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島ロッジの煙突落下、三度! [週末大島暮し]

entoturakka_1.jpg 老体+島の車なし。島へ渡る機会が減少中。台風15号で伊豆大島に甚大被害。小生ボロロッジも、冬の西風をくらうと家がグラッと揺れる。離れた地ゆえに心配は絶えぬ。

 台風情報で気になるのが風向きです。「台風の眼」中心に風は時計逆回りの渦になる。台風が島の南に位置する時は南~東風。台風が島を抜けて東京湾に向かうと、今度は西風が島を襲う。

 詳細不明・不確かだが、今回は最初に島の北の海っぺりに被害。台風が通過後に南部・波浮近くの西側に大被害。そんな情報が少しだけ耳に入ってロッジ心配も、島は目下大変だろうゆえ、お隣に「お伺いメール」を控えていた。

 9月9日、近所の民宿ブログが、周辺被害写真をアップされていた。小雑木倒壊程度。翌日は長閑な野田浜風景。そして12日に野田浜から元町までの海沿い道「サンセットパームビーチ」沿いの被害を写真レポートして下さった。「和泉浜」の松の大木2本が折れて、道路際のトイレ舎を直撃。「浜の湯」のある長根浜公園の倒木写真など。

 翌13日、お隣さんから待望のメール。小生ロッジ被害はテレビアンテナと煙突落下。煙突から雨水が入らぬようにビニール布で応急処置をして下さった写真が添付。感謝深謝。小さな被害でホッ。煙突落下3度目です。

 友人が翌14日、自身のロッジ+小生ロッジを見に島へ行く。彼は10月頭の3日間に小生ロッジ使用予定とか。以前より「壁と煙突の隙間を埋める」と言っていたゆえに、落下煙突も取り付けてくれるかも~。

 大きな被害に遭われた方々に、心からお見舞い申し上げます。テレビが高校生らの熱心なボランティア活動を映していた。感動した。

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乳ヶ崎は江戸=千賀崎、明治=千ヶ崎だった。 [週末大島暮し]

inoutiga.jpg_1.jpg いとまある身ゆえ、伊豆大島関連の古書ネット検索に興じた。明治6年(1873)頃刊の伊能忠敬/測量・製作「大日本沿岸輿地全図」第102図がヒットした。

 あらっ、現「乳ヶ崎」が「千賀崎」表記だった。同地図完成は文政4年(1821)頃だろう。(左図上:国会図書館デジタルCより)

 他に江戸期の図を探す。弘化3年(1846)の絵巻、嘉山外史(画・長谷川晋吉)「伊豆七島図絵」(都立図書館蔵)も「〝千賀嵜〟遊竿図」とあった。

 次に明治期を探す。明治35年(1902)の佐藤傳藏著『伊豆大島に於ける観察雑俎』一部がヒットした。「千ヶ崎の地貌の奇體なること」で「千賀崎が千ヶ崎」に変わっていた。

 taisyotiga_1.jpg そして大正時代へ。大正3年刊の斉藤和堂編纂『伊豆大島』(写真下。国会図書館デジタルCより。キャプションは千ヶ崎)を見ると、本文では 「千ヶ崎」と「乳ヶ崎」混在していた。

 さらに9月1日「防災の日」説明で ~大正12年(1923)9月1日、午前11時58分発生の関東大震災の震源は、伊豆大島北端の「千ヶ崎」の北15㎞の相模湾の海底で、マグニチュード7.9で~の記述。大正末まで「千ヶ崎」が頑張っていたらしい。

 以上から明治末~大正期が「千ヶ崎」と「乳ヶ崎」が混在期で、「乳ヶ崎」名称が固定したのは昭和になってからかなと推測した。それだけの話さっ。

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朗報!懸案の古木伐採 [週末大島暮し]

bassai.jpg.jpg いやはや、朝1のコーヒー飲みつつブログを立ち上げたら、驚きに腰を抜かしてしまった。友人が大島ロッジ懸案の(危険な)古桜を見事に伐採!の写真をアップしているじゃありませんか。

 この朽ちかけた桜は(1)ストーブ煙突からの火気危険。(2)倒壊時の屋根破損の危険をはらんでいたのです。

 非力な小生は、2年前の夏に「長い棒先にノコをくくり付けて」煙突に接触の小枝を払っていたのですが(2年前のスケッチ)、それをバッサリと倒してくれたのです。その手腕と、息詰まるような伐採ドラマは、リンク「つくって、つかって、つないで」をご覧下さいまし。

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大島の西風強し収束線 [週末大島暮し]

nisi2_1.jpg ロッジ前の海・波、貝、野田浜の溶岩をお勉強したら、冬の強い西風(ニシ)についても知りたい。

 ロッジを建てた当初は、防風林に守られていた。今は〝開発(防風林伐採)〟されて海一望。つまり冬の強い西風に直撃されるようになってしまった。

 先日の神田古本市で團伊玖磨『八丈多与里』を立ち読みしたら、こんな一文に惹かれて買ってしまった。

 ~ここ暫らく、八丈島は吹き続ける西風の中に居た。年が変わる頃から、毎年の定めの通り、西風は春を産む陣痛のように、朝も、昼も、夜も吹き荒んだ。眼に見えぬ冷たい気体の塊りは、来る日も来る日も西の海から島を攻撃して止まぬばかりか、勢い余った日には、ぐるぐると廻りながら、北から東からも島に攻め寄せた。

 ~冬の伊豆七島は、西風の強い日が多く、一旦風が吹き始めると数日は吹き止まぬ事も間々あって、風が吹くと実際の温度よりもずっと寒く感じるのが人の常だから、そういう日は、戸外を歩くのは辛い。

 「ははっ、小生と同じく冬の西風に怖がっている人あり」。ここはひとつ、伊豆諸島西海岸(大島西海岸)に吹く冬の強い〝西風(ニシ)〟のお勉強をしなければいけません。

 まずは台風。南洋で発生した低気圧が西に移動し、その後に偏西風となって日本列島を襲う。日本は端から西風を受ける定めにある。そして冬の季節風(寒冷高気圧、北西風)が問題となる。

 冬の季節風は、日本海を越えて日本列島を襲う。中部山岳に当たった季節風は北回りで迂回する風と、西回りに迂回する風に分かれる。北回りの風は関東平野へ回り込み、西回りの風は駿河湾を回り込んで、二つの風が伊豆諸島北で合流する。これを「季節風の収束線」と云うらしい。

 北回りの風は陸上を経て来るので、風速は弱いが低温の「北東風(ナライ)」になる。駿河湾を回って大島を襲う風は、海上経由ゆえに勢いがある。これが冬の強風「西風(ニシ)」になる。大島は楕円形で、中央に三原山がある。特に元町~野田浜の西海岸に「西風(ニシ)」が襲い、特に先端の乳が崎辺りに風当たりが強い。一方、泉津~筆島辺りには北東風(ナライ)が吹く。これが伊豆諸島(特に大島~新島)の冬の特異な現象になっているらしい。(『大島町史/自然編』他を参考)

 大島の先人は、この辺がわかっているから、防風林で囲った中に畠や家を建てていた(ロッジ地もアヤメ科ワットソニア・アルバー=檜扇水仙の栽培地だった)。そうした事情を知らぬあたしら新参者が、家を建て、防風林を伐採して、後でナキをみている。

 『八丈多与里』でも崖の上の草原に家を建てるに当たって、古老に西側に硝子を使わぬよう忠告されたが、12年後の西風(台風)で800㍍先の黒砂山から飛んできた拳大の石ころに西側の温室、居間のガラスがことごとく直撃された、と記していた。(追記:『八丈島誌』風向は西が圧倒的に多い。11月になると西の季節風期に入る。冬季12月~2月はほとんど西風で、風力も強く毎日のように強風注意報が出ている)

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大島へ貝寄風やミニ図鑑 [週末大島暮し]

kaidukan_1.jpg 伊豆大島の磯で何気に拾った貝を撮り、パソコン内に放置していた。そのうちに図書館の『海辺で拾える貝』やネット調べから、次第に貝名(科)がわかり始めた。知らない事がわかるのは、とても嬉しい。

 そこで「Windouwsペイントの文字挿入」で簡単図鑑を作った。そんな戯れに、婆さんが「子供みたい」と笑うが、海辺育ちではない小生には、この歳で初の〝貝調べ〟。間違いもあろうが、記してみる。

 左上が「チリボタン(散牡丹貝/ウミギク科)二枚貝の片殻。本来は牡丹の花びらのような放射肋と呼ばれる突起があるも、磨耗してなくなっている。併せて磨耗によって赤や赤橙色が現れている。日本貝類学会の機関誌が『ちりぼたん』とか。

 その下の白縁で中央紫は「タカラガイ科」。この科は他種ゆえ「タカラガイ科」とだけ記しておく。種によっては、殻の背面の摩耗が進むと、紫色の色質が現れるとある。拾ったのは、その代表種だろうか。その右側に濃い紫色の貝、白い腹面のタカラガイも写っている。これで貝殻は波で磨耗すると表面層の下の色が出てくることを知った。

 何故に貝を拾ったかは、左下のサザエの青色(ホリゾンブルー)が眼を惹いたからなんです。サザエの子で、青い苔でも付いているのかと思っていたが、正体はどうやら「チョウセンサザエ/緑サザエ/インナーシルバー」らしい。小型サザエの仲間で、口の中が銀色に輝く天然色の美しい巻貝。1~2.5㎝。エッ、外側も磨けば銀色に輝くとか。「チョウセン」は朝鮮ではなくエキゾチックの意らしい。

 検索したら「楽天」がヒットで1個300円などの値で販売されていた。数週間前に検索したんだが、このブログ左枠に未だ緑サザエの広告が張り付く。まぁ、しつっこい事よ。磯で懸命に「貝拾い」をすれば、この緑サザエは10分で100個は簡単に集められそう。次に島へ行ったらバケツ一杯拾って、隠居の小遣い稼ぎをしましょうかね。

 次は中央の小さな円錐形の歯車状の突起の巻貝が二つ。「ニシキウズガイ科・ウズイチモンジ」らしい。これまた楽天で3個850円。「ほんとかいなぁ~」。島では拾い放題です。

 右端上の貝は「サヤガタイモ(イモガイ科)」だろう。先が低い円錐形で、肩の部分に結節がある。下の大きな貝二つは「アッキガイ科」でしょうか。よくわからない。

 ここまで記して気付いた。「そう、確か大島に〝貝の博物館=ぱれ・らめーる〟があったはず」。同館HPを見れば、前述チョウセンサザエは南鳥島の特産あるいは特徴的な珍貝と記されていた。「ぱれ・らめーる」は現在大島町勤労福祉会館内にあって入場料大人400円。島通い27年にして、初めて行ってみたいと思いました。

 春の季語に「貝寄風」がある。貝を浜辺に吹き寄せる西風。今は秋だが「大島へ貝寄風やミニ図鑑」。

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大島と新宿(人と唐辛子) [週末大島暮し]

nagisa_1.jpg<大島シリーズ後日談> 大島からの帰京が10月25日で、10月1日の新聞に「渚ようこ」さん心不全で逝去の報があった。翌日、いつもの自宅~伊勢丹の往復ウォーキング途中で、ゴールデン街の「汀」の前で頭を下げた。渚さんは大島でもお馴染みの佐々木美智子さん(おミッちゃん)のゴールデン街の若き友人で、昭和歌謡を唄う「汀」のママだった。

 小生は某演歌歌手のスポーツ紙連載のゴーストライターをしていた時の、同紙の文化部長が大島出身で、昭和50年頃のS町長の息子さんだった。それでゴールデン街のおミッちゃんの店に連れて行けば、なんと、おミッちゃんは文化部長さんチの店子だった時期もあって、二人は大盛り上がりになった。

 おミッちゃん、スポーツ紙の文化部長が来たってんで、「汀」の渚ようこさんを呼んで来た。その後、渚さんはテイチク「匠レーベル?」からCDリリ―ス。「汀」にオリコンの演歌担当者を連れて行けば、テイチク宣伝部の女性スタッフもお店に来ていたりもした。小生はもう隠居で、かつ新宿で呑み歩くこともないが、そんな事もあって「汀」前で頭を下げた次第。

 また過日の千駄ヶ谷散歩で、新宿御苑・千駄ヶ谷門近くに、大島の裏砂漠などの写真展示があって、覗き込めばそこは故・若松孝二監督の事務所で、それは『海燕ホテル・ブルー』のロケ写真だった。若松監督、おミッちゃん、渚ようこさんに交流があったと知った。

tougarasi.jpg.jpg 大島と新宿の関係では、百人町在住だった「吉阪隆正と大島」の関係を記したが、新宿はいま江戸野菜「内藤とうがらし」が復活中。小生もベランダで「内藤とうがらし」と大島の「アオト」を交互に育成中。その「内藤とうがらし」が、地域の名物を商品登録する特許庁「地域団体商標」登録決定で、さらにはフランスの唐辛子村と提携話が進むなどグローバルに展開中と10月8日の新聞が報じていた。「単なる江戸野菜ではなく、地域文化と捉えればグローバル展開へ広がる」旨が記されていた。

 大島では各戸が庭に自家用アオトを植えるほど普及していて「アオト商品(土産)」もある。「内藤とうがらし」のように大きな展開が出来ないのは何故だろうかとも考えてしまった。ちなみに今回の大島土産の中にしっかり「アオト6袋」確保です。写真はベランダで収穫の「内藤とうがらし」。 

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隠居して小屋も身体も老い次第 [週末大島暮し]

heyanai_1.jpg 春や秋の大島暮しは、ベランダの自作長ベンチに寝転びつつの読書が好きだった。眼で活字、耳でウグイスらの囀りを愉しむ至福の時~。

 だが今回は天候不順。ベランダに出る気もなく部屋ン中の生活。何をしているかと言えば「東京での隠居生活」と同じように暮らしていた。テレビを少し観て、読書し、島に来る前まで続けていた貝原益軒『養生訓』筆写でくずし字お勉強の再開です。

 「身越(を)堂(た)もち、生越(を)養ふ耳(に)、一字能(の)至れ留(る)要訣あり。是を行へ者(ば)、生命越(を)長くた毛(も)ち天(て)病那(な)し~」

 5年前に「新宿歴史博物館」での「古文書講座」受講を経て独自の勉強へ。大好きだった山東京伝や大田南畝らの江戸原本を読み筆写。挿絵を模写したら、絵も描きたくなって3年前に新宿御苑で初スケッチ。

simaben1_1.jpg 江戸原本の読書と筆写、そしてスケッチ共に、当初は戸惑い四苦八苦。飽きっぽい質だがよく続いて、それらが生活の一部に定着している。大島暮しも27年で、今回は完全隠居で初の長期13日滞在。そんな隠居暮しが、そのまま大島暮しへ移行。「週末大島暮し」から「大島〝生活〟」へ移行~。

 だが人生ままならぬ。そんな時期をようやく迎えれば、小屋も身体もボロボロ。防風林がなくなって海一望も、冬の西風がロッジを揺らす。昨今の夏の酷暑も堪え難く、定住へ至らず。やがてロッジも我が身も終焉が自明。

 13日滞在で、東京の生活がそのまま大島の生活へ。ウォーキングは新宿雑踏から海沿いの道。内風呂から露天温泉へ。これは素晴らしいも、庭の手入れや小屋メンテナンスに身体が辛くなった。やがては後期高齢者の車運転。我が書棚代わりに利用の新宿図書館(区内7館)と離れるも淋しい。

 それでも13日滞在で〝生活〟すれば、「大島暮しに幕を下ろす(友人に託す)」前に、今度は春と秋に「各一ヶ月間の生活(ミニ定住)」の真似事もしてみようかと思っている。

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巨大蜘蛛比せば女郎もいと可愛ひ [週末大島暮し]

kumo2_1.jpgkumo3_1.jpg 秋の大島暮しは十月が多く、ロッジへ入るには「ジョロウグモ」の巣を払いつつが常だった。今回は九月十三日に大島入り。拍子抜けするほどクモの糸が少なかった。こんな事から「大島のジョロウグモが巣を張るのは十月頃~」と知る。

 ついでに「ジョロウグモの一生」もお勉強。クモの卵は卵のう(カマキリの卵みたいなもの)で冬を越し、春に数百匹の子グモが孵化。雄は七回、雌は八回ほど脱皮して成体に。成熟期は九~十月。雄は雌に比し極小。雌の脱皮直後か食餌中を狙って交尾。そうでもしないと雌に食われてしまう。凄い営みです。雌は産卵後間もなくして死ぬ。その命七か月ほど。

 「ジョロウグモ=女郎蜘蛛、絡新婦、上臈蜘蛛」だが、雄を食うイメージから「女郎蜘蛛」が相応しい。十三日の大島入りで二十五日に島を去る頃になると、次第にクモの糸が増えてきた。そこで彼女の表と裏を撮った。餌食になったのはウマオイの雄(スィーチョンと鳴く)だろう。

 日本生息のクモ約千二百種とか。ジョロウグモは概ね屋外で、ロッジ内にはアシダカグモもいる。ロッジを去る際の戸締り中に、戸袋から「タランチュラ似の大グモ」が出てきてギョッとした。

 ネット調べで「日本にタランチュラはいない」と断言されていた。では「クロガケジグモ(黒崖地蜘蛛)」だろうか。ヤツを観たのは二度目。何年生きているのだろう。とにかくデカイ、毛深い、素早しっこい。写真に収める間もない。大島滞在13日の最後記事が「島での未知なる遭遇=巨大グモ」でいい気分ではないが、そろそろ〆たい。

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どう描く寄せる大波に迷ふ筆 [週末大島暮し]

nami4_1.jpg 過ぎ去った「島暮らし」記事ですから、小生ブログでは異例の連日アップ中。絵と写真の交互掲載で、今回はどんな絵を描きましょうか。

 「波が描けぬままでいいのか」と戒めの声あり。パソコンには、岩に激しく打ち当って高く舞い上がる波、波頭が砕ける様々な写真が収められています。

 そんな中から一枚を選んでみる。まずは、よぉ~く観察して、ペンで陰の部分から描き込む。あとはサッと淡彩仕上げ。その積りでしたが、思惑通りには行かぬ。「こりゃ~ダメだ」と画材を変えての修正が重なり、厚塗りになってしまった。

 でも焦る必要なし。テレビの美術番組を観ているってぇと、画家らは一作品に相当の日数を費やしている。人も来ぬ山荘に籠って、ン十年もかけて一作品の厚塗り・厚塗りを繰り返してした老画家が紹介されていたこともあった。画家に較べたら、小生の絵は〝瞬間芸〟です。

 絵描きでもないから、タブローを描くわけでもない。単なるブログ挿絵ゆえ、深刻に反省するまでもない。駄作を続けながらも、いつかはサッと〝素敵風に誤魔化して海・波のスケッチ〟が出来ればそれでいい。それには波の形がどう形成されて、どんな感じで砕け、引き波とぶつかっているかを知らなくてはいけません。

 せっかくの「大島暮し」です。ロッジ・メンテナンスに併せて、海・波を知る、描けるようになるのも楽しいひとつのテーマだと思い始めています。次の島暮しでお天気が良ければ(あぁ、それでは大波は来ないか)、何時間も磯に座って、波の観察スケッチをしてみたく思っています。

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ハマユウの歪な球の怪しけり [週末大島暮し]

hamayunomi_1.jpg 「島暮し」は車生活です。ドア・ツー・ドアで足が萎えるゆえ、多少のウォーキングもします。「ロッジ~野田浜」「ロッジ~万立」往復共に弱4千歩(新宿の自宅~伊勢丹の往復とほぼ同じ)。若い時分は「浜の湯」まで歩きましたが、もう無理です。

 そんな散歩途中で変なモノを撮りました。数日前に「島は知らないことばかり」と記しましたが、またまた未知との遭遇です。知っている人は知っているのでしょうが、ゴルフボールよりやや小さな歪んだ白球群。最初は何かの卵かしらと思った。だがヒビ割れている。では獣の糞か。いや、こんなに白い糞はなかろう~。

 諦めなければ、何とか目星がつくもんです。どうやら「ハマユウ(浜木綿)の実」らしいと気付きました。そう思えば、この辺にハマユウが咲いていたような。花が咲き、子房が鈴なりに大きく膨らんで、歪んだ球群が重みで着地。

 その過程を知っていれば別ですが、都会暮らしから、いきなりこの図を眼にすればギョッとします。来春、同場所にハマユウが生えていれば正解だが、発芽から花が咲くまで4、5年とか。それまで島通いが出来ますでしょうか。

turigane_1.jpg そして、あちこちで薄紫の下向きの花も多かった。それは多分「ツリガネニンジン(釣鐘人参)」。この種は釣鐘草、蛍袋、風鈴草~と似た種が多いも、花期、花茎の形や高さから、そう判断しました。桔梗科ツルガネニンジン属。白く太い根が人参に似ているそうだが、掘ってまでして確かめようとも思いません。

 繰り返しますが「島はわからないこと(植物、動物、昆虫、鉱物など)が多く」かつ「生活面でも初体験多し」です。目下、終活で自室の本、CDなどを処分中ですが野草、昆虫、鉱物、貝などの図鑑が欲しくなってきました。神田古本市は10月26日から~。

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削げた尻湯烟に見ての吾然り [週末大島暮し]

sogetaketu_1.jpg 我ら老夫婦の島暮しは〝湯治〟でもあります。「浜の湯」に浸かった後で、婆さんが言う。「お爺さんや、なんだか背中の具合が良くなったようですよぅ」「おぉ、俺の腰の塩梅も良くなった気がするなぁ」

 今回は雨天多く、水着で入る露天風呂「浜の湯」ではなく、「御神火温泉」にも三度入りました。男女別で裸で入る。まぁ、銭湯みたいなものだな。

 子供時分は「千代の湯」と「稲荷湯」だったが、親父が庭の片隅に自作の内風呂を建ててからは銭湯通いが終わった。実家を出て20代頃からはマンション暮し転々で、他人の裸を眼にすることも稀になった。

 「御神火温泉」で、爺さんらのケツをたくさん見た。脂肪と筋肉が削げ落ちて、ペッタンコになったケツ。歳は如実にケツに現れる。「あぁ、己のケツもあぁなんだ」と思った。

 先日、女子バレーをテレビ観戦した。外国選手の見事に張った尻。いま、女性らに美尻・ヒップアップの筋トレが流行っているとか。ならば男性老人アスリートのケツも、若者と同じく盛り上がっているのだろうか。

 そうだとしても、この歳ではジムに通う気もなく、せめて多少の食事制限とウォーキングぐらい。「御神火温泉」の体重計に乗れば70㎏ジャスト。せめて、そこを越えてはならぬと固く心に誓いました。カットは老人の削げ落ちたケツと、美しく張った若い女性のケツの比較図。プッリプリの実にいいお尻が描けたと自画自賛。

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南海トラフ地震に備えて避難訓練を [週末大島暮し]

moeruizu2_1.jpg 島滞在13日中、晴れた日が二日ほど。富士山が見えたのも一瞬だった。伊豆半島に沈む夕陽も楽しめなかった。サンセットパームラインを車で走っていたら、婆さんが言った。

 「おまいさん、伊豆半島の至る所から噴煙が上がっているよぅ」。昨今の天変地異から、そう思ってもおかしくない〝雲行き〟。そう云えば小松左京『日本沈没』は、三原山噴火から天城山も噴火して大島が沈没。やがて日本沈没へ。これはフィクションだがら良いが、「南海トラフト巨大地震」の発生確率30年以内に70~80%と発表されたのは、とても辛い。

 伊豆大島の「防災の手引き」によるとマグニチュード9クラスの駿河湾から紀伊半島沖にかけて津波が発生した場合、伊豆大島の津波の高さは15~16mらしい。

kainatu1_1.jpg 我がロッジ前、ケイカイ磯際の道路に「海抜5m」表示がある。万立にも昔の津波注意看板があって、これは北斎の「神奈川沖波裏」の絵付きで、肝心の海抜表示なし。標高を調べる術もなく、危機感もない時分の設置だったのだろうか。

 今はちなみに「地理院・標高がわかるWeb地図」があって、瞬時に特定地の標高がわかる。ロッジは16.8㍍と表示されたが、本当のところはどうなのだろう。

 大島町・避難マップ「北の山と岡田新開編〝高台に逃げんべぇよ〟」も見て判断するに「モウ沢」は崩壊危険もあろうから、怖いが一度海岸道路へ出て飛行場方向へ逃げるのが良さそうだ。今度、島に行った時に婆さんと避難訓練をしておこう。それには老いた身体に俊敏性が求められのだが~。

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波を見つめる親子サーファー [週末大島暮し]

izumihama1_1.jpg 台風の影響だろうか、島滞在中は各所で大波に乗るサーファーの姿があった。

 7年前のこと。筆島で大波を望遠レンズで撮り、パソコンで画像拡大すれば、室町末期の画家・雪村周継が描き始めたという「雪村浪=波頭が崩れる形」がハッキリと映っていた。昔の画家の観察眼って凄い、と思った。

 4年前、特別の考えもなく北斎「神奈川沖裏浪」を墨で模写した。今にして思えば、それが契機で〝絵を描いてみようか〟になったような気もする。

 3年前、下町で開催の「小松崎茂」展を見た。彼の絵を模写したが、軍艦より海の描写が気に入った。いつかは海や波を描いてみたいと思った。

 そんな想いがあったのだろう、大波に幾枚ものシャッターを切った。その翌日のこと。海にはまだ大波が残っていて、若者らに喝采を浴びつつ見事に大波に乗った昨日の老サーファーが親・子・孫連れ?で波を見つめていた。その後ろ姿が素敵で、思わずカメラを向けた。女の子が気づいてニコッと笑った。

 ハワイやグアムへ行った時の記憶によれば、海・波・夕陽を見つめる人々の光景を多く見たように思うが、大島でそんな光景は余りお目にかからない。

 撮った写真を参考に、波を見つめる彼らの絵を描いてみた。うぇ~、難しい。線画に透明水彩、それでも描けずにガッシュも加えた。この塩梅では海や波を描くには、まだまだ修行が足りない。

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ジオパークタモリに訊くかパホイホイ [週末大島暮し]

yougan_1.jpg 野田浜で何気なく撮った溶岩写真だが、見ている内に興味を持った。この溶岩は何だろうと。テレビで地質博識発揮のタモリならば即座に説明できようが、小生は地質・火山に無知。ちょっと勉強してみた。

 まずは地図の確認。何度かスケッチした「乳が崎」の南下が「野田浜」で黒い砂浜。その南の岩場が「荷積場」。小船がすっぽり入る入江(溝)があって、その対岸が「ゲンバク」。その南がダイバーらがエントリーする小さな浜。その南の岩場が「タカトッポ」で、南の「焼き場」へ続く。焼き場の中に不思議な池があり、その南端に小さな河口(川?)がある。

 パームライン添いの小橋に忍び寄り、望遠レンズを向けると野鳥が水を飲んでいたりする。ずいぶん前にイタチも撮ったことがある。そこから磯伝いにずっと南へ行くと、また小さな砂浜があって、我がロッジ前「ケイカイ」の磯に至る。★以上の磯場写真は、リンク「つくって、つかって、つないで」に詳しい。

nodahamatizu_1.jpg ケイカイはダイビング・ポイントのひとつ。「ケイカイ=境界」と知ったのはずっと後のこと。そして今回「旧六ヶ村誌(岡田村誌)」をひもとけば「モウ沢を以て元村と境す」の文言に出会った。「ケイカイへ注ぐ沢=モウ沢」と初めて知った。その沢はロッジ辺りで深い谷になっている。眼前の沢の名を、27年目にして初めて知るとは。チコちゃんに「ボ-ッと生きてんじゃねぇよ」と怒鳴られそう。

 「荷積場・ゲンバク・タカトップ・焼き場、そしてモウ沢」。曰くあり気な名ばかりだが、それら由来はわからない。さて本題のこの溶岩です。

 大島は火山島。島中央に三原山。だが、それ一つの火山ではなく、古い三つの火山「岡田火山」「行者の窟火山」「筆島火山」も含んで島が形成されているとか。野田浜辺りの磯場は、数千年前の「岡田火山」残骸で、波に洗われて露出して磨耗。大島は古い火山も新しい火山も、概ね玄武岩質のマグマ噴火。玄武岩は黒っぽく、安山岩は白っぽい流紋岩と玄武岩の中間らしい。すると、この写真の溶岩は「安山岩のパホイホイ溶岩」か。足で踏んで痛いのが「アア溶岩」で、滑らか系が「パホイホイ溶岩」。

 にわか溶岩関心では、確かなことが何もわからないも、昨今の大島は「ジオパーク」一辺倒の観光施策。その関係者に訊ねれば、簡単に説明していただけそうだが、まずは疑問を抱いだこの熔岩から~。島は知らないことばかりです。

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吉阪隆正の再考 [週末大島暮し]

 昨日の絵の説明です。

★旧波浮小学校:「伊豆大島ナビ」で紹介の漁業協同組合加工部の岡村京子さんのコメント+「大島町史」+「小生解釈」文で改めて説明してみます。~美濃部都知事時代の40年代に島しょ格差是正で、老朽化校舎が次々に鉄筋化。旧波浮小の鉄筋化は昭和41年。前年の元町大火に復興計画書を提出したル・コルビュジエに師事の吉崎隆正と若い建築集団が、島南部まで関与して同鉄筋化に関わった。全体的に船舶をイメージした設計で、興味ひく建物になっている。

★参道への敷石:当時は目立たなかっただろうが、いまGoogleマップで上空から大島元町を拡大して見ると、この参道敷石の模様が、他の何よりもクッキリと浮かんできます。先見の明があったと、改めて関心しました。

★世界初のボンネルフ道路:ボンネ(エ)ルフは車と人の共存道路。新町長になって「こんなクネクネ道は面倒くさい」ってんで真っ直ぐに直されてしまったそうな。今思えば、これまた今の思想です。当時の設計図を見たが詳細を忘れたので、あたしならば道幅広く交通量少ないあの道をクネクネ道再現で、凸部にベンチや出店で、常に縁日気分の演出をと思ってのイメージ絵。新しい船客待合所完成の岡田に比し、ますます淋しくなる元町に楽しいストリート誕生です。

なんで、これを記したかと言うと「アートアイランズ」の地元側の方?が、頑なに吉阪隆正の存在を認めようとせず「あぁ、もったいないなぁ」と思っての吉阪隆正再考です。

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旧波浮小学校に吉阪隆正の痕跡を見る [週末大島暮し]

yosi.jpg 旧波浮小学校を見学し、吉阪隆正の痕跡を確認した報告を記そうとするのですが、何故か同じ文章の先からアップされません。

 日を改めて、今日も試みましたが、同様の症状が出ます。「so-net」に質問しましたが、ナシのツブテです。

 そこで、今回はスケッチのみ2点を掲載。明日に文章のみアップを試みます。しかしまぁ、文章なし、スケッチだけでも何かが伝えられそうで、これまた面白く、これでもいいかなぁと思案中です。

 それよりもリンク「つくって、つかって、つないで」で、我がロッジ冷蔵庫の修理過程の詳細レポートがアップされていて、その凄腕に感服です。島暮らしや別荘暮しをされている方々にも参考になりそうです。そちらのクリックをよろしく。


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ストーブの錆びを隠して空元気 [週末大島暮し]

sabisutove6_1.jpg 大島滞在中、27年間も使い込んだ「薪ストーブ」の手入れをした。(その後の台風で煙突落下を知る由もなく)

 ストーブ表面に錆びが浮かんで来たが、今迄は「556」を吹き付ける程度で誤魔化して来た。或日のテレビで、薪ストーブ職人が完成したストーブの仕上げに、スプレーで黒塗料を塗っているシーンがあって「エエッ」と驚いた。

 検索すると、800度までの耐火塗料スプレーがあると知った。多分「SCAN製ストーブ本体用ペイントスプレー黒(1900円程)」を通販入手。さてスプレー噴射と思えば「まず錆びをよく落としましょう」と記されていた。「よし、本格的にやるぞ」と電動サンダーでブルブルと磨き始めた。

 周到にストーブ周辺へ新聞紙を敷いたが、後で気付けば女房の靴下裏が真っ黒。気持ちは錆び落としも、併せて黒塗料もサンダーで磨き落としていたワケで、部屋中に黒い粉が舞ったらしい。怒られてサンダー中断で部屋中雑巾がけ。

stove4_1.jpg かくして錆だらけのストーブのビフォアー&アフタ―写真です。しかし、このストーブは落下した煙突が直るまで使用できず。

 (また島から報あり。エッ、煙突が直った。冷蔵庫も直した。心配していた腐食「柱」補強も済んだ。ストーブ内の薪皿腐食で代用の巨大フライパンの長い柄も切り落とした。締め忘れた水道元栓も締めたと。共にロッジの維持管理&使用頻度小ゆえの難問抱えていた友人と、ロッジ&車のシェアへ動き出している。その友人の頼もしいこと。大島暮しが、新ステージに入ったようです)

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三者三様の釣りに接して [週末大島暮し]

sakanairoiro_1.jpg 友人を岡田港で見送った後、岡田港堤防釣りを見学。大きなクーラーボックスを持った若い女性と擦れ違った。「釣れましたか」。気持ちよく釣果を見せてくれた。「うわぁ、タカベじゃないか」。6、7尾。小さいなぁとは言わなかった。「楽しかったぁ~。南蛮漬けにしたら美味しいかしら」。本当に嬉しそうで、こちらも幸せになった。

 昔、若い女性スタッフを連れて泉津港でタカベ釣りをした。数釣りです。「もう帰ろうよ、みんなが待っているぜ」。「いや、もう少し~」。初めての釣りで、釣る楽しさに眼が輝いていた。「もう帰ろうよ」を五度ほど言って、やっと切り上げてくれたことを思い出した。

 堤防奥へ行くと、オバさんが「困っちゃうのぅ~」「どうした」「大きいマダイが釣れちゃて~」。見れば小バッグに、大きなマダイが押し曲げられて入っていた。「困っちゃう」の意は、自分で捌けないらしい。「俺が三枚に下ろしてあげるから、半身をもらおうか」と言ってやった。

 隣の青年三人組が、水を張ったポリ箱に幾種もの魚を入れていた。メジナ、サンノジ、アイゴ、サヨリ~。それを見ていると、近くの青年がルアーでカンパチをヒット。島に来る前は伊豆半島とか。連休を各地で釣り歩いているらしい。

 堤防釣りの皆さんの話を聞きつつ、自分の釣り遍歴を思い出した。初釣りは、父に連れられての「東雲の沙魚釣り」(江戸時代からの伝統)だった。中学時代は自転車で戸田橋まで遠征してクチボソ釣りに興じた。仕事人間になった某年、ふと覗いた釣り堀のヘラブナ釣りに嵌った。高名な工芸デザイナー・栄久庵さんが会長の倶楽部に入り、竿を納めた後の釣り談義が愉しかった。その後に車の免許取得で、海釣りに夢中になった。

 大島ロッジには磯釣り、ルアー、エギングと揃っているが、何故か釣る気にならない。きっと環境が良過ぎるからだろう。大島滞在終盤に、隣人がボート釣りで上げ、捌き済の「赤ムツ」を下さった。煮つけで、とても美味しくいただいた。

 最近の島のスーパーは、軒並み改装されて日食チェーン、CGCグループ等の流通店になった。新宿自宅近所のスーパーと同じ魚が並んでいる。ってことは地魚僅少で、地魚が食いたかったら自分で釣るしかない。カットは堤防釣りで見た魚。初めて魚を描いたが面白かった。(★昨日、旧波浮小学校の記事を試みたが、ブログ不具合で文章が途中からアップされなくなった。後日改めて試みます)

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蘇鉄観て脆くはかなし島暮し [週末大島暮し]

sotetu_1.jpg 〝週末大島暮し〟が年に数度へ。夏は酷暑で、冬は海一望になって西風が怖い。春と秋が良いが、天候不順も続く。かくして久し振りに島へ行けば、繁茂した雑草との闘い。庭がキレイに仕上がった頃に帰るのが常。昨年も1年振りで、背より高く繁茂した雑草刈りに終始。隣人が見かねて「除草剤を撒いてあげましょう」

 昨年の酷い「草かぶれ」から、今年は脛を守るべくユニクロ「エアリズムパフォーマンスサポートタイツ」を購い、新宿西口・万年堂で購入のツナギで準備・覚悟を整えたが、除草剤効果で「初の雑草刈りなし」に相成り候。

 唯一の庭仕事が、ソテツ(蘇鉄)の葉の選定。ソテツを改めて調べれば、なんとジュラ紀(恐竜時代)に繁茂して現代も生き抜く〝化石植物〟とか。切り捨てた葉にも窒素、ミネラル豊富で田畑の肥料になる。逞しきソテツが、にわかに〝神々しく〟見えてきた。

 除草剤に負けずに生える雑草もいた。初めて見るオジギソウに似た草が一面に生えていて、調べると「コミカンソウ(小蜜柑草)」らしい。

 久し振りの島暮らしはライフライン不具合・修繕。除草剤に助けられたこと。エビヅルとコミカンソウなる雑草との出会い。ハチに刺され、毒吸い出し器の処置。かかぁはタランチュア級クモに悲鳴をあげた。都会暮らしと、かくも異なる環境に、老い固まった神経回路が激しく揺さぶられる島暮らしです。帰京後に観たテレビが「そうした刺激こそが〝ボケ防止〟です」と抜かした。だが実害が伴えば〝ボケ〟では収まらんだろう。

toubokutoyama_1.jpg そう記したところで、都会マンション下でチェーンソーが唸った。ベランダから下を覗けば街路樹ハリエンジュの大枝が台風24号の強風で折れて歩道を塞ぎ、作業員らが処理中だった。もしやと近所の公園を歩けば、数カ所で巨木倒木。

 嫌な予感がした。案の定、島から薪ストーブのエントツ落下の報。ロッジ横の朽ちた桜が倒れて直撃したか、いやロッジも崩れたか。エントツ落下は2011年に続いて2度目。

 ジュラ紀から生き続け、台風ごときにビクともせぬソテツの強靭な姿を見るほどに、我が大島暮しの脆いことよと思う。写真下は新宿・戸山公園の元・尾張藩下屋敷時代から生き抜いてきただろう巨木の倒れた姿。ソテツが笑っている。大島暮し、立て直せるや~。

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ハチに刺されて「毒吸出し器」 [週末大島暮し]

seguroasinaga_1.jpg 九月の島暮しは稀ゆえ、庭に咲いたサルスベリ、ムクゲの花を久し振りに見た。サルスベリは苗木を買って玄関脇に植えた。木は年々太くなったが、咲いているのを見たのは初めてか。ムクゲには10年余の歴史がある。

 最初はリゾートっぽくハイビスカス、ブーゲンビリアを試みたが失敗し、夏の花としてムクゲに決めた。当時はバイク疾駆で仕事先を回っていて、沿道に美しい色のムクゲがあれば10㎝ほど頂き、自宅ベランダで挿し木。40㎝ほどに育ってから島に移植した。当初は海側に垣根状に育ったが塩害でやられ、今は5、6本が残るのみ。

 それでも、海風に曲がり育った紫のムクゲ(写真左)が美しかった。その右側に垣根状面影を残した白いムクゲが数本。そこにブドウ科の蔓が繁茂していた。「野葡萄」かしら。調べたら「エビヅル(蝦蔓)」(写真下)。黑く熟すとワインにもレーズンにもなるとか。和色名・えびいろ=葡萄色。早稲田のえび茶色。

mukuge2_1.jpg だが、巻き付かれた白花のムクゲが可愛そうゆえ、蔓を何度かひっぱり剥がし始めた。その時、激しい羽音。首後ろにチクッ、左肘辺りにガリッ。「ス・ス・スズメバチに刺された」。シャツの中に!。シャツを脱ぎつつ脱兎のごとく室内に逃げ込んだ。

 刺された個所が、プクッと膨らんできた。ふと眼に入った黄色の小箱。近所のアウトドア店で購った「毒吸出し器エクストラクター」。注射器のように押し込むと、逆に吸い込む優れ物。左肘の刺された個所に当て、押し込むとジワッと毒液が吸い出た。3回繰り返した。だが首後ろは自分では見えず、処置も出来ぬ。

IMG_6581_1.JPG 焦ってスマホで調べた。医者に駆け込め、または20分ほど様子をみて大事に至らなければヨシとも記されていた。10分、20分~。大事に至らずホッ。翌日「スズメバチマグナムジェットプロ」を購って噴射退治。落ちたハチ(カット絵)を確認すれば「セグロアシナガバチ(背黒脚長蜂)」だった。庭をよく見るとアシナガバチらしき巣(円錐状)も落ちていた。

 今迄にスズメバチの巣(球状)を二度除去したことあり。刺したのがスズメバチだったら大事になっていただろう。島暮しはサバイバルでございます。

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電気ヘルプで高所作業車登場! [週末大島暮し]

denkikouji_1.jpg 島ロッジへ着。ほぼ1年振り。まず鍵が開かぬ。556を吹き付けて格闘20分。やっとロッジ内に入ってブレーカーを上げる。電気通じぬ。携帯でヘルプ。藪をかきわけて電気工事高所作業車がやって来た。

 ブーム先端のバケットに乗り込むと位置操作。ブームが幾段階も水平に、垂直に伸び、180度回転もする。その自由変化の操作に思わず見入った。子供ならば、操作の度に歓声をあげたかもしれない。そう言うと「課外授業で子供らに披露することもありますよ」。

 そんな操作をした上で電気修理とは凄い・凄い。小生は虚業、人をだますような惹句書きで生業って来たゆえ、腕に技術の方へのリスペクトは大きい。ただただ羨望です。

「海っぺりだと10年で腐食だが~」「27年です」「よくもったねぇ」で電柱尖端の腐食部分交換、屋根の取り付け部分も直して下さった。「電力会社がいただくのは電気料金だけ。東京には悪徳業者も多いからご注意を~」の忠告。大島赴任前は東京勤務。島は赴任族が多いようです。

 電気が通じると、今度は冷蔵庫の不具合が発覚。冷気を送るファンが回っていないらしく、中段室のみが効いている。もう、うんざり。「そうだ、島暮しはキャンプと思えば、クーラーボックス程度で充分じゃないか」と割り切った。昭和初期冷蔵庫のように中・下段室に氷を入れたら、それでジュースがシャーペット状に冷えた。

 次にプロパンも塩梅悪し。もうカセットボンベでいいかぁと思ったが、動かぬ栓を諦めて別詮にホースを付け替えてOK。灯油給湯器も燃焼せず。すでに基盤交換もし、腐食水漏れも修理済。もうイヤイヤで、五右衛門風呂なら故障知らずだろうと思ったが、プロパン給湯器に替えることにした。

 すっかり萎えてしまった大島初日だが、島の知人が顔を出してくれた。「なんでぇ、最近はブログに挿絵がねぇな。あの下手絵が楽しみだったのに」ってんで、久し振りに下手カットを描いた。絵はいい。描くに具合が悪ければ省略し、実景も描き易いように変えて描く。だが、それまた〝虚〟なり。実生活はままならず、後でとんでもない惨事に襲われることになった。(続く)

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岡田港「船客待合所」全貌現わす [週末大島暮し]

sinokada3_1.jpg 昨年7月、仮称「岡田港船客待合所兼津波避難所施設」を、橘丸デッキから俯瞰で見た想像図を漫画風に描いた。以来、建築進行が気になっていたが、今回の岡田港着で、同建物のほぼ全貌を見ることができた。

「ㇷ~ン、こんな建物だったんだ」。鉄筋コンクリート5階建て。説明に「コロッセオのような建物」。ローマ帝政期の円形闘技場風ってことか。3階までガラス張り。潮でガラス面がきれいに保たれようか。設計は㈱日建設計らしい。

 そこで同社設計ビル群より、小生にも馴染のあるビルの一口メモ。まず六本木1丁目辺りの「泉ガーデンタワー」。建物片隅に永井荷sinokada2_1.jpg風〝偏奇館跡碑〟あり。日本コロムビアが赤坂から移転した当初の社屋が同タワー近くで、行く度に〝荷風・偏奇館〟に思いを馳せたもの。

 次に新宿西口の「モード学園スパイラルタワーズ」。その鳥の巣状のタワービルの異彩は、新宿の至る所から見える。お台場・青海「日本科学未来館」は、3.11大地震の時に天井一部落下で右往左往する人々の恐怖映像が「YouTube」にアップされていたのを見たことがある。共にガラス壁多用です。

 「東京スカイツリー」も同社設計。昔の日本一高層ビルだった浜松町「貿易センタービル」(間もなく建て替え)も同社設sinokada1_1.jpg計で、昔の「ポニーキャニオン」も入居で、若い時分はよく通った。最近では展望台から変貌する竹芝周辺の写真を撮った。

 さて、次に島に行った時は、新「船客待合所」になっているのでしょうか。楽しみの一方、今まで春に島へ行けば、まず岡田港待合所・軒下の渡ってきたばかりのツバメらの営巣する姿にしばし見惚れ「あぁ、大島に来たぁ~」と思う情緒があったも、ツバメらは今後はどこで営巣するのだろうかとちょっと心配になった。

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伊豆大島「裏砂漠〝騒動〟」 [週末大島暮し]

urasabaku2_1.jpg 図書館の「朝日新聞縮刷版」で<千駄ヶ谷〝連れ込み旅館〟環境浄化運動>を調べていた時に、同時期の昭和32年4月12日東京版の「裏砂漠騒動」記事を見つけた。

 見出しは「大島の新観光道路で対立~町当局と経営者の船会社~/道路にクイ打つ~地元側〝商売上ったり〟と」。リード文は「大島に東海汽船会社が新しく作った観光道路で町当局が怒り、5日には道路にクイを打ち込み。町と汽船会社がにらみ合を続けている」。どんなことなのだろうか。本文は概ね以下の通り。

 新観光道路は、従来コース反対側から火口へ行くもので、大島公園から日航機の遭難した砂漠地帯に観光バスを通した〝テキサス・コース〟。東海汽船は昨年9月から町の承諾を得て工事を始めて、全3.8㎞を3月末に完成。東海汽船は同コース宣伝ポスターを関東一円に配布。同ポスターに「岡田港~テキサス・コース~湯場温泉で休息~岡田港」行程を紹介。これを見て野増地区の乗馬組合、写真屋、土産物店が死活問題だと騒ぎ出し、町議会で町長と助役が辞表提出。白井大島支局のあっせんで辞職撤回も、同道路が町道であるというので、バスを通させないようクイを打ち込み、両者がにらみ合っている、という内容。

 同記事の冒頭文「大島公園から日航機の遭難した砂漠地帯に観光バスを通した〝テキサス・コース〟」で、小生の頭が混乱した。それは、ひょっとすると現在の「月と砂漠ライン」のことではなかろうかと。同ラインは大島一周道路から三原山奥へ入る約3㎞の舗装路で、終点の駐車場から徒歩約400㍍日航機「もく星号遭難」(松本清張では〝追撃〟)地点へ。この道はバスが走れなくもない舗装路。町のサイトには「2006年4月に開通」と記されているも、その舗装路の傷み具合から、同道路が出来たのはずっと以前、つまり騒動の起こった昭和32年当時のものではなかろうかと推測。

 一方「テキサス・コース」は小生未踏でよくわからぬが、大島公園から一周道路を横断して入る〝ハイキングコース〟で、そこは観光バスが走れる道ではなかったように思うのだが。いや、荒れ地をグリグリと走ったのだろうか。真相は如何に~ とちょっと不可解な昭和32年の新聞報道を読んだ、というお話でした。

 こう記せば小生は「テキサス・コース、行者窟、行者海岸トンネル、湯場ホテル廃墟」をはじめ、狭い島ながら知らない地の多いこと。改めて島の奥深さを認識です。

 明日から1週間ほど〝大島暮し〟です。さて、なにをして遊びましょうか、どう過ごしましょうか。ボロロッジのメンテナンスの明け暮れでしょうか。

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「大島動物公園」脱走物語 [週末大島暮し]

osimakoen1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」最後は「大島自然公園」。この写真は水鳥らの池だろうか。小生、閑ゆえ<昔の「島の新聞」>から〝動物公園脱走物語〟を記したことがある。

 まずは「熊脱走物語」。昭和11年5月17日早朝。壁に立てかけ忘れた梯子から子熊3頭が脱走(熊は木登りが得意)。警察・消防団が大捜索も同日未発見。18日に公園付近で1頭捕獲。同日夜に公園から3里は離れた御神火茶屋隣接のラクダ小屋で1頭捕獲。20日、野増村の〝かよばあさん〟が大いびきの熊を発見して捕獲。野増から泉津への帰還沿道は拍手喝采。

syowa38kuma3_1.jpg 昭和11年10月4日。再び子熊3頭脱出。19年後の昭和30年12月26日の朝日新聞に大熊目撃の相次ぐの報に、園長は「昭和11年脱走の2頭捕獲も、逃げた1頭だろう」。さらに昭和43年10月、大島猟友会3人が落花生畑の大熊を射殺。昭和11年脱走熊なら35歳。射殺せずも長寿全う間近だった。

 次にタイワンサル。昭和17年の大島公園から数匹脱走。昭和39年の「島の新聞」に7~80頭繁殖か。平成14年の朝日新聞によれば推定2千頭。平成22年1月の「asahi.com」では4千頭に繁殖。

 次はタイワンリス。同じような経緯で脱走・繁殖。現在は計測不能の数万頭とか。林の木が揺れていれば、そこにリスがいる。林の中でガァガァの鳴き声がすればリスだ。平成17年に特定外来種に指定。

 目下はキョンが話題。昭和45年の台風で10数頭が脱出。目下は1万5千頭とも。三原山樹林でも我がロッジからもキョンを見る。今秋に捕獲チーム名「キョンとるず」、ロゴマークも決まったそうな。

simasaru2_1.jpg 別の動物話題を二つ。中西悟堂『定本野鳥記』第1巻「放飼編」を読んでいたら、家や部屋ん中で多数大型野鳥を飼っていたが、同編末に「今は禽舎はガラアキ。ほとんどの鳥を、東京湾汽船の林社長の懇望で伊豆の大島へ移してしまった」の記述。昭和10年記で、同年は動物公園開園。

 さらに驚いたのがWeblio辞書。「生類憐みの令」(魚鳥類の令は貞享4年・1687)の際に江戸などで集められた鷲、鷹、雉などが宝永5年(1708)まで20年余にわたり大島で放鳥と記されていた。本当かしら。これは裏をとっていない。

 最近の動物公園は素敵に楽しく改修・拡充されている。東京都立大島公園は植物縁・椿園/動物園/ハイキングコース/海のふるさと村で構成。同サイト最新ニュースには「レッサーパンダの赤ちゃん公開開始」「ラマの赤ちゃんが産まれました」と楽しそう。

 300円で入手の「昔の絵葉書」だが、たっぷり楽しませていただいき、これにて終了。新聞切り抜きはクリック拡大で本文読めます。

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「長根浜」の象とライオンと羊と [週末大島暮し]

naganehama1_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に「長根浜公園から三原山を望む」写真あり。同公園の為朝顕彰碑は紹介済だが、今はゴジラ像、中村彜(つね)像などがあり、水着混浴露天風呂「浜の湯」、道路向こうに食堂・プール併設の「御神火温泉」がある。

 この写真で眼についたのが赤屋根の東屋。公園から野田浜へ向かう「サンセットパームライン」沿いに同じような東屋が幾つかある。同ライン開通は「黒潮小屋」竣工時と同じく「島の新聞」に大仰な見出しで報じられていた。「世界第二の人口を誇る大東京六百万人の健康と行楽のためのハイキングコースとして開通」。なんと昭和12年開通で、昭和38年の大島循環道路開通より26年も前のこと。この絵葉書は昭和25・26年噴火後のもの。その当時からこの東屋は建っていて、前回紹介の縦長写真のアンコさんが寄りかかるのも同東屋の柱だろう。今は「浜の湯」で撤去されている。

 第二に注目は、松林奥の赤い建物。なんだろう。伊豆大島「懐かしの写真集」を見たら「移動動物園を長根浜公園に設置し、象やライオン等、島の人達が普段見ることの出来ない動物を披露した」とあった。ホントかいなぁ。

 調べたら確かにそうで、昭和26年5月に上野動物園「移動動物園」のアジア象「はな子」と雌ライオンが、東海汽船の貨客船「黒潮丸」(昭和22年進水)で大島にやって来て一ヶ月滞在。その間に「はな子」散歩中に脱走騒ぎもあったとか。

 ネットを丹念に探索すると、アンコさんが子象に乗った当時の写真が「東京ズーネット、井之頭自然公園」サイトでヒット。「はな子」は昨年6月末に69歳で長寿全うした。また昭和30年刊の岩波写真文庫「伊豆の大島」に、長根を背景にした草原(公園)に〝羊の群れ〟写真があった。昭和10年の「島の新聞」に動物公園の孔雀と羊の群れの記述があり。動物園から連れて来て撮ったのかも知れない。

 なお「長根浜」の名は、眼下の海に突き出た溶岩岬=長根から。室町幕府成立=1338年噴火熔岩で、当時は先端まで大地で、波に浸食されて熔岩だけ残った形とか。ってことは昔は西海岸一帯が200㍍先まで大地だったということか。話題豊富な長根浜公園です。

 現・長根浜公園と云えば「浜の湯」。昭和61年の大噴火で、元町地区の水源井戸の温度が上昇して温泉になったとか。大規模「御神火温泉」に比して「浜の湯」の常連古老らは〝効きが断然違う〟と絶賛。温泉から望む夕陽は絶景だが、振り向けば三原山で、4年前の土石流の痛々しい傷跡(山肌)が、やっと緑になってきた。

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「アンコさん」とジオパーク [週末大島暮し]

anko1_1.jpg 前回記した坂口安吾『消え失せた沙漠』を読むと、門外漢ながら観光施策を考えてしまう。同随筆は三原山噴火の書き出しだが、島の魅力考察でもあった。

「東京から七時間、伊東から二時間の大島だが、風俗習慣がガラリと変わっている珍しさがある。内地を一昼夜特急で走っても、これほど習慣の差のあるところはない」(原文を圧縮引用)

 つまり「三原山(ジオパーク的関心)+アンコはじめの異風習=大島人気」と分析・指摘していた。アンコ風俗、祭神、遺跡出土品、祖先(ネイティブ)、島言葉、古民家、タメトモさん、水事情、酪農などをそれぞれ考察して結論へ。

 「〝旅〟です。大島にはそれがある。それが味わえる。村のアンコたちと噴煙を見ているだけで、旅行者は〝旅愁〟を味わえる。日本にもそんな島があるということ」

ankoyuhi1_1.jpg その指摘通り、大島観光客は急上昇で昭和48年に83.9万人のピーク。同年オイルショックもあってか急降下を開始。それは昭和61年の三原山噴火まで続いて約40万人。離島ブームで少し上昇した平成3年にミニピーク(約46万人。小生ロッジ建造年)。

 後は現在までダラダラ下降線で今は18万人ほど。推移グラフを見ると内輪山から外輪山、そして海まで下る等高線のようであります。(参考:「伊豆諸島・小笠原諸島観光客入込実態調査報告書」「大島町統計資料」)

 現観光施策を部外者の眼でみれば「補助金頼りの格安展開+ジオパーク展開」は〝下降現状の持続可能展開〟のように見える。ジェットフォイル艇90分も旅を日常化した。では〝消え失せた異風習〟に代わるものは何か。答えがないのかも知れない。超アイデアが出るか、はたまた自然変化が起こるか。それまでは観光客減+人口減を併せて、下降線が〝海岸線〟へ迫って行くような気がしないでもない。

 小生は島では外食もせず会食もせず、ただ静かにのんびりと過ごすのが何より。なのに実際はボロロッジのメンテナンス、雑草刈りで疲労困憊になる。ゆえに疲れを癒す夕陽見つつの「浜の湯」がいい。ボロでもマンションにはない木の家の心地よさがいい。静かな夜に見つめる薪ストーブの火がいい。そうか、「昔の絵葉書セット」にはない〝島の三至福〟だなと気付いた。

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「三原山」消え失せた砂漠 [週末大島暮し]

miharayama2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」に、二つ折りパノラマ写真「三原山全景」があった。この写真を前に考え込んでしまった。小生が知る風景とはかなり違う。焦げ茶の溶岩、黄色の砂漠。古い絵葉書ゆえの褪色か、はたまた砂漠風に彩色修正が施されたものか。

 本当はどんな色なのかしら。昔の写真を探し見るもモノクロばかり。小生の昭和32年の大島遠足のクラス写真も白黒で、カラー写真は未だ普及していない。

 写真探しを諦めて三原山噴火史を探った。近世では天和4年(1684)~元禄3年(1690)の7年間に渡った噴火。安永6年(1777)噴火。そして260年振りの昭和25,26年(1950~51)大噴火。これで風景が一変した。

miharakako2_1.jpg 当時の様子を坂口安吾『消え失せた沙漠~大島の謎~』(「文藝春秋」昭和26年7月1日号掲載)が書いていた。

 「正月元旦に大島上空を飛行機で通過したとき、内輪山の斜面を溶岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていただけで、くすんだ銀色の沙漠が広がっていた。(略)いわば海の上へスリバチを伏せたようなケーキを置き、その上に白クリームをかけ、その中央にチョコレートを二本半の線で垂らしたように見えた。火山の凄味はなく、夢の国のオモチャのように美しいものであった」(原文を短くまとめた。以下も同じく)

 「そんな風景が噴火で一変した。三月と四月の大噴火で広い沙漠の半分を熔岩が埋めてしまった。大変なことです。(略)元禄以来二百六十年振りという大爆発。(略)この熔岩が風化して再び沙漠になるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が昭和二十六年(1951)に失われて熔岩原となった。今後は熔岩原が三原山の新名物で、再び沙漠が名物になるには百年もかかるとすれば、これは一つの歴史的爆発に相違ない」 改めで同随筆題名は「消え失せた沙漠」。またこの絵葉書もそれ以後の製作とわかる。

 三原山はその後、昭和32年(1957)に爆発し、昭和61年(1986)11月15日に火口噴火。一週間後に〝割れ目噴火〟で溶岩が元町まで迫って同21日に全島民が島外避難。

 小生が知っている三原山・表風景は平成3年から。平成8年(1996)秋に火口周辺まで開放されて遊歩道が開通。その時に〝陶芸の野焼き〟をし、遊歩道を歩いて火口を覗いた。

 三原山は噴火の度に景色を変えていると改めて知った。15日が全島民避難の大噴火から31年目。噴火は40年周期とも。次に島へ行ったら「火山博物館」を訪ねて、昔の三原山の様子を、また今後の心構えをしておこうと思った。

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「橘丸」船も島も有為転変 [週末大島暮し]

tatibanamaru_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」より五枚目は「橘丸」。煙突の流線型が特徴か。愛称〝東京湾の女王〟。写真は元町港。昭和十年(1935)霊岸島から初就航。岡田堤防完成(昭和十五年)まで交通船が沖合まで往復。

 昭和十三年に海軍徴傭で病院船に。同年に中国軍襲撃で浅瀬座礁・横転。仮修理後に日本で本格修理。翌年解傭で東京湾汽船に復帰。だが観光客少なく日清汽船へ傭船も、「葵丸」が乳ヶ崎で座礁・沈没(昭和十四年十二月)で、再び大島航路に復帰。

 昭和十八年、陸軍徴傭で病院船。「橘丸事件」(病院船ながら部隊、武器輸送で千五百人捕虜)。戦後は復員船。昭和二十五年二月に東海汽船・大島航路に復帰。昭和四十四年「かとれあ丸」就航で神津島・式根島航路へ。昭和四十八年「さるびあ丸」就航で引退。

ensoku.gif なんと波乱の〝船歴〟よ。小生は昭和三十二年(1957)に中1の秋の大島遠足で「橘丸」に乗っている。記憶皆無も背景は三原山、両脇にアンコさんのクラス全員写真。

 町史をみれば第一回椿まつり、小涌園ゴルフ場完成、波浮港大火(十六戸焼失)の翌年。遠足年の十月に三原山噴火で火山弾で一名死亡、重軽傷五十三名。そして遠足翌年が三原山・山津波(狩野川台風)で元町五十五戸全壊。本当にそんな時期の災害の間隙をぬった遠足だったかと首をひねるも写真記録に間違いはなかろう。

 船のみではなく、大島も波乱の連続だな。〝自殺名所〟という変な要素を含んだ三原山人気、離島ブーム、元町大火も凄く、全島避難を含む幾度の三原山噴火、土石流などの大災害など。今は観光客減、人口減に直面しているか。小生もフリーランス人生で仕事は荒波サーフィンの如しも、平成三年に島ロッジを建てるとは思ってもいなかった。

 振り返れば島へのアクセスも激変だった。羽田発YS-11、ジェット機B737-500、双発機DHC8-300。調布発のアイランダー機。船は夜発の大型船「かとれあ丸」「さるびあ丸」。それでは愛犬同伴が厳しく車で熱海発「シーガル」へ。今はジェットフォイル艇。空便はジェット機に備え空港大拡張も、利用者少なく羽田便消滅。

 船史、島史、アクセス史、ついでに我が人生も「有為転変」。明日のことは誰にも分らず。今をそれなりに一生懸命生きること~。

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「行者窟」伝説に満ち満ちて~ [週末大島暮し]

bakinbun1_1.jpggyoujyakutu2_1.jpg 昔の絵葉書「黒潮に浮かぶ伊豆大島」から、次は「行者窟」。小生、島通い27年も未だ訪ねず。この機会に〝役小角〟も少しお勉強。

 まず馬琴『椿説月張月』を読んでいたら、「行者堂」言及の一節あり。江戸の読本なれど楷書版字で実に読み易い。その一節を原書通りに筆写してみた。

 伊豆國は、いにしへより罪人を流さるゝ地なれど、大嶋へは文武天皇元年、役小角を配流されし、これはじめ歟(か)。その以前の事傳らず。今も小角が往ける嵒窟(いはや)、泉津といふ村にあり。嶋人これを行者堂と称して、常に詣るとなん。

 役小角(えんのおづぬ)のお勉強に藤巻一保著『役小角読本』を読む。信頼できる史料は死後百年後の797年刊『続日本紀』と822年『日本霊異記』のみとか。その『続日本紀』も史実は一節。

 丁丑(ひのとうし、文武三年〝699〟五月二十四日)、役君小角、伊豆嶋に流される。初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師なりき。後にその能を害(ねた)みて、讒(しこ)づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配(なが)さる。

 次から早くも伝聞。「小角能く鬼神を使役して、水を汲み薪を採らしむ、若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る」 史実はそれだけ。しかも亡くなって百年後の記述で、どこまで信用していいのやら。史実はこれにて終了。折角ゆえ〝虚構〟も少し遊んでみる。

 没後、約八百年の室町末期に、一冊にまとめられた最古の小角伝『役行者本記』あり。著者は同記より経歴を要約。舒明六年(634)、葛木上郡茅原(現・奈良県御所市)生まれ。父は高賀茂十十寸呂(たかかもとときまろ)、母・白専女(そらとうめ)。賀茂氏の氏神・賀茂大神の祭祀、呪術を司祭する家系。

 十代、二十代は家職の知識習得。その合間に山に籠って修行。三十代に入ると人間界の一切を捨て、山中籠居で過酷な仙人修行。日本最初の神仙道家になる。山に籠って三十年余の文武二年(698)、朝廷が全国各地に鉱物資源調査を命じる。朝廷のお膝下の大和國調査に小角に白羽の矢が立った。小角は命を断って朝廷の怒りを買った。捕縛の内通者が弟子の韓国連広足。かくして文武三年(699)に伊豆大島へ配流。

 絵葉書の「行者窟」で昼は修業し、夜は富士山へ飛んだそうな。二年後の大赦で故郷・茅原に帰り、以後は諸国の峰々を巡ったので、各地の霊山幽谷に行者の足跡が残された。著者は巻末に全国99カ所の霊地を紹介。小生自宅近くの高田馬場「穴八幡」の別当「放生寺」にも、子犬が潜れるほどの窟に〝役行者〟由来が記されていたりするから、窟=役小角と思っても過言ではないかも。

 さて島の「行者窟」は間口16m、奥行24目m。本人作と伝わる像もあり。都指定旧跡。毎年6月15日の「行者祭」は無形民俗文化財。島内外の信者が「護摩供養」をし、十年ほど前までは洞窟手前の浜で地元・泉津小の子供らの奉納相撲もあったとか。平成三年より落石危険で行者窟への道は交通止とか。

 今、行者窟へ行けば、配流699年から現2017年までの1318年の時空を一気に飛ぶことになる。そう、ここから富士山へ飛ぶなんぞは朝飯前のこと。大島は伝説の島と改めて認識です。

 追記:「大島公園」から下って海岸遊歩道へ。「サンドスキー場」跡の先が行者浜で、平成6年(1994)に「行者海岸トンネル」(500㍍)が開通。トンネルを抜けると「海のふるさと村」。緊急時や職員用トンネルらしいが、車は通れぬも自転車走行の写真が幾点もアップされていた。自転車は可らしい。島は狭いが、知らない場所も多い。

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「源為朝」を神田の茶店で~ [週末大島暮し]

hatimanjinjya_1.jpg 前回の続き。「神田古本市で『保元物語』を探そう」と思った。岩波書店刊の日本古典文学大系『保元物語 平治物語』を200円で入手。近くのタリーズ店でコーヒーを飲みつつ頁をひも解いた。

 「此為朝をば首を刎らるべきか、禁獄せらるべきか、如何有べきと様々也けるに~」。「遠流にてこそあらめ」とて、伊豆の大嶋へ流しつかはさる」。そして「以後弓を引せぬ様に相計べし」。かくして左右の腕をのみにて打放てぞ抜たりける。 

 「伊豆に下着しても、物を物ともせず、人を人共せず。思様に振舞ければ、預(あづかり)伊豆国大介、狩野工藤茂光もてあつかひていかゞせんとそ思ひける」 ここで終わっていた。何度も読み返したが、為朝の記述はここで終わっていた。

 同書は「金毘羅宮所蔵本」で、後に多くの流布本が出た。同書には小活字で付録「宮内庁書陵部蔵本『古活字本 保元物語』も収録。それを読むと、為朝が湯屋で真裸のところを捕まって「伊豆大島へながされけり」と出てきた。すでにフィクションが膨らんでいる。まぁ、そこから読んでみる。

 「我清和天皇の後胤として八幡太郎の孫なり」と大島を菅領し、五島をうちしたがへし。十年過ぎ、白鷺が飛んで行くのを見てはや船をだして鬼ヶ島へ。彼らを配下に。これを聞いた後白河院がおどろいて茂光に命じ五百余騎、兵舟二十余を率いて大島へ討伐に」

 だが為朝は、無駄な殺生を嫌って念仏を唱えるが、そこに一陣の舟が迫ってきて矢を射った。沈む舟から兵らが他の舟に移るなどを見て「保元の時は一矢でおほくの兵をころした。あぁ、南無阿弥陀仏」と唱えながら家の柱を後ろに腹をかき切った。「つゐに本意をとげず三十三にして自害して、名を一天にひろめけれ」で終わっていた。

tokyokokurituhaku_1.jpg そして『保元物語』から587年後、江戸は文化4年に馬琴『椿説弓張月』。「保元物語」の優れた武将・為朝の末路が甚だ悲惨だとして、大島で死なず琉球に渡って大活躍の椿説=珍説物語を創作。これが大当たり。浄瑠璃、歌舞伎、簡易読物、錦絵などになって大普及。馬琴の勧善懲悪、道義心、士気高揚を為政者らも利用したりで、大島の「為朝顕彰碑」もその一つかも。

 なお馬琴『椿説弓張月』最後に「為朝神社并南嶋地名辨畧」の項あり。全国の為朝神社が挙げられていた。大島に関しては~「和漢三才図会絵巻の六十七、伊豆国の條下に云(いわく)為朝社は大嶋にあり、祭神鎭西八郎為朝云々。大嶋の為朝の社あること、いまだ詳ならず」と記されていた。

 大島・元町の「為朝神社」(頭殿神社)は藤井家の氏神で神事は十月。岡田港の村に「八幡神社」(写真上)あり。同神社の御神体は為朝が配流の際に奉じた「九重の巻物」。「開かずのお箱」に収められ、開けたら眼がつぶれる。毎年1月15日に正月祭。為朝がテコ(梃子)で溶岩を取り除いた縁起から「天古舞」が奉納されている。

 写真下は『椿説弓張月』より国芳描く「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(東京国立博物館蔵/研究情報アーカイブスより)は、為朝が清盛を討つべく水俣の浦から船出をするも、荒天で転覆瞬間に讃岐院使者と称する天狗らに救われ、紀平治が抱く舜天丸(すてまる、後に琉球王)も沙魚(わにざめ)に救われる図。

 史実(現実)はさておき、戯作者も絵師も長屋の庶民も〝想像力豊かな世界〟を共有して愉しんでいる。これを〝飛んでいる〟と解釈すれば、次の絵葉書「行者窟」へ入りやすい。

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