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大田南畝終焉の地の様変わり [大田南畝(蜀山人)関連]

 nanpohi_1.jpgブログを続けていると、先日の「東海汽船・月島桟橋」と同じく、過去記事のフォローをしたくなること間々あり。一昨年六月「大田南畝の終焉地」を訪ねるも、大工事現場になっていて落胆したと記した。

 過日、神田川沿いポタリングをしていたら「御茶ノ水」聖橋から昌平橋へ下る「淡路坂」際が様変わりしていた。高層ビル「solacity」なるが建ち、「蜀山人終焉の地」の史跡案内板(写真中央下)も復元されていた。

 案内板には大田南畝プロフィール紹介後にたった一行・・・「文化九年(1812)に当地に移り住み、文政六年(1823)に没するまで過ごしています」。物足りないので補足する。大田南畝は長年住み慣れた下級武士、御徒組屋敷(現・牛込中町)の家を出て、念願の持家を荷風生誕の小石川・金剛坂近くを下った崖上に「遷喬楼」を建てた。鶯の鳴き声が聴こえ、富士が見える風雅な家だったとか。

 そこから終の棲家として淡路坂の「緇林楼」へ移転。二階建ての二階十畳が彼の書斎・客間で当時の文人の溜まり場。斜め前に太田姫稲荷(今は移転)、前が御茶の水の渓谷、向こうに湯島聖堂の甍と森が見えた。「緇林楼」は湯島聖堂の「緇林杏壇」に由来。読書と狂歌、酒と好色にうつつを抜かす最中の「寛政の改革」で、一年発起で「学問吟味」に挑戦。その試験場が湯島聖堂だった。

yusimaseido_1.jpg 文政六年四月三日、妾(?)のお香を連れて中村座へ。三代目尾上菊五郎が挨拶に来て、翌四日に酒とヒラメの茶漬けを食い、六日に75歳で逝った。荷風『大田南畝年譜』には「生きすぎて七十五年喰ひつぶしかぎりしらぬ天地の恩」が紹介されていた。墓は小石川・白山の本念寺。様変わりした淡路坂だが、今も深い谷の神田川、その向こうに湯島聖堂が望めた。


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京伝の机碑恋し彼岸かな [大田南畝(蜀山人)関連]

kyodentukue1_1.jpg 「子規庵」から、再び言問通りに戻って浅草へ走った。目指すは浅草神社脇の「山東京伝の机塚」。あぁ、なんと哀しや、駐車場に邪魔な杭でも建っているような、ぞんざいな感じであった。京伝については、このカテゴリーで、すでに登場済。

 この机塚は文化13年(1816)、56歳没の翌年に弟・京山が建立。史跡案内板通り、表面に京伝による「書案之紀」が刻まれている。書案=机。「9歳の時に寺子屋に入った際に、親が買ってくれた天神机で、これを生涯愛用して百部を越える戯作を書いた。50年も使ったのでゆがみ、老い込んださまも哀れだ」の文に、狂歌<耳もそこね あしもくじけて 世にふる机 まれも老たり>と詠まれている。裏面には常に京伝を引き立て続けた大田南畝による京伝略歴が刻まれていた。

 京伝の最初の妻は、吉原の遊女・お菊さんで3年で病死。40歳になった7年後に同じく吉原・玉屋の「玉の井(百合さん)」23歳を落籍。二人は仲睦まじく、京伝はその後に遊里に足を踏み入れなかったとか。小池藤五郎著「山東京伝」によると「机塚の落成は、旧友を塚のほとりの茶屋に招き、供養の宴がはられた。京山が中心になっているが、未亡人の夫恋しさの現われで、費用は全部、京伝の遺産から出された。百合さんにとって京伝は夫・父・恋人の存在」だったと書かれていた。百合さんは翌年に恋しさの余り狂死。

<京伝の机碑恋し彼岸かな>

 子規の机には立て膝の凹みが細工されていて、常に妹・律が傍にいた。京伝の机には両親の愛情が満ち、手鎖50日の刑を励ましたお菊さんが、円熟期を支えた百合さんが傍にいた。


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大田南畝生家~南岳~紅葉~江見のこと [大田南畝(蜀山人)関連]

nanpotaku1_1.jpg 大田南畝「生家」探しの記事を何度かここにアップした。鈴木貞夫著「大田南畝の牛込御徒町住所考」なる研究資料に辿り着き、それによって後任御徒の「屋敷渡預絵図証文」から南畝の屋敷が特定(現在の新宿区中町36)されたことも記した。

 現在、新宿歴史博物館で開催中の<『蜀山人』大田南畝と江戸のまち>で頒布の同題冊子(千円)の冒頭「牛込御徒町」の章に、こう書かれている。・・・<明治三十九年の「新撰東京名所図会」四二篇は、北町四一番地を南畝の旧居とし、子孫で画家の大田南洋が住んでいたこと、その後、尾崎紅葉がこれを知り、明治二十三年から翌年まで住み、その後更に紅葉と同じ硯友社同人の江見水蔭が住んだことを紹介している>。同文は続いて永井荷風の大正十四年の南畝生家に関する記述を紹介し、冒頭の鈴木貞夫氏の研究による断定で結んでいる。

 前段はここまで。さて、尾崎紅葉が明治36年に亡くなるまで12年間住んだ家は「新宿区横寺町47」で、紅葉がその前に住んでいたのが眼の先の牛込中町の大田南畝旧宅で、紅葉が横寺町に転居した翌日に江見水蔭がここに入居・・・という記述が、当の江見水蔭著「自己中心 明治文壇史」にあった。これがおそらく「新撰東京名所図会」の基だろうと推測される。こんなのを探り出すとは、あたしも隅に置けない。ふふっ・・・。

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 江見水蔭の同著によるとこうだ。・・・明治23年1月5日、硯友社の新年宴会として初めての文士劇が行われた。尾崎紅葉から立作者(脚本家)に抜擢された江見水蔭が、その経緯、当日の様子、評判を振り返ったあとで、江見はこう記していた。<・・・兎に角紅葉は大学生中、既に「読売」に入社して、少しは経済もゆるやかに成ったのか、飯田町から牛込北町四一番地へ(大田蜀山人の屋敷跡で、其前まで同翁の曾孫大田南岳、書家で、先年市川で溺死した人が住んでゐたので有った。)転居してゐた。文士劇の大道具は、この北町で大概造られたので、雨戸の表には安絵具が付着して長らく落ちずにゐた。> なお江見は湘南・片瀬の貸別荘に転居する明治二十九年春までここに在住した。

 ここで明治39年刊の「新撰東京名所図会」は<南洋>で、江見水蔭は<南岳>の違いがある。大田南岳については、永井荷風が実際に逢っていて、彼の人生エピソードの数々を「礫川徜徉記」に詳しく書いてい、小生も本念寺の南岳お墓写真と共にこれを引用紹介(2011・07・11)した。それによれば大田亨(南岳)はずっと四谷在住で、大正4、5年に市川に移転。大正6年に江戸川で水死。よって、江見の同家転居は明治24年で、この江見の(其前まで同翁の曾孫大田南岳、書家で先年市川で溺死した人が住んでゐたので有った)というのは、同書刊の昭和2年の追加記述でまぎらわしい。南岳が四谷に移転後?の明治23年に紅葉が入居し、翌24年に江見が入居したのだろうか。

 そして(明治二十四年の初春)と記された「破天荒の原稿料」の章に、江見は再び同家のことを書いている。<・・・三月一日に、自分一家は、同じ北町の四十一番地に転居した。そこは紅葉が前日まで住んでゐたのだが、横寺町へ移居したので、其後へ直ぐ入ったのであった。紅葉が横寺町へ転じたのは(終焉の家)嫁取りの準備といふ事が後で知れた>。その頁にスケッチ(写真)を掲載。このスケッチには「明治二十七年十一月十一日夕写生」とあって、江見は「古日記の中に北町の住宅を背後より写生したるがあり、嘗て紅葉も住みし也 昭和二年七月 水蔭追記」が読み取れる。同書は昭和二年十月博文館刊で、同書執筆中に追記したのだろう。

  田山花袋「東京の三十年」にこんな記述がある。尾崎紅葉を訪ねる前のこと。「・・・その時分、私は牛込の納戸町にいたので、北町の通りは常に往来した。初めはそれと気がつかなかったが、Sが「紅葉は北町にいるじゃないか」と言うので、ある日、それとなく注意して歩いて見ると、長屋と長屋との間に小さな門があって、そこからずっと奥に入って行くようになっている家に、硯友社、尾崎徳太郎と蜀山人風に書いたかれの自筆が際立って目に付いた。」 小さな門というのは、御徒町組屋敷の東西にあった木戸だろう。花袋はその後、横寺町に移った新婚の尾崎紅葉を訪ね、翌日に成春社「千紫万紅」を任されて、その北町宅に入った江見水蔭を訪ねている。泉鏡花が何度か「成春社」会費徴収に花袋宅を訪ねて、江見は花袋のデビューとその後も応援し続けた。

(★花袋は牛込の富久町、納戸町、甲良町、喜久井町と転居を繰り返したのをはじめ、牛込は硯友社系文人が多く住んでいた。尾崎紅葉を慕った彼らの著作を読めば、北町辺りの記述が多い。)

(★整理すると、中町35が南畝生家。その西隣の中町35が昭和5年に宮城道雄が転居してきた家で、今は同記念館になっている。宮城道雄の著作と彼と親しかった内田百聞や佐藤春夫の著作にこの辺の記述があるやなしや。そして尾崎紅葉~江見水蔭らが大田南畝生家と得意げに語る中町41は大田南畝の遠孫・大田南岳が住んでいた旧宅・・・。これがあたしの結論)

(★千葉潤之介・優子「音に生きる~宮城道雄伝」より。◎昭和五年の七月に、道雄は牛込中町三十五番地(現新宿区中町三十五)へ引っ越している。この家は道雄が初めて買った家であり、生涯の安住の地となる家である。◎昭和十九年、中町の家は、五月二十五日の空襲でとうとう焼き払われてしまった。◎昭和二十三年五月、中町の焼け跡に新居が完成した。)★宮城道雄も関係者も隣が大田南畝の生家だったことには興味がなかったのだろう。隣の家への言及は一切ない。)

(★なお「川上音二郎・貞奴」好きの方は、江見水蔭が彼らの明治座「オセロ」脚本を担当したので、同書に記されている彼らとの交流、上演までの経緯、評判、さらには出演した永井荷風の元妻・八重=藤間静枝のことなどにご注目。)写真下は横寺町47の「尾崎紅葉旧居跡」。史跡看板の奥が紅葉が借りていた鳥居家、戦災で焼ける前は2階家で1階に泉鏡花らの弟子が起居していた。


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ちょっと怪な平秩東作(その2) [大田南畝(蜀山人)関連]

hedutu_1.jpgnogutinanpo_1.jpg 野口武彦「蜀山残雨」再読中。過日、新宿・善慶寺の平秩東作お墓を訪ねた。昨年5月の「ちょっと怪な平秩東作」の(その2)として、お墓写真と同書の平秩東作に関する記述をメモ。おや、野口センセイは平秩が亡くなった新宿・成子坂を自転車で走りまわる少年だった・・・と書き出していて、戸山高校卒と。ご近所さんだな。

 天明期はバブル。狂歌界のパトロンが勘定組頭・土山宗次郎。土山は勘定奉行・松本伊豆守の右腕で、その上に老中・田沼意次がいた。年貢米から金・銅・俵物・海産物に手を広げてのバブル。大田南畝も連夜の盛宴・遊芸三昧。

 平賀源内も鉱山発掘など<山師>になり、源内牢死後に白羽の矢を立てられたのが内藤新宿の煙草屋で町人文化の先駆け平秩東作だった。天明3年(1783)8月に物流調べという幕府密命で蝦夷(北海道)に旅立った。同行は源内とも親交の長崎のオランダ通詞・荒井庄十郎。

 天明4年、土山宗次郎は遊女を身請け、祝儀金などで千二百両の大盤振る舞い。南畝がお賤さんを身請けした資金も土山と揶揄される。

 天明6年に江戸大洪水。翌年、大飢饉。田沼政権が吹き飛んだ。八代将軍・吉宗の孫、白河藩第三代藩主・松平定信が台頭し、田沼は老中罷免。厳しい田沼派粛清。土山は横領で死罪。平秩東作は彼の逃亡加担で「急度叱(きっとしかり)」の罰。以来、鬱々として天明9年(1月に寛政元年)3月8日、柏木・成子坂の別邸?で死去。

 辞世の狂歌は「南無阿弥陀ぶつと出でたる法名はこれや最後の屁づつと東作」。な~るほど、確かに墓標に「南無阿弥陀仏」。台座には本名「立松之墓」。そんな平秩がどこか好き。


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芝翫と南畝:はいりさへすればかまはず~ [大田南畝(蜀山人)関連]

nanpoten_1.jpg 昨日の芸能ニュースで、人間国宝で名女形だった中村芝翫さんの葬送が放映されていた。で、思い出した。三代目中村歌右衛門(芝翫)と大田南畝のこと。それは新宿歴史博物館の特別展(左のチラシ)関連講演、揖斐教授による「大田南畝における大江戸と風雅」の一節だが、南畝は「芝翫をほめてうたをよめ」といわれ、こう詠んだそうだ。

 はいりさへすればかまはずなには江のよしといふ人あしといふ人

 化政期の江戸は百万都市となって「大江戸」。「江戸っ子」なる言葉も誕生。そんな江戸に関西の三代目中村歌右衛門(芝翫)が中村座に出て大人気。これに江戸っ子・南畝は面白くない。観客の入りが良いからといって誰が出てもいいってことはなかろう。良しという人も悪しという人もいる。江戸っ子の意地を詠った。うたのミソは浪速湾の葦にひっかけて「良し悪し=ヨシとアシ」。

 テレビが地デジになった際に、街頭インタビューに応えた老人がこう言っていた。「もうテレビは観ません。だって出ているの、関西芸人ばかりじゃないですか」。大田南畝のうたをひねって、今のテレビをこう詠んでみた。「視聴率取れば構はず吉本の良しといふ人悪しといふ人」

 昔は関西吉本と東京吉本が切磋琢磨し、東京吉本は東京芸人中心だった。今は吉本が関西芸人を連れて東京に乗り込んで来た感がなくもない。かくしてテレビは関西芸人ばかりで、関西のテレビを観ているようになってしまった。大田南畝も本念寺(墓場)で歯ぎしりしているに違いない。東京は百万都市から今は1,318万人都市。東京は全国都市。テレビはキー局、新聞は全国紙。さらにはコスモポリタン化。あたしの街・新大久保はコリアンタウンになり、商店街を歩けば韓国語とK-POPが溢れている。東京っ子は少数派で、かつての東京風情は懐かしくなるばかり。

 こんなことを日々ダラダラと記し、アクセス(ページビュー)累計50万を超えた。恐縮です。


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回向院で山東京伝の墓に・・・ [大田南畝(蜀山人)関連]

kyodenhaka1_1.jpg 下町ポタリングで両国橋を越えた。その右側に回向院あり。境内の案内に「山東京伝の墓」の案内板。知らなかったゆえ、そうと知って興奮した。自ら探すより伺った方が早いだろう。「山東京伝のお墓はどこでしょうか」「ウム、岩瀬醒(さむる)か。ついておいで」。鼠小僧の墓のちょっと奥の一画。左に山東京伝、真ん中に「岩瀬百樹(京伝の弟の山東京山)」、右に「岩瀬家之墓」が並んでいた。

 帰宅後に小池藤五郎「山東京伝」をひもとけば「大震災後の区画整理で現在の特定史跡敷地内に移されたが、それ以前はここより北東にずっと離れてい、柳の木があってすがすがしかった」。そして昭和36年刊の同書の写真キャプションは「高さ76㎝ぐらいの石垣を三方にめぐらし、地盤がわずかに高い。背後はコンクリート塀で人家」。さらにネット検索すると09年撮影の墓は京伝、岩瀬家、京山の順。さまざまな配置変化で現在に至る。鼠小僧の墓を詣でて御利益を得ようとする人々は多かろうが、京伝の墓には関心を寄せる方がいないか、忘れられたような佇まい。だが江戸文化を代表するスーパー・クリエイターだった。

kyoden2_1.jpg 山東京伝のプロフィールを要約する。宝暦11年(1761)生まれで、深川木場の質屋の長男。豊かな家庭で長唄、三味線を習い、浮世絵は北尾重政門下。22歳の自画自作「御存知商売物」が大田南畝の「岡目八目」で絶賛されて人気作家に。北尾政演の名で浮世絵を、自画・戯作者として黄表紙、洒落本、滑稽本などのマルチ・アーティストに。さらに銀座1丁目に煙草入れ屋「京伝店」を開業。今でいう商品&広告デザイナー&コピーライターで自作ブランド商品を揃えて商売人としても成功。最初の妻は吉原の新造菊園(お菊)で、結婚3年後に死去。7年後に吉原玉屋の遊女玉ノ井(百合)を妻に迎えて、以後は遊里に行かず。なお寛政の改革では手鎖50日の刑。浅草寺に弟・京山が建てた京伝愛用の机塚がある。

 写真は代表作のひとつ「江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)」の一部。裕福だがモテない男・艶二郎がモテる男の苦労をしてみたい、そんな浮名を流してみたいと金を使って自演してみせる物語。最後に心中を演出したが、三囲神社で本当のおいはぎに襲われて身ぐるみ剥がされた。実は息子のバカさ加減に呆れた父と番頭の仕組み。彼は己のバカさを世の教訓にと京伝に草双紙に書いてくれと頼んで、真人間になったとか。絵は細部まで、物語も凝っている。

註】後に古文書の勉強を始め、原文「江戸生艶気蒲焼」を筆写・解読のブログを始めるとは思わなっか。参考:小池藤五郎{山東京伝」、小池正正胤「反骨者 大田南畝と山東京伝」、日本古典文学全集「黄表紙 川柳 狂歌」 


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夏の寺南畝の甥を偲びけり [大田南畝(蜀山人)関連]

nangaku1_1.jpg 荷風さんは「礫川徜佯記」で、南畝が後裔にしてわれ等が友たりし南岳大田亨のお墓を掃苔し、彼のエピソードの数々を記している。その文語風文体ではなく、ここは私流下町風翻訳で紹介…。

 …男でもゾクッとするほどイイ男で、あたしに俳句の愉しさを教えてくれた羅臥雲君んチで、初めて南岳君こと亨君に逢った。明治32年だった。亨君は陸軍士官学校を目指したが不合格。大田家が武士ゆえに軍人志望だったのだろうが、子供の頃から耳が悪く、その話し声はえらくデカかった。それで不合格になったのかなぁ。で、彼は絵描きを目指した。

 明治38年の日露講和条約の時に、暴徒が電車を焼くなどして今でいう騒乱状態。亨君は巡査がいない数日間に桜田門のお濠で釣りをして数十匹の鯉を釣り上げた。その頃から豪傑だった。

 大正14年。大婚25年の記念切手発行で誰もが記念切手に当日消印を捺してもらおうと郵便局に押しかけた。亨君は葉書に春画を描いて表に貼った切手に消印をもらった。数枚捺してから局員が春画と気付いた時には脱兎のごとく逃げていた。「これぞ子孫繁栄を祝すものなり」と得意になっていたなぁ。

 絵の腕前も確か。日本美術協会の展覧会出品で入賞。川端玉章より賞状授与されるや寸断放棄。会場の誰もが真っ青になるも、亨君は「我は狂ったのではなく、日頃から川端玉章の言動が気にいらなくて…」と言い放ったとか。以来、亨君は美術界には無縁。

 その後は閑居して薬草の研究本を出版。鈴虫を繁殖させて友人らにわけたりもした。そう、彼は弓や遊泳の達人でもあった。大田南畝の父もまた徳川吉宗謁見の遊泳で褒められていたから、その血を受け継いでいたのかも。

 亨君はずっと四谷在住だったが、大正4,5年に市川に移転。毎日のように釣りを愉しんでいたが、大正6年に江戸川で水死。そう、四谷は荒木町だった。弦歌酒楼の地。おや、やまさんとやらも荒木町を根城に呑みまくっていた時期があると。ふん、おまいさんのことなんてどうでもいいよ。南岳大田亨君はまぁ、そんなに面白き男だった。

 最後にネット検索のデジタル版日本人名大辞典を紹介。大田南岳(1873~1917)。明治・大正時代の俳人、画家。大田南畝の子(私注:正しくは甥だろう)。俳諧、絵画、篆刻、釣魚、義太夫などいずれもすぐれた、下条柱谷に学んで文人画もおさめた。尾崎紅葉や星野麦人らと親交があった。大正6年7月13日死去。45歳。命日は2日後です。


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掃苔ポタリングで本念寺の南畝お墓へ [大田南畝(蜀山人)関連]

ohtananpohaka1_1.jpghonnenjiannai_1.jpg 小石川辺りは坂が多い。遠回りだが緩やかなコースで東京ドーム~白山通りを北上。白山4丁目の本念寺へ左折する路面に、史跡案内板が埋め込まれていた。矢印通り左折して坂の途中、左側に本念寺あり。門前に「大田南畝の墓」案内板。境内に入ると「ひと声掛けてからお入り下さい」の張り紙。折よく配達物を受け取る女性がいて、建物(本堂・庫裏)裏側のこぢんまりした墓地を教えていただいた。まずは大きな自然石加工の「南岳大田亨之墓」。南畝末裔のユニークな画家にして文人。「まっ黒な土瓶つつこむ清水かな」の句と、大正六年七月十三日 行年四十五の碑文。その奥の巨石「南畝大田先生之墓」。こちらには一切の墓碑銘なし。読書記憶では、友人から大きな墓石が贈られたが、遺族に墓碑銘を刻む経済的余裕がなかったと。没後188年の今も熱心な南畝ファンがいて、墓前にワンカップ大関二つと野の花二輪が手向けられていた。

 隣のお墓(写真奥)は「大田自得翁之墓」。南畝の父・吉左衛門さんのお墓でしょう。裏にまわると小さな墓石が二つ。一つは寛政五年「晴雲妙閑信女」の戒名で、側面に「不知姓賎為字・・・」の墓碑銘。「姓を知らず賎を字と為す…」で、南畝が吉原から身請けした三保崎さんこと「お賎(しず)さん」のお墓。その隣は「信行院妙理日得大姉之墓」で教育熱心だった母・利世のお墓でしょうか。他に妻・里与、息子の定吉夫婦と子供たち、さらには南畝を看取っただろうお香さんの墓など多数あったはずも今はこれだけ。江戸時代からのお寺ゆえ当時は相当に大きなお寺だったろうが、縮小を繰り返して現在に相成候といったところか。

nanpohaka3_1.jpg 永井荷風は「礫川徜祥記」に「・・・われ小石川白山のあたりを過る時は、必本念寺に入りて北山南畝両儒の墓を弔ひ、また南畝が末裔にしてわれ等が友たりし南岳の墓に香華を手向くるを常となせり」と記した。同随筆は大正13年に本念寺を訪ねた直後の記。川本三郎「荷風と東京」には「探墓の興―墓地を歩く」の章があって、荷風の探墓一覧表が載っていた。全45回。本念寺には昭和16年10月27日にも訪ねている。さっそくその日の「日乗」をひも解けば「…団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変りたるやうなり」。お墓の整備が繰り返されたことが伺える。妻妾同居で辛かっただろう妻の墓がなく、お賎さんのお墓が寄り添う変なことになってしまった。

 最後に探墓のお勉強。「探墓」は辞書にない。(たんぼ)と読むか。「掃苔(そうたい)」は亡き文人や歴史上の人物の墓を訪ね歩くこと。「展墓(てんぼ)」は単に墓参りをすること。墓を展す…と荷風さんがよく記す。「墳墓(ふんぼ)」は墓のこと。川本三郎の「荷風と東京」の前述章には「探墓の興」「展墓趣味」「掃苔趣味」「掃墓」が交互に出てくる。「掃苔」で統一したらすっきりするなぁと思った。我が大田南畝の掃苔記ここまで。


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高任和夫「星雲の梯~老中と狂歌師」 [大田南畝(蜀山人)関連]

 大田南畝の駿河台「緇林楼」、金剛寺坂「遷喬楼」跡を訪ねた後で、未だ読んでいない南畝関連本があるかしら…と新宿図書館を検索した。大久保図書館に高任和夫「星雲の梯~老中と狂歌師」あり。老中・田沼意次と御徒で狂歌師の大田南畝それぞれの仕事や幕府との関わり、生き方を探るダブルストーリー。おや、面白そうじゃないか。期待しつつ頁を開けば、最初の2頁でずっこけてしまった。書き出しはこうだ。・・・明和三年(一七六六)十二月の午後、牛込加賀屋敷原の内山賀邸の玄関で草履をはいていると、大田南畝はうしろから同門の稲毛屋金右衛門(平秩東作)に声をかけられた。

yomoraakara2_1_1_1.jpg 次の頁で、二人はなんと山東京伝の煙管や煙草入れの店の評判を語り出す。「ええっ!」と絶句。勘違いもあろうから改めて小池藤五郎「山東京伝」で年譜確認をすれば、明和三年の山東京伝は、未だ六歳じゃないか…。なのに同小説では「あぁ、黄表紙や洒落本で評判の人ですね」などと京伝の人気を語りつつ神田白壁町の平賀源内を訪ねてゆく。物語冒頭の大事なシーンがこれだ。

 大田南畝は多くの作家が小説にしていて読書の愉しみのひとつ。しかし昨年出版の竹田真砂子「あとより恋の責めくれば」も、京伝の煙草入れ屋開業が十年ほど早かったり、南畝が吉原から身請けした三保崎(お賤)の看病や葬儀に、すでに亡くなっているはずの京伝の妻「お菊」が登場していたりした。小説ってぇのはそこまで史実を変えていいもんでしょうかと首をひねったばかり。「星雲の梯」巻末掲載の「主な参考文献一覧」を見れば16冊の文献列挙も、山東京伝の関連本はなし。目下三分の一ほど読み進んでいるが、ひょいと京伝がらみの変な記述が出てこぬかと心配しつつの読書に相成候。

  写真は大田南畝の狂歌始めのころの名・四方赤良(よものあから)。狂歌は…かくばかりめでたく見ゆる世の中をうらやましくのぞく月影。かくばかり…表面的にはと皮肉をにじませている。絵は北尾正演(山東京伝)かな。

 涼しくなったら小チャリを駆って、荷風さんのように白山通り・本念寺の大田南畝のお墓を訪ねてみましょうか。お賤(しず)さんのお墓も、南畝の後裔で荷風さんも逢っている南岳亨(相当にユニークな人物)のお墓もあるそうな。


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金剛寺坂で南畝、荷風、そして一葉(その3) [大田南畝(蜀山人)関連]

andozaka1_1.jpg 安藤坂中程の歩道に左の案内図が埋め込まれていた。樋口一葉が学んだ中島歌子塾主「萩の舎跡」。史跡案内板もあって一部引用…。一葉は14歳で萩の舎に入門。内弟子で寄宿したこともあり。佐々木信綱は姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊藤夏子と一葉を「萩の舎の三才媛」と称す。田辺龍子「藪の鶯」の刊行に刺激され、半井桃水に師事して処女作「藪桜」(明治25年)を発表。

 補足すれば、父を亡くしたのは一葉18歳の時。田辺龍子「藪の鶯」の原稿料が33円20銭。この手で暮らそうと小説執筆。母・妹共に裁縫、洗い張り、下谷龍泉寺で駄菓子屋を営むも地道な努力続かず。田中優子「樋口一葉“いやだ!”と云う」には、一葉は桃水から月15円をはじめ、絶えず人に無心していたと書かれていた。田辺龍子談の紹介を要約引用すれば「数円の小金は始終中島先生におねだり。最大額は10円の無心で、先生の手持ちは3円で弟子からの頂戴物・銘仙2反を売って10円を渡した。」

 樋口一葉「大つごもり」もお金の話。生活苦ゆえ、お金を持っている者(主に男)から融通してもらうのは当然のこと。貸してくれぬ人がいれば日記で罵倒していた。おやっ、無心は芭蕉、一茶、蕪村の俳人らも同じではなかったか。大田南畝もまた貧しい御徒ながら旗本や商人のパトロン、取り巻きの奢りで日々吉原通い、酒宴、はては遊女まで身請けした。三遊亭円朝作「文七元結」は娘を吉原に預けて借りた五十両を、身投げせんとする手代に貸してしまう。落語に描かれる庶民の金銭感覚は「宵越しの銭は持たねぇ」「金は天下のまわりもの」「食う以上の金を稼ぐは罪悪」…。どうやら南畝も一葉もその辺の金銭感覚だったか。しかし南畝は息子・定吉の心身芳しくなく死ぬまで勘定方を勤め続けた。比して永井荷風は冷徹なまでの個人主義。奢らず奢ってもらわず。金剛寺坂の優れた文人の史跡巡りをして、三者三様の金銭観に大きな違いありと妙な結論に至ってしまった。

 韓国スターらの太っ腹の義援金、ゴーン日産社長の遣い切れぬだろう8億円年俸、ガガのボランティア活動。お金の底に何があるんだろう。儒教、キリスト教、国民性、いや資質か…。へぇ、公務員に夏のボーナスが出たと。国からボーナスってどういうことなんだろう。

 このシリーズ参考本:沓掛良彦「大田南畝」、荷風全集 川本三郎「荷風と東京」、江藤淳「荷風散策」、森本久元「南畝の恋」「花に背いて眠る」、鈴木貞夫「大田南畝の牛込中御徒町住所考」、「一葉恋愛日記」、一葉小説の文庫本等々。


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金剛寺坂で南畝、荷風、そして一葉(その2) [大田南畝(蜀山人)関連]

kongouji_1.jpg 写真は金剛寺坂。早くも夾竹桃の紅色の花が咲いていた。坂の中程から西(左)に入った辺りに大田南畝の「遷喬楼」があった。南畝さん、学問吟味に合格して三代続いた御徒組からようやく脱して勘定支配になったものの、8年待っても屋敷の下賜がない。しびれを切らして享和3年(1803)の暮れに金剛寺坂に年賦で家を購った。

 実際の転居は翌文化元年2月末。崖上で眺望すこぶり良かったらしい。鶯が多くて鶯谷と呼ばれるほど野趣豊か。「正逢黄鳥喬木 幽谷風光事々新」(正に鶯が喬木に遷(うつ)るに逢う、幽谷の風光事々新たなり)で「遷喬楼」と命名。いつもながら南畝さんチは文人のメッカ。「主人愛客兼愛酒」で…「詩は詩仏書は米庵に狂歌おれ」と詠んだ大窪詩仏が「遷喬楼在懸崖上」と詠んでいるから崖の上にあったに違いない。詳しく位置を求めれば諸説あるも、ここは地元の荷風に案内していただこう。

uguisudani1_1.jpg 大正13年、45歳で記した随筆「礫川徜徉記」はレキセンショウヨウキとでも読もうか。「礫川」は小石川、「徜徉」はぶらぶら散策。あたしは小チャリ・ポタリングだぁ。同随筆は散歩の達人・荷風さんの真骨頂発揮。丸の内から神田、そして小石川白山で大田南畝のお墓・本念寺を訪ね、ここより北の蓮久寺に眠る狎友・井上唖々を訪ね、小石川植物園から春日通りへ。そして生まれ育った金剛寺坂へ。ここからちょっと引用する。…是即(これすなわち)金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中程より西へ入る低地なりと考証家の言ふところなり。嘉永坂の切絵図には金剛寺坂の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷と言ふところなり。そして、この辺りは礫川(こいしかわ)の文人遊息の地で、さて、南畝の「遷喬楼」はいづこならむ…と記している。

 写真は多福院そばの崖。この坂を下った所のその下に地下鉄丸の内が通っていて相当に深い谷になっている。多福院に山門はないが、境内に入れば歴史の古そうな立派なお墓があった。同院の壁には「旧同心町」の史跡案内があって、先手組の同心屋敷があったと記されていた。当時はここから富士山も望めたそうだが、今はTOPPANの全面ガラスのビルが聳えていた。大田南畝は駿河台「緇林楼」に移るまでの8年をこの辺で暮らしたが、移転直後に長崎奉行所出役を命じられている。還暦を迎えた文化5年(1808)には玉川巡視へ。息子・定吉の心身芳しくなく、南畝は亡くなる75歳まで牛込御門から勘定所に勤務。風流遊びも仕事が終わってからの二重生活…。長くなったので大田南畝はこの辺で閉めましょうか。次に向かうのは、金剛寺坂中程を「遷喬楼」とは反対の東へ。安藤坂を渡ったところに樋口一葉が学んだ「萩の舎」跡の史跡がある。

(追記)伏見弘「牛込改代町とその周辺」の「金剛寺門前町」の項に「南畝拝領屋敷の経緯」に、金剛寺が寺社奉行所に提出した文書文面が紹介されている。境内六千四百四十八坪のうち、境内東之九十三坪を、支配勘定大田直次郎に十年年季で十一両十一匁二分五厘で貸すと記されている。


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金剛寺坂で南畝、荷風、そして一葉(その1) [大田南畝(蜀山人)関連]

kongozaka2_1.jpg まずは小チャリを駆る前に荷風全集第23巻「断腸亭日乗」昭和16年9月28日の頁をひもときます。史跡巡りは予習が肝心。無駄走りにならぬよう事前勉強でございます。「日乗」を読めば、63歳の荷風さんが久々に生まれ育った地を訪ねてちょっと感傷的に記している。…九月念八(「念」は「廿」と同音で二十の意)、松陰暗淡薄暮の如し。午後小石川を歩(ほ)す。伝通院前電車通りより金富町の小径に入る。幼児紙鳶(しえん・凧のこと)あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しさこと怪しまるゝばかりなり。旧宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇みて旧宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの静けさ却ってむかしに優りたり。坂を上り左手の小径より鶯谷を見下ろすに…(以下略)。 

kafuseika1_1.jpg これを頭に入れて、いざ小チャリ・ポタリングしゅっぱぁ~つ!。とは云え自宅から4㎞の至近にて、汗するまでもなく金剛寺坂中程の住所標示板の前。ここに事前調べのポイントを赤丸で四つ打っておく。右から二つ目の赤丸が荷風さん生家。なるほど、「日乗」に記されていた通り道幅一間。子供時分に宇宙だった露地も、大人になってみれば狭さに驚くのは誰もが体験のこと。荷風さんチはこの道の中程左側。露地角に「永井荷風生育の地」なる案内板あり。新宿と違って文京区はこうした史跡案内板充実でさすが文京の区。荷風さん、明治12年(1879)生まれで同26年まで(その間に父の文部大臣秘書就任で永田町1丁目の官舎暮しが1年程あり)ここで過ごした。当時を回想した有名な随筆「狐」がある。

 「…旧幕の御家人や旗本の空屋敷がそこここに売物となっていたのを父は三軒ほどを一まとめに買い占め(相当に広かった)、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した」。 鬱蒼とした敷地内に出没する蛇や蛙、古井戸の恐怖、狐退治などちょっと怖かった回想…。いかに野趣ゆたかな地だったかがわかるが今は住宅密集なり。この露地の西側、金剛寺坂中腹の案内板には、荷風さんはここを通って黒田小学校に通ったとも記されていた。黒田小学校は左の赤丸辺り。当時の同校は木造二棟で八教室。同校は後に区立第五中学、今は筑波大理療科教育養成施設「はり きゅう治療室」。筑波大と「はり きゅう」は結び難いが、はて、何をやっているところでしょうか…。

 63歳の荷風さん、久々に生家の辺りを散策した後に伝通院前から市電に乗って浅草・オペラ館へ。「余本年に入りてより漸く老の迫るを覚え歩行すれば忽疲労を感ずること甚しければ生れたる小石川の巷を逍遙するもおそらくは今日この日を以て最後となすなるべし。倒れかゝりし大黒天の堂宇に比して此世に在ることいづれが長きや」…なぁんて情けないことを記して日記を閉じている。荷風さんに、この小チャリを貸してあげましょか。

 話を戻そう。荷風さんが金剛寺坂を上がって鶯坂を見下ろして…と「日乗」に記しているが、この鶯谷の見晴らしのよい崖上に大田南畝の「遷喬楼」があった。駿河台「緇林楼」に移るまでの8年程をここで暮らしていた。南畝去りし67年後、同地に永井壮吉・荷風誕生と相成候。長くなったので今日はここまで。大田南畝「遷喬楼」(左から二つ目の赤丸)と樋口一葉が通った「萩の舎」(右赤丸)については、また明日…。


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大田南畝の終焉地も工事中 [大田南畝(蜀山人)関連]

awajizaka1_1.jpg 昨日の続き。・・・大田南畝終焉の屋敷「緇林楼」跡を訪ねた。「御茶ノ水」駅際の交番で「淡路坂はどこですか」と尋ねれば「はぁ」と言う。牛込中町図書館で「大田南畝の・・・」と尋ねれば「はぁ」と言う。皆さん、地元のことを知らん。いや、お巡りさんも図書館員も地元とは限らぬ。今や東京生まれは少数派。福岡出身タモリが江戸・明治の東京史跡を探る番組が人気になる。この噺をすれば脱線ゆえさて・さて・・・

 御茶ノ水・聖橋から昌平橋への淡路坂にさしかかったらイヤな予感。ここもまた大工事現場になっていた。日本は昨日26日調べで1137兆円を超える負債を膨らませて破綻寸前国のはず。しかし実際は彼方此方で巨大建築ラッシュ。このへんのカラクリがわからん。かくして東京の江戸や明治の記憶、痕跡は次々に巨大建築に埋もれて行く。

yusimaseido2_1.jpg とまれ、工事現場から無理に想像すれば、今から199年前、文化9年(1812)7月5日、大田南畝はここに二階建て「緇林楼」を建てた。二階十畳が南畝の書斎で客間。江戸の文人らのメッカになった。ここからは太田姫稲荷、御茶ノ水の渓流、その向こうに湯島聖堂の甍と森が一望。入徳門~杏壇門から大成殿(孔子廟)。余りに印象的な真っ黒の建物。「緇林杏壇」は学問を教える所、講堂の意。「緇」は黒。「緇林」は黒染め布が集う所、寺院。かくして「緇林楼」か。湯島聖堂は朱塗りだったそうだが、水戸の孔子廟にならって後に黒塗りになったとか。写真は中島みゆきの後姿似の女性がこわごわと大成殿を覗いている図。

「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた南畝らしからぬ命名。いや、狂歌や戯作に大はしゃぎした後の「寛政の改革」で仲間らが処罰された44歳に、一念発起で学問吟味に挑戦。その試験場が湯島聖堂だった。その甍を望む地に屋敷を構えた喜びはいかばかりか。死んだ恋川春町、手鎖五十日の刑の山東京伝、財産半分没収の蔦屋重三郎、国元に返された朋誠堂喜三二、江戸払いの宿屋飯盛、牢死した平賀源内の顔も浮かんだろう…。 行きすぎて七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩。

 おっと、まだ死んじゃいけねぇ。大田南畝は牛込御徒町からここに移り住む間に小石川・金剛寺「遷喬楼」と名付けた屋敷に住んでいたこともある。金剛坂といえば永井荷風生誕の地ではないか。荷風・南畝旧居訪ねの小チャリ・ポタリングはまだ終わらない。


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大田南畝(蜀山人)の生家は(その2) [大田南畝(蜀山人)関連]

okatigumi2_1.jpg 永井荷風さんの旧居跡を訪ねたら、次は荷風さんがリスペクトしてやまず年譜作りまでした大田南畝(蜀山人)の旧居巡りに小チャリを駆らねばなるまい。

 あれは昨年1月5日のブログ。「大田南畝(蜀山人)の生家」題名で、「…新宿区は史跡看板を建てなさいよ」とつぶやきて、改めて「大田南畝 生家」と打ち込んでGoogle検索してみれば、空しく己の記事がヒットするばかり。このままじゃ余りに淋しいってもん。ゆえに(その2)として、もうちょっと探ってみることにしませう。検索を「大田南畝 生誕地」と言葉を変えてみれば何件かヒットして、さも史跡標示があるような記述あり。「新宿文化絵図」(新宿区地域文化部編集・発行)にも牛込中町の「宮城道雄記念館」脇(袋町側)に「大田南畝誕生の地」の記入。ありゃ、史跡看板を見落としていたのかしら…

 改めて小チャリを駆って牛込中町に行ってみた。ウム、やはり案内板は見当たらない。この辺は絵図(上)のように御徒組・組屋敷に間違いないゆえ、この区域内に大田南畝が56歳まで暮らした家があったんですよ…くらいの史跡案内があってもいいのにと思うんですがねぇ。絵図中央に北御徒町(現・北町)、中御徒町(現・中町)、南御徒町(現・南町)。中町端の「宮城道雄記念館」前が「中町公園」(写真下)で、懐かし井戸まであって設置場所はここがいいかなぁと勝手に思ったりした。帰宅後に改めて図書館検索すれば「な・な・なんということでしょうか!」 鈴木貞夫著「大田南畝の牛込中御徒町住所考」なる資料があったではありませんか。それも中町図書館に一冊だけ。図書館の場所を調べれば古地図の御徒組内。再び小チャリを駆って牛込中町へ…。

nakamatikouen_1.jpg 同資料は30頁に満たぬ小冊子で、著者の住所・電話番号入りの自主出版資料。あたしのように上っ面だけ探るのではなく、コツコツと古資料調べの尊敬すべき方々がいる。氏は南畝「巴人集」に「…牛込中御徒町木戸キワ」の文言を見出し、絵図に描かれた木戸を指摘。加えて南畝の後任御徒の「屋敷渡預絵図証文」を見つけ、松島重右衛門の地に南畝の屋敷、借地していたことを特定せり。それは予測した現「中町公園」(写真)の斜め前辺り。

 さらに面白かったのは南畝の長姉の嫁ぎ先は鉄砲玉薬同心野村新平で、大久保御箪笥町(箪笥町は牛込だけでなく大久保にもあり)の組屋敷内。野村新平の名入り絵図を紹介して、それは現在の大久保○○○○とあった。ふふっ、我がマンションから明治通りを渡ってすぐの○○○さんちじゃないか。また南畝が勘定支配になって拝領した屋敷が余丁町の地(現在は中華屋さん)で、それが気に入らず夏目金之丞の土地と交換。この「相対替御書付書抜」と、淡路坂の「夏目金之丞」の名入り絵図も紹介。ここが大田南畝の終の屋敷となった駿河台・淡路坂「緇林楼」。妾の「お香」を伴って市村座で芝居見物。翌日にひらめの茶漬けを食って熟睡しそのまま永眠。75歳の生涯を閉じた屋敷。

 さて、猛暑のなかを三度の出動。かかぁの「そんな自転車でまたお出かけかぇ。熱中症になっても知らないよぅ」の声を背に、今度は牛込北町から市ヶ谷と飯田橋間の外堀(絵図の右側)に出て、御茶ノ水は聖橋から昌平橋への淡路坂に小チャリを駆れば…。話が長くなりそうなんでまた明日。


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揃い踏む南畝荷風のウズラかな [大田南畝(蜀山人)関連]

 過日古本街で購った俳句本6冊の中に日本古典文学大系「近世俳句俳文集」あり。無学ゆえ「俳文」を知らず。「俳文とは」の麻生磯次解説を要約すれば… 俳文という語は芭蕉の書簡にあり。芭蕉は詩文(俳文)と実文とを意識的に使い分けている。俳文は俳諧味のある文、俳諧の心を散文に活かしたもの。俳文には俳句と同様にさび・しおりの風雅を忘れてはならず。飄逸・風狂・洒脱・花鳥風月・隠遁的・雅・閑寂味を見出そうとする態度が肝心。その手法は省筆(省略)による妙味、韻文的リズム感、その散文に俳句を配すること…とあった。その俳文の代表が芭蕉16篇をはじめ、許六32篇、支考13篇などを収めた「風俗文選」と、大田南畝が編集刊行した横井也有翁(やゆうおう)の「鶉衣」とあった。

 以前より好きで関連本を読んできた大田南畝(蜀山人)が編集刊行せし「鶉衣」が俳文の代表的存在とは驚き、かつ嬉しくもあり。ならば南畝好き荷風が、その「鶉衣」に言及せぬわけなしと踏んでネット検索すれば、同じ文が同じように引用されたサイトが続々ヒットなるも、いづれも出典先を記さず。誰かの子・孫・曾孫引きでもっともらしく記したのだろう。引用するなら出典先を記すは基本。荷風好きには我慢ならず全集ひもとき同個所を探り出せば、その文は「雨瀟瀟」にあり。(後日改めて荷風の「鶉衣」讃の文章を引用紹介)

 横井也有翁は尾張藩の重臣・横井時衡の長男で、家督の重責を果たしたのち53歳で半掃庵で隠棲暮し。若くして俳句を作っていたが、隠居後に本格的に俳文を書き始めたとか。南畝さん、どこでどのように也有翁の「鶉衣」に出会ったか。感動して蔦屋重三郎の手で刊行の運び。也有翁は53歳の隠遁にあたって坊主頭になっている。坊主や法師になるわけでもないが、その方が清かべしと剃髪。「鶉衣」をひもとけば、それは「剃髪辨」にあり。48歳で長髪から坊主頭にした身にとって、その弁に興味が湧く。かくして「鶉衣」を少しづつ読んでみることに相成候。 揃い踏む南畝荷風のウズラかな


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浜田義一郎著「大田南畝」 [大田南畝(蜀山人)関連]

hamadananpo_1.jpg 吉川弘文館の人物叢書で浜田義一郎著「大田南畝」。この種の本は何冊か読んでいて、概ね同内容とわかっているも、好きゆえに読まずにいられぬ。昭和38年刊で平成6年の新装版。

 「はしがき」で著者は…大田南畝は江戸文化を考える上で、無視できぬ存在と書き出している。然り、元禄文化が上方中心なら、江戸文化は化政期(文化・文政期1804~1829)が揺籃で、大田南畝はまさに先達だろう。「人生の三楽は読書と好色と飲酒」なる名言を放った人物だけにエピソード尽きぬ波乱人生。10代から華麗な文人交遊を始め75歳で没。長きにわたって時代に顔を出している。従って時代小説の格好テーマで多くの作家が書いている。小説の他に、「大田南畝と狂歌・戯作」の書が多く、「大田南畝と山東京伝」、「大田南畝と平賀源内」があり、書こうとすれば「大田南畝と版元(蔦屋重三郎他)」、「大田南畝と絵師」、「大田南畝と商人群像」、「大田南畝の経済学」、「大田南畝と江戸料理」(推理小説があった)、「大田南畝と江戸名所」…と何でもいけそう。かくして読んでしまった。

 ※多彩な方に多彩な角度でとりあげられるのは永井荷風も同じ存在。“荷風と永代橋”の係わりだけに執着した片手で持てぬほどぶ厚い書(草森紳一「荷風の永代橋」)に驚いたこともあるが、荷風を建築・都市批評家と捉えた「荷風と明治の都市景観」なる書もあった。目下はこれを読み始めていて実におもしろい。


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森岡久元「花に背いて眠る」 [大田南畝(蜀山人)関連]

nanpohon1_1.jpg 著者の大田南畝シリーズ「南畝の恋」「崎陽忘じがたく」に続く第3作目。老舗の茶問屋・亀屋本店が破綻するほど大田南畝に入れ揚げ、本人公認の代筆、本人に成り代っての出版を経て、念願の「二世蜀山人」を襲名。その直後に亡くなった亀屋文宝亭、食山人こと亀屋久右衛門の物語。あたし流の解釈・要約すれば…

 宝亭は江戸市中屈指の繁華な商店街「元飯田町中坂」(現・九段1丁目)の老舗主人。風流を愉しむ裕福な商人たちが、競って南畝の花見や宴を援助。宝亭はそれが高じて亀屋本店を左内坂(おぉ、懐かしの左内坂)で支店を営む叔父・勘兵衛(俳号・壺天)に譲り、下谷三筋町に隠宅暮し。蜀山人が島田順蔵の娘・お香を妾にしたように、自身も妾「おとし」としっぽり暮し、憧れの南畝の老境を追従。師亡き後は「南畝先生伝」執筆を目指すが筆進まず、まずは年譜をまとめつつ、あの日この時の南畝を思い出す。文化4年の永代橋崩壊の惨事を取材の「夢の浮橋」や執拗に続く花見などから、南畝の「生きるとは見る意欲のこと」なる言葉を甦らせる。

 南畝亡き大田家は貧しさと戦っている。南畝の墓も建てられず。南畝の蔵書も書作も名声も、生活の糧に成り下がる。文宝は「蜀山人」印章を10両で求めて念願の「二世蜀山人」になるも、襲名後1年足らずで死去。時世の句も南畝の「…人間万事花に背いて眠る」。 亀屋本店を継いだ勘兵衛が「無駄なことばかりしてきた人だった」。これに本屋の雁金屋青山堂に「無駄こそ人生の花、妙趣」と言わしめる。

 発行は2005年の「澪標」刊。たぶん自主出版でしょう。著者はコンピュータ関連会社経営者だそうだが、南畝に魅せられ“無駄=花”の3作目。 ★あれもこれも酔狂でござんす。死する時はこの世の花々にさようならでござんす。★今日は楽しみにしていた川本三郎「いまも、君を想う」発売日。あたしはきっと泣きながら読む…。


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井上ひさし「戯作者銘々伝」 [大田南畝(蜀山人)関連]

 すでに何度かアップの井上ひさし「京伝店の烟草入れ」は、同題小説と昭和54年刊「戯作者銘々伝」で構成された文庫本。彼ら戯作者調べをしていると興味尽きぬ故、面白い短編の備忘録…。

 「半返舎一朱」:十返舎一九の娘・舞の独白。一九亡き後に十字屋三九が二世を継ぐが、それは母が三九の身体と金を得て決めたこと。三九は駄作続きで逐電。三世を誰にするかで、母は再び身体と金で九返舎一八を推し、舞は好いた男・半返舎一朱を推す。母が「お前に三世を語る資格なし。あたしと版元・村田屋の間に出来た…」。不倫の子だったと告白する。※諸田玲子が「舞」を主人公で「きりきり舞い」を刊。おもしろそう。

 「三文舎自楽」:深川芸者・お米は惚れた仙吉が殺され、彼の幼馴染で筆耕彫師・茂七の仕事場を訪ねる。仙吉は筆耕と絵師修行後に「仮名文章娘節用」を書いて人気。三文舎自楽を名乗り次作もヒット予感。その矢先の死。お米は茂七の仕事場で自分が仙吉の帯に仕込んだ銀の豆鍔を見つけて茂吉が犯人と突き止めた。※仙吉は他に司馬山人、曲山人を名乗っていた。

「松亭金水」:医師・永井が為永春水を師と仰ぐ松亭金子の女房を診たことから、永井と金水が仲良くなる。金水は戯作者で売ったが天保の改革(春水は手鎖刑)で本が書けず、書家になって人気者に。アイデアマン・金水が、繁盛せぬ医師・永井に様々なアイデアを預けて人気医師にする噺。※金水の本名は中村経年。1795~1862年。 

 「式亭三馬」:馬琴の長男で既に亡き宗伯の後家・お路が、湯屋の三助に謝礼をはずみ、馬琴が湯屋に来たら馬琴とは知らぬ風で京伝や式亭三馬の悪口を言ってくれと頼む。老いた馬琴は彼らの悪口を聞くと元気になるからだ。※湯屋を馬琴が晩年を過ごした四谷にちゃんと設定。ちなみに「浮世風呂」の三馬の父は、八丈島出身の版木師。

 「唐来参和」:昔は花魁、歳と共に小見店の女郎、遣手婆、火炊き婆。そして最後に大門口で糝粉指細工になったお信婆さんの噺。花魁が客への真を示すのが指切り。本物の指は切れぬので糝粉細工で本物そっくりの指を作る。この婆さん、昔は戯作者・唐来参和の女房。彼は天の邪鬼でこう言えば逆をやる男。それで吉原に売られ、再婚の祝言席でも仲間の言に逆らって再婚破棄。後年、お信はおちぼれた参和と橋の上で出逢う。「死にてぇと言う奴に限って死なないもんさ」のお信婆さんの言に逆らって川に飛び込んで死んでしまう。※参和は大田南畝の狂歌仲間。小沢昭一が「唐来参和」を一人芝居で全国660会場余で公演とか。


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靖国通り・成覚寺の「恋川春町」 [大田南畝(蜀山人)関連]

koikawa1_1.jpg 新宿・靖国通り沿い「成覚寺」(新宿二丁目)を入って左壁側に朽ちかけた恋川春町の墓がある。今も語り継がれる人物の墓なれど、何故にこれほど貧相な墓なのかしら…。何年か前にお墓を訪ねた折り、藪蚊に刺されて酷く膨らんだことを覚えている。

 井上ひさし文庫本「京伝店の烟草入れ」収録中の短編「恋川春町」は、恋川の命日の墓前で未亡人「お園」と「朋誠堂三二」が出会うところから始まる…。  

 恋川春町は駿河小島藩の江戸詰用人。本名・倉橋格。狂歌名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」、戯作名は小石川に住んだことから「恋川春町」。最初は浮世絵を学んで絵師として出発したが、後に作者兼絵師で「金々先生栄花夢」刊で黄表紙の最初になった。1789年にお上風刺の「鸚鵡返文武二道」(北尾政美・絵、蔦谷重三郎・刊)で、松平定信(幕府)の召喚の沙汰に出頭せずに自害。 一方、黄表紙作家「朋誠堂」は同じく江戸詰留守居役(秋田・佐竹藩)で、本名は平沢平格。狂歌名は「手柄岡持」。

koikawahaka_1.jpg さて、小説(フィクション)はこう展開する。二人は日に三度も会う仲好しだったが、恋川に召喚の沙汰が出てから朋誠堂は梨の礫。恋町はひたすら友の連絡を待つが遂に自害。藩から、養子だった小島家からも夫婦共に見放されて、「お園」はその後の苦しい生活のなか、偶然に重なる幸運に恵まれつつ、念願の墓をやっと建てた。「お園」は墓前で逢った朋誠堂に「薄情者」と罵り去るが、それら幸運の数々は朋誠堂の陰からの援助だったことが明かされる。

 新宿に行った際に、恋川春町のお墓(写真)へもどうぞ・・・。お墓左側面に辞世の歌が彫られている。「生涯苦楽四十六年/即今脱却浩然帰天」 「我も万た身はなきものとおもぎしが/今ハのキハハさ比しかり鳧(けり)」。戒名は「寂静院廓誉湛水居士」とか。その戒名は正面に刻まれた3名の左にある。墓石右側には「本空院慧岳知浄居士」とあって「倉橋忠蔵」とあるから、それは子の名で、子供が建立したのかもしれない。なお絵は「吾妻曲狂歌文庫」より。


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京伝とスカイツリー [大田南畝(蜀山人)関連]

kyoudendana_1.jpg 椅子を東向きにし、双眼鏡を覗けば東京スカイツリーが見える。それが見えるはずと思ったのは、ここから隅田川花火を撮ったことがあるからだ。井上ひさし「京伝店の烟草入れ」(講談社文芸文庫)の表題小説の読後感がとても良く、読み終わって東空を見上げたら両国辺りから三尺玉花火“夜の日輪”が見えたような気がした。

 物語を自分流に要約するとこうだ。…蜀山人こと大田南畝、噺家・烏亭焉馬、本屋・蔦屋重三郎、そして絵師で戯作者・山東京伝が両国川開きで屋形船遊び。暗くなる前は若手の花火職人の玉が揚がる。そこに意表を突いた花火。まだ明るいのを逆手に、流行唄“猫じゃ猫じゃ~”の節の音曲炸裂花火。新人発掘、流行キャッチを得意の四人のこと、黙っちゃいられない。その花火師が鍵屋の若い衆・幸吉と突き止めた。彼は翌年も明るいうちの前座花火で、唐傘落下の仕掛け花火で江戸ッ子をあっと言わせた。京伝ら四人は酒席に幸吉を呼んだ。彼は江戸中の人が見える二百間揚がる三尺玉の夢を語った。だが若造の夢を鍵屋の親方が許すわけもない。松平定信による「奢侈禁止令」も出ている。

 山東京伝はこの「寛政の改革」で手鎖50日の刑を食らい、蔦屋重三郎も財産半分没収の刑。彼らにはお上の恐怖がトラウマになっていた。だが京伝は、このしけた世なんぞ真っ平御免、花火くらい景気よく揚げたっていいじゃないかと思う。自身が開く烟草入れ屋の宣伝を兼ねて幸吉の夢に投資をした。翌年、江戸中が三尺玉で湧き上がった。今か今かと待つ最中「三尺玉打ち揚げ禁止。幸吉は江戸三十里四方所払いの刑」の報が飛び込んできた。三尺玉が二百間も飛ぶなら大砲と同じぢゃないか…がお上の断。逃げきった幸吉は翌夜、ひそかに三尺玉“夜の日輪”を揚げた。

 二百間は364m。5月10日現在の東京スカイツリー368m。それは江戸中ならず近郊までど肝を抜く花火だったに違いない。なお、山東京伝と同じく、「梅暦」の為永春水も「天保の改革」で手鎖の刑で牢死している。荷風全集には大田南畝に加え為永春水の年譜も収められている。


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ちょっと怪な平秩東作 [大田南畝(蜀山人)関連]

hezutosaku1_1.jpg 自宅から徒歩15分、明治通りと甲州街道が交差する辺りに煙草屋があった。間口8間、かなり大きい。何故そんなに大きな家かと言えば、かつて馬宿だったからだ。風に揺れる看板はこう書かれていた。「世の中の人とたばこのよしあしは けむりとなりて後にこそ知れ」。今から250年ほど前の噺だ。店主は稲毛屋金右衛門。学問好きで儒教面では立松東蒙、戯作・狂歌では平秩東作(へづつとうさく)と名乗っていた。

 明和6年(1969)、最初の「狂歌の会」のメンバー5人のなかに20歳の大田南畝らを優しく見守る43歳の平秩がいた。南畝の処女作「寝惚先生文集」の序文を平賀源内が書いているが、その労をとったのが平秩。源内と友達で、自身の「水の行方」序文は源内が書いている。源内友達から推測されるが彼もまた山師的匂いがする。「狂歌の会」発足の3年前に、江戸の浄土真宗の異端派・御蔵門徒のなかに信者として潜入してお上に告発(門徒は処刑さる)。勘定組頭・土山宗次郎がらみで源内と共に炭焼き事業を興して失敗。天明2年(1782)には上方へ、さらには蝦夷開拓に先駆けて江差まで行って越冬して「東遊記」を著したり…。一筋縄ではいかぬ怪しい煙草屋なのだ。

hedutu_1.jpg 絵は天明7年(1787)、彼が64歳で亡くなる前年に蔦谷重三郎刊「古今狂歌袋」に北尾政寅(山東京伝)によって描かれた平秩の絵。もう身体ボロボロで眼もよく見えねぇ。歌は「鴫ハみえねど西行の歌ゆへに日に立つ秋の夕くれ」と書かれている。これは西行の「心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」がらみの作…と小生は読んだ。大磯に鴫立沢碑があるとか。あたしは大磯で鴫ならぬ「アオバト」を撮った。

 彼の墓は靖国通り富久町、成女学園隣「善慶寺」にある。墓碑名は「南無阿弥陀仏」。本名・立松の墓とある。彼が両親のために建てた墓で眠っている。 ※以上は新宿歴史博物館刊「特別展 内藤新宿」(上記絵はここから借用)、小池正胤「反骨者 大田南畝と山東京伝」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」、芳賀徹「平賀源内」、小池藤五郎「山東京伝」などを参考。

 井上ひさし「京伝店の烟草入れ」に「平秩東作」題名の短編あり。これは親が御蔵門徒で処刑された子が、東作亡き家に押し入って娘と問答する噺。これら著作の平秩記述は概ね森銑三著作集によっているようです。


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平岩弓枝「橋の上の霜」 [大田南畝(蜀山人)関連]

hiraiwananpo_1.jpg 竹田真砂子は、これまでの男性著者らによる南畝の「妻妾同居説」に対し、女性の立場からそりゃなかろうと思って「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」を書いたと記していた。氏は平岩弓枝「橋の上の霜」に言及せぬが、その辺は如何なりや・・・。

 平岩弓枝「橋の上の霜」は、彼女が若き日に書いた「狂歌師」から26年後、昭和58年に「小説新潮」に連載開始で、翌年に出版。写真は新潮文庫で昭和62年刊の平成15年19刷。こちらは「妻妾同居」で愛欲めくるめくる感の長編。・・・物語は南畝がうたた寝中に惚れている吉原の新造「おしづ」の名を呼び、ハッと我に返るシーンから始まる。家は牛込中御徒町の組屋敷内。両親がいて、妻と二人の子がいる三世代同居。やがてこの家の庭を潰し建て増した部屋に、身請けした遊女・三穂崎が住むことになる。史実に加え「こう来たか」と上手にフィクションを盛り込んで、さすがベテラン作家で読ませてくれる。だが次第に妻妾同居の愛欲泥沼に発展し、息子・定吉までも妾と同衾などで、ちょっと辟易してくる。

 物語終盤は寛政5年の三穂崎死去から、小石川・本念寺の墓参で島田順蔵と二人の娘「お香、みや」との出会いへ。(小説にはないが南畝は妻亡き後にこの二人とも深間になり、75歳で逝った最期を看取ったのはお香さんだった)。そして恋川春町が自害し、山東京伝が50日手鎖の形、蔦谷重三郎が財産半分没収されるなどの寛政改革で、狂歌から足を洗って学問吟味合格で支配勘定に昇進。最後はフィクションでしょう、濃密な逢瀬を重ねた女が尼となり京都へ旅立つのを見送ったところで終わっている。粋人・南畝さんをとことん野暮のスケベオヤジにした小説と言えましょう。読後に「あぁ、大田南畝を女性作家に書かせちゃいけねぇなぁ」と思った次第。なお同小説は昭和61年秋にNHKテレビドラマ放映。主演は武田鉄也だったとか。江戸の粋人・南畝と対極の代表的ヤボ男を起用。とんでもないドラマだったに違いない。※あたしはこの男の顔がテレビに映ると、見てはいけぬ物を観たようで、さっとチャンネルを変えてしまう。


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竹田真砂子「あとより恋の~」 [大田南畝(蜀山人)関連]

takedananpo_1.jpg 鳥撮りばかりだと頭ぁ~バカになっちまうんで読書備忘録。4月上旬の朝日の書評に載っていた(評者・逢坂剛)んで、図書館で借りて読んだ。題名は「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」(集英社刊)。南畝さんの遊女・三保崎の身請けがテーマ。これまでは男性著者によって「妻妾同居」とされていたが、女性の立場からそりゃないだろうと云う姿勢。同じ下級武士の娘ながら苦界に身を沈めた三保崎を救い出した南畝の意気に、狂歌仲間(時には彼らの女房連)が手を携えて最後まで看取ったとする小説。そんなワケでほんわかムードで書かれ1日で読了の軽いもの。

 さて小説冒頭…。市ヶ谷の島田左内の屋敷で南畝と平秩東平と山東京伝が偶然逢い、南畝宅で呑み始めるシーンから始まる。「山東京伝、当時二十五歳。傍ら京橋で煙草入れを売る店を出して京屋伝蔵と名乗った」とある。のっけから「待てよぉ~」と思った。手許の京伝資料(小池藤五郎著「山東京伝」)を見れば、「寛政5年(1793)33歳、煙草入店を開く」とある。京伝25歳ではまだ煙草入屋はやっていない。南畝と同じく京伝が吉原の「お菊」を身請けし結婚したのが寛政2年。

 小説最後は南畝が身請の三保崎が亡くなるところ。白山本念寺の葬列に京伝の「お菊」さんも参列し、狂歌仲間の夫人たちと白無垢の死装束を縫い上げたとあった。「お菊」さんは京伝が煙草入れ屋を始めた寛政5年に亡くなっているので、三保崎の白無垢を縫ったり葬儀に参列したりは出来ぬ。そんなワケで小説の最初と最後に京伝がらみで大きな間違い。歴史小説は史実半分としてもこりゃちょっと興ざめ。

 最初に登場の島田左内は、市ヶ谷左内坂の名主。あたしはその左内坂のマンションに事務所を持っていた時期があって、島田左内も狂歌師で狂歌名は「酒上熟寝」で、晩年は禁酒して「瓢空酒(ひさごのからざけ)」と名乗っていた。同じ「酒上」で、より有名なのが「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。定信の寛政改革で自害した狂歌師で戯作者の駿河・小島藩の江戸詰め用人、本名は倉橋格。今も新宿通り沿い成覚寺の入った左側に墓がある。


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平岩弓枝「狂歌師」 [大田南畝(蜀山人)関連]

hirayamahon_1.jpg 近所のブックオフでかかぁが100円で買った文庫本。6編の小説掲載で最初が「狂歌師」。大好きな大田南畝(蜀山人)テーマの小説(フィクション)で面白く読んだ。だが史実の方がもっと面白いんで、これを機にカテゴリーに「大田南畝」を設けて隠居酔狂を加えることにした。まづは同小説概要…。

 新吉原の大文字屋の寮で酒宴が始まってゐた。楠木白根は、俄かに江戸随一となった「狂歌師・曙夢彦」の振る舞ひに不快が募る。夢彦の本名は直次郎で料亭「江戸善」次男坊。楠木こと小島源次郎は、師の内山賀邸から称賛された狂歌に熱を入れた。それまで文芸的評価の低かった狂歌を高めようと熱中。明和6年に自宅で初の狂歌会を催し、そこに直次郎が顔を出した。「あいつに狂歌を教えたのは俺ではないか」と思うが、直次郎の軽妙洒脱な狂歌が大人気。

 楠木は編纂中「狂歌若菜集」で曙と朱楽管江の作品を故意に削除。さうと知った曙と朱楽は対抗して「万載狂歌集」を同時発行。評価と人気は圧倒的に直次郎編の狂歌集に。この競作で狂歌と直次郎はさらに大ブーム。波に乗り遅れた楠木は不遇をかこい貧しさも底を打った。高田馬場で月見を兼ねた狂歌会に珍しく楠木が出席。作者名を伏して優劣を決めようと提案した。楠木の貧しさを垣間見た直次郎は、彼に花を持たせるべく平凡で目立たぬ狂歌と思ひつつ、知らず内に辛い楠木の心になって詠んだ歌が、意に反して第一席になってしまふ。

 …と云ふ内容。さてここからが同小説の酔狂メモ(1)。まづはさわり…。「楠木白根」が「唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)」だと云ふことがわかります。本名は小説と同じく小島源之助で安田家の70俵5人扶持の貧乏御家人。四谷は須賀神社裏の須賀町在住。一方、曙夢彦は小説では日本橋本石町の料亭「江戸善」の次男坊とありますが、大田直次郎、大田南畝、後の蜀山人がモデルだとわかります。彼もまた唐衣と同じく今の牛込中町在住「御徒」70俵5人扶持の下級武士。18歳で平賀源内に序文を書いてもらった「寝惚先生文集」でデビュー。小説で「曙夢彦」となったのは、この「寝惚先生」からでせう。大田南畝と云へば「江戸善」ではなく浅草山谷「八百善」です。彼が詠った「詩は五山(漢詩人の菊池五山)、役者は杜若(とじゃく、岩井半四郎)、傾はかの(遊女かの)、狂歌は俺、芸者はお勝、料理は八百善」は有名。こんな調子で遊んで行きます。

 なお短編「狂歌師」から26年後に長編「橋の上の霜」がある。これは史実を踏まえた上での愛憎・愛欲ドロドロ仕上げの物語。やはり南畝は女性作家に書かせてはいけません。この小説は本人脚本でテレビドラマ化もされ、(小生大嫌いな)武田鉄矢主演とか。観なくてよかったぁ。


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再びホモ・スクリベンス、ホモ・レゲンス [大田南畝(蜀山人)関連]

 2日前、沓掛良彦著「大田南畝」に記されていた「ホモ・スクリベンス」「ホモ・レゲンス」のスペルがわからないと記した。Google検索結果は空しく「該当語なし」。昨夜、再びGoogle検索すれば2件ヒット。それは2日前に記した、あたしのブログ・タイトルとその見出しだった。

 昨夜、某出版社の方が、それは「homo scribens」「homo legens」だと、ラテン語辞書を繙きご教授くださった。ありがとうございました。偶然ながらその出版社は、あたしの昔のオフィス近くだったので、思わず当時を思い出した。市ヶ谷は「Sony」横の急坂・左内坂を登った辺りにオフィスを持っていて、そこは昔、長谷川時雨「女人藝術」編集発行所のあった辺り…。で、あたしは贅沢にも自分だけのオフィスを新見附橋の市ヶ谷濠際にも持っていた。当時のメイン・クライアントは近くの一口坂にあった全盛期の「ポニーキャニオン」で、それはもう20年も昔の話。

 こんなどうしようもない昔話なんぞを臆面もなく記したりする人も「ホモ・スクリベンス」なのかもしらん。明日から寡黙になりましょ。「秘すれば花」と言ったのは世阿弥。これは芸の奥儀で、あたしは芸人じゃないから「花」である必要はなく…、だが、こうして次々にだらだら記し続けることがいけないんだろうなぁ。反省。


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大田南畝(蜀山人)生家と… [大田南畝(蜀山人)関連]

 昨日のブログで神楽坂までジョグ&ウォークしたと記した。大久保から大久保通りを走って牛込北町を右折。2本目の角を左に入って神楽坂方向に走れば、左に「宮城道雄記念館」があり、右に「中町公園」がある。ネット調べでは、その両地それぞれに大田南畝生家(56歳まで在住)跡の記述があり。一体どっちなんだとモヤモヤした。これほどの人の史跡看板ぐらいしっかり建てろよ…思いつつ走ったんです。家に戻って改め資料(江戸図)を見れば、この辺一体が「御徒方」組屋敷で、大田南畝家はその中にあったのだから「まぁ、特定せず、この辺でいいかぁ~」と思った。

 沓掛良彦著「大田南畝」読了だが、氏は大田南畝を「ホモ・スクリベンス」(書く男・執筆人間)と随所に記していた。また「ホモ・レゲンス」(読書人)とも記していた。両語のスペルを知りたくて検索したが、ネットでも電子辞書でも探れず、ちょっとモヤモヤしている。レゲンスは独逸語かなぁ~。おそらくこの文がgoogleやyahoo!に引っ掛かれば(概ねされている)、ネット初登場言葉になるやかもしれぬ。そうなれば「まぁ、どうでもいいかぁ」とする無学のあたしに、誰かが教えてくれるかもしれない。


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沓掛良彦著「大田南畝」 [大田南畝(蜀山人)関連]

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 目下読書中。久し振りの蜀山人「大田南畝」です。あたしは60歳になった時に、先達老人の生き方を伺いたく不良老人…大田南畝、永井荷風、谷崎潤一郎に白羽の矢を立て読み漁った時期がある。南畝は寛延2年(1749)、牛込仲御徒町(現在の新宿は牛込北町辺り)生まれ。「人生の三楽は読書と好色と飲酒」と言いつつ75歳で没。

 貧しい御徒の家に生まれるも勉学に励み、18歳で平賀源内の序文を得た「寝惚先生文集」で江戸文壇に華々しくデビュー。それまで格調重視の漢詩世界をパロった滑稽文学。狂詩、狂文。これを機に江戸後期の戯作文化が一気に花開いた。スター大田南畝は、貧乏御徒ながら酒色耽溺の日々。妻がいながら遊女を身請け。そして田沼意次失脚と松平定信による粛清。

 ここで南畝さん、難を逃れるべく学問吟味の日々。見事首席合格で支配勘定。謹直小吏の道を歩みだす。だが50代になる頃に世情緩むと、再び狂歌や戯作に手を出し、人生快楽の世界を謳歌。息子・定吉が有名人の子ゆえか、やっと出仕するも満足に勤務出来ず、南畝は生涯役所勤めを続ける半隠居ながら、75歳の時に妾「お香」と共に市村座の芝居に出かけ、三代尾上菊五郎に狂歌を書き与え上機嫌で帰宅した翌日、ヒラメの茶漬けを食って、そのまま永眠…。

 本来なら漢詩が読めねば南畝の理解は出来ないのだろうが、あたしにその「学」はなく、もっぱら評伝など読み漁った。同書はそんな時期後の07年にミネルヴァ書房刊。さて、あたしの人生の三楽はなんだろう。「読書」と、好色の歳でもなく「鳥撮り」かな。飲酒も卒業で目下はダイエットと闘いつつの「少量食」か。そうだ。あたしは「焚き火(薪ストーブ)」が大好きで、焚き火小屋のある大島に行きたぁ~い。


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江戸・化政期のハンドル集 [大田南畝(蜀山人)関連]

 So-netのブログには、他のブログとネットワークする「nice」という機能がある。昨日はどういうワケが、その「nice」が二つ付いていた。皆さん、それぞれ趣向を凝らしたハンドル(ハンドルネーム)をお持ち。あたしの母はキイと美代子という名に加え、花と茶の師匠名で計四つの名を持っていた。子供心に「いいなぁ」と思ったものである。江戸時代後期の化政期(文化、文政)には狂歌や戯作界でハンドルが盛んだった。いつかそれらを列挙したく思っていた。いい機会なので以下に…

 当時の出版界の代表・蔦屋重三郎が「蔦唐丸(つたからまる)」。 

 あたしの好きな大田南畝は本名・直次郎で「蜀山人」、「四方赤良(よものあから)」、「四方山人(よものさんじん)」、「杏花園」、「山手馬鹿人(やまてのばかひと)」。戯作のデビュー作では「陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)」。 

 15歳の南畝を優しく見守ったのが23歳年上で内藤新宿の煙草屋で本名・稲毛屋金右衛門が「平秩東作(へずうとうさく)」。そのデビュー作に序文を書いた「風来山人」ことは平賀源内。

 蜀山人の狂歌仲間には京橋の湯屋経営・大野屋喜三郎が「元木網(もとのもくあみ)」がいて、その女房は「智恵内子(ちえのないし)。日本橋の裏長屋の大屋は「大屋裏住(おおやのうらずみ)。同じく日本橋・小伝馬町の旅館オーナーは「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」。同じく日本橋の大工棟梁は「野見釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)」。数寄屋橋の汁粉屋は「鹿都阿真顔(しかつべのまがお)」。芝の本屋・三河屋半兵衛は「浜辺黒人(はまべのくろひと)}。吉原の妓楼・大文字屋の亭主は「加保茶元就(かぼちゃのもとなり)」。その女房は「秋風女房」。浅草田原町の質屋・伊勢屋久右衛門は「浅草市人(あさくさのいちんど)」。

 次は役人たちで牛込・二十騎町の御先手与力は「朱楽管江(あけらかんこう)」。その妻は「節松嫁嫁(ふしまつのかか)」で不始末かかぁの意。新宿2丁目の成覚寺に墓があるのは小石川春日町に住んでいた「恋川春町」。彼は「寛政の改革」の取り締まりで駿河小島藩に累が及ぶのを避けて自殺した。本名は倉橋寿平。狂歌名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。この改革で50日の手鎖の刑を受けたのが山東京伝。その画名は「北尾政演(きたおまさのぶ)」。田安家の家臣・小島謙之は「唐衣橘洲(からごろもきしゅ)」。秋田佐竹藩の江戸留守居役・平沼常富は「手柄岡持(てがらおかもち)」。姫路藩主酒井雅楽頭の実弟・酒井抱一の狂歌名は「尻焼猿人(しりやけのさるんじ)」。

 五代目市川団十郎は「花道つらね」。運送・飛脚問屋の島屋治兵衛は「荷造早文(にづくりはやふみ)」。蘭学者・桂川甫斎は「竹杖為軽(たけつえのすがる)」。他に「大屁股臭(おおへのまたくさ)」。「芝うんこ」。「腹唐秋人(はらかけのあきんど)」。「加阿仲塗(かべのなかぬり)」。きっとハゲだったのだろう「頭光(つむりのひかり)」は町代(町役人)。

 この項、気が向いたら追記していきます。参考書は田中優子著作いろいろ、芳賀徹「平賀源内」、森岡久元「南畝の恋」、童門冬二「沼と河の間で」、なだいなだ「江戸狂歌」など。


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