒木が書いている。

 ~寺山修司から弟子志願の電話があり(多分1973年・昭和48年)、銀座「キッチンラーメン」で講義し、一眼レフにワイドレンズを薦めた。そもそもは70年にゼロックスで和綴じ黒表紙の私家本『荒木経惟写真帖』を創ったときに、勝手に寺山修二に送りつけ、すぐにおホメと励ましの手紙をいただいた経緯があってのことと述懐。

 第2回目の写真講義は実技で、当時の彼の写真愛人・満美の東長崎のアパート昌栄荘8号室へ。寺山にライトマンをやれと言うも、彼は途中からライトをほっぽり出し、買ったばかりの一眼レフでカシャカシャと激写し始めた。私の参謀本部長がライトを持って、寺山に絞りとシャッタースピードを教えた。同写真集には寺山が撮ったコンタクトと男女が裸で絡み合った写真数点が掲載されていた。(続く)

 写真は中平卓馬の没(2015年、77歳)6年後に出版された江澤健一郎著『中平卓馬論~来るべき写真の極限を求めた』表紙。同著には中平の記憶喪失後の写真集についても詳細分析紹介されている。

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