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花園神社の紅テント「ビニールの城」 [散歩日和]

akatent9_1.jpg 過日、花園神社の脇を通ったら唐組の紅テントが設営されていた。「ビニールの城」は唐十郎作。主人公モモはビニ本のヌードモデル。アングラ演劇の最高傑作だそうな。コロナ過のテントはちょっと怖いが、無事終わって下北公演に移るらしい。

 観たい映画もあったが、これはコロナ閉館で諦めたが、ややして上映に変わった。足が向いたが、途中でやはり「自粛、今回は見送ろう」と決めた。

 演劇はOKで、映画は閉館。筋通らぬ対策に翻弄される人々。オリンピックも「やめることすらできなっている状況」(山口香JOC理事)で、「異常事態宣言下でも開催」(コーツIOC副会長)とダメ押し。アメリカ下院議長は「北京冬季五輪はボイコットを」。コロナが五輪のホンネをあぶり出した。オリンピックは所詮「金と政治ファースト」ってことらしい。

 コロナワクチン接種1回目の予約(6月6日、ファイザー製)がやっと取れた。

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新宿花園神社に「もく星号」の痕跡 [散歩日和]

miharayamanikkouki.jpg 花園神社の末社「威徳稲荷大明神」の巨大木製男根を調べていたら、なんと花園神社に「もく星号」痕跡の奉納額があるのを知った。

 松本清張『運命の「もく星号」』(昭和35年)、『風の息』(昭和49年)、『一九五二年日航機「撃沈」事件』(平成4年)について、また辻潤の息子・辻まことによる三原山に散乱の宝石収拾記『墓標の墓』、西木正明『夢幻の山脈』などを紹介してきた小生には、ぜひその奉納額を観たく駈けつけたが、それを眼にすることが出来なかった。

 まず同奉納額を知った最初は『新宿文化絵図』(新宿区の編・発行)の町田忍「新宿探検コラム」だった。以下、同記事と紹介サイトの幾つかを併せて要約してみる。

 花園神社のゴールデン街に抜ける裏参道に面した社殿軒下に、数枚の寄進された額が架けられていて、そのなかでひときわ大きい幅2m×高さ70㎝のほ奉納額がある。題字に「神徳感謝」と「同栄信用金庫飛行機貯金旅行會献木記念」。神社と飛行機の絵の間に東京~大阪~福岡の運航地名。そして奉賛者名、昭和27年4月吉日の日付。

 その名簿から3機の機構記がチャーターされたことがわかる(定員36名)。1晩機が4月7日午前8時発で22名と3名の世話人。2番機が4月4日午後4時発26名+4名。3番機が4月5日午前8自発28名+3名。

 『花園神社三百五十年誌』には、こう説明されていた。~昭和27年4月9日、日本航空「もく星号」が三原山に墜落、漫談家の大辻司郎ら乗客全員の37名が死亡した大惨事があった。旅行に先立って、安全祈願の祈祷を当神社で受けた。命拾いしたということで、当社に記念の額が奉納された。

mokuseigou2_1.jpg ちなみに東京~大阪間は料金6千円(現在の10万円程)。同信用金庫は後に他2信用銀行と合併し、今は「さわやか信用金庫」。墜落(清張は撃沈された)の「もく星号」にはダイヤ売買の美女・小原院陽子が乗っていた。彼女が持っていた宝石類は、軍接収ダイヤがGHQへ渡り、それが闇ルートで流れたものと推測される。

 清張の3作目では彼女の写真、自宅内スケッチも掲載。一方、辻まことは乗鞍でスキー(彼は山スキーの指導員)合宿後に日航機事故を知り、彼女の家に駆けつけた。当時、共に彼女の家で酒と音楽で盛り上がっていた仲間の一人・西常雄が既に来ていて、二人は三原山に散乱した宝石類を収集しに旅立った。彼らは金鉱探しもしていたキャリアがあってメンソレータムの空かん一杯程を拾った。最後に岩に食い込んで取り出せないルビーらしきを、彼女の墓標として遺して山を降りた。その経緯を「墓標の石」に書いていた。

 そんないわくの「奉納額」。「花園神社」さん、その奉納額はどこに行ってしまったのでしょうか。追記:後日、改めて花園神社へ行った際に本殿前の「宝物殿」軒下に架かっていたのに気が付いた。写真を差し替えた。

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秘すれば花。「花園神社」の巨大麻羅 [散歩日和]

hanazonomara_1.jpg 先日、別サイトで新宿職安通り~大久保コリアンタウンを結ぶ入り角の石像に背中合わせでメール打つ女性がいて、「メール打つ背中合わせの男根像」として写真アップした。その像は済州島の石爺(トルハリバン)で帽子が亀頭の子宝を授かる像、つまり男根像だった。

 そんな事が契機で、なんと近所でお馴染みの「花園神社」境内の末社「威徳稲荷大明神」に、それは立派な木製男根が祀られているのを知ってしまった。

 同神社へは自宅~三丁目伊勢丹の徒歩途中にあって、氏子ではないも、まぁ馴染の神社。しかし境内の、ちょっとミニチュアっぽい小さな鳥居の連なりをくぐり参拝しようとは思わなかった。

 大田南畝(別人作の説もある)の『甲驛神話』(内藤新宿で野暮と粋な男が遊ぶ戯作)全文を筆写+挿絵複写で「くずし字」勉強もし、遊女投げ込みの成覚寺のご住職から説明も受け、三田村鳶肴『岡場所遊郭考』の内藤新宿の歴史を読み、野村敏雄『新宿っ子夜話』などdankon6_1.jpg多少は「花園神社」の歴史にも触れて来たが「威徳稲荷大明神」のことは知らなかったぁ~です。

 かくして初めて鳥居をくぐって参拝。神額掲げた梁の上に、その赤黒く艶々とした巨大男根(麻羅)がチン座していて、腰が抜けるほど驚いた。社の土台塚にもコンクリート製らしき可愛い男根も屹立していた。

 なんでも同大明神は昭和3年4月頃に建立らしいが、資料焼失で詳細不明(~が神社の説明なれど、なんだか怪しい)。同神社周辺にはいかにも関係ありそうな芭蕉句碑が二つ。『花園神社三百五十年誌』によれば~芭蕉が尾張名古屋に住んでいた時に、花園稲荷神社の別当三光院と非常に親しくしていて書簡を交わす仲。その書簡を通じてこの句が三光院送られ、それを碑にしたのだろう~と説明されていた。

 本当かしら。一つの句碑は「春なれや名のなき山の朝かすみ」(1698年の「泊船集」。「野さらし紀行」には~春なれや名のなき山の薄霞)。もう一つの句碑は「蓬莱にきかはや伊勢の初たより」(芭蕉が江戸を立って上方で亡くなる元禄7年元旦の句)。神社説明は時代的にズレているし、むろん威徳稲荷とも関係ない。

 また祠前の「神狐一体」は嘉永6年(1853)と説明されているが、これもまた威徳稲荷とどうつながっているのかわからない、同神社に関係しているのは「威徳稲荷社殿建設奉納者芳名」の大石碑で、これは平成4年(1992)5月建立とある。

inari5_1.jpg ちなみに野村敏雄著『新宿裏町三代記』には「雷電神社」合祀経緯が詳細紹介されている。『花園神社三百五十年誌』には末社に関しては、享和3年(1803)の火事でほぼすべてが焼失。それまでの末社は八社(第六天・毘沙門天・疱瘡神・天満宮・金毘羅大権現・三峰大権現・牛頭天王・千葉稲荷)。それらは合祀されてり、別殿に合祀。

 また明治10年(1877)の大火でも神社全焼。この時に末社の須賀神社、秋葉神社、北野神社も焼失と記されているだけで、また新宿遊郭内に稲荷神を祀った「三社稲荷神社」が平成17年(2005)に「威徳稲荷大明神」に合祀された~の記述をみる程度。また同稲荷は初午(毎年2月)に祭礼が行なわれているそうな。つまり、なにがなんだかわからず仕舞いでした。

 ともあれ中世以前の生殖に関わる民族神=性器形を神体・奉納物とする信仰は、明治5年から始まった淫祀邪教を戒める法令施行にとって、猥褻だとみなす道徳観が一般的になって、表向きには生活の中から排除されていったらしい。だがそれは国家権力がその浸透に邪魔だと弾圧(キリスト教、邪宗門、廃仏稀釈などなど)したもの。

 今日の歪み・捻じれきった日本にとって、この原初・原始・土俗・原点的な神像を祀ることは、日本を振り返るに貴重なご神体のような気もする。多産・豊穣・子孫繁栄・良縁・夫婦円満・幸せの和合・精力増強・恋愛成就・安産のお願いに、皆さんも新宿へお買物・お食事ついでに、ぜひ「花園神社」の末社「威徳稲荷大明神」の鳥居をくぐってみることをお勧めです。

 小生は無学かつ宗教や神には疎いし、性器形神体に特別な興味を持ってもいるわけでもなく、この辺で終わりたい。その範囲内で間違い記述に気付き次第、その都度訂正して行きます。最後にもうひとつ、「花園神社」で是非拝見したかった奉納額がなかったんです。次にソレを記してみる。

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④新橋の親柱を訪ねる。 [散歩日和]

sinbasioyabasira_2.jpg 丸の内線「銀座」下車で、三越から中央通りを新橋へ銀ぶら。高速道路下に新宿御苑隣接地に見たのと同じ親柱が、「銀座柳の碑」(西条八十作詞・中山晋平作曲の歌詞・譜面)と共に設置されていた。案内柱に以下のような説明あり。

 「これは、かつて汐留川に架けられていた親橋の親柱。汐留川は昭和38年(1963)の埋め立て工事でなくなりました。現存する新橋の親柱は、大正14年(1925)に長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です」

 新橋から下流にあった「蓬莱橋」跡辺りに、朝鮮使節団に幕府の威光を誇示すべく造られたという当時の「芝口御門」の様子が銅版で紹介されていた。そこから「旧新橋停車場」へ。

 建物裏側にまわるとプラットホーム、線路、0哩標識が再現されていた。停車場の「鉄道歴史展示室」で購った絵葉書通り。同停車場横が「パナソニック」で同社「汐留美術館」の告知に、4月10日から「クールベと海」展の予告ポスター。

 かつて、ここで「カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち」展を観たことを思い出した。小生、波を描く簡易習作をしたことがあるゆえ、ちょっと興味をそそられた。

 そこから電通ビルを回り込むと眼前に「浜離宮」。築地川の大手門(関東大震災復興で架け替え)があり、その先に汐留川の「中の御門橋」があった。

sibagutigomon_1.jpg 浜離宮からの帰路途中に「銀座に残された唯一の踏切信号機」(浜離宮前踏切)が残されていた。「昭和10年(1935)、築地市場の開場と同時に出来た貨物線の跡。昭和61年(1986)まで国鉄汐留貨物駅があって、築地市場とつながっていていた当時の踏切です」

 さらに新橋駅に向かって歩けば、昭和47年竣工の黒川紀章設計「中銀カプセルタワー」。老朽化、アスベスト、保存か・解体か~諸問題を抱えているらしいが、天辺が何故にトタン造りなのか不思議に思った。

 以上、新宿御苑隣接地で見た〝変な塔〟(結果は新橋、京橋の親柱だった)調べはこれにて終了。なぜこんなことに興味を持ったかと云えば、かつて自転platform_1.jpgsinbasiehagaki_1.jpg車に乗り始めた頃に「日本橋川」を下りつつ各橋を巡った(カテゴリー「日本橋川」全31回)ことがあってのことだろう。次は「パナソニック汐留美術館」で〝クールベと海展〟を観た際に、新橋から溜池までの汐留川を歩いてみようと思っています。

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③新宿御苑隣接の「汐留川・新橋の親柱」 [散歩日和]

jyukusinbasioya_1.jpg 新宿御苑隣接地の昔の「みちの博物館」(詳細不明)に「京橋の親柱」と並んで、もう一つ立派な親柱があった(写真左)。その写真をPC片隅にキープし「東京 親柱」で検索。すると「あった」ではないか。なんと「新橋の親柱」らしい。しかも「京橋・親柱」と同じく、これもモニュメントとして保存設置とか。

 まずは新橋を流れていた「汐留川」の予習から。「新橋」は昭和30年代まであった「汐留川」に架かっていた橋。汐留川は赤坂溜池~江戸城外濠・幸橋~浜離宮を結ぶ水路。江戸期の汐留川は幸橋御門~汐留橋で、架橋は土橋~難波橋(涙橋)~芝口橋~汐留橋(蓬莱橋)。

 当時の新橋は、江戸城見付門のひとつ「芝口御門(芝口橋)」で、朝鮮使節が同橋を渡る際に、幕府の力を誇示したく設けられたもの。当時の姿は〝蓬莱橋〟近くに史跡案内の銅版で紹介されているとか。同橋は享保9年(1724)正月に焼失した。ちょっとややこしい歴史がある。

 今の元「新橋」は、江戸後期の架橋で長さ18m、幅7.8m。「江戸名所図会」(斉藤kyoubasi-sinbasi2.jpg幸雄の編・文/長谷川雪旦の画)の「新橋・汐留橋」の絵で当時の様子がわかる。同図会の文章を読む。「<新橋>大通り筋、出雲町と芝口一丁目との間に係る。正徳元年辛卯朝鮮人来聘の前、宝永七年庚寅此所に新に御門を御造営あろて、芝口御門と唱へ、橋の名も芝口橋と更られしが、享保九年正月廿九日の火災で焼亡するの後は、復舊の町屋となさたれり。此川筋の東木挽町七丁目と芝口新町の間に架せしを汐留ばしといふ」

 その新橋は京橋と同じく格式誇る擬宝珠の装飾付き。だが汐留川は昭和30年代後半に東京オリンピックに備えた道路整備で埋め立てられ、その上に首都高速道路が走った。今、新橋にモニュメントとして遺された親橋は、旧新橋の南東側に移築されていたが、傾いていたことかsinbasisiodome_1.jpgら平成2年に解体補修され、銀座8丁目にあった「銀座の柳」歌碑と共に現在地に整備設置された。

 さて新橋と云えば「新橋ステーション」だろう。新橋ガード下から昭和通りへ曲がると、道路向こうに「汐留シティセンター」「パナソニック」「電通ビル」などの超高層ビル群を背に明治・大正期風の「旧新橋停車場」が、ちょっと異なる感じで眼に飛び込んでくる。 

 本来の新橋停車場は、関東大震災で焼失。平成8年(1996 )に遺構を基に復元。駅舎(鉄道歴史展示場)、プラットホーム、0哩標識(終点軌道)などが再現。最近なにかと話題の電通ビルの裏は「浜離宮」で、汐留川がここで東京湾に繋がっている。さぁ、こんな予備知識を得た新橋に行ってみましょうか。

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②京橋の「アール・デコ風親柱」 [散歩日和]

ginnza1cyoumekouban.jpg 銀座線「京橋」下車で地上へ。銀座中央通りに出て銀座方向を見る。前方に京橋川を埋め立てて出来た首都高速道路が横切っている。その下が「京橋」。銀座に向かって右側の高速道路下にまず「江戸歌舞伎発祥之碑」。~寛永元年に中村勘三郎が猿若中村座を設けたこの地を、歌舞伎発祥の地として記念する~の説明文。その奥に「京橋大根河岸・青物市場」の碑もあった。

 さて高速下を渡った先に「銀座1丁目交番」。その屋根が「アール・デコ風の親柱」を模した建物になっていた。その横に擬宝珠を模した石の親柱、京橋史跡看板。「2基(北側に1基あり)の石の親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時の擬宝珠の形で、佐々木支陰の筆による「きようはし」と、片や「京橋」と彫られた2基が橋両側に設置されている」と説明。

 石およびコンクリート造の親柱は「大正11年(1922)の橋拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時の、照明設備を備えた近代的意匠の親柱をモニュメントとして設置している」の説明。その史跡案内板に載せられた大正期の京橋写真に、そのアール・デコ風の親柱がしかと写っていた。その親柱現物は、橋の反対側に、銀座レンガ街のガス灯碑と並んで立っていて、まさに新宿御苑隣接地kyoubasioyahasira1.jpgkyodenga.jpgと同じ親柱だった。

 京橋と云えば、小生にとっては「山東京伝」。弊ブログでは彼の『江戸生艶気蒲焼』の全文筆写・絵も複写で「くずし字」お勉強をしている。また2011年秋には、下町自転車散歩中、回向院に「山東京伝(岩瀬醒)」墓があるのを知って。やや興奮気味に掃苔レポート。また浅草寺境内の「京伝机塚」も紹介済。

 今回の京橋・親柱調べで、サイトや書籍によっては山東京伝は京橋生まれとの紹介例ありで、それは間違い故に訂正しておきたい。山東京伝は、深川で質屋の息子として生まれた。安永2年(1773)、13歳の時に父が京橋銀座1丁目(新両替町辺り)に転居して家主になった。京伝はその京橋時代に浮世絵を学び、絵師・北尾政寅になった。

 天明2年(1782)、22歳。戯作『御存商売物』で戯作者・山東京伝と著名。「江戸城の紅葉山の東」で山東、「京橋の岩瀬伝蔵」から「京伝」。彼のデビューを後押ししたのが牛込の大田南畝だった。30歳で吉原・扇屋の新造お菊と結taisyokyobasi.jpg婚。31歳、「寛政の改革」で「手鎖50日の刑」。その後に馬琴が弟子入り。33歳、京橋の木戸際(アール・デコ風親柱設置の場所辺り)に借家して紙煙草入れの店「京屋」を開店。絵師・戯作者・デザイナー・宣伝マン・自身ブランド店経営~のマルチクリエーターの活躍。その後にお菊没。

 35歳。父が支配地内の医師の売家(銀座1丁目3番地4.京橋から銀座方向へ7、8軒先の伊勢伊ビル辺り)を買って移転。「京伝店」はさらに大繁盛。40歳、吉原玉屋の23歳「玉の井」を落籍して結婚。文化13年(1816)56歳で没。(参考は小池藤五郎著『山東京伝』)

 また歌川広重の旧居も京橋と日本橋の間~、ブリジストン美術館改め「アーティゾン美術館」の京橋側隣kyobasioyabasira3.jpg接辺りで、目下は建設工事中(新TODAビル計画)辺りに旧居が在ったらしい。近辺には古美術店多数。広重当時からそんな特色を有していたのかしら。また日本橋から呉服橋方面へ行った所に竹久夢二の「店」跡史跡がある。

 以上で新宿御苑隣接地にあった「親柱」調べは終了。だが同隣接地には、もうひとつ立派な親柱があった。さて、どうしましょう。

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①新宿御苑で「京橋の親柱」を見た。京橋川とは? [散歩日和]

kiyosubasi_1_1.jpg 緊急事態宣言下の過日、新宿御苑内を散策と思ったが、宣言下中ずっと閉園。だが閉園ゆえに入口前の駐輪場隣接の柵外際に〝奇妙な石塔〟あるのに気付いた。

 藪から覗けば「きようはし」の文字。最初は「きよすはし=清洲橋」と思ったが、ややして「京橋川の京橋親柱」と気付いた。それが、何故ここに?。その隣接地は昔「みちの博物館」(詳細不明、国土交通省?)跡地で、その展示物だったものが放置されたまま~と推測した。 

 そこで急きょ「京橋川」をお勉強。京橋といえば、江戸時代から日本橋~京橋~銀座~新橋のメインストリート。「江戸切絵図」を見ると、これも埋め立てられている江戸城外濠の鍛冶橋(八重洲2丁目辺り)近くから分流して八丁掘へ抜ける開削運河。京橋川+八丁掘川が計740mで、そのうち京橋川は600mほど。架かるのが比丘尼橋~中之橋~京橋~三年橋~白魚橋(各別称あり)。江戸時代はこの運河沿いに薪炭、竹、青物、白魚などの河岸があって物流拠点になっていたらしい。

 「比丘尼橋」は長さ約12.6m。広重描く「名所江戸百景」に「びくにはし雪中」と「京橋竹かし」がある。「びくにはし雪中」の「山くじら」は猪肉を食べさせる「尾張屋」で、右の「〇やき」は芋の丸焼き屋。橋を渡るのは「おでん」か「煮売り屋」さん。「京橋竹かし」は京橋の擬宝珠が描かれ、下流の竹河岸風景。さらに下流に中之橋、白魚橋を望む。 

kyobasiezu_1.jpg 「比丘尼橋」は北側(東京駅側)に比丘尼(有髪僧形の娼婦)宿があっての名。「中之橋」は明治になって「紺屋橋」。今は「紺屋橋児童公園」で名が残る。その辺りは江戸期は「大根河岸」で野菜の荷揚げ場。後に青物市場が立った。「京橋」を飛ばして次が「三年橋」。その北側が「炭町」で別名「炭屋橋」。薪炭は当時の生活必需燃料。次の「白魚橋」は白魚漁師が幕府献上の納入準備をした屋敷があっての名。

 そして「京橋」。日本橋から東海道で京都へ向かう際に渡る橋で「京橋」。格式ある橋ゆえに橋の欄干に「擬宝珠」付き。日本橋~京橋の間、つまり「擬宝珠の間に生まれた」が江戸っ子のなかの江戸っ子とか。架kyoubasiukiyoe_1.jpg橋は日本橋と同時期で慶長8年(1603)頃。長さ約26m、幅は約7.8m。

 明治8年(1875)に石造りアーチ橋に架け替えで、その際に江戸時代の名残りで擬宝珠の形の石の親柱が、詩人・佐々木支陰の筆による「京橋」「きようはし」が彫られて立った。

 大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた際に、照明設備を備えた「石及びコンクリート造り親柱」を設置。その1基が新宿御苑の隣接地に置かれているとわかった。では新宿から京橋へ、今も遺る擬宝珠型の石の親柱らしい。予習はこの辺で、さてアール・デコ風親柱を観に行きましょうか。この項の参考は杉浦康著『消えた大江戸の革と橋』他。②へ続く。

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散歩の眼の祖は、松尾芭蕉~永井荷風か [散歩日和]

kafu&yumeji.jpg あたしにとって街散歩と云えば永井荷風だった。大正4年(1915)に『日和下駄』(一名東京散策記)を発表。いで立ちは日和下駄と蝙蝠傘。

 彼は子供時分から市中散歩が好きだった。今で云う中学時代は麹町永田町から神田錦町の私立英語学校まで徒歩通学。充分に遠いが荷風少年は、遠廻りして散歩を愉しんだ。家が再び小石川旧宅に戻ると、両国の水練場へ通い出し、下町や大川筋の光景に一方ならぬ興を覚えた。

 昔ながら(江戸)の名所古蹟が日々破却される時勢にあって、表通り裏へまわると、昔の面影を残した暮しがあって、自身の感情に調和する感慨、無常悲哀の寂しい詩興感を覚えた。同じく散歩好きの植草甚一に言わせれば、それは「スクエア」に対する「ヒップ」の眼だと解説する。荷風が江戸戯作者の身に落とし、隠居然の身ゆえの眼が今も人を惹きつける。膨大な日記『断腸亭日乗』もまた、荷風散歩日記でもある。

 裏町に入ると、新時代に取り残されて昔ながらの渡世をしている老人がいて、そんな家の娘の行く末へ想いを馳せる。横町から娘らが清元をさらう江戸音曲の哀調が聞こえる。王道人世から外れた人々の暮らしへの共感で、彼はさらに固陋偏狭な気分に浸って行く。玉ノ井の裏路地で一句「蚊ばしらのくづるゝかたや路地の口」「色町や真昼しづかに猫の恋」 荷風の句には擦過する絵が浮かんでくる。

 同書にはそんな荷風の眼で淫祠、樹、江戸切絵図、寺、水、路地、閑地、坂、夕陽の各章にわけて東京散歩が書かれている。昭和11年の『断腸亭日乗』に「写真機を携え亀戸へ」の記述が続き、翌12年には「名塩君来りカメラ撮影の方法を教へられる」があり、以後「帰宅後写真現像」の記述が繰り返される。yosiwara.jpg それは『墨東奇譚』完成の頃で、私家本には自身撮影の玉の井風景写真に俳句を添えたりしている。

 俳句と云えば松尾芭蕉を忘れてはいけないだろう。全身冴えたアンテナ感知で発句の機を狙っていた。出羽の山中の宿で心のシャッター「蚤虱馬の尿する枕もと」「むざんやな甲の下のきりぎりす」。一茶も同じで美女と擦過して「振向ばはや美女過る柳哉」。西行も同じだ。囲炉裏の残り火に心のシャッター「なべてなき黒き焔の苦しみは夜の思ひの報なるべし」。その眼や心は、路上スナップの写真家と変わらない。

 下町と云えば、目下セクハラ問題多発の荒木経惟(アラーキー)の生家は三ノ輪の下駄屋だった。同地には2千名余の吉原遊女が投げ込まれた「総霊塔」(写真下)があり、荷風はそこに文学碑を設けた。荷風散歩にならって、あたしも浅草~山谷堀を遡って~吉原~三ノ輪~浄閑寺を訪ねたことがあった。

 巨編『荷風と東京』を著わした川本三郎には十余の「街歩き」本がある。散歩書は無数~。彼らの眼と心は写真家と変わらず。「路上スナップ」はなにも特別なことでもなんでもない。

 挿絵上は小生調べで、当時の荷風カメラは昭和8年発売開始の二眼レフ「ローラコード」で、竹久夢二が最初の妻たまき~彦乃~そしてお葉さんの多数ヌード写真を撮った写真機は「パール・コダック」かなと推測したもの。

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「アレ・ブレ・ボケ」の写真家たち [散歩日和]

nakahirahon_1.jpg 街歩きをしつつカメラで〝ブレ・ボケ〟写真を撮って遊んでいたら、ソール・ライターとは別に、日本でも一時期にそんなムーブメントがあったことを知った。中平卓馬、多木浩二、高梨豊が写真同人誌「プロヴォーク」を創刊(3号で終刊)で、2号から森山大道が参加。その趣旨が「アレ・ブレ・ボケ」だったそうな。

 ★シンパサイザーとして吉岡剛造も参加。あたしはミニコミで吉岡剛造三×諏訪優に、下町散歩をしつつの対談をしていただいたことがある。★森山大道と中平卓馬は寺山修司を介して付き合うようになる。中平は雑誌「現代の眼」連載の寺山修二の初長編小説『あゝ荒野』の担当編集者だった。

 写真は古き良きリアリズム(土門拳など)の客観的に記録する写真の王道があるも、そんな〝確かな世界〟を捨ててみてはどうか~。むしろ「ブレたりボケたり」する方が、通常の人間の眼の生理を反映しているのではないか~と考えたとか。

 撮影者が街を彷徨しつつ擦れ違う世界を被写体として記憶(擦過:さっか)する際の、写真に刻まれるブレ・ボケの痕跡に、撮影者の手や身体の動きの流動的記録、すなわち撮影者の生々しい行為をも記録することになるのでは~。そう彼らは考えたらしい。

 中平卓馬は昭和13年(1938)、東京・原宿生まれ。東京外国語大学スペイン科卒。現代評論社・編集部を経て写真家になり、森山大道と共同事務所を開いた。彼の写真論は昭和46年(1971)「沖縄・松永事件」、昭和48年(1973)の映像論集『なぜ、植物図鑑か』、昭和52年(1977)〝なぜ篠山紀信か〟を論じた『決闘写真論』、そして彼の〝記憶喪失事件〟などが併せて論じられることが多いらしい。

 さて「プロヴォーク」を経た森山大道は、昭和51年(1976)、新宿にイメージショップ「CANP」を開設した。その流れから、新婚旅行の「ハメ撮り?」まで撮った「私写真」で一世を風靡した荒木経惟(目下セクハラ問題沸騰中)らが出て、そこから一連の「少女写真家」たちが「私」の主観的表現で台頭とか。

 あたしは写真家ではなく、単なる隠居街歩きの趣味写真の域。写真家らの世界に突っ込んで行く気もないが、またえらく饒舌・小難しい写真論は敬遠だ。だが実は「CANP」初期メンバー8人のうち、2人との付き合いがあった。

 昔のことはすでに「アレ・ブレ・ボケ」で、思い出すのもままならぬが、メンバーのなかの某1は、10代後半からの友人で、某2は有名写真賞を受賞後にちょっとだけ付き合ったことがあった。話が長くなったので話の続きは次回へ。写真は河出書房新社、平成21年(2009)刊『中平卓馬』。

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時代遅れの「Slow Chutter」 [散歩日和]

sumahobakari_1.jpg 過日、新宿西口を歩いていたら、ヨドバシカメラ一帯のほぼ全員が、立ちスマ中の異様な光景に出逢った。電車の中での多数スマホ光景は珍しくないが、この光景にはちょっと驚いた。

 皆、スマホで何をしているのだろうか? 小生のスマホは、ほぼ「時計・歩数計」化している。時に写真も撮りメールも電話もし地図も見るが、それはちょっと〝事件ですよ〟の時かな。

 SNSにも興味がない。最近は音声中心の「Clubhouse」や「Podcas」が話題らしく、ちょっと無理して「jazz」を選択してみたが、やはり歩きスマホで音楽は聴きたくなかった。

 小生にとってスマホは〝宝の持ち腐れ〟で、完全に「時代遅れ」と言わざるを得ない。♪~マイクが来たら微笑んで 十八番を一つ歌うだけ~ 時代遅れの男になりたい~。あたしはカラオケもしないから歌『時代遅れ』より、さらに時代遅れになっているらしい。

sumaho1_1.jpg 目下、一眼レフにNDフィルター装着レンズで、街のブレ・スナップ写真に嵌っているが、その延長でiPhoneのカメラ機能をもっと使い込んで、時代に追いついてみようと、少し頑張ってみた。

 撮った後で画面を上にスワイプして「長時間露光」するやり方は覚えたので、今度は「Slow  Shutter Cam」アプリを取り込んで、イヤホンまたは本体のボリュームボタンでシャッターを切る。

 未だ設定・操作要領を完全に覚えていないが、試みたらこんな二重露出っぽいブレ写真が撮れて「時代遅れのSlow  Chutter」相成候。

 このアプリを使い込めば、カメラ機能だけは〝時代遅れから脱着〟と思ったが、結論はやはり機能・機敏さ・バッテリー面など「一眼レフには叶わないだろうなぁ」だった。だがこのアプリは、長時間露出を極力抑えた設定で「スマホ操作中」を装って、イヤホンでシャッターを切る~は、なんだか「隠し撮り」向きのような気がしないでもない。

 よし「これで緊急事態宣言下の代議士らの風俗店通い、官僚らの接待現場などの〝隠し撮り〟に挑戦してみよう」と思った。

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街のスナップ写真とウォーキング [散歩日和]

ndseries1_1.jpg 目下、別サイトでウォーキングしつつ撮った長露光スナップ(ブレ)写真を1日おきにアップしている。ウォーキングは、さて「どこへ歩きましょうか」の〝ちょい目標〟が欲しいが、最近はその〝ちょい目標〟もマンネリ、定まらぬ。

 そこで今は目的地定めず「28㎜+ND16(減光フィルター)」と「18~200㎜+ND8」で、長露光=ブレたスナップ写真を愉しみつつ歩き出している。調子がいいと、新宿界隈8千歩ほどで10枚ほどシャッターが切れたりする。

 そもそもブログは「文章+口絵写真」セットと思っているから、今までは「風景・動植物・建物・雲・自分の絵」だったりしたが〝人物が対象〟になることもある。だが人が写り込むと、やれ「肖像権侵害・個人情報」などややこしく、そんな時の常套手段が「モザイク処理」になる。でもモザイクより「ブレ写真」の方が断然面白いと気が付いた。

 最初はポケデジのレンズ前に「レイバンのサングラス」で覆っていたが(iPhonにも「Slow Shutter Com」なるアプリがあり、スマホに装着するNDフィルターもあるらしい)、今は〝ちゃんと〟1眼レフの広角レンズにNDフィルター装着でブレ写真を撮り出している。「1/10秒・ISO100・Fは成行き」から、次第に試行錯誤~。

 被写体はブレても背景はジャスピンがいい、逆に被写体を流し撮りでピンを合せて背景をブラすのもいい、ISO感度上げF(絞り)も上げて被写体深度を深くしてファインダー覗かかずにシャッターを切ってみる。カメラをしっかりホールドする。いや手ブレもワザのうち~と試みている。

 こんな遊びはプロカメラマンはやらんから〝隠居趣味ならではの愉しみ〟なのだろう(プロの世界でも「アレとブレとボケ」を信条とする派もいるそうな。あぁ、そう言えば森山大道のイメージショップ「CAMP」参加のカメラマン二人を知っていた。一人は20歳の頃の友人で、一人は後に大きな賞を受賞した)。だが、歩けば撮れるってぇもんじゃない〝妙〟もある。新宿界隈8千歩ウォークで10枚ほどシャッターを切る日もあれば、1万歩も歩けど1度もシャッターを切れぬ日もある。多分こちらの眼・気持ちの問題。アンテナがシャープじゃないと撮る機会も発見できない。

 先日はボツにした車のブレ写真を観ていて「よし、これを狙ってみよう」。車の形骸が溶けて「色構成の抽象画」のような写真が撮れた。題して「街に出でアブストラクト朧かな」で2点をアップした。

 街歩く女装オジサンの後姿を撮って「温暖化街も泳ぐや熱帯魚♂」。緊急事態宣言ながら夜の歌舞伎町の熱気を撮って「為政者へ信頼失せて午後8時」。商店街の風に揺れる日章旗を撮って「行く春のスカスカと舞ふ軽き国」。流れる車の合間に見た動かぬカップルを撮って「ねぇ、私達いつまでここに居るの?」。ファインダー観ずに擦れ違いに撮った「ねぇ、おんぶ、甘えたくなる春疾風」。ファッションを決めて歩く女子の後姿を撮って「春一番街は颯爽ランウェイ」など。そんなウォーキング+ブレ写真は「こちら」にアップ。

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鬼王神社~新宿コロナを救い給え [散歩日和]

kioujinjya1_1.jpg 「軍艦マンション」の道路反対側に「稲荷鬼王神社」あり。永井荷風『日和下駄』に「淫祠」項あり。「淫祠」注解に「神道で認められていない神を祀った社や祠」とあり、本文に「淫祠は大抵その縁起と、またその効験のあまりに荒唐無稽なことから、何となく滑稽の趣を伴わすものである」「理屈にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しいところに、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のするところがある」と記し、同神社を「湿瘡(しつ)のお礼に豆腐をあげる」と記していた。

 今は湿瘡ならぬ、歌舞伎町のコロナ感染が収束せず。それを笑うか「ホストクラブ」と思しき大型宣伝カーが走り、都知事選の小さな宣伝カーが走り回っている。さて「稲荷鬼王神社」について。説明は諸々あるも、ここは「新宿観光振興会」サイトを参考にする。

kioumizubati3_1.jpg ~承応2年(1653)に戸塚の諏訪神社境内の「福瑳稲荷」を勧請。天保3年(1832)の当地百姓が熊野から勧請の「鬼王権現」を合祀して「稲荷鬼王神社」。江戸時代から豆腐を備えれば、湿疹・腫物に特効ありとか~の説明。

 「由比正雪の乱」から「承応の変」。その翌年が承応2年。武断政治と浪人らの不満が渦巻いた時代に、諏訪神社から「福瑳稲荷」を勧請。同稲荷の詳細がわからない。諏訪神社は我が家辺りも氏子地域内。「鬼王神社」辺りも地域を広げていたのだろうか。

 「天保3年に百姓が熊野より〝鬼王権現〟を勧請」もよくわからない。天保年間は伊勢参り、熊野参りが盛んも百姓が勧請できるものなのだろうか。平将門の幼名「鬼王丸」がらみ説もある。まぁ、よくわからないのが淫祠・小祠なのだろう。

kieiezukio.jpg 写真中が門前の「邪鬼頭上の水鉢」。これは新宿区指定文化財。教育員会の看板説明は~ 文政年間の頃の制作。うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式。水鉢左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる〝伝説〟を記した石碑があって~この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜、刀で切りつけた。その御家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている」。鬼王権現が勧請された翌年のことらしい。

 写真下は「江戸切絵図」。「花園神社」の右上に「稲荷鬼王社」。隣に別当「大乗院」。職安通りは昔「大久保新田通り」。その先に「長光寺」(島崎藤村の三人の子らが葬られた)がある。現・大久保通りには今もある「全龍寺」があり、その手前の「鬼王社」も気になる。各寺院に新宿コロナ感染が収束しますようにお祈りしたくなってきた。

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新宿から『海行かば』 [散歩日和]

umiyukaba3_1.jpg 新宿「職安通り」(歌舞伎町裏)に通称「軍艦マンション」あり。1970年竣工。昔はホステスさんが多数入居も、今は「シェアハウス+soho」で若い方々が入居とか。

 過日、「軍艦~」と流れる雲を見て、何気なく「雲行かば~」と呟いた後で、その歌をよく知らないことに気が付いた。奈良時代の大伴家持(万葉集の編纂者)の歌。それを千年余も後の昭和12年(1937)に信時潔作曲で代表的軍歌になった。

 「海行かば水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば草生(む)し屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ~」(天皇のお側で死ねるなら海で死ぬも、野で死ぬも後悔しません)

 「天皇陛下バンザイ」と死んで行く帝国思想・戦意高揚に利用されたらしい。「YouTube」で同曲歌唱を聴いたが、やはりよくは知らぬ歌だった。では「何故に曲題を知っていたか」。きっと多くの戦争映画によってかなぁと思った。

daibutu2_1.jpg 大伴家持の歌は、東大寺大仏がらみ。政治中枢にいた藤原4兄弟が「天然痘」で相次いで死んだ。荒廃する世に、聖武天皇が救いを仏教に求め、東大寺大仏建立を思い立った。だが大仏に塗る金不足。そこに「奥州で金発見」の報。天皇は古より近衛兵的な存在なれど、今は地方(富山)に飛ばされていた?越後守・大伴家持に改めて天皇への忠誠を求めた。それに感激した大伴が作った長編詩の一節が「海行かば~」。

 そう知れば、おぉ、その450年後の西行晩年の陸奥への旅も、東大寺大仏がらみだったじゃないかと思った。興福寺・東大寺の衆徒が反平氏で蜂起し、平軍勢が火を放って両寺焼失(治承4年・1180)。その再興を後白河法皇~重源上人~そして69歳西行が大仏塗金の金寄進を陸奥へ依頼すべく旅立った。平泉からの砂金勧請は1回分(砂金450両)が京へ届くも、義経平泉入りによって頼朝に阻まれた。

 目下、新宿はコロナ収束ならず増加中。歌舞伎町近くに在住する身にはサバイバル的日々です。そんな中で「軍艦マンション」~「海行かば」~奈良時代の「疱瘡流行」~大伴家持~東大寺大仏~西行へ想いを馳せたひと時でした。

 写真上は「軍艦マンションと雲」。写真下は「小倉百人一首(菱川師宣画)」の中納言家持(国会図書館デジタルコレクションより)と小生画の西行似顔絵。昨日の東京都コロナ感染者55人。

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波乱万丈もう一人~物集高量を掃苔 [散歩日和]

mozukenohaka_1.jpg 雑司ヶ谷墓地の島村抱月掃苔途中で「あれっ」と思って撮ったのが「物集家之墓」。あの物集高量氏(1879~1985)のお墓だろうか。墓石裏に「高量 昭和六十年十月二十五日 百六才」と刻まれていた。間違いない。確か百歳前後に雑誌やテレビに多数露出。書物の山に囲まれた白髪の百歳翁の写真も有名な国文学者。

 弊ブログ1月の「気になる方々の書斎」で、「話の特集」元編集長・矢崎泰久氏(現86歳)を紹介した。~妻子から離れて都心マンションで一人暮らし。『介護ポストセブン』に昨年まで「一人暮らし。ああ、快適なり」連載。氏の父の義兄が物集高量氏。自身の新婚生活が物集氏と同居で、新聞記者で外泊続きの間に、新妻が88歳・物集翁に手籠めにされたと告白していた(ホントかいなぁ~)。物集氏がそうならば矢崎氏も「好色のすすめ」「エロティズム礼賛」などを書いている~と記したばかり。

 物集氏の父・高見氏は文献百科事典『群青索引』(3巻)と『廣文庫』(索引の原文収録全20巻)を編纂。氏の長男・高量氏は左足不自由で、いじめ対策で仲間を集めて回覧雑誌発行で小説を書き始めた。稚児趣味の少年グループ同士の乱闘事件で補導される。

 以来、心中未遂を起こすなどして小説を書き続け、1906年の朝日新聞第1回懸賞小説で賞金50円(今の1千万円)。賞金は父の編纂事業に使われた。文献を実際に買っての原文収録ゆえ、金は幾らあっても足らない。懸賞小説が縁で大阪朝日新聞に入社で夏目漱石など担当も1年で退社。

 出版社を設立して失敗。馬賊らと交際。1908年に見合い結婚。「かわらけ」で齟齬が生じて妻に逃げられた。スリに弟子入りも足が不自由で断られて博打・女遊び・稚児遊び。1912年に博文社入社。物集家の侍女・八重と結婚。博打狂いは相変わらずで借金膨大。

 1912年(明治45年・大正元年)頃ながら「かわらけ」「侍女」なる言葉に驚いた。1915年、父が倒れ、父の編纂事業に協力し前述の全23巻を刊。花札賭博で留置場へ。1939年、多額借金で差し押さえ。1950年の多摩川遊泳客休憩場の経営失敗。妻の弟・矢崎寧之(泰久の父)の板橋の家に転居。泰久の新婚妻を手籠めにしたのがこの頃だろう。

 1974年に名著普及会が前述23巻を復刊で、生活保護打ち切り。1979年に『百歳は折り返し点』刊。3年後に『百三歳。本日も晴天なり』刊。再晩年は老人施設に入って死ぬ前日まで介護婦の尻を触って怒られていたとか。106歳で没。都内最長命で都知事が弔辞を読んだ。初期写真家ボナールに続いて、大変な人生を歩まれた物集氏の紹介でした。

 以上「ウィキペディア」他を参考だが、それは『百歳は~』の巻末年譜を参考と思われる。『百三歳~』も探したが都中央図書館の他になし。渋谷区本町図書館に『百三歳~』と『百歳の青年二人、大いに語る』が貸出可。なお高量氏の妹・物集和子(藤浪和子)は名著『東京掃苔録』を刊。これは四谷図書館(館内閲覧)にあり。コロナ収束後にあちこちの図書館へ行ってみようと思っています。

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「狛蛇」の金運と健康 [散歩日和]

benzaiten_1.jpg komahebi_1.jpg「河田町ガーデン」と「東京女子医大」の裏の境界辺りの階段下に、小さな鳥居「金弁財天」があった。

 ムムッ、金網の中に「狛犬ならぬ狛ウンコ」。よく見るととぐろを巻いた蛇で驚いた。これは一体何だ!

 多数サイトで紹介されていた。「金弁財天(こんべんざいてん)」で「狛蛇」。この洞は元・松平白耆守(ほうきのかみ)の屋敷内にあったもので、東京女子医大の創始者・吉岡彌生さん他が尽力し、現在の地に再建とか。右の蛇は時計回り、左の蛇は左まわりのとぐろ。蛇は穀物を食う鼠を退治することから豊穣、金運をもたらすとか。

yayoisan_1.jpg この「狛蛇」は「宇賀神=人頭蛇身」に通じるのだろう。蛇の頭部が女性だったり、翁だったりする宇賀神が全国で祀られているらしい。

 一方「蛇」はギリシャ神話の医神「アスクレピオス」が持つ「蛇杖」から健康、長寿、不老の象徴。今注目のWHO(世界保健機構)のマークも中央に蛇が絡む杖がデザインされている。

 そんなことから女医の創始・吉岡彌生が、同神社再建に尽力したと推測される。東京女子医大の前身「東京女医学校・東京女子医学専門学校」が麹町飯田町から現在地に移転して来たのが明治36年(1903)。昭和5年〈1930)に1号館を建築。

 小生の息子が子供時代に盲腸で入院したのが、その古色蒼然な1号館だったが、今はモダンな新建築「彌生記念教育棟」となり、その角の案内板に「吉岡彌生」先生が写真入りで紹介されていた。今、全世界が「健康と金の危機」にある。「狛蛇」に守っていただきましょう。


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フジテレビ移転後の「河田町ガーデン」 [散歩日和]

kawadacyo1_1.jpg cx_1.jpg新宿で「バスタ新宿」の他に景色一変は「元フジテレビ跡~河田町ガーデン」だろう。変貌する様は遠くから眺めてきたが、改めて周囲を歩いて認識を新たにした。

 フジテレビが有楽町から河田町へ来たのは昭和37年(1962)。河田町時代が35年間で、台場移転が平成9年(1997)。河田町時代が全盛期で、台場へ移転すると『フジテレビはなぜ凋落したのか』『フジテレビ凋落の全内幕』が平成28年(2016)に相次いで出版された。

 小生は目ン玉マークのレコード会社の仕事が長かった。最初は浜松町・貿易センタービルで、市ヶ谷へ移転。同社も市ヶ谷時代が全盛期で、平成6年(1994)に中央区入船へ、4年後に港区虎ノ門へ移転。今は六本木でロゴマークも変更。テレビ局と同じく移転の度に低迷していった。音楽事業はまさに〝生き物〟。時流に乗れば多くのアーティストが寄って来て、勢いを失えば一気に去って行った。

 ちなみにフジテレビの「夜のヒットスタジオ」は昭和43~平成2年(1968~1990)。「オレたちひょうきん族」は昭和56~平成元年(1981~1989)、「おにゃん子クラブ」は昭和60~62年(1985~1987)。現在のフジサンケイグループは「都市開発・観光事業」が利益の半分を占めているらしい。

 フジテレビが河田町にあった頃は、自宅から徒歩圏内。歌手の取材を同局喫茶kawadacyo2_1.jpg店で、音楽番組のスタジオでの取材、またスタッフに「フジテレビ通り」の呑み屋に呼び出され、新宿三丁目の馴染スナックには同局下請け制作陣も多かった。目ン玉マーク・レコード会社の市ヶ谷時代は、小生も市ヶ谷に事務所を構えていた。

 現在のフジテレビ跡はUR賃貸住宅「河田町ガーデン」。41Fが1棟、17Fが1棟、8Fが2棟の計4棟。全816戸。41F棟の31~41Fは「東急ビューレジデンス」。1Kが18万円~2LDKが40~48万円程らしい。

 昔の「フジテレビ下通り」は「あけぼのばし通り」。その奥・女子医大裏辺りにはハングル文字の店が多く、韓国語が飛び交っていた。これは近くの「東京韓国学校」の影響だろうか。

 写真上は高層棟の「河田町ガーデン」。写真下は「あけぼのばし通り」から「河田町ガーデン」への階段風景。「念仏坂」は昔と変わらずあって、その角に「フジテレビ石標」が残っていた。

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バスタ4:その全貌把握 [散歩日和]

bustmeisyo.jpg バスタ1~3は、新宿南口から入っての見学記。それでは建物構造が把握し難く、南側の架橋「イーストデッキ」から「バスタ新宿~NEWoMan~JR新宿ミライナタワー」全貌を撮って、そこに矢印・文字挿入で説明してみた。(クリック拡大で文字がハッキリします)

 なお、5月に入ってからコロナ感染を知りながら「バスタ新宿」を往復利用した大馬鹿者がいたことが判明した。「Stay Home」しましょ。(バスタ、これにて完)

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バスタ3:電車見学の親子がいて~ [散歩日和]

basuta2_1.jpg 未知の建物探検は、ちょっと胸ときめく。「バスターミナル」階の南側通路から階下を見ると、その細長い広場に電車見学の親子がいた。その微笑ましい光景を俯瞰で撮らせていただいた。

 母子の階下は、ちょっと広いウッドデッキ風広場が造成?中(今頃は完成しているかも知れない)。

 そしてバスタ再訪。最初は南側通路を西(サザンクロス)へ向かったが、その時に東側通路でカメラマンがモデル撮影中だったことを思い出して、東へ進んでみた。

 おや、何ということでしょう、植栽の小広場から6階屋上の「芝生広場」へ、7階の「屋上庭園」への階段が続いていた。

 「芝生広場」(写真下の右)は庭作業中で入れなかったが、この芝生で寝転んだら気持ちが良さそう。さらに7階への階段途中から眼下を見ればバスターミナル場、視線を上げれば新宿西口の高層ビル群。左に眼を転じれば「タカシマヤタイムズスクエア」裏側(写真下左)は、ちょっと外国の街っぽくて、ここでのモデル撮影も納得です。

 また各階テラス片隅には、知っている方だけがこっそり楽しんでいる「秘密の静寂テラス」風でランチの方、スマホに見入る方、昼寝のbustur3_1.jpg方~それぞれが寛いでいた。

 東京生まれ・育ちの小生には、帰省で長距離バスに乗る機会もなく「バスタ新宿」にお世話になることもないが、新宿高島屋の「東急ハンズやニトリ」での買物疲れの小休憩に丁度いいようでございます。(バスタ4へ続く)




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バスタ2:旅立つ女 [散歩日和]

 エスカレーターで4F「バスターミナル」へ。その南側に通路あり。西奥のベンチで、バス出発前に弁当を掻き込んでいる女性がいた。そこから階下の小広場へ。両脚の間に大きな旅行鞄、スマホに見入る思案顔の女性がいた。故郷へ帰るのだろうか。ちょっといい写真だが、ここはモザイクです。

追記:5月4日、コロナ感染がわかっていながら「バスタ新宿」を利用した大馬鹿女が現れた。写真はずっと以前に撮ったもので無関係ですが、同世代風の女性だったので、誤解されたくのないので削除しました。コロナ終息後に再アップしましょうか~)

 その南側通路からの展望が写真下。眼下にJR新宿駅全線。先方に線路を跨ぐ「イーストデッキ」。正面に代々木ドコモタワー、左がタカシマヤタイムズスクエア。右に小田急ホテルセンチュリータワー、JR東日本本社など。

 後日、再び同ビルを訪ねると〝旅立つ女〟がいた小広場は、右へ行くと「サザンテラス」につながっていて、左へ行けば階段下が高島屋JR側広場・NEWoMan出入り口につながっていることがわかった。

bust3_1.jpg その小広場より1段下の架橋部が大きなテラスデッキ風広場に作業中。ちょっといい感じの広場になりそう。そこから振り向き見上げれば「バスタ新宿」は隣の7階建て「NEWoMan」、さらに直結「JR新宿ミライナタワー」(地下2階、地上32F)につながっているとわかった。次回訪問で探検してみましょう。

 同夜、かかぁが「おまいさん、昔の〝演歌の花道〟だよぅ」。観れば若い森進一が<スーツケースに腰をおろして(略)小雨色したバスターミナル(略)夢さ~幻さ~摩天楼に灯がともる~>と唄っていた。松本隆作詞/細野晴臣作曲/細野・坂本龍一編曲『紐育物語』。(バスタ3へ続く) 

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バスタ1:走る女 [散歩日和]

hasirumosaic.jpg 「Stay home」。PC保存写真からブログアップです。小生は新宿暮しも、新宿を熟知とは参らぬ。西口高層ビル群のオフィスで働いたこともなく、新宿駅南口に4年前(2016)開業の「バスタ新宿」へも行ったことがない。

 過日、南口正面の横断歩道を渡り、思い切って正面の「バスタ新宿」エスカレーターを昇ってみた。そこは3F「タクシー乗り場」。窓ガラス越しに「新宿ルミネ2」側を見ると、手描き文字「TODAY'S SPECIAL」の前を、水色の傘の女性が走っていた。(写真上)

 (モザイクを施したが、後でスローシャッターならば画像が流れてモザイクの必要もなし~と気付き、スローシャッターの裏技を発見したが、その紹介はいずれまた~)

todays9_1.jpg さて「ルミネ2」壁面の手描き文字は「インテリア・生活雑貨」店のロゴマークで〝本日のおすすめ〟の意だろうか。

 屋内窓ガラス越しだから、雨や強風時にソコを通る人々を撮ったら、相当に面白い写真が撮れそうだが、そんな日に外出する気にもなれず。後日、天気の良い日に甲州街道を渡った側から「TODAY'S SPECIAL」ロゴを全部入れて、その前を歩く人を撮ってみた。(写真下)

 次に上階「バスターミナル」へ。今はコロナ緊急事態宣言で閑散としているだろうが、あたしが行った時は、まだ「旅立ち」のシーンがあって~(バスタ2へ続く)

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撮る人を撮る [散歩日和]

tousatu2_1.jpg 「Stay home」も、PCに多数写真が保存ゆえ、そこからブログアップです。

 昨今は「インスタ」等の写真投稿アプリ人気の影響でしょう、「街スナップ」の方を多く見かけます。スマホ撮影、スマホに物足らずにミラーレス一眼レフを首に下げた方も多いようです。

 かく「街撮り」が盛んですから、小生も気兼ねなく「街撮り」が出来ます。そして「写真撮り熱中の方々を撮る」のも面白いです。そんなスナップからお気に入り2点を紹介。

 写真上は、柵からカメラ構えた手が飛び出ていました。何を撮っているのでしょうか。女性でしたが、小生と同じ自転車用の赤い手袋とコンデジ。うまく撮れましたでしょうか。

 写真下は、地低く小さな花(ハナニラ? 明治に帰化した園芸植物でニラと同じ匂いがする)を撮っているご婦人のスナップ。地に沿うhananirasyusei.jpg小さな草花は、しゃがみ込まないと上手く撮れません。彼女に代わって詠めは「しゃがみ込みカメラ構えてニラの風」ってところでしょうか。

 あたしも昔、跪いて「イヌノフグリ」を撮ったことがあって、こう詠みました。「跪き崇め撮らすやイヌフグリ」。正しくは外来種「オオイヌノフグリ」で、数ミリの小さな花のイヌノフグリは、在来種で絶滅危惧種。滅多にお目にかかれないそうです。別に〝犬の金玉〟に似ているとも思わぬが、変な名を付けたものです。ウチのベランダには伊豆大島の明日葉が植えられていますが、これも別名「チンダチ草」。

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花園神社~新宿三丁目の長い地下道 [散歩日和]

mosaic9.jpg 自宅から新宿伊勢丹へはフツー?だと、明治通り沿いに歩き「花園神社~靖国通り横断~伊勢丹角の「新宿三丁目」へと歩く。

 だがフツーの人とは違って、ソコに特別な利便性を感じているらしき少数が、「花園神社」北側の地下道(E1口、写真下)から新宿三丁目まで約350mほどの長い地下道を歩いている。

 小生、この地下道を〝戯れ〟に歩いてみる度に「この地下道の目的は何なのだろう」と考えてしまう。同出入り口に「東京メトロ・都営地下鉄」マークあり。東京メトロ副都心線開通時(平成20年:2008)に出来た地下道なのかしら?

 出入り口際に「新宿区役所・第二分庁・その分館」(平成16年・2004完成)があり、そのために巨費・大工事を費やしてわざわざ開通?「そんなバカなぁ~」と思う。

3cyoumeguti_1.jpg この「花園神社」北側の地下道を、さらに北へ350mほど伸ばせば大江戸線「東新宿」(職安通り角)に至る。そこから大久保通り角の副都心線「東新宿」は地下道直結で、そうすれば「我家~新宿伊勢丹」が地下道でつながるのだが~。

 この長~い地下道は、やはり何だか〝いわくありげ〟。ひょっとすると地下道併設で「極秘施設」があるかも~。そう思ったりすると、ちょっとワクワクする。まぁ無駄な地下道も「いいかぁ~」です。今回はそんな「長~い不思議な地下道」があるというだけのオハナシ~。

 写真の人物3人にモザイクを施した。最近覚えた「モザイク処理法」を次回にメモする。

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コロナにて華やぎもなし花筏 [散歩日和]

hanaikada1_1.jpg 昔、神田川沿いのマンションに住んでいたことがある。米国の高校卒で帰国した息子のホームスティ先が、彼が可愛がっていた「アメリカンコッカースパニエル」を送ってきた。突然の犬との暮らし。当初は戸惑ったが、犬との暮らしが愉しくなった。

 日々の犬の散歩が神田川沿いだった。今年の神田川の桜は、コロナで華やぐこともなく散り流れた。時に龍にも蛸にも形を変えつつ流れて行った。

 医療は必死に崩壊を食い止めようと頑張っている。一方、内閣は腐り流されているような~。「八っつあん、あたしたちも負けるわけにはいかねぇな」「あぁ、庶民には庶民なりに、どんな時代も生き抜いて来た。頑張りましょ」

追記> 星野源『うちで踊ろう』にコラボした動画が話題だが、安倍首相が自宅で寛ぐ姿を併画アップで、それをニュース映像で見た。「あぁこの方、頭、狂われた」と思った。昔、鳩山由紀夫が余りの現実認識なしで「宇宙人」と言われたが、この方も同類と再認識。現実認識がズレている〝お坊ちゃん〟が政治をやってはいけません。テレビ「サンデーモーニング」で佐高信が「この人が政治をやっていることが緊急事態宣言」なんです、と言っていた。 

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大久保がアベノマスクに大笑ひ [散歩日和]

mask_1.jpg 緊急事態宣言で〝散歩はよし〟とか。そこで昨日、大久保通りを抜けて新宿西口を歩いた。

 小生、数日前の散歩途中の店でマスクを買ったばかりだが、その大久保通りに「マスクが溢れて」いて(あちこちで店頭販売)、まぁ驚いた。街中が「アベノマスク2枚」(466億円)を笑っているようだった。

 最近は彼に施策を囁いているのは元・内調室長のK氏(現・国家安全保障局長)に代わって、I氏(秘書官。共に妻系の遠い姻戚)らしい。そんなことはネット時代ゆえ、誰もが簡単に知ることが出来る。その施策も国民のためではなく、自身の人気回復主眼で、しかも裏目続きだと云うことも~。(4月23日追記:アベノマスクは「カビノマスク」になり、小泉今日子は「嘘や狡さの汚らしさを具現化」とツイートしたとか。文春はマスク発案者は、今井首相秘書官が引き上げた佐伯耕三首相秘書官=通称・官邸の金正恩だと報じていた)

 目下はそんな彼と、知事選を控えた彼女のバトル。まぁ、勝手にお騒ぎよ。テレビもコロナ・コロナではしゃいで見飽きてしまった。彼や彼女、マスコミにも頼らずに、ここはそれぞれが頑張って乗り切る他にありません。

 さて、散歩帰りの途中で新宿・常円寺の「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)」の狂歌碑に気が付いた。「三度たく米さえこはしやはらかし おもふままにはならぬ世の中」(三度炊く米さえ強し柔らし)。彼は幕臣だが、一強体制では何もできぬ悲哀を詠っていた。

 そこから~、なんと便々館校閲で北斎(45歳)の画『絵本狂歌山満多山』(文化元年・1804の蔦重刊)が国会図書館デジタルコレクションにあるのを見つけた。これは「アベノマスク2枚」より、断然うれしかった。

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人はジャスピンばかりでなく~ [散歩日和]

8no1byo_1.jpg 今回はピンボケ写真。夕方の「新宿・花園神社の夜桜」。ピンボケ(SS:1/8)ゆえ「削除」と思ったが、途中で指が止まった。なんとなく捨て難い。

 「夜桜=おぼろ(朧)」がお似合いじゃないかと。そう思うと、改めて人は〝ジャスピン〟では生きていないと気が付いた。

 あたしは小学生から眼鏡人生で、老いては白内障の手術もした。ピンボケ視界は、なにも特別なことではない。「商品写真」を撮っているわけでもなく、むしろ「ピンボケの方が断然〝人間らしい〟」。下の写真は「池に映り込んだボケ写真」。

 世の中には〝不明確な曖昧さ〟が満ち、自分も「まぁ、いいかぁ~」で生きて、そして、きっと「まぁ、いいかぁ~」と思いつつ死んで行くのだろう。

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「黄花と傘」を撮って~ [散歩日和]

katabami1_1.jpg ソール・ライターは「傘の写真が多い」と指摘されてひと言「私は傘が大好きなんだ」と言ったとか。彼の代表的な傘写真は『足跡』で、雪の足跡と赤い傘の女性が俯瞰で撮られている。

 今はビニール傘ばかりで、カラフルな傘には滅多にお目にかかれない。そこで『足跡』と同じ俯瞰で『黄花と傘』を撮った。黄色の花は「カタバミ」で、春風にスカートも揺れて、ちょっと春っぽい写真が撮れた。

 「カタバミ」を知っているのは、亡き愛犬の散歩をしつつ「春の野草調べ」をしたことがあってのこと。この花を「オッタチカタバミ」と思っていたが、今回調べ直すと「オオキバナカタバミ(大黄花片喰)」で、同種の葉には小さな黒っぽい点々があるらしい。

kasa3_1.jpg 翌日「カタバミ」は雪に覆われていた。季節は冬に逆戻りで、雪の中でオレンジ色の傘をさしたお婆さんが、何を待つやら長いこと佇んでいた。

 翌々日、カタバミの葉を調べに行こうとしたら、テレビが「国立医療センターで志村けんさんの死」を報じていた。同建物を見上げる3月25日のテレビカメラをブログで紹介していたが、悲しい結果になった。

 「カタバミ」には、やはり黒い点々があって帰化植物「大黄花片喰」だった。今年は厳しい春です。

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大久保の路地で見た背中2題 [散歩日和]

applemaps_1.jpg 尻の次は背中です。新宿区大久保の路地散歩でこんな人物に遭遇した。 「Googleストリートビュー」の歩行データ収集と思ったが、背中のバッグに「Apple Maps」の文字。調べるとAppleの「Look Around」の人力データ収集らしい。

 昔の話で恐縮だが「昭和8年に大久保字百人町3丁目生まれの江藤淳」は、後年に生家跡を訪ね「温泉マークの連れ込み宿と、色つき下着を窓に干した女給アパートがぎっしり立ち並んだ猥雑な風景」に逃げ出し「私には戻る〝故郷〟はなかった」と記した(大久保在住者には失礼な記述だな)。そんな路地まで「データ収集」するとは~恐れ入谷の鬼子母神。

 さらに先の路地を歩くと、今度はインバウンドの若いカップルがホテル探しで、辿り着いた先が余りに小さなホテルで、納得出来ぬ呈でスマホで確認の様子。うむ、そうした為にも、路地の詳細データが必要なのかしら。だが「ストリートビュー」で自身マンションを見れば、いい気分はせずプライバシ―侵略云々も頷ける。

 ちなみに新大久保駅地区の全住民の在留外国人率は40%前後とか(東洋inboundsumi.jpg大社会学紀要53巻2号)。当地の江戸・明治・大正・昭和の歴史調べもした小生だが、にわかにコリアンタウン~多国籍タウンになった現・大久保の実態、明日が皆目わからない。

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美尻から人類危機へ思考も乱れ~ [散歩日和]

hip_1.jpg 美尻ブーム。「美尻」検索で多数画像がヒットする。小生、かつて伊豆大島の温泉で同年輩の尻を見て、下の絵を添えてこう詠んだ。「削げた尻湯烟に見ての吾然り」。

 過日、前を歩く方の尻の服シワが、歩く度に左右にダイナミックに躍動する姿に圧倒・魅了されて、つい撮ってしまった。人様の尻を撮るなんぞいけません~と己を戒めて様々に修正しての写真アップです。

 街中での望遠撮影には「盗撮」がつきまとう。小生はツバメ観察中に、巣立った子らの電線集合を撮影中に、オバさんに「盗撮者め」と怒鳴られたことを記した。

 ちなみに今年のツバメ小生初認は3月22日だった。2009年からの小生記録によれば初認はずっと4月で、昨年が3月27日。それより5日も早かった。「温暖化」が進行しているのだろうか。

 そう記せば、数日前に「グレタさん、新型コロナウイルス感染の可能性で自主隔離」の報。またテレビが、気候変動の影響で次々に新たなウイルス(ジカウイルス=ジカ熱、ニパウイルス=オオコウモリ、モリウイルス=永久凍土)が現われているとも言っていた。彼女は地球温暖化とbijiri2.jpg世界規模ウイルス感染の2大危機と闘っている。

 美尻の躍動する服シワから望遠撮影への言及はいいとして、そこから一気に地球温暖化、世界規模のウイルス感染へと思考を強い、言及させる現状は異常事態です。それでも「吾ガ事ニ非ズ」で、美尻に留めた記事にすれば良かったのだろうか。

 昨日、感染防止で書架閉鎖、受付だけの図書館で写真家「ナダール」と画家「ボナール」の4冊を借りて、19~20世紀のパリで遊んだ。二人共、ヌード写真を撮っていた。

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春昼や雲拭く人のまぼろしか [散歩日和]

kumomigaki2_1_1.jpg かかぁに「トイレットペーパーを探しに行くから付き合え」と命じられた。シャッターチャンスは、概ねカメラ不携帯の時にありがちで、ダメ元でカメラを携帯した。

 かかぁが店内に入っている間に、店前で空を見上げると、そこにチャンスがあった。空いっぱいに広がる雲。ビルのガラス面にも雲が映って、高所窓拭き人がガラス面ならず「雲を拭いている」ようだった。太陽か雲の変化でガラス面の雲は数分で消えた。

 小生、若い一時期「山岳会」メンバーだった。ハンマー、ハーケン、カラビナ、そしてザイルワーク。当時は今のような登攀器具はない。ザイルを股から後尻へ。そこから身体の表へ回して肩から後ろ脇へ通して正面でザイルを握る。それで垂直の壁を左右に走り、またスルスルと降下しtbsnews_1_1.jpgたもの。そんなキャリアがあるから、街の高所作業の方々への興味で、ついカメラを向けてしまうが、この1枚は久々の〝お気に入り〟。

 そして昨日のこと。あたしと同じく建物を見上げるテレビカメラがいた。〝特ダネ狙い〟の雰囲気~。カメラ角度から推測するに、狙うは「病室」だろう。彼らに〝特ダネ映像〟が撮れたかは定かではない。(3月30日追記:悲しい結果になってしまいました)

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蹲る鳩、降って来たご婦人 [散歩日和]

uzukumaru_1.jpg 西新宿の歩道で、鳩が蹲っていた。オジさんが腰を屈めて覗き込み、ビル管理の清掃用具を持った青年も覗き込んだが、共に「死んじゃいねぇ」と立ち去った。

 鳩は、自転車が傍を通り抜け、カメラを構えたあたしが近づいても動かず。実は2週間ほど前にも、近所の公園で「蹲る鳩」を見た。鳩に異変でも起きているのだろうか。

 そう思って「蹲る鳩」で検索したら、別に珍しいことでもなく、実に多くの画像がアップされていた。某女優のブログにも「蹲る鳩」写真があり、題名『蹲る鳩』の句集の表題句は「うずくまる鳩に隣りて日向ぼこ」。♪うずくまるハトと凍る街路樹~と歌ったのは「TM NETWORK」で、作詞は小室みつ子。そして今は、世界中の人々がコロナウイルスで蹲っている。

 街歩きは、様々なことに遭遇する。風の強い日だった。十段ほどの階段だが、ご婦人が昇り切ったところで、正面から強烈なビル風をくらってフワァ~と舞い上がり、小生の眼前路面に叩きつけられた。(場所は「野村ビル」裏の北通り)

 プロ写真家ならば、その瞬間をカメラに収めていただろうが、あたしはカメラを忘れて、婦人の手から道路中央まで吹き飛んだ大小の荷物をかき集めていた。街歩きは、ちょっとした事件と遭遇、出会い、発見の連続です。むろんボケ~ッと歩いていても愉しい。だが25日のテレビニュースの見出しは蹲るより酷い「スペインで放置死相次ぐ」。

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