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斎藤幸平『人新世の「資本主義」』を私流解釈~ [読書・言葉備忘録]

saitohon.jpg 斎藤幸平『人新世の「資本主義」』、購入本のカバーに「20万部突破」とあるも、今は「34万部突破」とか。売れまくって、著者もテレビ各局に出演中。「時の人」らしい。

 まぁ、読んでいると、自民党の総裁選のレベルの低さが悲しくなってくる。マスコミも踊らされ「SDGs」(日本の初代会長は嘘つき元総理)にも乗っかっている。著者は、そんなのは環境問題に参加している気分を作っている「グリーン・ウォッシュ」に過ぎず、貪欲な資本主義の時間稼ぎ、先送り。その間に地球の致命傷は深くなるばかりだ、と言っている。

 資本主義の新自由主義グローバリズムが、多くの国々の自然を、生活を壊し続けている。緊縮政策は社会保障費を削減し、非正規雇用を増やして低賃金化で格差拡大を生み、民営化された公共サービスで生活の質を低下。それがコロナ禍で如実に露わになった。

 だがバルセロナ市政やフランス市民会議などを軸に、世界各国の自治体が連携して「資本主義の超克・民主主義の刷新・脱酸素化」の三位一体で、新しい明日へ向かった歩み出している。東京・小池知事(緑のたぬき)はオリパラの旗を振って3兆円余の負の遺産を残した。

 資本主義の生活にどっぷり漬かって、未だにブランド品などを追いかけている日本人よ、いい加減に目を覚ませ。1%の裕福層・エリート層が好き勝手に作ったルールに、そろそろ「NO」を突き付ける時ではないのか、と訴えている。

 晩年マルクスの脱成長コミュニズムなどが出てきて戸惑うし、不勉強の爺さんなり解釈で、何とか読みきった。私流解釈だが、よろしかったら、どうど~

































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東松・中平・森山・荒木にチラつく寺山修司(2) [読書・言葉備忘録]

IMG_0797_1.JPG 中平卓馬の初期写真は、撮影者の意図に関係なく過剰記録するカメラの再現機能に抗って、または被写体と対峙する写真家の存在をなしとする従来写真に抗って、「アレ・ブレ・ボケ」をもって撮影者の行為をも記憶せんとするダイナミックな二重記録で、撮っている写真家の生をも記憶しようとした。それを支援して高梨豊は「気配をも撮る」と記し、多木浩二は「まずたしかさの世界をすてて」と論評した。

 ここには彼を編集者から写真家への道を誘った東松照明、寺山修司批判があったらしい。まず東松の「事大主義」批判。入念な構図と洗練されたテクニック、組み写真、社会的メッセージなどへの否定。これは東松の任命による「写真100年 日本人による写真表現の歴史」編集委員になって、写真の「記録性」や「アート性」が強調されたことへの疑問が浮上してのことだろう。

 一方の寺山修司は1967年に「天井桟敷:青森県のせむし男」を旗揚げ公演。幻想・虚構世界の劇場化で、彼らと方向性は大きく違えた。中平・森山にとって、寺山の論理・主義はうっとうしく、次第に距離をとり始めた。

 かくして打ち出された中平の「プロヴォーク」における衝撃的「アレ・ブレ・ボケ」の発表だが、そんな彼の前に、いささかショックは商業写真が出回った。なんと「ディスカー・ジャパン」ポスターが意図的に手ブレを用いた広告写真を全国展開。それが契機でもなく、寺山、東松への反発から行き着いた「アレ・ブレ・ボケ」。

 中平はその後、沖縄の「松永事件」(デモで巡査部長が死亡。その時の写真から松永青年が逮捕。だが現場にいた人の証言で彼は巡査部長を助けていたで無罪判決。中平はその支援活動で沖縄滞在から南の島々のドキュメンタリーを撮り、月刊誌『近代建築』表紙1年間担当を経て、それまでの写真を全面否定する根本的な方向展開を宣言することになる。写真はマスメディアの操作で容易に含意を孕んだ素材として利用される可能性がある。比して複数で成立する構造的写真=図鑑の方向へ誘われ~。 含蓄・内包を意するコノテーション(connotaion)から、事物を示すだけのデノテーション(denotation)への志向。

 かくして中平35歳は、1973年(昭和48)に『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』を発表。今度はあらゆる人間の投影を払拭・排除した記録写真「植物図鑑のような写真」を提唱し始めた。彼はそれまでの自作のネガ、プリントを焼却した。併せて森山大道も1972年に『写真よさようなら』を発表。

 寺山修司は、彼らの方向転換・放棄について「彼は撮ることの犯罪性」に気が付いた。「<私>離れ志向」に転向した。だが中平の私を消す方向には無理があろう。写真の受け手の中には記憶の残余があって、それを手がかりに写真を見る限り、写真は鑑賞者の私的イメージの中に封じこめられてしまう。故に、それは鑑賞者の意識に潜在する問題だろうち評した。

 中平の極限にまで向かった探求は、1977 年に睡眠薬とアルコール中毒による記憶喪失と言語障害へ陥った。寺山修司は論敵を失って、自身が写真家になるべく荒木経惟に弟子入りした。寺山の写真集『写真家・寺山修司』に、その時のことを荒木が書いている。

 ~寺山修司から弟子志願の電話があり(多分1973年・昭和48年)、銀座「キッチンラーメン」で講義し、一眼レフにワイドレンズを薦めた。そもそもは70年にゼロックスで和綴じ黒表紙の私家本『荒木経惟写真帖』を創ったときに、勝手に寺山修二に送りつけ、すぐにおホメと励ましの手紙をいただいた経緯があってのことと述懐。

 第2回目の写真講義は実技で、当時の彼の写真愛人・満美の東長崎のアパート昌栄荘8号室へ。寺山にライトマンをやれと言うも、彼は途中からライトをほっぽり出し、買ったばかりの一眼レフでカシャカシャと激写し始めた。私の参謀本部長がライトを持って、寺山に絞りとシャッタースピードを教えた。同写真集には寺山が撮ったコンタクトと男女が裸で絡み合った写真数点が掲載されていた。(続く)

 写真は中平卓馬の没(2015年、77歳)6年後に出版された江澤健一郎著『中平卓馬論~来るべき写真の極限を求めた』表紙。同著には中平の記憶喪失後の写真集についても詳細分析紹介されている。

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東松・中平・森山・荒木にチラつく寺山修司(1) [読書・言葉備忘録]

IMG_0786_1.JPG 東松照明、中平卓馬、森山大道、荒木経惟の影に、寺山修司の影がチラつく。

 イアン・ジェフリー著『写真の読み方』に、中平は東松に写真を学んだ、東松の写真は17文字の結合から隠喩を醸し出す俳句が理解の鍵、東松は森山大道に「写真は俳句だ。俳句同様無限の選択の技術だ」と教えたと記していた。

 その辺の出典元はわからぬが、大森大道は『犬の記憶』で、蕪村の「牡丹切りて気のおとろひし夕べかな」を引用。YouTubeでも「自分は蕪村に近く、荒木経惟は芭蕉だ」とも語っていた。その俳句論はどこから来たのだろうか。四人の影にチラつく寺山修司を、時系列で探ってみた。

 まず1964年(昭和39年)、26歳の中平卓馬は「現代の眼」編集員として、29歳の寺山修司に小説を依頼。寺山はコラージュ手法による実験的小説『あゝ、荒野』構想を提案。中平も登場人物の一人を演じたりして新宿の街を徘徊。同誌は2年間に亘って連載。単行本刊後に仏訳・独訳版も出版された。(寺山は後に、中平は若いが論争のライバル、好敵手だったと記している)

 また同年に中平は東松照明34歳の構成・文のグラビア頁「I am a king」連載も開始。これは東松が若手写真家らを起用したグラビア8頁企画。1回目は東松、2回目に森山大道、3回目に東松、4回目に立木義浩、5回目に東松、最終回の6回目には内藤正敏、横須賀功光、深瀬昌久、そして中平卓馬が柚木明の名で写真を掲載。

 これを機に中平は、編集者から写真家へ転身を決意する。中平の同級生・内田吉彦(後にフェリス女学院大学名誉教授)は「中平が父に寺山、東松らの勧めもあって写真家を志すに至った経緯を説明する場に立ち合い、また彼の結婚披露パーティーに寺山、東松も招いて自身が司会役を務めた」と記していた。

IMG_0785_1.JPG 1961年(昭和36年)、土方巽中心の「六人のアヴァンギャルドの会」に寺山修司と東松照明が参加。このとき寺山は26歳。東松は31歳で「VIVO」解散年だった。東松は1965ℬ年(昭和40年)に「写真100年、日本人による写真表現の歴史」展にあたって、中平と多木浩二に編集委員を担ってもらった。

 1966年(昭和41年)、「アサヒグラフ」で寺山修司の連載エッセーに中平と森山大道が交互に写真を発表。その二人が渋谷に共同事務所を開設。また同年に寺山は俳句誌の連載に、森山に写真を依頼している。

 1967年(昭和41年)、寺山は「カメラ毎日」に若手写真家に積極的対話(ダイアローグ)を促すべく「カメラによって〝何を燃やす〟」題して森山大道、立木義浩、中平卓馬、沢渡塑へのメッセージを順に記した。それに応えるように翌1968年(昭和43年)、中平30歳が多木浩二、高梨豊らと写真同人誌『プロヴォーク』創刊。「アレ・ブレ・ボケ」を特徴とした。   

 中平と同年生まれの森山大道は、東松らの「VIVO」に惹かれて上京後、同メンバーの細江英公のアシスタントになり、その頃に森山は東松から「写真は俳句だ。俳句は言葉数が少ないが、その可能性から様々な考えが生まれ、無数の言葉を生む」と教えられたか~。

 森山は「無村には芭蕉よりもずば抜けたリアリティーがある」の認識に加えて、ビート作家ケルワック『路上』にも習って、自身を旅人、かつ野良犬の眼をもって旅先で写真を撮り始めた。イアン・ジェフリーは森山の写真に、少年時代を回想する歌謡曲的な哀愁があり、芭蕉や蕪村が有する日本の美と詩歌の伝統の重要性を認識し、そこから外れなければ、さらに成功するだろうとも記した。

 森山大道は寺山修司と雑誌「スキャンダル」創刊を画策するも、森山は中平の「プロヴォーグ」2号から参加した。イアン・ジェフリーは同2号の森山の22枚のラブホテルのスナップ写真を「それはまさに俳句だ」と評した。

 かく寺山修司が東松照明、中平卓馬、森山大道らと密接に交流していたことがわかった。寺山の活動方針はダイヤローグ(対話・問答)で、かく多方面に人脈とダイヤローグを拡大。そして寺山が、彼らに自身の短歌や俳句を熱く語っていたと想像される。(続く)


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イアン・ジェフリー著『写真の読み方』②中平卓馬と森山大道 [読書・言葉備忘録]

hakahirahon.jpg<中平卓馬> 1968年に雑誌「プロヴォーク」共同創刊で彗星のごとく登場した。同人写真家は高梨豊、多木浩二、森山大道。(最終第3号には詩人・吉増剛造「写真のための挑戦断章」掲載)。彼らは余りにも説明的で同語反復的な現代の記録写真に我慢できずに、作られたものの代わりに雰囲気を探した。その雰囲気は黙示的だった。

 当時の彼は左翼系雑誌「現代の眼」編集者で、偉大な東松照明が日本の写真歴史をまとめる展覧会を組織するのを助けた。また中平は東松から写真を学び、彼のような表現効果を学び、明るい光が物の構造に食い込み、溶解し、物質世界の脆さを暗示する写真を撮った。(公衆電話の写真など。映画「フィルム・ノワール」とウィリアム・クラインの都市の写真からは派生している、と記されている)


 1968年~70年代の中平のように、世界の終わりを暗示するかの恐ろしい感覚を提示した者は他にいない。政治的状況から熱気が消えてしまうと同時に、彼は写真から離れ、アルコール中毒から記憶喪失した。

 東松は悪化する文化状況に困惑し、森山は騒乱の餌食になったアウトサイダーとしての自分を提示した。しかし中平の写真は全く個人的な放棄のヴィジョンである。写真は中平卓馬本の表紙。彼らの写真特徴「アレ・ブレ・ボケ」に従って撮ったもの。

 中平卓馬については2021年3月11日のブログで紹介済。ここでは、そこで記した経歴のみ記す。昭和13年(1938)、東京・原宿生まれ。東京外国語大学スペイン科卒。現代評論社を経て写真家になり、森山大道と共同事務所を開いた。彼の写真論は昭和46年(1971)「沖縄・松永事件」、昭和48年(1973)の映像論集『なぜ、植物図鑑か』、昭和52年(1977)〝なぜ篠山紀信か〟を論じた『決闘写真論』、そして彼の〝記憶喪失事件〟等が併せて論じられることが多い。 

 moriyama3_1.jpg<森山大道> 彼は商船学校入学を断念し、デザイン会社に就職後、東松らの「VIVO」の考えに魅せられて、「VIVO」の細江英公のアシスタント後に、逗子でフリーのカメラマンになった。北海道・三沢基地辺りで野良犬を撮った。地のレベル(犬の視線)の徘徊に、写真家としての共通点を見出した。

 また四日市ではトラックのタイヤを撮った。好きなビート作家、ジャック・ケルワック『路上』に影響されて日本中を旅した。この頃の彼は、己の写真は行き過ぎる時につけられた「擦傷」と言った。

 1968年、森山は寺山修司の実験演劇グループ(天井桟敷)と関係を持ち、森山と寺山は雑誌「スキャンダル」創刊(注:創刊へ走り出したが途中で頓挫。そんなワケで中平卓馬の季刊「プロヴォーク」は第2号から参加。なお寺山は中学生時代は青森大空襲と父の戦地戦病死で、母ハツと三沢市に転居。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家、栄作楼なる遊郭前の四坪の平屋で暮し始めた。寺山は後に短歌、俳句で頭角を現す)。

 彼らは「かつて現実を支えていた物質的言葉は力を失った」と宣言。東松が「言語の代わりにイメージが優先権を持つ」を信じ、眼の偏見や先入観をすり抜け、ファインダーを覗くこともない撮影もした。

moriyama7_1.jpg 1969年「プロヴォーク」2号に、森山は22枚のラブホテルでの出会いを発表。3号最終号で「青山通りユアーズ」のスーパーの棚を撮った写真を発表。青山通りはデモ騒乱警戒のパトカーの輝く光で照らされていた。著者は「東松は早くに写真は俳句であると気付いていたが、その教えを受けた森山のラブホテルでタバコを吸う女の写真はまさに俳句だ」と指摘していた。

 また著者は森山の「犬の記憶」で回想した、幼児期の色彩絵本と文章によって生まれた淡い期待を語っていて、それが感傷的な歌謡曲に通じるとも記す。

 森山と彼の同時代人は、写真で全てをコミュニケートする時代を予見したが、皮肉なことに、彼らの写真は以前より痛切に言葉を引き出そうとした。東松は1960年代に、森山に写真は俳句だと教えた。俳句は一見言葉数が少ないが、その可能性から様々な考えが生まれ、無数の言葉を生む。そんな森山の写真と言葉の結びつきの巧みさを知った「アサヒカメラ」編集長・丹野清和が彼に文章を書くことを奨めた。

 1971年『釧路 日本』で、森山は「写真は光の記憶」で、一種の考古学を作る堆積物であると記した。1975年『函館 日本』ではテネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』から『記憶という名の電車』なる言葉で「事実と事実でないものの間のどこかに、価値ある記憶が横たわっている」と記した。

 1980年「ボタン神奈川県 日本」。彼はボタンを撮ったが、彼に植物学知識はない。それでも『犬の記憶』で、蕪村俳句「牡丹切りて気のおとろひし夕べかな」を引用していた。与謝野蕪村は18世紀後半の大詩人で、そのリアリズムが注目されている。森山は前世紀の芭蕉よりずば抜けたリアリティで芭蕉より優秀だと考えた。また芭蕉も『路上』のケルワックも、そして自身も旅人となって彼らと共通項を有していったと思われると記す。

 少年時代の回想は、歌謡曲的な哀愁となる。芭蕉や蕪村が有する日本の美と詩歌の伝統の重要性を認識して、そこから外れなければ、さらに成功するだろうとも記していた。

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イアン・ジェフリー著『写真の読み方』①東松照明 [読書・言葉備忘録]

syasinnoyomikata_1.jpg 「~初期から現代までの世界の大写真家67人~」に東松照明、中平卓馬、森山大道の日本人三名が取り上げられていた。とてもコンセプチュアルな記述ゆえ、写真初心者の小生は(★)で上野昂志著『写真家 東松照明』より説明補足して私流意訳でまとめる。

東松照明> 全ての写真家の中でも最も誌的な写真家のひとり。(★東松は1930年、名古屋生まれ。愛知大写真部。同大卒後に「岩波写真文庫」制作スタッフになる。編集・レイアウトは名取洋之助。写真は芸術ではない。コミュニケーションの一つの道具に過ぎない~が名取の信条)

 同文庫は、言葉の代わりにイメージで表現する~が方針。比してヨーロッパ人傾向は、言葉とイメージの組み合わせで考える。東松はアレゴリー(比喩、寓意)に生命を与える写真が特徴。洪水後の泥中の長靴・ビン、榴散弾浴びたトタン穴から星のように洩れる光、原爆投下時に止まった時計、溶解したビール瓶など。彼はポストモダンフォトの先駆者のひとりになった。

 (★彼の際立つ特徴は「寡黙さ」。対象のブツ(物)のリアリティが圧倒的で、写真家としての彼の存在を消している。そこに何か象徴的な意味を見出そうとするも、彼独特のブツのリアリティの力が迫ってくる)

 (★東松は岩波と決別して1956年にフリー。時あたかも週刊誌ブーム。例えば「中央公論」では彼の企画でグラビア8頁と決まれば、写真の選択も文章も彼まかせ。1957年より同世代の写真展「10人の眼」を3回開催。1959年に写真家集団「VIVO」創立。戦前作家(土門拳、木村伊兵衛ら)と一線を画す地殻変動を起こした)

toumatu1_1.jpg 「VIVO」によって東京に惹かれた森山大道へ、東松は「写真は俳句だ。俳句同様無限の選択の技術だ」と言った。17文字の結合から隠喩を醸し出す俳句が、東松芸術の理解の鍵~と著者は記している。

 1964年、アフガニスタンを撮った『サラーム・アレイコム』には写真の他にタイトルも数字もない。言葉排除の写真(イメージ)で全てを表現。1960年代とそれ以後の日本の写真家たちは、この原則をあまねく世界に拡大した。

 (★基地ヨコスカ、混血児スミエちゃん、岩国、沖縄、長崎、広島へ。東松は戦後日本に対応しながら、個別の具体性に感応しつつシャッターを切り続けた。ジャーナリズムとブツのリアリティーという二重性、ズレが付きまとった。

 東松の後継者、特に森山大道と中平卓馬は1968年に「プロヴォーグ」を刊行。東松は「ケン」発行でフォト・アバンギャルドとも接触を続け、その霊感源になった。

 (★同書は1969年までの写真集を基に書かれているが、上野昂志はその後の東松の仕事も追っている。満潮と干潮の潮間を撮った『インターフェイス』、各地の桜を撮った『さくら・桜・サクラ120』、京都を撮った『京』、九十九里海岸で見つけたゴミ『プラスチックス』、そしてメイキングフォトが続く。バリ島で体験したマッシュルーム幻想を再現したく色を塗った板上に花などを載せた『ゴールデンマッシュルーム』、コンピュータ・チップを自然物に添えた『ニュー・ワールド・マップ』などを紹介。

 上野は最後に社会性とブツのリアリティー、海と陸、自然と人工物、満潮と干潮~、彼は絶えず境界線に惹かれていたと記していた。東松は2012年12月、那覇市内の病院で82歳没。次に東松照明が森山大道へ伝えた写真と俳句に焦点を絞ってまとめてみたい。

 なお『写真の読み方』表紙は、NY生まれのポ-ル・ストランド撮影の「仕立て屋の弟子」(1953)。 

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「見る写真論」から「撮る写真論」へ [読書・言葉備忘録]

showwindow3_1.jpg 『インスタグラムと現代視覚文化論』より甲斐義明(新潟大学準教授)『レフ・マノヴィッチとインスタグラム美学』を私流意訳(学者文は小難しく廻りくどいので)する。

 まずはメディア理論家マノヴィッチのインスタグラム論『ソフトウェアが指揮を執る』で、デジタル写真はフィルム写真を摸造する方向で発展し「フィルム写真~デジタル写真」へ文化的連続発展して、ソフトウェアが文化生産の仕組みを根本的に変えた~との指摘を紹介する。

 そしてデジカメ登場前の状況から振り返る。1960年代後半に「飛躍的技術的向上による一眼レフ」(ベスト・ポケット・コダックなど)の登場によって、19世紀末~20世紀初頭に、米国ファッション写真が瞬間写真を意味する「snapshot」傾向を生んだ。(小生さらに時代を遡れば、写真機の登場で絵画は細密写実からキュビズムはじめ、写真で云えば解像度を下げた=抽象化傾向を生んだ)。

 「スナップ写真」は1963年ころからNY近代美術館はじめの写真展、雑誌特集で認知され、一眼レフによる「スナップ写真の美学」が、ファッション写真の流行になった。そこにはストリート写真の伝統に加えてロックやドラッグカルチャーなど若者文化とつながる「カジュアルさ」も広告写真に効果的だったこともあって普及した。

 さらに職業写真師だけが可能だった写真撮影が「デジタルカメラ登場」と「Photoshopなどのソフトウェア開発普及」によって、デジカメは旧来メディアにない複数メディウム(描画、音声、動画が等価素材として扱える)によってMVなど映像制作を可能にした。

 複数のメディウムが混交する新たなメディウム(デジタル手段、媒体)によって作り出される状況=マタメディウム時代を迎えて、それは進化する生物種のように氾濫するに至る。

 そうした変遷に寄って、従来のプロ写真家に重要視されていた技術的価値は希薄になり、彼らの技術をベースにした「写真論」も意味を失いつつある。デジカメやソフトウェア設計者に思想はないも、デジカメ及び携帯カメラの多数ユーザーが美的関心を抱いてアップロードする「インスタグラム」には〝美的コミコミュニケーション〟とも云える特性が帯びた。

 そこには現代写真+現代グラフィックデザインが融合したデジタル技術に親しんだ若者世代により価値観反映があって、それを「インスタグラミズム」と呼ぶに値する特性を帯びた。デジカメ、ソフトウェア普及による「メディア・プラットフォーム」の誕生による写真は「ありふれたものは見つめるに真に値するという信念」があり、日常の美的体験、身近な者の美学が商業主義をも先導し始めた。

 これらを指摘したマノヴィッチのインスタグラム論は、従来主流だった観賞者側の「見る写真論」から「撮る写真論」へ変化し、今後は「撮る写真論」(写真生活)を練り上げて行くのが今後の課題のひとつになっている~で結ばれていた。小生補足すれはデジカメも2000万画素を超えた辺りから逆に、ウィリアム・クラインはじめによって「アレ・ブレ・ボケ」の反写真志向が生まれた。

 以上「スナップ写真」関連メモ。写真はあたし撮影。

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夢二、荷風からストリートファッション写真まで [読書・言葉備忘録]

kafuyumejisyasin.jpg このカットは6年前にアップした竹久夢二、永井荷風のカメラ調べをした際のもの。夢二のカメラは大正4年(1915)に輸入されて写真ブームを興した「ベスト・ポケット・コダック(通称ベス単)」らしい。彼は11冊のアルバムに2614枚もの写真を遺したとか。その一部掲載の写真集を観たことがある。妻たまき~彦乃~そしてお葉さんのヌード写真。

 永井荷風は昭和11年(1936)10月に「ローライコード」(100円程で今の27万円?)を購ったが、室内や夜の撮影に塩梅悪く、翌年2月に「ローライフレックス」を参百拾円(今の80万円程)で購った。自家本に自ら撮った墨東風景に俳句を添えた頁があったと記憶している。荷風さんのこと、エッチな写真もたくさん撮っていたに違いない。その頃の『断腸亭日乗』には「帰宅後に写真現像」の記述が続いている。

 ロールフィルムによる小型カメラ誕生は、かく夢二・荷風さんにも「スナップ写真」を撮らせたが、小生の父も同じような写真機で、子供のあたしらをスナップしていた。

 〝近代写真の父〟で女性画家オキーフの夫、アルフレッド・スティーグリッツは、最初が三脚使用の8×10(エイトバイテン)、1892年に携帯用4×5(シノゴ)カメラを購入。妻エミリーとの新婚旅行で各国を巡った時の写真が初期代表作になっているそうな。1896年に「アマチュア写真協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」を合併した写真クラブを設立。1896年に「ギャラリー291」設立。

 1916年に女性画家オキーフと出逢う。妻エミリーが外出中の自宅でオキーフのヌード撮影。そこに帰宅した妻と騒動勃発。彼とオキーフは同棲を始めて、彼はオキーフの身体を愛でるように撮りまくった。室内私的スナップ写真で、絵画でもマチスはじめ室内を描く流れがあった。

 ウィリアム・エグルストンは1939年生まれ。カラー写真の開拓者で「日常的なものを、あたかも初めて見たような気分にさせる視点、色、構図」が特徴とか。彼のカメラは1933年からのLeicaⅢシリーズ。彼の写真は「New Color派」と呼ばれた。ソール・ライターはそれに比して写真集『Early Coler』を発表。この両人、共に写真に劣らず絵もたくさん描いた。

 彼らの後を継ぐ形でストリート系ファッション写真が興る。その「カジュアルさ」イメージで「スナップ写真&

広告」が流行った。そして間もなくフィルムではなくイメージセンサー(撮影素子)とPhotoshopなどのソフトウエアによるデジタルカメラへ移行。以上、学者先生らの写真論が小難しく廻りくどいので、自分流でまとめた。

  アッチでは今日「うんこ座りの女たち」の写真をアップした。

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現代視覚文化論①『デジタル写真の現在』 [読書・言葉備忘録]

sikakubunkaron_1.jpg 今になって抱いた「デジタル写真への関心」から、図書館で『インスタグラムと現代視覚文化論』を手に取った。小難しい論文各章より、まずは前川修(神戸大大学院教授)『デジタル写真の現在~三つの層から考える』を自分流意訳でまとめてみた。

 カメラ付き携帯の登場は2001年で、普及は2004年。カメラは独立した存在から、デバイスに取り込まれて一機能となり、携帯やPCにアップロードされた写真が一気に氾濫した。

 デジタル技術の発達が異なる産業間を融合。つまり新しい産業へ収斂=デジタル・コンバージョンされて、複数ジャンルのメディアが同一スクリーン上で共有され、写真は明確な境界を失い、そのデータは流動性を帯びた。また簡易撮影の動画に比し、写真は「静止画」と呼ばれるようになった。

 「明るく鮮やかに」がデバイスの売り。その画像は簡単に「拡大・縮小・回転・トリミング」などが可能で、誰もがシェアできるようになった(アップロードされた画像は、自分のPCに簡単に取り込み、簡単に再編集できる)。システムのシークエンス(手順)操作をもって、安易に「もうひとつ」の写真に変化されるのが前提の場に晒され、写真は受容様態、生産流通システムの場に晒された。デジタル写真は、このフロー性(流動性)が特性となり、指の操作性も帯び、撮影データも自働記録されてビッグデータの一片にもなった。

 Flick(オンラインの写真共有サービス)やフォトブログのユーザーたちは「いわゆる日常的な」「ありふれた」(従来の写真家が関わってきた特別なもの以外の)ものを撮影し、それら撮られた写真は即公開され、他のユーザーに共有される。この「共同的」経験が写真をアップする動機にもなっている。元々私的な写真が、逆説的に共有写真になる宿命を担った。

 写真は、かつての事象を捉えた従来型(従来のプロ写真家)から、いまは撮影・送信・受信されるリアルタイム経験となり、その現在共有感が写真の新たな「核」になった。従来の紙焼きという写真作品価値は減少して、代わって「視覚的コミュニケーション意義」が重大化。これを「視覚的雑談」「視覚的発語」、さらには「バズル」という可能性も帯びた。

 またインデックス(検索エンジンが保存するデータ)機能も重視され、タグ付けも肝心で、検索に引っかからなければ忘却される。一方、インデックスにプールされた写真群は、検索の粗さもあってすこぶる散漫性を帯びる。(例えば自分のブログ記事や写真が、想像もせぬ検索でヒットしたりする)

 これらは概ねプログラムやソフトウェアの層、インデックス内で流れている層、ネットワークを通した写真行為層(市民フォトジャーナリズム論、ツーリズム論など)の三層に分類して論じられるが、それぞれに問題も抱えている。プログラムやソフトウェアはビッグデータとして利用され、アップロード写真は万人に共有されることから摩擦も生じている。

 以上私流意訳でなく正しく読みたい方は同書をどうぞ。気分次第で他の各章も意訳まとめをして行きたく思っています。

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本居宣長④晩年 [読書・言葉備忘録]

morinaga.jpg 明和8年(1771)、宣長の神道説の方向が固まったと言われる『直霊(なおびのみまた)』成立。それはインドの仏教、中国の儒教と同じように、わが国には「天照大御神のうけ給ひたもち給ひ伝へ給ふ道なり」なる皇祖神の道。言うまでもなく『古事記』『日本書紀』の世界。特に道を立てゝ、道を説くこともなかったところに、我が国の古道があったと言う。

 あらゆる自然現象、人事現象は神の所為だが、今の世は「漢籍のクセ」がはびこり、漢土外国のものの考えで律している。これを祓い清め、すがすがしい御国心を回復すべしとするのが我が志だとした日本中心思想、尊王論を確立。

 また同年に『てにをは紐鏡』を完成。「てにをは」の係り結びの呼応法、活用法などを分類・図示。すでに漢字音の研究所で「呉音・漢音・唐音」の三音について考察した『漢字三音考』『漢字呉音弁』を、さらに鎌倉時代以来入れ替わっていたオとヲのア行、ワ行を訂正した『字音仮名用格(じおんかなづかい)』をまとめていて、これまた古典研究の国語学を成した。

 明和9年(1772)、年号が安永と改まった43歳の春、宣長は吉野旅行を門人5名とした。この頃の門人45名ほど。神道に突っ込みながらも歌学・詠歌を捨てず、またそれら講義も止めなかった。宣長は神道と歌の共通項に「物のあはれ」を見ていた。両面で門人はさらに20名増え、晩年には40余国487名に膨らんで行く。

tenioha_1.jpg 宣長の43歳から天明8年(1788)59歳までの17年間は、書斎に籠っての神典研究の『古事記伝』執筆に明け暮れた。世は田沼時代。江戸では武士、商人一帯で「狂歌」熱中。

 当時の宣長の暮し。安永2年(1773)44歳で次女誕生、その2年後に西隣の家を購入。47歳で三女誕生ん。次男が養子に出て、長女が嫁ぎ、49歳で長男の子(孫)が生まれた。天明3年(1782)53歳春、家屋に二階を増築し、その4畳半の茶室風書斎(鈴屋)竣工。天明7~8年ころには門人140名余。いよいよ学者としての名声が高まってきた。

 寛政元年(1789)60歳から享和元年(1801)72歳の没年までの13年間が、学問の円熟期。その学問の啓蒙書、実用書多数で普及・宣伝期にもなる。約40年間書き継いだ『本居宣長随筆』は14巻13冊。

 寛政2年(1790)61歳の時に描かせた自画像に、次の歌を書き添えた。「しき島のやまとごゝろを人とはゞ朝日ににほゝふ山ざくら花」(しき島:やまとにかかる枕詞。匂う:色に染まる。山桜花:優美で柔軟な美しさ、心。染井吉野は江戸時代後)

 寛政10年(1893)69歳、『古事記伝』最終巻完で、30余年かけた『古事記』の厳密注釈の大著完成。写真題字は紀州侯徳川治宝に賜った。藩御針医格で十人扶持から奥医師へ昇格。尾張藩は儒学による政治が行き詰まったとして、今後は古学に則った政治を行うべきと宣長を名古屋に招いた。また京都の公家らとも次第に交渉活発化。学問が政治に呑み込まれて行った。

sikisimano_1.jpg 享和元年(1801)72歳、京都で講義するために70日滞在。公家の間に古学浸透。全国に膨れ上がった門人統制に「鈴屋社」が運営。その後に活躍する多数門人を輩出。

 寛政3年、長男健亭こと春庭が失明。寛政12年(1800)に『遺言書』作成。自身の葬式を菩提所・樹敬寺で、墓所を山室妙楽寺の山)にすることなど詳細に指示・注文。享和元年(1801)9月。風邪から肺炎悪化で29日(太陽暦11月5日)に72歳で没。

 以上、簡単に足跡を辿ったが、後に小林秀雄『本居宣長』関連書や、『古事記』などを読む際の予習でした。資料画像は全て国会図書館データコレクションより。コロナ感染の非常事態宣言再びで、ホームスティはいつまで続きましょうか。

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本居宣長③町医者になり、文芸から神道へ。 [読書・言葉備忘録]

norinagazou_1.jpg 宣長は松坂に帰ると「町医者」(内科医)になり、生涯の生業になった。開業当初は医者業を頑張って年間70両。次第に医者と学問の両輪で、寛政期には40~50両。学問塾の門人収入(謝礼・中元・歳暮など)、自家調整薬「胎毒丸」「あめぐすり」などで補った。

 宝暦8年(1758)、京都遊学記念的な『古今撰』(「万葉集」などから秀歌を選び出し分類した詞華集)、歌論集『俳蘆小船』を完成。宝暦13年(1763)に『石上私淑子言(いそのかみささねごと)』三巻三冊で〝物のあわれ〟の説を軸にした歌論を唱えた。また同年には『紫文要領』(「源氏物語」要旨)も著わした(後の寛政8年67歳『源氏物語玉の小栞』から『玉の小櫛』として改稿)。宝暦14年、『梅桜草の庵の花すまひ』成立。これは口語が交って、後の『古今集遠鏡』の先駆になる。宣長の歌論は定家『古今和歌集』が最高手本で、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三大集を尊重すべきという主張。

 当時の宣長の私生活は、宝暦10年に「みか」を娶ったが数ヶ月で離縁。学問漬けの夫とソリが合わなかったか。同12年、宣長33歳、同じ景山門人の娘「たみ22歳」と結婚。たみは終生の伴侶となって男3人、女4人を設けた。

 彼は松坂で「嶺松院歌会」の主宰者になり、自宅で『源氏物語』講義を開始。この塾での諸講義は生涯を通じ(40年間)規則正しく続行。講義=自身の勉強。『源氏物語』は1ヵ月8、9回。他に『伊勢物語』『土佐日記』『枕草子』『百人一首改観抄』『万葉集』を開講。

kamosyouzou_1.jpg 宣長はまた、京都遊学から戻った頃に、江戸からの人に賀茂真淵『冠辞考』(万葉集の枕詞326語の精密な解釈書)を見せられ、読むほどに共鳴。古代語への関心を深めた。宝暦13年(1763)、伊勢参りに来た賀茂真淵と松坂で対面する機会を経て、翌14年(明和元年1764)35歳、賀茂真淵に入門。『日本書紀』『古事記』研究に入って、文芸一辺倒から神道への関心を深めた。

 この頃、宝暦13年に長男が、明和4年(1767)に次男が誕生。長妹はんは婚期を逸し、30歳で剃髪して終生宣長と同居。母かつは善光寺で剃髪し、明和5年に64歳で亡くなった。

 明和元年、宣長はいよいよ『古事記伝』に着手。「歌学者ハ、以テ神典ヲ学バザルベカラザルナリ。神学者ハ、以テ歌学ヲ学バザルベカラザルナリ」。明和6年(1769)10月、賀茂真淵が73歳で死去。

 画像は若い頃の本居宣長と賀茂真淵。以上、ここに紹介の諸書籍が読めるわけもなく、宣長の足跡を辿ったに過ぎない。後で小林秀雄『本居宣長』を読む時の予習になれば~です。

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本居宣長②京都遊学時代 [読書・言葉備忘録]

sadaie_1.jpg 小生、勉強嫌いで無教養。「勉強好き」宣長の経歴を辿るだけで辛いが、ボケ防止で引き続き「京都遊学時代」へ読み進む。宣長は宝暦2年(1752)、23歳で京都遊学。まず母方の親戚宅に落ち着いて「景山門」に入った。

 堀景山は藤原惺窩(儒教シリーズで紹介済)の高弟・堀杏庵の子孫。宣長は景山門の塾に2年7ヶ月間寄宿。宝暦3年からは医学を学ぶために掘元厚に入門。病理・生理の基礎医学知識を学ぶも、師は翌4年に死去。続いて法橋武川幸順(30歳)に入門。武川家は代々小児科で、同家に寄宿。ちなみに当時の医学レベルは安永3年(1774)刊の『解体新書』以前で押して知るべし。

 宣長は景山塾で、まずは医学を学ぶために漢学から勉強。景山は朱子学者ながら徂徠学にも関心深く、その影響を宣長も受けた。彼は漢詩と和歌を同列視で捉え、勧善懲悪の文芸観は避けた。さらに師・景山は国文学に造詣が深く「契沖」を尊敬。宣長はその影響も受けて『伊勢物語』『万葉集』などから〝物のあわれ〟を学ぶ。

 ※契沖:真言宗の僧で古典学者=国学者。定家の仮名遣いを「万葉集」「日本書紀」「古事記」「源氏物語」解釈を正した『和字正濫抄(契沖仮名遣)」を著わした。keicyusorai_1.jpg ※荻生徂徠:朱子学、仁斎学を批判し、古代言語を重視する「古文辞学」を標榜。柳沢(綱吉側近)に抜擢されるも、綱吉死去と吉保失脚で茅場町に住み(宝井其角宅近く)、私塾を開く。吉宗の信任を得て助言者になる。有名なのは赤穂浪士「切腹論」。彼の考えから「経世論」が誕生。

 次に宣長の歌について。京都で宝暦2年(1752)に冷泉為付門下の森河の門人になるも、4年後には二条流・有賀長川に師事。松坂に戻った後も指導を受け続けた。京都遊学の初・中期は漢詩文尊重で、末期は和歌尊重へ。「漢詩も和歌も等しく性情の道だが、物に感じる深さは、漢詩より和歌が勝る」と記した。遊学中に詠んだ歌は約1500首とか。定家『古今和歌集』を絶対視した。

 また景山は雅人で、門人を花見、月見、詩会によく誘ったそうで「味噌の味噌臭きは上味噌に非ず、学者の学者臭きは真の学者に非ず」とする通人心得をもって酒、煙草、能、芝居、花見、当然ながら茶屋遊びなども愉しんだらしい。宣長の京都遊学は5年8ヶ月。宝暦7年(1757)に松坂に帰郷。母は宣長の飲酒を大変心配したそうな。

 写真はまずは『古今和歌集』藤原定家(堀田善衛『定家明月記私抄』で紹介済)。次の二人画像は左が契沖、右が荻生徂徠(共に国家図書館データコレクションより)

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青山二郎⑧晩年 [読書・言葉備忘録]

bianca2_1.jpg 再び時系列に戻る。青山二郎の妻は、伊東市に疎開時は宇野千代が記す〝恵子さん〟は、年譜の「服部愛子」のことらしい。二人は昭和19年(1944)に正式入籍し、昭和23年47歳で離婚(青山は恵子の姪・和子と添遂げる)。『梅原龍三郎』や『富岡鉄斎』を発表。翌年にレコード2千枚を売って伊藤の家を出て、五反田の坂本睦子のアパートに仮住まい(睦子は大岡昇平『花影』モデル。文壇の高名作家に抱かれ、以後は同作家を慕う文士らが次々と競うように彼女を抱いたとか。当時の文士はろくでもねぇ)。

 昭和25年、『眼の引越』『眼の筍生活』発表。青山の執筆に、小林秀雄が付きっ切りで面倒をみたとか。昭和26年、青山学院のメンバーが秦秀雄(骨董界)の「梅茶屋」(代々木の割烹旅館)入り浸って連日の議論。広間に青山・小林は座って〝高級漫才〟。周囲に数十人が取り囲ん囲んだとか。『上州の賭場』『博徒風景』を発表。

bianca1_1.jpg 同年、父・八郎右衛門死去。昭和28年に兄・民吉死去。そして昭和35年に父の遺した「二の橋」の土地に高速道路が通ることで何億もの金を得る。同年、福留和子と結婚。毎年暮れから2月まで志賀高原ホテルで青山専用部屋で過ごす。この頃からカメラと雪上自転車に凝る。そして夏の2ヶ月間は広島暮し。志賀高原では越後高田の骨董屋・遊心堂で遊び、広島ではヨットや水泳で遊ぶ、夜は呑み屋「梟」が青山学院の広島分校になる。青山はとにかくどこで暮そうと〝群れ〟を作りたがる(小生嫌いなタイプ)。

 昭和39年(1964)、オリンピックの年に渋谷区神宮前のマンション「ビラ・ビアンカ」の設計段階で、6階2部屋(2350万+850万円)を購入。ベランダに植木屋を入れるなど自分流に改良。昭和45年に川奈に別荘完成。昭和51年、志賀高原から帰京後に牛込清和病院に入院し、翌年に自宅で永眠。77歳だった。墓地は谷中の玉林寺。

 田野勲著『青山二郎』は最後にこうまとめていた。「青山は生涯を余技と考えていた。本の装幀、絵を描く、骨董売買、文章を書く、写真を撮る~すべてが余技と考えていた」。当然ながら仲間を集めての議論=青山学院も余技。それが実現できたのは子供時分から母から毎月500円(当時の小学校教師初任給が50円)の小遣いをもらい、父と兄死去後に高速道路でン億円を手にしたことで成り立った人生。働く必要もない(職業なし)極楽トンボ。その意でも自由な立場で物事への発信が出来た、と記していた。

 加えて学校生活経験なしゆえか、とにかく群れたがった。核心の「生涯を余技と考えたこと」は、特別の事ではなかろう。人の世は無常、仮の世、仮の宿~。何を今さら~と思ってしまった。彼が骨董を見るように、彼の中年後の顔写真を先入観なく見れば〝好き〟なタイプではなかった。

 そんなワケで白洲正子が『いまなぜ青山二郎なのか』を読んでも〝なぜ〟かわからずらず仕舞い。古本屋で青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』を入手したが、その文章は魅了されるほどでもなし。小林秀雄がなぜ彼に惹かれたか。これは『小林秀雄』を読んでみなければわからない。目下は小林秀雄全集の2冊を図書館で借りて来たが、とりあえず、この辺で「青山二郎」を終わる。

 写真は築57年になった「ビラ・ビアンカ」。場所柄だろう、アパレル系事務所が多数入居らしくこの日も、若い女性らが衣装をいっぱい持ってマンションの中に消えて行った。

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青山二郎⑦骨董弄り [読書・言葉備忘録]

IMG_8190_1.JPG 白洲正子は「青山二郎は骨董を弄る人だった」と記している。特に偽物や新しい焼き物は、自分で味付けすることを愉しんでいたと。ガス台に魚の網をのせて燻す。紅茶液の鍋を煮立たせておいて、その中にジュッと入れてヒビ割れさせる。やすりで削る、爪で金彩の唐草文を適度に剥がす。そんなことを何か月も繰り返して、その味付けを愉しみ自慢した。

 道具を弄って、自分の生理まで解かし込んで行く。高価骨董が中原中也の痰壺になり、今日出海の灰皿になったりするのも、使い込んだ味になるのを愉しんでのとこと推測される。

 茶人ならば茶を点てるのが日常だが、そうでない彼は、そうでもして使い込んだ味を出したかった。「骨董を抱く」なる言葉も、そんな意を含んで骨董は実際に手に入れ、使い込まなければ意味がないと考えたらしい。

 私事だが、小生の母は「江戸千家」のおっ師匠さんで、家には稽古茶碗は幾らもあった。若い時分からの茶道ゆえ、安物稽古茶碗と云えども使い込まれたいい味を持っていたのかもしれない。

 また「別冊太陽」に、彼が器に疵をつけるために使っている「紙やすり」が写っていて、思わず笑ってしまった。と云うのも、あたしは貧乏で骨董趣味もないが、安物文鎮集めによって5、6個の文鎮が机に転がっている。入手当初は、まず塗料を剥がしたり磨きをかけたりして自分好みにするが、その時の「紙やすり」が、彼の写真とまったく同じ絵柄だった。小生が骨董で理解できるのは、その程度~。

 次に400余点も手掛けたという彼の装幀(写真は「別冊太陽」の装幀紹介頁)について。それら装幀を眺めていると、植草甚一を想った。6年前に「世田谷文学館」で「植草甚一スクラップ・ブック展」を観た。氏のコラージュ作品や、絵葉書やマッチ箱の上にガッシュで遊び絵、彩色を施した作品群展示があった。青山二郎も空き箱や文庫本の上に線をひき、色をさし、描き文字を入れて遊んでいた。植草甚一の彩色を施した手紙も有名で、あたしもそんな手紙を1通いただいたことがあったと思い出した。同じ「机上遊び」をしていた。

 青山二郎は自著、友人らの著作表紙。『アンドレ・ジイド全集』、創元社、実業之日本社、宇野千代設立の「スタイル社」、雑誌では「創元」「文学界」「日本映画」なども手掛けていた。概ね骨董陶磁器に通じる渋い色遣い、筆による描き文字、小刀で彫った模様版木使用などが特徴。このシリーズ長くなったので、次回に彼の晩年をザッと辿って終わりにしたい。

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青山二郎⑥青山学院の「揉み揉まれ」 [読書・言葉備忘録]

sirasumasako.jpg 青山学院の教育法は、酒席での「(議論)揉み合い」。青山は骨董の真贋を見分ける要領(生半可な先入観・固定観念なく、無私無欲の肉眼観賞で感じる・見るが肝心)で、文学者らの「人間の真贋」を見抜き、相手を泣かすほど、蛇が蛙を呑み込むほどにコテンパンに打ちのめすそうな(それでも一カ所は逃げ場を残しておくのが規則だったとか)。

 靑山の最後の弟子・白洲正子の場合。彼女が差し出した原稿に、青山は朱を入れるどころか目の前でズタズタに引き裂き「説明は不必要で冗漫。形容詞が多過ぎる」。さらには「ここがあんたの一番いいたいところだろ」とそれも不用とした。「自分が言いたいことを我慢すれば、読者は我慢した分だけわかってくれる。そこが読者の愉しみなのだから」。白洲は「へどを吐く」ほどにやっつけられながら、それでも通ったそうな。

 小林秀雄の場合。小林は3年間の骨董修業を通じて「やっと文学がわかるようになった」と述懐したそうな。骨董には人間の愛着や欲念の歴史が積もっていて、一種の魔力を秘め持つようになる。それは実際に骨董を手に入れなければ無きに等しい日用品。自分の物にして使い込み愉しむようになって、初めて良さがわかる。茶道とは器を観賞し、実際に使って、その器の美しさを知る道。そうして過去を現在に甦させる=歴史の魂に触れる。つまり過去の文化遺産を現代に甦らせてこそ伝統になる。

sirasunaka.jpg 小林はかくして「言葉」をもって過去の文化遺産(伝統)を現代に甦らせるべく『徒然草』(兼好法師)を書いた。「徒然なるまま」に書きつつも「眼が冴えて、物が見え過ぎ、物が解り過ぎて」〝怪しうこそ物狂ほしけれ〟に至る心が解るとした。

 美しい花を見る。例えばそれが「菫」と解ると同時に、眼は閉じて頭(言葉)で見るようになってしまう。言葉が邪魔をする。小林は骨董の修行を通して、言葉が邪魔をするスキを与えず、初めて「見えて来る」ようになったと自己分析をする。物が解りだして、彼は『無常という事』『平家物語』『西行』などの過去の遺産を次々に現代に甦らせた。

 青山もその眼で『利休』を書き、『梅原龍三郎』『富岡鉄斎』を書いた。かくして〝青山学院〟の小林秀雄を筆頭に河上徹太郎、中原中也、中村光夫、大岡昇平、白洲正子らに「青山が私を築いた」と言わしめ、また彼らが実際に活躍する姿を見て、我も我もと弟子入り絶えず~とか。

 加えて青山は仲間作家の装幀も手掛けた。これがめっぽう魅力的でインパクトもあった。小生は青山学院の作家らを読んだことがないゆえ、以上の記述を読んでも、納得し難いのが実情。まぁいずれは読む時が来るかもです。

 だがそんな子弟関係に亀裂も走る。小林秀雄は昭和28年(1953)に欧米旅行から帰国すると、有名なセリフ「過去はもう沢山だ」を吐き、青山二郎と決別した。理由は諸々だが、その中のひとつが、青山学院の青年らを吉原に連れ行きて「男」にするも、全員が淋病に罹ったことも恨んでいたとか。写真は白洲正子著『いまなぜ青山二郎か』の扉とグラビア。

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青山二郎⑤青山学院と分校、分室 [読書・言葉備忘録]

kawazoinagaya_1.jpg 青山二郎は昭和5年(1930)に同人誌『作品』創刊にも参加。河上徹太郎、永井龍男とも知り合った。青山はその頃に武原はんと再婚。「一の橋」の父親の四軒長屋で新生活を開始。その長屋の隣に永井達男が〝青山学院〟に入学すべく、母親と共に引っ越して来た。そこは川っぷちの古い4軒長屋(2階1間・階下2間)。

 かくして青山・永井の長屋に小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平ら文学青年が連日集って〝青山学院〟スタート。青山宅には、京橋の一流骨董店に飾られていた高価品が転がっていて、浜田庄司の瀬戸物は唾をやたらにする中原中也の痰壺になっていた。

 昭和6年に小林の論文集で処女出版『文芸評論』装幀を青山が担当(すでに自作『陶経』などの装幀を手掛けていた彼は、生涯に400余点の装幀を手掛けることになるが、青山の装幀に関しては後述)。同年、晩翠軒・井上恒一に頼まれて朝鮮に行き、当時はゴロゴロしていた季朝陶磁を蒐集。翌年1月に「朝鮮工芸品展覧会」開催で、季朝陶磁期のブームになる。

IMG_8185_1.JPG 昭和7年、武原はんと別居~離婚して一人暮らしになった青山は、①で紹介の「四谷花園アパート」に移り、そこが第2の〝青山学院〟になる。同部屋にも季朝の棚、船箪笥、衣装ダンス、壺類、中国の皿、九谷の皿や陶片が所狭し。滝井孝作が「織部の逸品が入ったとか。拝見しに来た」と言う。それは今日出男が灰皿にしていたものだったとか。

 四谷花園アパート時代の青山学院の〝〈議論の)揉み揉まれ〟は、銀座・出雲橋の小料理屋「はせ川」。芝浦の安待合「小竹」、新橋の縄のれん「よしの屋」、浅草馬道の待合「老松」にも延長して「分校・分室」になったとか。

 四谷花園アパート時代は昭和8~17年(1933~1942)。昭和17年、41歳。伊東市竹の台の2階から海が見える2軒続きの借家に疎開して7年間滞在した。借家ながら青山らしい独自の雰囲気に改良。1軒に家族が住み、1軒1階に約2千枚のレコード、酒盃50個。2階8畳間の書斎にキリスト教書が約5百冊とか。

 この伊東分校にも小林秀雄、河上徹太郎らが通い、伊東在住の宇野千代、尾崎士郎、出版関係者の疎開組の佐々木茂策(文藝春秋社・社主)、石原龍一(求龍堂)らが集った。その名は「みぎわら・くらぶ」。この頃に青山が入手した「古染付むぎわら手向付」からの命名。主に古美術を楽しむ会。

 この時期に小林は『モオツアルト』を、青山は『千利休伝ノート』『梅原龍三郎』を執筆。ここで彼は「茶道は器に対する愛」と主張。小林は青山から骨董を教わり、青山は小林から文章表現を教わった。

 宇野千代『青山二郎の話』によれば、その頃の同居人は某酒場から引き抜いてきた「恵子さん」。彼女は「前から好きだった男のところで一晩泊まって来た」と青山に報告する馬鹿正直な女性だが、水か空気のように目立たない存在だったとか。

 昭和35年、麻布・二の橋に高速道路が出来て、青山は何億円もの大金を手にすることになる。写真は「東京都オープンデータカタログ」より首都高速が出来る前の一の橋辺り。川っペリに当時の長屋風情が残っている。

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青山二郎④骨董から文学へ [読書・言葉備忘録]

hasecyuhide_1.jpg 青山二郎は骨董修業中の大正13年(1924・23歳)、小林秀雄に出会って人生が変わった。柳宗悦の甥・石丸重治が小林の同級生で、石丸は同人誌『山繭』創刊に小林と青山の参加を勧め、青山に文学の扉が開いた。このとき青山23歳、石丸と小林は22歳。

 小林秀雄は同年に小説『一つの脳髄』(私小説)を、翌年2月に『ポンキンの笑い』(後に『女とポンキン』に改題)を発表。この時期に中原中也と出会った小林は、中原の恋人・長谷川泰子と同棲して三角関係。当然ながらこじれて、彼は昭和3年(1928)に奈良へ失踪。翌年春に帰京して『様々な意匠』で『改造』懸賞論文に応募して二席入選。批評家として文壇デビュー。(長谷川泰子は広島市の家出娘で、東京他で放浪し、関東大震災後に京都はマキノ・プロダクションの大部屋女優へ。16歳の中也と20歳の泰子は同棲生活を開始していた)

 青山にも事件が起きた。浜田庄司の展覧会で会った野村八重を見そめて、大正15年(昭和元年・1928)に結婚。だが八重は1年後に肺結核で死去。青山は昭和3年に11編(文学系世と民芸系)作品(雑文)を発表。文学系の『書翰往来』は、小林が「小説を書け、もっと身を入れろ」の叱咤に「俺の先生面をするな」の交換書簡。『新婚旅行』は八重の健康を気づかって妹帯同の新婚旅行記。青山は工芸家と連日議論で、妻と妹は買物。その中で俥で擦れ違った志賀直哉の眼に衝撃。『短い記憶』は身ごもった妻が亡くなるまでの経緯。

 一方の民芸系作では、柳宗悦との決別を漂わせていた。柳の民芸運動は「名工の形(上手物)」ではなく、民衆の生活用品(下手物=雑器の美=用が美を生む)を推奨。一方の青山は季朝の陶磁器など「百万中の一つ」の工芸に魅せられる志向で、「民芸」とは対極の観賞眼。青山は柳の民芸運動と決別して、自分の道を歩み出そうとする内容。

 ここで『別冊太陽』の白洲正子記『「ととや」の話』から青山の骨董世界を覗いてみる。~骨董は自分ひとりの所有にしたく、博物館に入ることは骨董趣味の死を意味する。季朝の名品「ととや」(島津家伝来)を小森松庵なる茶人が持っていた。広田熙に赤紙が来て、彼は死ぬ前に「ととや」を拝みたい。無事に帰還できた暁に「ぜひ譲って欲しい」と懇願。無事に帰国した広田と松庵の間で「譲ってくれ・譲らぬ」問答。カッとした松庵は「そんなに欲しいのか」と叫ぶや「ととや」を庭石に投げつけた。広田は破片を拾い集めて修復し、松庵に返し、改めて譲って貰った。その「ととや」が青山二郎の手に渡り、今は埼玉辺りにあるという話。骨董に興味もく、手も出ない小生にとっては、骨董は〝異常な貪欲で浅ましき世界〟にみえてくる。

 写真は「ウィキペディア」より左から小林秀雄、長谷川泰子、中原中也。次は〝青山学院〟について。

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青山二郎②クーデンホーク光子と青山二郎 [読書・言葉備忘録]

IMG_8181_1.JPG 昨年秋に「クーデンホーフ光子」シリーズをアップした。その時に、~光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父・青山喜八は幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。明治20年になっても「ちょうん髷頭」の旧弊な男で。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた、と記した。

 さて田野勲著『青山二郎』を読むと、光子の父・喜八は靑山二郎の祖父の兄弟で、光子は二郎の母きんの2歳上の従姉妹だと記されていた。青山二郎は、父・八郎右衛門と母・きんの次男として明治34年(1901)に生まれた。長男・民吉は5歳上。靑山家は信州上田の出身で、米を中心に商っていて、その後に江戸で仲買をしていたらしい、と記されていた。女系家族ゆえ先祖は母方系。九州佐賀と信州上田のどちらが正しいのだろうか。

 青山家代々の墓は、三軒茶屋の正蓮寺。墓碑に二郎の母きん(昭和8年没)、父の八郎右衛門(昭和26年没)の名はない。同墓隣接で「青山喜八」の墓はある。青山八郎右衛門は婿養子で、本名は茅根清十郎。茨城県久慈郡出身。慶應義塾大学2期生で、結婚前は銀行員。曾祖父が一人娘きんの金遣いの荒さから、銀行員で締まり屋の八郎右衛門を養子に迎えた。

 八郎右衛門は家の脇を蛇行する古川を、防災のために真っ直ぐに改造・護岸して、それによって余った土地を安く払い下げでもらって広大な土地を手にした。現・麻布十番を走る高速道路「一の橋ジャンクション」辺り一帯が青山家の土地になって、その敷地面積約1万坪。彼はその広大地で貸家業を始めて莫大な収入を得た。当時の『時事新報』の資産家名簿に名が載る大金持ち大地主。彼は単なる締まり屋ではなく優れた企業家でもあった。

aoyamamituko.jpg だが理解に苦しむのは、長じた二郎が眼前に父が現れると「ハウス」と犬に命令するように立ち去らせ、長男・民吉も「下がれ」と追っ払ったとか。富豪ながら彼は居住するのは万年床の四畳半。一体、何があったのだろうか。その辺の謎が、とても気になる。

 次郎の母きんは、光子の母つねより2歳下の従姉妹。きんはどんな女性だったのか。きんは一人っ子で甘やかされ育って天真爛漫、我儘、放縦、金遣いも荒かった。長男・民吉は太った大柄だったが、小柄華奢な二郎を溺愛して二郎が12歳になっても彼を抱いて寝ていたとか。

 別冊太陽『靑山二郎の眼』で、森孝一は『「好き」に尽きた人生』で、こう説明していた。青山家は七代続いた女系家族。光子も二人姉妹で、光子の母つね(津弥)も四人姉妹。麻布一の橋の青山家には曾祖父、曾祖母姉妹、母きん、父八郎右衛門、民吉と二郎が住んでいた。祖父は木場に、祖母は大森に住んでいて、青山家の采配は曾祖父が振るっていた(この辺もよくわからない)。青山家には強精剤「おっとせい丸」の看板があるも、これは八郎右衛門には関係なく、恐らく幕末頃の靑山家の珍商売の一つだったのでは~、と記されていた。

 謎の多い青山家ストーリー。後に〝青山学院〟とまで呼ばれるほど多くの文人らから崇拝された文芸サロンの主、青山二郎の少年期についてを探ってみる。

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青山二郎①『四谷花園アパート』 [読書・言葉備忘録]

IMG_6700_1.JPG 図書館で以前から気になるも、手にしなかった村上譲著『四谷花園アパート』を読んだ。昭和のはじめ頃に、現「花園東公園」辺りに三棟続きの大きなアパートがあって、そこで活発な文壇交流があったそうな。場所は靖国通り、富久町西交差点際の現トヨタ販売店の角に小さな「新宿区地域文化財〝花園アパート跡〟碑がある。その奥が「花園東公園」。

 史跡にこう記されていえう。「装幀家・美術評論家青山二郎が昭和8年~17年頃までの約8年間を過ごしたアパートの跡。同じ頃に評論家小林秀雄や詩人中原中也も居住した。青山の部屋には他に三好達治、大岡昇平、河上徹太郎、永井達男らも集い、通称「青山学院」と呼ばれた文芸サロンとなっていた」(小生、これら人物に興味抱かずで、読む気にならなかったらしい)

 一号棟と二号棟が東西に並び、コの字型廊下でつながり、三号棟は廊下の東側に独立して建っていた。十銭入れるとガスが使え、管理事務所や食堂があり、男女別の共同湯があって当時の文化アパート。この文章から、さぞモダンなアパートと思うが、hanazono5_1.jpg今日出海がこう記している。「女給の住む木造の薄汚いアパート。見るからに見すぼらしく、入ると便所の臭気が建物中に漂い、セメント廊下に下駄の音が響き、部屋の外に炭俵を置かれ、廊下は炭の粉末で白い足袋が忽ち汚れてしまう。そんなアパートだが、青山の部屋へ入ると様相は一変。十畳と六畳で、広い部屋が応接間で革張り肘掛椅子やソファーが並べられ、蓄音機にバッハ全集やモーツァルトのレコード。朝鮮の壺(高価骨董)や小机等々が足の踏み場もhanazono6_1.jpgないほどに転がっているが、彼なりに整頓されている。彼は大抵この部屋にいて、そこに昼間から人が訪ねて来るのである」

 同アパート二号棟は三階建てで、そこに中原中也が新婚所帯を構えた。青山の隣にピアニストで河上徹太郎と親友で吉田健一の親戚の伊集院清二が、かつて高見順の妻で銀座「エスオアノル」の女給・石田愛子と同棲していた。愛子が伊集院を抛り出すと、以前の同棲相手の若者と暮し始め、また別の男になり、最後は上海に渡った。

 次に坂本睦子が来て、青山と結婚することになる服部愛子も引っ越して来た。青山はとりもった小林秀雄と森喜代美も新婚当初は同アパートにいて、中也と同棲し、小林秀雄とも一緒に住んだ長谷川hanazonosiseki_1.jpg泰子もからむ。彼ら住民に加えて青山が通う銀座や新宿の酒場仲間らも遊びに来て「四谷花園アパート」はますます賑わう。

 この〝青山学院〟メンバーは新宿「ムーラン・ルージュ」にも通った。そこに菊池寛、志賀直哉、谷川徹三、高見順、田村泰次郎、丹羽文雄、広津和郎、石川達三~がいる。新三越裏のカフェー横丁で呑む文士らもいる。萩原朔太郎も夜の新宿でうろついでいた。

 小生には、馴染ない作家ばかりだが、実は同地はあたしの社会人最初の広告制作会社があり、フリーになった小生のスタッフが増す度に事務所を転々とした場所なんだ。

 同書には最近の弊ブログで紹介のクーデンホーク光子の父と、青山二郎の祖母が兄弟だったとあり、また金子光晴が海外放浪から帰国した住んだ安旅館「竹田屋」は同アパート近く太宗寺横で、森三千代が住んだのが二丁目の中華料理屋「楷喜亭」二階アパートだと記されていた。光晴の「竹田屋」には山之口獏や正岡容や国木田独歩の息子・虎雄が訪ねてくる。

 その頃に草野心平が屋台の焼き鳥屋「いわき」を角筈でやっていた。花園町十三番地のバラック小屋に田中英光と山崎敬子が住んでいて、英光が敬子を刺して四谷警察所に逮捕された。本郷・菊富士ホテルを出て西大久保の自宅と執筆場所の新宿ホテルを往復していた広津和郎が、手をつけた21歳下の女に付きまとわれていて、武蔵野館通りの喫茶店で雑誌『人民文庫』会合中の高見順、田宮虎彦、田村泰次郎らが警官に踏み込まれて手錠の数珠つなぎで淀橋警察署まで連行されて行った。

 まぁ、そんなこんなの新宿文壇事件が紹介されていて、それは以前に面白く読んだ近藤富枝『本郷菊富士ホテル』の新宿版だと気が付いた。馴染ない作家・評論家らに加えて構成・視点も塩梅悪く夢中にさせるほどの内容ではなかった。 

 それにしても馴染ある地で、またウォーキング圏内ゆえに、それらの誰かにいずれは興味を持ったら、また読むなり調べ知ろうと思っています。写真は上から本、花園東公園、トヨタ角 そこに設置の史跡案内。

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離群性~ [読書・言葉備忘録]

rigun_1.jpg 金子光晴や武林夢想庵の本を読んでいたら「離群性」なる言葉に出逢った。机上の旺文社国語辞典・漢字辞典には見当たらず、「広辞苑」に「離群:仲間をはなれること」とあった。

 生涯フリーランサーだった小生も、文字通り「離群性」人生だったらしい。詳しくは書かねど小・中学時代に疎外感を覚える事件あり。渋谷の高校に入学すれば、有名不良中から来たってんで、上級生らに地下部室で袋叩きの歓迎を受けた。高2からは学校より社会人の山岳会活動が主で、修学旅行費が山行費に化けた。

 大学は、親の勧めで理工学部へ。白衣を着て試験管を振りながら「俺は何をやっているんだろう」とキャンパスに通うのを止めた。アルバイトを経て街の美術研究所へ。アル中絵描き先生が、深夜に酒に酔った独白テープを聴く講義の他は、まぁ独学せい~みたいな感じで、勝手に4年間在籍した。

 広告制作会社に応募。「カンディンスキーを読んでいました」が気に入られたかで採用され、グラフィック・デザイナーで社会人になった。ラッシュアワー電車を嫌って、初任給でドロップハンドル購入で自転車通勤。ときに電車に乗れば、乗り換えの新宿西口地下はフォーク集会で、彼らを掻き分けて地上へ出ればフーテンがシンナーを吸っていた。

 2年後にPR会社に転職。2年目に某企業に出向。両社狭間を経て計2年で退社し、以後は生涯フリー。所属会社も所属組織も所属同好会もなしで隠居に相成候。

 「あぁ、離群性か」と呟いてみた。喜寿を迎えた金子光晴は「過ぎし日のこと、すべてはむなしかりき」と記していた。

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金子光晴⑧エロじじい晩年と名著 [読書・言葉備忘録]

kanekozensyu_1.jpg 昭和21年(1946)光晴51歳、三代子46歳、息子22歳。山中湖畔から焼失を免れた吉祥寺の我家に戻る。息子、早大に入学。「コスモス」創刊に同人参加。彼の反戦・反権力を貫いた詩、著作に評価高まるも稿料は僅か。モンココ化粧品本舗は営業不振で収入途絶えた。今や小説家・三代子の収入頼り。

 昭和23年(1948)53歳。詩人志望の大川内令子25歳と深間になる。彼女との関係はその後30年余続く。三代子はリューマチで半臥状態で、光晴は旺盛な執筆活動。昭和26年56歳。翻訳『ランボオ詩集』『アラゴン詩集』刊。その翌年に詩集『人間の悲劇』発表。ママゼル本舗(染髪)の宣伝部に籍を置く。令子との結婚承諾を得るべく彼女の実父に会いに佐賀県へ。併せて九州一円で講演。

 昭和28年(1953)58歳。マダム・ジュジュ化粧本舗の顧問になる。息子のパリ留学に両親が揃っていることが条件で令子と無断離婚し、三代子との籍に戻す。詩集『人間の悲劇』が第5回読売文学賞を受賞。翌年、息子、パリ留学。令子の籍を戻す。昭和32年(1957)62歳。自伝『詩人』刊。

 三代子は中国青年将校との交情を描いた『新宿に雨降る』を発表。彼と令子との婚姻届けを知って、昭和34年『去年の雪』で憤懣を吐露。不自由な身体ながら三代子が光晴を殴りかかり、その後に光晴は三代子を抱く、60歳を越えても愛憎と愛欲の旺盛なこと。

 昭和40年(1965)70歳。詩集『IL』と『絶望の精神史』を刊。『IL』は翌年に歴程賞を受賞。翌々年72歳。『定本金子光晴全詩集』はじめ出版多数。新宿紀伊国屋書店で『若葉のうた』サイン会。昭和44年(1969)74歳。軽い脳震塞で入院。テレビ「人に歴史あり」に出演。昭和46年(1971)76歳。三代子とのアジア・欧州放浪記『どくろ杯』から続く三部作を執筆。この頃に美大中退の18歳木村まさ子と交際。80歳直前にも人妻と交際。晩年の「エロじじい」大奮闘。その人気について、本人は「反戦・反権力で過激右翼に狙われていたから〝エロじじい〟浸透で丁度いいんだよ」と言っていたとか。

 昭和47年(1972)77歳。前年刊の『風流尸解記』が芸術選奨文部大臣賞を受賞。昭和49年(1974)79歳。7月から半年間、雑誌『面白半分』編集長。光晴は死の2週間前に令子(愛称うさぎ)とデート。二人の関係は昭和23年から28年間も続いた。光晴はその顛末を『姫鬼』に書き、桜井慈人も『恋兎 令子と金子光晴』に書く。令子の内股に「みつ」と彫り、自身の肩に「れいこ」と彫った。

 昭和50年(1975)80歳。自宅で苦しみなく急性心不全で永眠。その2年後に森三代子も死去。まぁ、夫妻共にあっぱれな性遍歴と、反戦・反権力を貫いた詩人だった。小生に性遍歴は見習うことは出来ぬも、反戦・反権力は見習えそうです。近くの図書館に『金子光晴全集』が開架であり、少しづつ読んで行きたく思っています。(完)

 参考資料:金子光晴『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』『絶望の精神史』『金子光晴全集・第十二巻』。竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、森乾『父・金子光晴 夜の果てへの旅』、『相棒 金子光晴・森三代子自選エッセイ集』、ちくま日本文庫『金子光晴』、山本夏彦『夢想庵物語』、群ようこ『あなたみたいな明治の女』、山崎洋子『熱月』など。

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金子光晴⑦帰国後の反戦詩と遍歴 [読書・言葉備忘録]

kanekozetubo_1.jpg 本題、金子光晴に戻る。昭和7年(1932)37歳。光晴は三代子の旅費を稼ぐべく、再びマレー半島へ。ゴム林を背景にした日本人一家を描くなどで画料・餞別を得てシンガポールへ戻る。すぐに帰国船へ乗れば良いものを、また女に引っかかった。英中の混血で義腕の美女に入れ込んで旅費をなくす。

 そんは彼がシンガポールのホテル滞在中に、三代子が来る。4ヶ月振りに抱き締めようとすると拒否された。彼女の新しい男がいた。マルセイユのホテルでパリ帰りの若者・姉川と知り合い、特別3等室に20日間に籠りっきり。三千代子「彼と一緒に神戸に向かいます」。光晴が対峙すると男は「あなたより彼女を幸福にします」

 光晴はまた絵を売る、知人に借金をして、やっと帰国。三代子の養父母に預けた息子を訪ねると、三代子の手紙。「財閥の若者は、神戸に着くと出迎えの者に家の破産を知らされ、二人の関係は船中だけのことにしてくれ~」と。

 三代子は息子を預けたまま新宿のアパートへ(下が中華料理屋の2階の部屋)。光晴も新宿・大宗寺横の連れ込み旅館「竹田屋」に部屋を借りた。部屋の後ろ廊下を朝から夜中まで連れ込みの男女がミシミシと音を立てて通る。彼女を訪ねて半年ぶりに交歓。昭和9年(1934)39歳。新宿北辰館から牛込余丁町109の独立家屋へ(一地震あれば崩れそうな二階家。五坪ばかりに庭に老木のザクロがあった)。親子3人一緒に暮らす。三代子は欧州帰りの女性ということで「女人芸術」の長谷川時雨はじめの口ききで、原稿依頼が舞い込み始めた。光晴が手を入れつつも、次第に女流作家の道を歩み始める。

nisihigasi_1.jpg この頃の光晴は、文字通りの貧乏神だが、昭和10年(1935)に朗報。実妹捨子のモンココ化粧本舗から広告宣伝担当で月50円で雇われた。余丁町124番地へ移る。翌年に二・二六時間。シンガポールから持ち帰ったノートから推敲した詩『鮫』が雑誌「文芸」掲載。これを機に彼にも原稿依頼。反戦・反権力詩人としての名を確立して行く。

 昭和12年(1937)42歳。詩集『鮫』は三代子の新たな恋人・武田麟太郎主宰の「人民社」から刊。当時は詩壇は「四季」と「歴程」中心で、注目度は僅少も、彼の20代から貫かれt離群性、孤独性に評価。同年12月、日華事変勃発。会社の市場調査と云う名目で、戦争の実態を確かめに三代子と共に北支を旅行。前線の残虐侵略から帰還する兵士らの、人間の様相を失った狂った呈(アモック状態)に、己の反戦・反権力の姿勢に確信を深める。(日中戦争:昭和12年~20年)

 昭和13年(1938)43歳。三代子37歳。正月を万里の長城で迎え、1月半ばに帰国。3月に余丁町を出て、終の棲家となる吉祥寺の家を購入。義父の胃癌看病に、義父の姪・山家ひで子が来て、光晴とひで子の関係が復活(彼女は在学中に芸者になり、小唄山家流家元、戦後は連れ込み宿を経営。光晴74歳の脳溢血時も見舞っている)。

 昭和16年(1941)46歳。12月に太平洋戦争勃発。彼の反戦。半権力の詩は発表の場が無くなった。三代子は昭和18年『和泉式部』で新潮社文芸賞を受賞。昭和19年(1944)49歳。息子に召集令状。荒事をさせて気管支嘆息の診断書を得て召集延期。山之口獏が2ヶ月ほど同居。12月、空襲が激しく、山中湖のボロ別荘に疎開。

 昭和20年(1945)50歳。息子に再び召集令状。嘆息発作の息子を水風呂などで再び召集延期で戦死を免れた。氷点下の家で凍ったインクを溶かしつつ作詩に専念。終戦の玉音放送に『セントルイス・ブルース』のレコードで踊り祝った。昭和21年(1946)51歳。吉祥寺に戻り、息子は早稲田大学に入学。「コスモス」創刊に同人として参加。詩集『落下傘』『蛾』『鬼の児の唄』などを次々に発表。

 ★写真「為政者へ信頼失せて午後8時」「街に出でアブストライク朧かな」を「隠居お勉強帖」にアップ。 

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金子光晴⑥武林夢想庵とは(2 ) [読書・言葉備忘録]

fumiko_1.jpg 武林(中平)文子登場です。明治21年、松山生まれ。夢想庵より8歳下。美人で賢く我儘いっぱいに育った。18歳で見合い結婚して3児を年子で産む(当時はコンドームなく性交=妊娠)ことに嫌気がして離婚。時あたかも松井須磨子がトップ女優になって新たな女性像が現れたことも影響したらしい。

 二度目の夫は嫉妬深いく、自分が外出するときは文子を柱に縛り付けておくほどで、文子は大陸へ逃げた。資生堂化粧品を売り歩きながら、何人もの男と〝必要に応じて肉体関係〟を重ねながら2年余の放浪して離婚成立へ。

 そして大正5年28歳「中央新聞」婦人記者になり芸者、派出婦などになるルポ連載「お目見日記」で人気。同社社長の〝思いもの〟になってわがもの顔の振舞いで、結局は同社を追われた。

 大正9年、鵠沼の文士旅館「東屋」で原稿書き。そこにいたのが夢想庵。彼はここが財産家妻女「鎌倉夫人」との逢引場所だが、文子は彼は北海道の土地を売った3万円で、辻潤と洋行する予定を知って「あたしと行きましょうよぅ」。田山花袋の仲人で帝国ホテルで結婚。夢想庵40歳、文子32歳だった。すでに夢想庵ではない誰かの子を宿していたらしい。

 大正9年5月、支那へ新婚旅行。8月に渡欧。12月、パリでイヴォンヌ(五百子)誕生。(夢想庵が異母妹・豊に産ませた子と同年誕生)。大正10年7月に英国で遊び、8月からベルリン、ドイツ、スイス、イタリーを歴遊してパリへ戻る。文子はなで肩で身長5尺ほど。西洋人からみれば17、8歳に見えて「なんと可愛い」と云われて有頂天。

 大正11年に帰朝。夢想庵は中林家の隠居所に仮寓し『結婚礼賛』『文明病患者』を改造社から刊。同12月に再び渡欧。今度の渡欧費用は僅か4千円で、文子も働いた。ロンドンの日本料理店「湖月」(川上貞奴座の女役者・花子の店で、番頭は彼女のツバメK)に、パリに支店を出すよう持ちかける。文子とKは即〝ねんごろ〟になる。パリ支店は大繁盛で各界名士も集う。文子の男漁り。とりわけ金持ちと見誤ったI青年と〝ねんごろ〟になるなど悶着頻発で、支店は4ヵ月で閉店。Kはロンドンの店も手放してモナコに開店。文子はそこで越後獅子やかっぽれを踊る。夢想庵は文子から小遣いをもらって安宿暮し。

 店の経営が苦しくなって、夢想庵の札幌の土地が狙われた。I青年が実印と白紙委任状を持って、札幌の土地、時価3万円を手にする。モナコでは文子とKの諍いで、文子ピストルで撃たれる。頬を貫き奥歯で止まって一命をとどめる。Kは半年ほどで出所。

tujijyunhon.jpg 夢想庵は文子を寝取られた『Cicuのなげき』を発表。ピストル事件のスキャンダルも相まって大きな話題になった。文子は帰国の際も商売アイデアを発揮。ディーラーPRイベントとして黄色のシボレーで大阪~東京を移動。東京に戻ると女優の仕事が待っていた。ギャラを得てパリに戻る。

 今度はエチオピア皇太子の結婚報に、現地取材で稼ぐべく同国と貿易の宮田社長に接触。文子56歳、社長40歳で3年間の契約結婚。大阪角座に妖婦役で出演後に渡欧。第二次世界大戦後にベルギーから強制送還された二人は、東京で古い電車改造のレストラン開店で成功。宮田の貿易仕事のメドがつくと再びベルギーへ。気がつけば3年の契約結婚が30年余。宮田の包容力、経済力に負うところが大。

 文子77歳。帝国ホテル住まいの彼女に、イヴォンヌ44歳の死が知らされる。イヴオンヌも辻まこと(後、東京で再会した二人は結婚し、子供を三人つくったにもかかわらず、数年後に離婚した。「熱月」より)と別れてからも波乱の人生だが、ここでは省略。文子は夢想庵に対して「私の洋行結婚があなたの一生を不幸に終わらせた」と云ったとか。

 金子光晴と三千代子、武林夢想庵と文子。濃密複数愛(ポリアモリー)で似た者同士。だが文子と宮田には文士にはない実業家の粘り・根性があったようです。ここまで記し、彼女の生涯を小説化した山崎洋子『熱月』(写真上)があるのを知った。写真下はイヴォンヌの最初の夫・辻まこと著『山からの絵本』。同書のなかに三原山で墜落した「もく星号」から散った宝石集め収集の話が書かれている。

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金子光晴⑤武林夢想庵とは(1) [読書・言葉備忘録]

takebayasihon_1.jpg しばし横道~。金子光晴自伝に「武林夢想庵」が登場する。かつて読んだ辻潤関連書にも登場で、その時はスルーした。この機会に山本夏彦著『夢想庵物語』から彼の横顔を探ってみた。

 同書口絵に夢想庵、妻の文子。銀座を颯爽と歩く辻潤息子の辻まこと、竹久夢二の息子竹久不二彦、夫妻の子イヴォンヌの写真など。山本夏彦と辻まことが競って、イヴォンヌは辻の最初の妻になった。その名から洋風美女を想像も、丸顔のフツーの娘さんだった。

 夢想庵は明治13年生まれ。札幌で写真館経営の武林盛一の弟子=三島正治の子・磐雄で、武林家の養子になった。盛一は榎本武楊に従って函館戦争に参加後に、函館でロシア海軍士官に習った写真術で、道庁のお抱え写真家から札幌と東京で写真館を経営。

 盛一は札幌写真館を三島正治に任せ、4歳の磐雄を連れて東京・麹町区1番町の武林写真館へ。磐雄は学業優秀。写真館を〝営業養子〟に継がせ、番町小学校~一中~一高~帝大の出世コースを歩ませた。

 明治30年、磐雄18歳。実母病気で札幌へ。妹みつ13歳が「東京のお兄さん」と抱き付いた。彼は改めて実父母を認識。一高生の時、実父が妹みつを連れて上京。妹の肢が悪く、東京で手術するも不成功。彼女はそのまま東京「女子学院」寮生へ。土日に彼の家に帰ってくる生活で、二人の仲は次第に親密になる。

 明治36年24歳。東京帝大英文科入学。一高からの友と同人誌「七人」結成(後の「新思潮」母胎)。同書には七人に加え小泉八雲、島崎藤村、夏目漱石(3人共に新宿に旧居史跡あり)との交流も記されているが省略する。磐雄は柔道・体操・アコルデオンも得意だが、志はあくまでも文学だった。

tujijyun.jpg 一高入学前の明治32年、短編『夢うつゝ』で「新小説」懸賞に応募。撰者は紅葉露伴鴎外逍遥の4大家で、選外佳作に永井荷風らと共に選ばれた。同人仲間の小山内薫が父逝去で、麹町3丁目の家を売って小石川宮下町へ移転。養父・盛一は小山内好きで、彼の新居近くに230坪を借りて磐雄の家を新築。磐雄が学士になったら嫁(札幌の叔父の縁続き・八重子)を迎え、そこで所帯を持たせる算段~。

 磐雄の『竹村翠』が新派の本郷座大阪公演の演目に決まった頃、麹町の自宅に生田葵山、田山花袋、柳田国男、国木田独歩、小栗風葉らが訪ね来て、彼らの「龍土会」にも誘われる。なお生田葵山は荷風と同じ「木曜会」メンバー。

 その頃の彼は、本郷座の芝居茶屋「まる正」女主人おフク(小山内が若いツバメだった)の妹「おキン」と深間。養父の勧めの八重子を避けたことで東大退学し、京大法学部へ。「おキン」も磐雄との関係が許されず「天津日本租界」へ。二人は京都・満願寺の座敷で気を失う程の交情2日を経て、彼女は大阪港から天津行きの船に乗った。

 磐雄は満願寺に逗留。京大入学が来年ゆえ、大阪毎日新聞に就職。自作小説の掲載決定で、雅号「夢想庵」に決まる。養父の病状芳しくなく1年ほどで東京へ。一方「おキン」は天津着早々に銀行員と結婚約束して東京に戻っていた。逢えば、二人の関係がなかったようにケロリとされて、夢想庵の心から彼女が消えた。

 「おキン」と別れたことで、養父の希望通り八重子と結婚。宮下町で所帯を持つ。八重子、妊娠するも、文士連に馴染めず。二人の仲は冷えて夢想庵は離れ八畳間で生活。妹みつは女子学院卒後は、同校教員になって夢想庵宅で生活。みつは友Fを夢想庵に紹介し、Fは頻繁に「離れ」に訪れる関係になる。また札幌の異母妹・豊が20歳になって、東京の女子大に入れるべく同居。大正7年、夢想庵は宮下町の家を売って、全員で麹町の借家へ。

 大正8年、みつ35歳で渡米(帰国は大正14年)。みつが居なくなって夢想庵の生活は荒れた。大正9年に豊に子を産ませている。同じ頃に意気投合の辻潤が居候。辻が階下、夢想庵が階上で暮し、夜は毎晩のように二人で呑み歩き。大正12年、関東大震災。

 同書口絵に「みつ渡米送別会(谷崎潤一郎、佐藤春夫他11名)」の写真あり。みつの隣に凄い別嬪「鎌倉夫人」がいる。鎌倉夫人も、みつが夢想庵に紹介。鎌倉夫人と夢想庵の密会は鵠沼の旅館。夫人は財産家の妻女で二人の子持ち。同家主人も女中も公認の関係。小生は、みつが夢想庵との相姦を断ち切ろうと学友Fを、鎌倉夫人をと次々に紹介していたように推測するが、いかがだろうか。

 さて、鎌倉夫人との逢瀬が待ちきれない夢想庵が鵠沼の旅館に行くと、そこに輪をかけて奔放な「中平文子」が泊まっていた。ここから二人の「パリ物語」が始まる。(続く)

 写真「行く春のスカスカと舞ふ軽き国」「温暖化街も泳ぐや熱帯魚♂」を「隠居お勉強帖」にアップ。

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金子光晴④『ねむれ巴里』の頃 [読書・言葉備忘録]

nemurepari_1.jpg 大正14年(1925)30歳。長男・乾が誕生。室生犀星が保証人で婚姻届け。大正15年春、佐藤紅緑の代筆100円を得て、二人は上海~蘇州~杭州~南京の新婚旅行。昭和3年、高円寺から夜逃げして中野雑色に移転。

 同年、国木田独歩の息子・虎雄が父の印税を手にし、光晴に上海案内を乞う。約3ヶ月ほど遊んで中野に帰ると三代子の姿なし。彼女は東大生のアナキスト土方定一(草野心平の詩誌「銅鑼」同人。後の神奈川県立近代美術館館長。美術評論家)の許へ。〝子供をダシ〟に連れ戻し、早稲田鶴巻町の貸部屋へ。三代子は2日居ると3日目には土方の許へ。彼女を土方から離すべく「パリ旅行」を提案。子を彼女の実家(長崎)に預け、長崎からアジアへの船に乗った。

 さて『どくろ杯』の続き。昭和4年(1929)34歳。三代子をシンガポールからパリへ旅立たせた光晴は、自分の旅費稼ぎにクアランプール~ピナン島~スマトラへ。日本人の肖像描きなどで旅費を稼ぎつつシンガポールに戻って、リバプール行きの船に乗った。

 マルセイユ港着。夜行列車でパリへ。大使館の在留邦人名簿から彼女のモンパルナスの住所を知る。新たな男がいることを警戒しつつ扉をノック。「入って大丈夫かな」。新婚当時のような濃厚な交歓に相成候。

 パリには日本から送金がある裕福青年の他は概ね挫折。滞在期間も過ぎ、金もなく、乞食になる他にない。だがパリは〝色情狂〟の街。男は老婦人の男妾に、女を口説く男は溢れている。「シャンジュ・シュバリエ」(踊り途中で相手を変える時の掛け声)よろしく、次々に異性相手を変えて生きて行く他にない。

parifujita.jpg その例として光晴は武林夢想庵・中平文子と子・イヴォンヌを挙げている。(彼らについては、以前に読んだ辻潤関連書でスルーしたので、この機会に調べたく次回に紹介)。

 上記から〝性がらみ〟他で生きて行くのは至難も、光晴は困窮の日本人救済を駐在武官に訴えて対策費を懐にする、留学生の博士論文の手伝い、在留邦人名簿の整理や未納会費の集金、日本から進出した宗教団体の教祖伝説を錦絵にしたり、額縁に彫り物を施す仕事などで食いつなぐ。三代子の詩をガリ版で刷って売れとアドバイスしたのは藤田嗣治だった。

 某日、光晴は彼女の父から送られた帰国費用300円(4千フラン)をこっそり懐に入れる。高級店で彼女に衣服を、自分に靴を買い、贅沢な食事と観劇。金は瞬時に半分消え、勇気を絞って金の出所を告白すると三代子は「あ、そう」。

 リヨンに移動した彼らは切羽詰まって、絵を描き売るためにデパートで絵具一式を万引きする。だが水彩の積りが油絵具で描くのに四苦八苦。次第に三代子の働きに頼るようになる。1回50フランで1ヶ月のモデル仕事、日本物産展の売り子、ベルギー・アントワープでの船乗り相手の会社事務仕事~。

 パリで一人になった彼は改めて宿探し。そこは連れ込み部屋が覗ける穴があり、その噂が日本人の間に広まって次々に覗きに来る。食い詰めた二人は、光晴が10年前に訪れたブルッセルの根付収集家イヴァンを再度訪問。光晴は水彩画を描き溜め、他の画家らと展覧会。加えて借金もして帰国の途につく。アントワープの彼女には旅費送り次第に帰国せよと伝言するも、彼女の方が稼ぎよく、彼をシンガポールで追い越した。

 小生、乗りかかった船ゆえ、次の最終編『西ひがし』から彼の晩年まで読みましょう。★本日「隠居お勉強帖」アップ

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金子光晴③春画と画集 [読書・言葉備忘録]

morikencyo2_1.jpg 金子光晴が極貧旅行中に春画を描き売って糊口を凌いだ~という春画をネットで見た記憶がある。今ふたたびネット検索すれどヒットせず。記憶違いかな、と思った。

 江戸時代の画師は春画で糊口を凌いだ。池田満寿夫だって生活苦に春画4点版画セット4~500円完売で、当時の1か月半の生活費1万円の収入。それで抽象より具象画の方が売れると認識した。昭和35年に限定40部の色彩性交版画『男と女』、昭和43年限定20部『愛の方法』。彼が有名になった時、それら春画は古書市場で120万の値がついたとか。

 金子は小学時代に小林清親から日本画を倣い、上野の美術学校・日本画科に入学。極貧で行き詰まれば春画を描き売っても不思議はない。ネット調べを続けると、最近になって彼の画集2冊が出版されていることを知った。

 昭和50年(1981)の『金子光晴画帖』(三樹書房)、平成9年〈1997)の『金子光晴旅の形象』(平凡社)。ネット巡りを続けると「有名なその春画はインターネットでも見ることができる」の文言はヒット。あぁ、小生は見たのは幻ではなく、恐らくその後に削除されたのだろう。

 次に彼の絵について、子息・森乾著『父・金子光晴伝』の「金子光晴のブルッセルの画」で『金子光晴画帖』以前の作品に出会った思い出を記していた。彼の最初の渡欧は24歳。ベルギーのブリュッセルに1年半滞在。その10年後に、森三代子との旅で食い詰め、再びブリュッセルの〝根付〟収集家ルパージュ氏を訪ねた。そこで描いた絵をもって他の画家らと展覧会を催して金を得てパリへ。その金を使い果たして再度ルパージュの許に戻って帰国の金を工面してもらっている。

aibou1_1.jpg 子息は早大在外研究員として渡欧の際に、父が晩年まで借りたままの旅費を気にし、また大きな好意に感謝していたことを伝えるべく、ルパージュ未亡人(94歳)を訪問。その際、未亡人が木箱に収められた父の画をテーブルに並べ「この画集で、あなたのお父さんの借金は棒引きよ」とほほ笑んだ。

 また当時の展覧会カタログ、展覧会評が載った新聞4紙の切り抜きも差し出した。水彩画30点とデッサン4枚を出品で。(ネットで見ることが出来る『京劇』も含まれているから、それが後に『旅の形象』になったのだろう。

 その新聞評の多くが、藤田嗣治の絵画とも、他の多くに日本人画家のフランス画模倣とも違って、日本版画の繊細タッチと色彩の美しさが評価されていた。なお子息は早大教授を定年退職し、平成12年(2000)に享年75歳で亡くなっている。さて『どくろ杯』続編『ねむれ巴里』を読んでみましょう。

 写真は森乾著『父・金子光晴伝』の金題字と、蝸牛社刊『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』の口絵写真の覗き見。★本日「隠居お勉強帖」アップ

 追記:「金子光晴全集・第12巻」の差込に版画家の永瀬義郎が「光晴夫妻と巴里での出逢い」でこんな事を書いていた。「僕から見れば、金子君は立派なポルノのイラストレーターであった。彼の場合は〝港々に女あり〟ではなく〝港々にヌード絵のファン〟が待っていた。夫妻が無一文で巴里まで辿り着けたのは、このかくし芸のお陰と言っても過言ではなかろう。金子夫妻がクラマールの僕のアトリエに訪ねて来られる前から〝春画の名人が巴里に現われた〟という噂が流れていた。『面白半分』に平野威馬雄さんが、こう書いている。~オレが春画を描くから猥文を書け」という。2、3の本屋に話すとヤンヤの催促。彼は安全カミソリで切った紙を筆がわりにして手より細い線で描く~。フフフッ、見てみたいですねぇ。

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金子光晴②生立ちと性遍歴 [読書・言葉備忘録]

mituharahon_1.jpg 金子光晴、明治28年(1895)末、愛知県海部郡生まれ。出生時の姓は大鹿安和。父は資産家だったが博打や事業失敗で名古屋へ。2歳、清水組名古屋出張店主任・金子家の養子になる。16歳の妻・須美が〝おもちゃ〟のように可愛がり育てる。

 翌年、義父の京都出張店転任で京都へ。京都の小学校入学。小学3年の時に日露戦争。小学4~5年の頃、材木置場で近所の子らと〝桃色遊戯〟。包茎チンコを女の子が銜える~など。母は父の茶屋遊び・妾・仕事で不在多く、時に嫉妬のヒステリー爆発。その度に「お前は百円で買った貰いっ子」と当たる。芸人夫婦の娘・静江に惚れ、その頬を「食べたい」衝動。

 明治38年(1905)10歳。父の東京転勤で銀座に仮寓。泰明小学校へ。銀座・竹川町の教会へ通ってキリスト教の世界を覗く。4、5人の手下を従え「かっぱらい」などが発覚し土蔵軟禁15日間。翌年、牛込新小川町へ移転し、津久戸小学校に転校。絵が好きで小林清親に日本画を習う。10歳の時に縁ある押上・春慶寺の豆まき後に、豆を拾いに寺奥まで行くと男女のまじわりを見て、身体が震えるほど驚いている。台所で働く老婆が「従兄弟同士は鴨の味だっていうが、そんな味がしますか。私とここの旦那もいとこ同士だったんですよ」。老婆が彼らに便宜を図り、見張り役をしていたらしい。また友達と牛込から横浜まで歩き、アメリカ密航を企てて失敗したのもこの頃。当時からバガボント(放浪者、漂泊者)の芽生え。不摂生で病んで不登校も、お情け卒業。

kiyotikaten.jpg 写真は2015年の小林清親展ポスター。小生、自転車を買って中村橋・練馬美術館まで観に行った。光晴は「その頃の小林清親は、あの独特の版画〝東京名所〟でもてはやされた全盛期を過ぎて、生活もドン底だった」(『相棒』の「清親のこと」)

 明治40年(1907)12歳。暁星中学入学。優等生だったが、次第に同校のアリストクラシー(貴族主義)やフランス式に反発して「漢文」に熱中。「史書」に親しむ。さらに馬琴作など稗史小説に深入り。義父の浮世絵コレクション(行李一杯に春画があった)に魅了され、友人らと友人姉をクロロホルムで眠らせ、秘所を入念観察。

 中3。親戚から手伝いに来ていた女性に、春画より本物をと本格初体験。この頃から14歳違いの義母と相姦関係が始まったらしい。その罪悪感を薄めるために悪所通い開始。一方、若宮八幡境内の弓道場に通い、道場主から5番目の腕前に。道場の留守番をしていた娘の名「おさい」と二の腕に彫る関係も、彼女は心臓麻痺で急死。

 大正2年(1913)18歳。早大英文科予科に入学。田舎の学生ばかり、かつ自然主義文学の牙城が気に入らず1年半で退学。(下宿の炬燵で友人同士手淫しあって学校へも行かずオブローモフな日を送っている者もあったとかで~)。上野の美術学校・日本画科入学。モデルの身体を撫でまわす。選別試験失敗で退学。慶大英文科に中学。学業に身が入らず、今で云うナンパに明け暮れ。徴兵検査は11貫で丙種。ひ弱ながら荒んだ生活で21歳で病床生活。荷風『珊瑚集』、鴎外『沙羅の木』、与謝野寛『リラの花』など翻訳詩からボードレールに熱中し、試作を開始。父は胃癌で、義母は隣家の相場師くずれの西村某でデキていて、光晴は家の前の娘・君子に惚れ、従妹・秀子と、さらには看護婦とも肉体交渉。そして~

 大正6年(1917)22歳。義父死去。義母と遺産を折半。20万円(現在の2千万年)を手にする。新小川町の家を売り、小日向水道町~赤城元町の崖下の借家へ引っ越し。満州から引き揚げて来た実父が金を引き出し、自身も目的のない旅を続けて見る間に資産僅少。友人と伊豆大島・元村の漁師宅で自炊一ヶ月ほどもあり。道の木陰に蛇が5、6匹ずつ。集まっていた。登山道では蛇が木の枝からぶら下がっていた。坂本繁次郎が牛の絵を描いていて、差木地村には春陽会の画家たちがいた。

 大正8年(1919)24歳。デモクラシーに影響された詩集『赤土の家』自費出版も評価は仲間内だけ。少なくなった家産を盛り返すべく、鉱山(マンガン)に手を出して失敗。義父の許に出入りしていた骨董商・鈴木の誘いで初渡欧。リバプール~ロンドン~ベルギー。鈴木はブリュッセルの〝根付収集家・イヴァンに光晴を託して帰国。そこでの滞在1年半は珍しく向学心に燃え、詩に没頭した。帰国の際に創作ノート20冊のうち10冊をペルシャ湾に捨て、後にそこから『こがね蟲』が誕生。

 大正10年(1921)26歳。『こがね蟲』編纂・推敲で京都に滞在。茨木のりこ著『女へのまなざし』にこんな記述があった。京都下宿先の娘と交渉。京都を去る駅で、娘の母親が駈けつけて「あんさん、うちの娘をよくぞ女にしてくれはりました。一生、男を知らずに終わるところでした」と礼を言われたと記していた。(このエピソードは本人の自伝『詩人』にも、『狂骨の詩人』にも記述なし。『残酷と非常』には京都の下宿先に、妹が仲居で、腰の立たず這うように暮していた姉がいて、姉と懇意にしていたことが書かれている。)

 『こがね蟲』で詩人・金子光晴の名が確立するも2ヶ月後に関東大震災。詩人としての華やかな旅立ちが無に帰す。翌大正13年、光晴の許に森三代子が現れた。翌年、長男・乾が誕生。やがて二人の極貧放浪の旅が始まる。

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金子光晴①『どくろ杯』に妙な親しみ~ [読書・言葉備忘録]

tujioyako.jpg 金子光晴『どくろ杯』冒頭部分に~「天災地異のどさくさにまぎれて、一人の青年将校とその部下の上等兵とが、著名な社会主義者夫妻を拘禁し、甥に当たる六歳の子供といっしょに扼殺した」と書かれていた。

 かつて小生はブログ「辻まこと(1)」で、こう書き出した。「荒畑寒山は管野スガを幸徳秋水に寝取られ、幸徳とスガは大逆事件で処刑された。辻潤は妻・伊藤野枝を大杉栄に取られ、大杉と野枝は甘粕大尉に虐殺された」(★大杉栄は大正12年に、有島武雄に無心した渡欧資金で上海からパリへ旅立った。★荒畑寒村は大正11年に北京ソビエトへ潜入。パリではメーデーに飛び入り演説をした)

 伊藤野枝と辻潤の子「辻まこと」は、「もく星号」墜落現場へ散乱した宝石収拾に三原山に行った。辻潤は昭和3年に「まこと」を連れて渡欧した。帰国3年後に「自分は天狗だ」と友人宅二階から飛んだ。

 『どくろ杯』にも、それが書かれていた。「辻潤が、京都の等持院の撮影所につとめていた岡本潤のところに泊まって、じぶんは天狗とおもいこみ、飛べるつもりで二階から飛び下りて足をくじき、びっこをひきながら正岡のところを訪ねて、一晩泊まっていった~」

amakasunanten.jpg 「正岡容」と云えば、永井荷風66歳の時に市川散策ついでに41歳の正岡夫妻宅を訪ねるなど一時期親交を重ねていた。荷風は彼の妻で舞踊家・花園歌子が目当て~の噂もあった。また『どくろ杯』には白山・南天堂の記述もあった。

 「白山にあった南天堂という本屋の二階にあつまった若い詩人たちは乱酔、激論、最後は椅子をふりあげ、灰皿を投げ、乱闘になるのが恒例であった~」。 あたしは小島キヨ(3)で寺山珠雄『南天堂』を紹介した。今もある「南天堂書店」を撮っている。関東大震災のどさくさに大杉・野枝が、さらに亀戸で多数〝主義者〟が官憲に殺されるなどで行き場の無くなったアナキスト、ダダイスト、詩人らが「南天堂」に集って憂さを晴らしていた。平林たい子や林芙美子らも常連で、芙実子は辻潤に同人誌を激励されている。大酒呑みの彼女は「五十銭くれればキス一回~」など酒乱の日々。のちの「野鳥の会・中西胡堂」も処女詩集の出版祝いを同店で行っていた。

 『どくろ杯』には、その正岡容も中西胡堂もよく登場する。さらに森三代子と情交を重ねた三畳間は、牛込赤城元町の崖下で、小生ブログ「牛込シリーズ」に欠かせない人物でもあり。

 かくして『どくろ杯』は、小生に詩の観賞力はないも、光晴・三代子のアジア極貧旅行記は妙に親しみを覚えつつ読了。順序としては続編『ねむれ巴里』『西ひがし』へと読む進むべきだろうが、小生「せっかち」ゆえ金子光晴のプロフィールを早く知りたく竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、子息・森乾『父・金子光晴伝~夜の果てへの旅』、ちくま日本文学『金子光晴』、『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』を読みつつ、彼の経歴を掴んでみることにした。

 ついでながら『夜の果てへの旅』と云えば、小生には(フェルディナン)セリーヌの同題長編小説を二十歳の頃に読んだ衝撃が忘れられない。それで〝まともな日本文学〟など読めなくなって、次にヘンリー。ミラー全集を読み始めた。

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『文人悪食』『文人暴食』から『どくろ杯』へ [読書・言葉備忘録]

arasibunjin1_1.jpg 12月の2泊3日「前立腺癌の生体検査」(結果は癌細胞なし)で、血液に大腸菌が入る感染症で15日の入院を余儀なくされた。入院中に嵐山光三郎『文人悪食』も読んだ。これはブログ『泉鏡花』⑥で、同書を本箱から取出したままだったのが眼に入って持参したもの。

 著者の俎上に載るは37名で、既読は3分の1ほど。「黴菌恐怖症・泉鏡花」が麹町移転先ご近所に有島武郎(美形貴公子で波多野秋子と軽井沢別荘で心中)、内田多聞の項から読み始めた。腕に点滴、ペニスにカテーテルながら、著者の各文人の食へのこだわりから、その生と死を展開してみせる文章の冴えに感心しつつ読了。

 で、昨日のこと。ふと本棚を見ると同じ本が2冊~。先日も『資本主義の終焉と歴史の危機』を迂闊にも2冊購ったことに気付いてばかりで「またやったかぁ」と思ったが、よくよく見れば『文人〝暴食〟』だった。

 同書をひも解いた痕跡少なく、途中で投げ出したらしい。改めて幾編かを読んでみたが、やはり面白くない。同書執筆の著者に、他に心惑わせる何かがあったか、はたまた名だたる文人を下世話にぶった斬った不遜に気付いて、前作のように書けなくなったか~。

 そう思って似顔絵(各項冒頭に著者による文人の似顔絵掲載)を見ても、どこかなおざりの感がする。小生、ブログ「泉鏡花シリーズ」で著者と同じ資料から似顔絵を下描き(途中で興味失せアップに至らず)をしたので「フム、ここをこう描いたか」とまで愉しませていただいたが、同書の絵も心あらずと感じた。

 さて『文人暴食』の金子光晴の項を読むと「黴菌恐怖症・泉鏡花」に比して「黴菌大好き・金子光晴」とあった。晩年は「愉快なエロじいさん」で人気者。76歳刊の自伝『どくろ杯』が圧巻と紹介されていた。最近は政経系書を読んでいたので、その『どくろ杯』が読みたくなった。

 同書は金子光晴76歳で40年前の懺悔。氏は同書後に『ねむれ巴里』『西ひがし』と続く大三部作自伝を成したとか。まずは「牛込のボードレール・光晴」が、お茶の水の女子高等師範在学中の「森三千代」と牛込赤城元町の崖下三畳間で、二匹の蛇さながら執拗に絡み合う日々を経て子が生まれ、三千代に年下の男ができ、二人を引き離すようにアジアへ極貧放浪旅へ旅立つ~。

 読めば、安易に「エロじいさん」とは言えぬ巨人。『金子光晴全集』全15巻には凄い世界が展開されていそう。そう云えば彼を「エロじいさん」と記した嵐山光三郎も、一時期、タモリ「笑っていいとも!増刊号」にレギュラー出演で〝昭和軽薄〟と揶揄されていたことを思い出した。金子光晴の世界にちょっとだけ迷い込んでみたくなった。

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本地垂迹説VS反本地垂迹説 [読書・言葉備忘録]

anahati.jpg 図書館で『火山島の神話~「三宅記』現代語訳とその意味するもの~』(林田憲明著)を手にした。冒頭にこう書かれていた。~この縁起本『三宅記』は本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」に則り、「薬師如来」が三島神に姿を変え、神々と協働して伊豆の島々を創りあげ(噴火造島の神話)、神の家族らが島を経営して行くという内容が語られている。

 むっ、無学は哀しいね。小生慌てて「本地垂迹説」をお勉強です。「本地=本来の姿・仏=菩薩」「垂迹=迹(あと)を垂れる」。仏教が隆盛した時代に発生した神仏習合思想のひとつ。日本の八百万(やおよろず)の神々は、実は様々な仏・菩薩が化身して日本の地に現われて救済する形態で、この世に現出した権現であるという考えらしい。

 これを伊豆諸島で説明すれば天竺の王子=三島大明神の本当の姿は「薬師如来」。翁が三人の子(若宮=普賢菩薩)、剣(不動明王)、見目(大弁才天)を王子のお供につけて初島、神津島、大島、新島、三宅島、御藏島、八丈島、八丈小島、大根原島、利島~の島造りをする。

okadahatiman.jpg 大島には波布比咩命神社にハブノ太后、そのお腹に2人の「御子」がいて、一人が太郎王子おほひ所を「阿治古」(野増)の大宮神社へ、二郎王子すくなひ所を泉津の波知加麻(はちかま)神社に配置したそうな。伊豆諸島の話しはここまで。

 さて「本地垂迹説」があれば「反本地垂迹説=神本仏垂説」もある。林羅山は廃仏の「理当心地神道」(王道神教・儒主神従)で、羅山に学んだ山鹿素行は後にこれを批判して「日本の神々は仏教、儒教いずれにも従属せず、独自の尊貴性を有す。日本中心主義的な神道」を主張。これが後の吉田松陰、乃木希典らに影響を与えたらしい。

 とは云え、これらは為政者や宗教系の方々のこだわりで、一般庶民の生活・暮しには仏教(神仏習合も含めた)がしっかり根付いて、八百万の神々にも心を委ね癒されてもいる。永井荷風は『日和下駄』に「淫祠」を設け、~歴史的な価値希薄も時代を超えて大事に祀られている祠には、理屈にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しいところに一種物哀れなような妙に心持のする~」と記している。

 街散歩をしていると、長い歴史を経た大小神社に、淫祠にもよく出会う。理屈抜きで手を合せ頭を下げたくなってくる。宗教については未勉強なので、改めて勉強してみます。写真上は我家近所の早稲田「穴八幡宮」の「江戸名所絵図」。当時は別当寺「放生寺」が寄り添っていた。写真下は大島岡田村の「八幡神社」。 

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「コロナ後の世界」から~ [読書・言葉備忘録]

coronagonosekai_1.jpg 新型コロナウィルスの感染拡大と死、人種差別、大洪水、政府の無能さ~。そんな情報ばかりに日々接して気が滅入った。気分転換に新宿紀伊国屋の「新書コーナー」を覗いた。『コロナ後の世界』(文春新書)を購った。惹句は~現代最高峰の知性6人への緊急インタビュー。興味を持った2人の主張をまとめてみた。

 まずはスコット・ギャロウェイ教授『新型コロナで強力になったGAFA』。例の通り勝手解釈~ コロナ・パンデミックで他企業困窮の最中に、巨額キャッシュを溜め込んでいたGAFAは、次々にIT企業を買収して株価最高値を更新している。

 GAFAの「ネットワーク」独占はさらに進み、その支配から新たな企業が市場開拓する余地がなく、またイノベーションも起き難い状況になった。世界の支配的メディア企業=フェイスブック、グーグルのビジネスは、より多くの広告収入を得るべく、記事や投稿が「よりつながること」を追求する。(カルフォルニア大ダイアモンド教授は「コロナウイルスには脳がないから意図もない。彼らの目的はただ一つ〝増殖すること〟」と記していて、GAFAと妙に一致する。両論を結び付ければ「GAFA=コロナウィルス」になるから不気味だ)

 ギャロウェイ教授は、こう続ける。「つながる=増殖」を促すミッションの最大要素が「怒り」。対立と激怒を煽る投稿が、より多くのクリックを生む(金儲けになる)。その結果、ネットワークは「ヘイト、フェイク、怒り、対立」が満ち易い。その結果、SNS使用の10代の子らに「鬱」が増加中。S.ジョブズはじめテック企業幹部は、自分の子らにはデバイスをつかわせていないとか。

 フェイスブックには思想・脳がない。「我々はメディアではなく、プラットフォームに過ぎない」と社会的責任を回避している。「ネットワーク」を独占しながら、彼らは国の在り方、国際社会に責任を持たない。そうしたGAFAの負の側面もある。彼らには選挙で落選することもないのだから~と警告する。

 次にスティーブン・ピンカー教授『認知バイアスが感染症対策を遅らせた』。氏は「ネットワーク」に限らず、ジャーナリズムの「ネガティブな認知バイアス」のリスクを指摘する。マスコミも平和なニュースや客観的データよりも最悪のことを選んで報道する「=ネガティブなバイアス」と云う〝バグ〟を有していると指摘。(日本でも〝事件〟が起きると嬉々とした表情に一変する女性キャスターがいる)

 報道もネガティブな情況や数字中心の報道が多い。さらに「ネットやツイッター」には、自分が見たい情報しか見えなくなりがちで(=フィルターバブル=利用者に合せた情報が作為的に表示される)、自分がバイアスに囚われているのを忘れ、違う意見の人こそ偏見に囚われている~と思い込む仕組みに嵌りがち~だと指摘。

 ここでスウェーデンの環境活動家グレタさんに言及する。気候変動の問題を「善対悪」の枠組みに嵌めること、邪悪な企業を打ち負かすという構図も危険だと指摘(日本にも、その手法が得意な知事がいる)する。「8年半経たぬうちに二酸化炭素の許容排出量を超えてしまう」と叫ぶが、気候問題は8年半では解決できないだろう。非難すると同時に新たな新エネルギー開発への展望も語って欲しかったと言う。

 「ネガティブなバイアス=バグ」を除去すれば、18世紀中期の平均寿命29歳が、今は71.4歳に伸びている。世界総生産も2百年でほぼ100倍になり、人類は天然痘やペストの危機も切り抜けて来た、インフラも政治形態も改善され、今は小さなデジタル末端で世界の知識を持ち歩けるようにもなった。次世代原子炉はモジュラー式で小型化され、冷却システムも改善されて安全性を増している。それらにも眼を向けるべく、そのためにはまず「落ち着け」と忠告したいと記していた。

 長期レンジ、客観的データを見れば、原発やAIより懸念すべきが「核兵器廃絶」で、格差より「不公平是正」を、コロナ感染もモニタリング態勢の強化、検査体制の確立、防護服やワクチン開発が大テーマであることも見えて來るだろうと説いていた。コロナ自粛中の読書にお勧めの新書紹介でした。

 また「コロナ、人種差別、大洪水被害、為政者の無能~」情報洪水の中に、小生ファイルには異常気候に関するクリッピングも増え続けている。それはいずれまたの機会に~。

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